俺はもう、死んでいる
ジャンル:ホラー
深い森に包まれた暗い夜道、一人の僧侶が歩いていた。
そこへ一人の鬼が立ちはだかる。
「おい、クソ坊主。
誰にことわってここを歩いているのだ!
ただでは済まさぬぞ!」
「ほぉ、小鬼ごときが拙僧になんの用だ?」
僧侶は全く動揺しない。
涼しい顔をして鬼を眺めている。
「ぐぬぬ……バカにしおって……。
この俺が誰か知らぬと申すか!」
「知らぬ。名を申してみよ」
「我こそは山の主、キドウマルぞ!
貴様を八つ裂きにしてバラバラに引き裂き、
その肉をくらいつくしてくれる!」
鬼は鼻息を荒くして僧侶に顔を近づける。
「それは困るな。
なんとかして見逃しては貰えぬだろうか?」
「くくく……久しぶりに旨そうな人間に出会えた。
貴様のようなやつがここへ一人で来るのは珍しい。
女子どころか、ガキ一人現れぬのでな。
この機を逃してたまるかよ」
「そうか、見逃しては貰えぬか、弱ったな」
僧侶はやれやれとかぶりをふる。
「拙僧は力もそう強くないし、
これと言って武術の心得もない。
貴様に力で対抗しても暖簾に腕押し。
なんの意味もない」
「そうだ、諦めろ。
貴様のようなやつが俺に敵うはずもない。
それは自分でも分かっているだろう?」
「いよいよもって打つ手がないな。
しかし、どのように拙僧を食らうつもりなのか。
申してみよ」
「うむ?」
違和感を覚えたものの、キドウマルは問いに答える。
「まず、貴様の腹を割いて中身を出し、
苦しみ悶えるさまを楽しみながら臓物を食らってやる。
先日の武人たちとは違って、
貴様はもっといい声を聴かせてくれそうだ」
「なるほど、さすがは悪鬼羅刹の類。
考えることが人間とは違う」
「貴様ら人間と一緒にするな」
鼻息を荒くしながら勝ち誇るキドウマルを見ながら、僧侶は落ち着いた様子でさらに問いかける。
「して、どのように腹を裂くのだ?」
「知れたこと、この腕で無理やりこじ開けるのよ」
そう言って自身のたくましい腕を見せつけるキドウマル。
「では、その腕で拙僧をつかんでみせよ」
「ふははは! ついに観念したか!」
キドウマルは僧侶に手を伸ばす。
しかし、いともたやすくかわされてしまう。
まるで空中を漂う木の葉をつかもうとするかのように、まったく手ごたえがない。
それどころかあたりの草花も木々の葉もしんとして動かない。
どんなにキドウマルが暴れても僧侶の周りには風一つ吹かぬ。
なにか得体のしれない術を使っているようだ。
「ううむ! 小癪な! ちょこまか動くな!」
「キドウマルよ、拙僧はさして動いてはおらぬ。
ただ身体を少し傾けただけだぞ」
「バカにしおって!」
それから何度も腕を伸ばすが、ついに僧侶の身体を捉えることはなかった。
「貴様……いったい何者だ?」
「逆に問おう、貴様こそ何者だ?」
「先ほど名乗ったであろう! 忘れたか⁉」
「いいや、忘れてはおらぬ。
貴様は自分が置かれている立場を分かっておらん」
「なん……だ……と⁉」
僧侶はじっと相手を睨みつける。
その気迫に押されて後ずさりするキドウマル。
その視線の先には――
しばらくして、僧侶はひとり山を下った。
麓の集落にたどり着くころにはすっかり夜が明けて朝日が差し込んでいる。
「おおっ! 無事でしたか!」
山を下った僧侶を武士の一団が迎え入れる。
朝日を背に現れた彼らの姿は、まるで後光がさしているかのように神々しい。
「いやぁ、えらく時間がかかり申したな。
して、首尾は?」
「キドウマルは現世を去った。
山の中にはもう誰もいない」
「さすがは三ヶ山きっての高僧。
肝が据わっておる」
感心したように武士を束ねる頭領が言うと、僧侶は肩をすくめた。
「これしきの事、なんてことはありません」
「しかし……どのようにしてあの鬼を退けたのか。
わしらには皆目見当もつかん」
「なぁに、簡単なことです。
足を見たのですよ、足を」
「え? 足ぃ?」
首をかしげる頭領。
彼は自分の足を見下ろした。
「どういうことか、説明していただけるか」
「いいでしょう。拙僧は――
―
――
――――
僧侶の視線につられ自分の足を見下ろすキドウマル。
彼は自分の足が消えなくなっていることに気づいた。
「あっ、ない! つまり俺はもう――死んでいる⁉」
「先日、武士の一団によって打ち取られたのだ。
そのことに気づかず野山をさ迷い続けるとは、
なんと哀れなことか」
僧侶の向ける同情の視線に、キドウマルはいたたまれなくなった。
「俺は……なんと……」
「気づいたのであれば、さっさと現世をされ。
死後の世界は人も鬼も平等に受け入れる。
恐れることはない」
僧侶は念仏を唱え始めた。
流石のキドウマルも観念し、自分の死を受け入れて旅立った。
――――
――
―
「なるほど、上手く丸めこんだのですな。
さすがは僧侶殿! 一本取られましたなぁ」
「拙僧は所用があるため、これで」
僧侶はそう言い残して去っていく。
「それにしても度胸のある女ですな。
護衛もつけずに一人で悪霊の巣くう山に登るとは」
「仏の道に男も女もない。口を慎め」
「……失礼した」
そのなまめかしい後姿をじっと見つめながら、武士たちは僧侶を見送った。