まろどろみの自然死
もし仮に仕事で成功し、多くの富と名声を得、結婚してたくさんの子を残す事をもって人生の勝者と呼ぶのであれば、私は人生の敗者だろう。
仕事は普通の会社勤めで、結婚もできず、年老いた両親の生活の面倒を見終わった時には既に中年を越えていた。
仮に何か人生で誇りがあるとすれば、献血やボランティア活動などで多少なりとも人助けができた事だろうか。
日本は急激な人口減少が社会問題になっているが、長い目で見れば人類が人口を抑える事は必ず必要で、そういう意味でなら子供を残せなかった事もそれほど悪いとは思えない。
まぁ、こう考えれば、私はトータルで見るのなら、ささやかなながらも社会に貢献していると言えると思う。
「フン。馬鹿馬鹿しい」
ところが、数十年ぶりの同窓会で会った銭田は、私のその考えを聞くと私を馬鹿にして笑った。
「そんなのは負け惜しみだよ、葛原」
彼は仕事で大成し、大会社の社長にまで昇りつめた男だった。巨額の資産を持ち、何度か結婚と再婚を繰り返して、子供もたくさん残している。
「老後、お前は独りぼっちで寂しく死んでい行くんだ。誰からも看取られずにな。そんなのは負け犬の人生だ。みじめに決まっているだろうが!」
正直に言って酷い言い草だと思った。仮に彼の意見が正しく、私の意見が間違っているのだとしても、そう思い込むことで私の人生が多少なりとも救われるのであればそれで良いではないか。私を憐れと思うのならば、どうしてそんな私のささやかなよすがすらも取り上げようとするのだろう?
「まぁ、そう言うなよ。葛原さんはそれだけ良い事をしたのだから、死んだらきっと天国へ行けるよ」
見かねた同席者がそう私を庇ってくれた。天国なんて私は信じてはいないが、思い込みで救われるという点においては大差はないだろうと思って何も言わなかった。
ところが、銭田はそれすらも無慈悲に否定するのだった。
「死後の世界なんかあるかよ。もし天国があるとすれば、それはこの世にあるんだ。天国も地獄もこの世にあるんだよ」
多分、資産と名声を持ち、何度も結婚してたくさんの美女を抱いた自分の人生こそが天国だと彼は言いたいのだろう。
私はそれに何も言い返せなかった。
確かに彼に比べれば、私の人生はみじめな地獄なのだろう。
老後、退職した私は一人ささやかに暮らしていた。身体は弱っていき、そのうちに食事をあまり取らなくなった。身体が食事を欲しなくなったのだ。水もあまり飲みたいとは思わなくなった。
人間の身体というのは、死期が近づくと食事も水分も求めなくなるというが、もしそうなら私は死に向かっているのかもしれない。
私には家族がいない。だから、もし私が寝たまま動かなくなっても、誰も病院へは連れて行かないだろう。そのまま死ぬだけだ。もっとも、私はそれでも良いと思っていた。
そのうちに頭がうまく働かなくなっていった。まどろみ。心地良いまどろみの世界に私は浸った。
もし仮に天国があるとすれば、こんな場所なのかもしれないと私は思った。
このまま夢うつつのまま死んでいけるのなら、それは少しは世の中に貢献して来た私への運命からの御褒美と言えるかもしれない。
その時、私は銭田の言葉を思い出した。なるほど、と思う。確かに天国というものはこの世にあるのかもしれない。
どれくらいまどろみの中にいたのかは分からない。ある時私は物音に気が付いた。見るとテレビが点いている。寝返りをうった時にリモコンのボタンでも押してしまったのだろうか? ワイドショーが流れていて、なんとそこには銭田が映っていた。彼は重篤となり、病院に運ばれたのだそうだ。
彼はその莫大な資産を誰に渡すのか遺言を残していないらしく、その為、たくさんいる子供達で遺産相続争いが起こっているらしい。
子供達は遺言を得るために、彼をなんとか生き返そうとしているらしい。
何度も手術を繰り返し、その過程でもちろん身体は切り刻まれ、たくさんのチューブに繋がれ、無理矢理に意識を覚醒させられる。
私は彼に同情した。
これは絶対に苦しいはずだ。
こんなのは地獄じゃないか。
それで私は再び“なるほど”と思った。確かに地獄というものもこの世にあるのかもしれない……
“自然死”の研究は少ない。
今は病院にいれば、死にかけている高齢者を放置したりはせず、命を存続させようと施術をするからだ。当たり前だが、自然死は観察できない。
だがしかし、研究とは言えないかもしれないが、自然死の患者を多く看取っている医者ならばいる。老人ホームに勤務している医者だ。
その医者の一人の言葉を信じるのなら、病院にかからず、自然死していく人間は安らかに死んでいくのだという。
この話が本当かどうかは分からない。
ただし、死ぬ間際に脳が脳内麻薬を分泌し、人間に幸福感を与えるという研究結果ならばあり、それはその医者の証言と一致している。
解釈は各人に任せるが、少なくとも人が選択できる死の形の一つに、このようなものがあっても良いのではないだろうか?
参考文献:
大往生したけりゃ医療とかかわるな 中村 仁一 幻冬舎新書
やや偏った内容ではありますが。