知らなかった
「何故謝るのです?謝るのはわたくしの方ですわ。せめて、アリシア様と来るべきでした」
「いや。俺が側にいるべきだった。最初から、様子がおかしかったというのに」
「あなたのせいではありませんわ、クライヴ様。それに、こういった場で妻ばかりに構っていてはいけません。わたくしは、こちらから関わらなければ大丈夫だと思っておりましたもの。まさか向こうから来るとは。本当にわたくしが気に入らないようですわね」
レイチェルが肩を竦めると、クライヴはようやく振り返った。
それから頬に手を伸ばし、包み込むように優しく触れる。先ほど、ディックに思い切り打たれた頬だ。真っ赤に腫れている。それが痛々しく、クライヴは自分の事のように悲し気な顔をした。
「……レイチェルの姿が見えないことに気が付いて、アリシア殿に聞いたらこちらに行ったと聞いたから捜していた。そうしたら、レイチェルの叫ぶ声が聞こえて……。間に合ったかと思ったが、どうやら遅かったようだな」
「いいえ、クライヴ様。あの時来てくれなければ、もっと酷い事になっていたでしょう。助けていただいてありがとうございます」
そう言ってレイチェルは微笑んだが、クライヴの顔はまだ晴れない。
頬に当てていた手を下ろしてレイチェルの手を取ると、今度はゆっくりと歩き出しながら口を開いた。
「あの男とは、どういう関係が?」
「元婚約者ですのよ」
「婚約者?婚約者がいたのか。知らなかった」
数歩も行かないうちに驚いた様子で足を止めたクライヴに、レイチェルは苦笑を向ける。クライヴはこれまでも、周りからの噂話など興味もなく、受け流していたのだろう。
「わたくしも忘れていたくらいですもの。知らなくて当然ですわ」
「しかし何故。レイチェルであれば、もっといい相手がいただろう。家柄で言えば、王子の妻にだってなれる」
「お父様は何故か、そういう欲は無かったようですわね。わたくしがあの男と婚約したのは、余っていたからですわ。お兄様の方はとても優秀な方でいらして、すぐに婚約者も決まっておりましたの。ですが、あの男爵家と繋がりを持っておきたかったお父様は、次男の方で手を打った、というわけですわ」
「訳が分からないのだが。逆ならまだ分かる。だが、なぜ伯爵はそんな事を?」
「……男爵夫人は、お父様の元恋人なのです」
今考えてみれば、呆れてしまう。自分の欲の為に、娘を差し出した。娘の幸せなど一切考えずに。
レイチェルがそれを知ったのは、ヴァンパイアになってからだ。父親の秘密を知るに足り得る時間は、たっぷりとあった。




