元婚約者
茶褐色の髪と目をした、優男風の青年。その人物が目の前に立って初めて、レイチェルは自分が息を止めていたことに気がついた。
もしも心臓が動いていたら、聞こえてしまいそうなほど激しく脈打っていた事だろう。
「おや。これはレイチェル嬢ではないか」
どこか人を小馬鹿にしたような口調に、無意識に日傘を持つ手が震える。最近まで思い出しもしなかったのに、姿を見た瞬間に、思い出してしまったのだ。
彼が、自分の元婚約者だと。
今まで一度として会う事は無かったのに、どうして今、とレイチェルは考える。
「……ごきげんよう。ディック様。何故いらっしゃるの。今日は爵位のある方しか招かれていない筈ですが」
「父と兄の代わりにな。それにしてもつれないんじゃないか、元婚約者に対して。5年前、突然私との婚約を解消したかと思えば、最近は夜会で遊び歩き、あの侯爵と結婚したとか。侯爵もたかが知れるな」
ハッ、と鼻で笑われ、レイチェルは唇を噛み締めた。自然と日傘を持つ手にも力が入り、語気も荒くなる。
自分が何と言われても構わないが、クライヴの事を馬鹿にするのは許せなかった。
この男の方こそ、たかが知れるというものだ。父親と兄の名代と言うのも、本当かどうか疑わしい。
「貴方が欲しかったのは、家柄があればいいだけの、従順な妻でしょう。結婚しなくてホッとしているのではなくて?」
「どうかな。今からでも遅くはない」
「わたくしは貴方のそういうところが……」
「そういうところが?」
ニヤニヤと笑う顔が気味悪い。そう思ったが、口には出来ない。ここには他にも大勢の人がいる。
いくら気に入らないとはいえ、ここで貶すような発言をすれば、この男はある事無い事吹聴するだろう。そんな事になって、クライヴの顔に泥を塗ることは避けたい。
どうしよう、といつになく弱気になりながら、必死に考える。ディックは退く気配もない。いっそ逃げ出してしまおうか、と考え始めたレイチェルの肩が叩かれた。
「待たせたな、レイ」
驚いて振り返ったレイチェルの目に、首を傾げるクライヴの姿が映った。ただならぬ雰囲気を感じたのだろう、心配そうだ。その顔にレイチェルはほっとして、思わず泣きそうになる。
「クライヴ様……」
震える声で名前を呼ばれたクライヴの眉間に、深い皺が寄った。そして、そのままディックに目を向ける。
「私の妻が何か?」
「いいえ、何でもございません。では失礼」
そそくさとディックが退散すると、レイチェルの緊張も解ける。深く息を吐くレイチェルの顔を覗き、クライヴは目を見張った。




