触れないで
「レイチェル!」
その声がレイチェルを呼んだのは、それからしばらくしてからだった。クライヴはうずくまるレイチェルに近づき、驚いて目を丸くした。
レイチェルが自分の腕に牙をたてていたのだから、それも当然だった。レイチェルはクライヴの存在に気がついていないようで、自分の腕に傷を作ってはその血を舐めている。
恐ろしくもどこか美しい光景だが、クライヴでなければ、きっとこの場から逃げ出していただろう。クライヴの頭にはただ、心配、という二文字が浮かぶ。
「……大丈夫か、レイチェル?」
クライヴがその肩に触れて、ようやくレイチェルはそこに人がいるということに気がついたようだった。
「触らないで!」
その手を振り払うように立ち上がったレイチェルは、クライヴの姿を認めて気まずそうに視線を反らした。これがクライヴでなければ記憶を消さないと、と思った事だろうが、クライヴを相手にそんな気は微塵も起こらない。
視線を彷徨わせたそこに自分の傷だらけの腕が目に入って、別の方の手でそっと隠す。もう遅い、と分かっていたけれど、気持ち的に。
「ごめんなさい。クライヴ様でしたの。今日が満月だということを、すっかり忘れていて。いつもはちゃんと対策をしているのですが、うっかりしていました。ですから今は、わたくしに触れないでください。もう少ししたら落ち着きますから、お戻りになって」
「何故だ?」
即座に首を傾げられて、レイチェルは苦々しい表情を浮かべる。どこか苛ついているようなその顔を、クライヴは初めて見た。
「言わねば分かりませんか?」
そう言った口調にも、明らかに棘がある。
怒らせてしまったか、と内心では思うものの、クライヴは冷静そのもののような調子で口を開いた。
「席を立ってから戻らないと聞いたから捜していたのに、妻を放って戻ったら、殿下に叱られてしまう。それに、自分の身に傷を作るほど血が欲しいのなら、俺があげよう」
レイチェルは、何か贈り物をあげるかのようなクライヴの台詞に目を見張り、それから少し微笑む。それはどこか寂しそうな微笑みだった。
隠していた腕から手を離すと、そこにはもう傷跡一つない。それが、ヴァンパイアであるという事の、最たる証。
「……クライヴ様は、どうしてそういう事を言えるのですか?わたくしなんて、人間じゃないのに」
呟くように言ったレイチェルに、クライヴは案じるような視線を向ける。
「どうした。何か言われたのか?」
「そうでは無いのですが……」
躊躇いつつも、レイチェルは先ほどの出来事を口にした。その間、クライヴは静かにそれを聞いていた。




