不注意で・・・
しばらく歓談したレイチェルは、外の空気を吸って来ると言って居間を出た。
宮殿内は自由に歩き回ってもいいと、王太子殿下から最初に言われている。立ち入り禁止の場所には衛兵が目印のように立っていて、そちらへ近づかなければ、不審者として追い出される心配はない。
これも殿下のおおらかさと、貴族たちへの信頼がなせる技だろう。
今日は明るい夜ね、と思いながら静かに外回廊を歩いていたレイチェルは、お仕着せを着た少女が隅の方でうずくまっているのを見つけた。
そちらへ近づいて覗きこむと、少女は必死で泣くのを我慢しているようだった。レイチェルには見なくても、その微かな香りで分かったのだけれど。
少女は膝から血を流していた。おそらく、転んでしまったのだろう。
「怪我をしたのね?」
思わずそうレイチェルが声をかければ、少女は驚いて顔を上げた。そして目の前に高貴な女性がいることにさらに驚いたようで、目を丸くしている。
月明かりを浴びたあの方は美しく、まるで妖精のようだった、と後に少女は思い返すのだが。この時は、ただただ驚くばかり。
王太子の宮殿で働いているとはいえ、下働きでしかない少女には、貴族や王族と直接言葉を交わす機会はないのだから。
「あ、すみません。ええと、お嬢様?」
結婚しているようには見えなかったからか、そう呼び掛けられてレイチェルは微笑む。
いつだって、お嬢様と言えば間違いない。結婚を逃した女性に、奥様と呼び掛けるよりはましだ。
「お嬢様に見えるなら嬉しいわ。これ、使って」
身を屈めてレイチェルがハンカチを差し出すと、慌てて少女は首を振る。取れてしまいそう、と思わず心配になるくらい激しく。
「そんな!もったいないことです!これは私の不注意なので」
「そう?でもそのままじゃいけないわ」
と、レイチェルは傷口に目を向けた。躊躇うことなく膝をつき、自らハンカチを当てて血を拭う。丁寧なそれに、少女は驚いているのか緊張しているのか、何も言わずに見守っている。
と。
「あ……、っ」
レイチェルが急に、ハンカチを取り落とした。それから、苦しそうに顔を歪めて、胸元で手を握りしめる。
「奥様?どこか具合が……」
心配そうに伸ばされた手を振り払い、レイチェルは立ち上がって少女から背を向けた。
不注意は少女ではなく自分の方だったわ、と込み上げてくる衝動を抑えながら思う。空を見上げれば、煌々と輝く綺麗な丸い月が見えた。
「……っ、いいえ、何でもないのよ。とにかく、それあげるから、血を洗って来なさい」
「ですが奥様……」
「いいから早く!」
振り向きざまに激しい口調でレイチェルが言うと、少女は慌てた様子でどこかに消える。
レイチェルは少女が遠ざかったのを確認して、その場にしゃがみこんだ。




