忘れてしまった
「そう、楽しそうで良かったわ。ちょうどお腹も空くころだし、わたくしも頂こうかしら」
レイチェルはちらりと、サミュリアの隣に立つ男性に目を向けてから、微笑んでそう言う。先ほどから居心地悪そうにしている男性は、時折クライヴの様子を窺っていた。その様子からして、クライヴの事は知っているのだろう。
そして、そわそわしている姿を見れば、今この状況を他人に知られたくなかったのは一目瞭然。本当は気が付かないふりをしていたかったのだろうが、サミュリアが止める間もなくレイチェルに声をかけてしまったのだ。
一方のクライヴはといえば、その男性が誰だったかを考えていた。侯爵を継いでまだ日の浅いクライヴはもちろん、ごまんといる貴族全員の名前と顔を覚えているわけでは無い。他の貴族にしても、上位貴族か親交のある貴族くらいしか覚えていないはずだ。
「そなたは確か……」
とはいえ、相手が知っているのなら一度は会った事はあるに違いないと、生真面目なクライヴは思い出そうとしていたのだけれど、それをレイチェルの声が遮った。まるで、男性からクライヴの意識を逸らすように。
「クライヴ様。わたくしの友人のサミュリアですわ。サミュリア、こちらクライヴ様。わたくしの……」
「旦那様ね。ええ、知っているわ。レイをよろしくね。おじ様、二人を邪魔しないうちに行きましょう?」
マイペースというか、自由なサミュリアにレイチェルは苦笑する。男性の方はサミュリアに小さく笑って頷きながら、クライヴに緊張したような顔を向けた。
「ああ。あの、侯爵様。この事は……」
「今日私は、妻の友人に偶然出会っただけだ。連れの者の事は忘れてしまったが」
「ありがとうございます」
クライヴの言葉に安心して笑った男性とサミュリアは、そのまま店を後にする。
自分の意図をすぐに理解してくれた事に満足そうに笑いながら、いつの間にか手にしたメニュー表を眺めているレイチェルに、クライヴが気持ち小さめな声で問いかけた。
「ああいうのは多いのか?」
「そうですわねぇ。大抵一人くらいは、パトロンのような存在がおりますわね。それでもその中で本当の事を知るのは、極々僅かでしょう。彼女の場合少し記憶をいじって、愛人という事にしているのかもしれませんわね」
「何故そんな事を?」
「サミュリアは人の真似をするのが好きなのです。言ってしまえば退屈なので、ああして遊んでいるのですわね」
「それはあの男にしてみれば気の毒な……。レイチェルは……」
と言いかけてから、何でもないと口を噤んだクライヴに、レイチェルは首を傾げてから、微かに微笑んだ。
「わたくしはまだ未熟者ですもの。サミュリアに百年早いわよ、と窘められた事もありましたわ。それに、これから先クライヴ様の隣にいるのなら、必要ありませんわね」
「それはよかった」
ホッとして笑うクライヴを見つめていたレイチェルは、自分の胸がざわざわとしていることに気が付いて落ち着かなくなる。その感情が何なのか、レイチェルは知っているような気がした。
それでもそれから目を逸らし、誤魔化すようにレイチェルは店員を呼ぶのだった。




