全部忘れて
そんな風に自分を見つめるレイチェルに面映ゆそうに笑って、サミュリアは首を傾げる。
「あなたは?可愛いレイチェル。全部忘れて、無かった事にしてしまいたい?あたしなら、その願いを叶えてあげられるわよ?」
しばらくその答えを探して、レイチェルは黙り込んだ。脳裏に浮かぶのは、妻として社交界に出かけていた日々。一緒に行ったお祭り。そして、あの笑顔。
どんなに誤魔化そうとしても、自分がその日々を楽しんでいた事は事実だ。忘れたいなんて言って、自分に嘘をつくのはもうやめよう。
レイチェルはゆっくりと首を振り、サミュリアを見つめ返した。サミュリアは微笑みながら、レイチェルの答えを待っている。
「……いいえ。忘れるなんて出来ないし、本当は忘れたくない。だって、全部覚えてる。例え仮初めの関係でも、あの優しさが嘘だったなんて、思いたくない。わたくしにとって、初めて恋をした方だったもの」
「そうよ。それでいいの。楽しかった思い出は嘘じゃないものね。あたしはあなたの選択を否定しないわ」
心の内を見透かされたような言葉に、レイチェルは少し驚く。それから、サミュリアも自分と同じなのだ、と思った。愛する人との別れを悲しみ、それでも嘆くばかりではなく、思い出を大切に抱きしめている。
多くの傷を抱えてきただろうに、いつでも天真爛漫に笑っているのだ。目には見えなくても、同じようにそこで瞬いている、朝の星のように。
「サミュリア……。朝の星というその名はあなたにぴったりね」
「ありがと」
ふふ、と笑うサミュリアにレイチェルもつられるように笑う。それから、サミュリアは立ち上がりながら言った。
「さて、この話はお終いにして、夕食の支度をしましょう。手伝ってくれる?」
「もちろん手伝うわ。と言ってもわたくしは大したことは出来ないけれど」
いつも料理はレヴィの担当だ。伯爵令嬢であったレイチェルに、料理などできる筈もなく、悪戦苦闘しながら食材を切るレイチェルに、レヴィは苦笑していたものだ。
今では少しましになったとは思うレイチェルだったが、レヴィには遠く及ばない。だがそれは、サミュリアも同じである。
「レヴィと同じようにやろうと思うのがそもそも無理な話よね。だって、王宮でシェフとして働いていたんだもの。びっくりしちゃう」
そんな事を言いながらキッチンへ向かうサミュリアに、レイチェルも続いていく。
一方、少し遡り、サミュリアがレイチェルを招き入れるころ、レヴィもまた客人を出迎えていた。