第6話 その優しさが大嫌い
目を覚ました万里愛は見慣れない天井と身体中の痛みとに惑った。どうしてこうなったのか。一昨日襲った相手が近くにいる状況を簡単に受け入れられるはずがなく、言葉を失ってひたすらに周囲を見回すことしかできずにいる。
「あ、起きた」
「マジで…あ、ほんとだ」
「手ひどくやられてたけど誰にやられたの?」
神田は飲み物を持ってきて万里愛に渡し、横になったままの彼女に質問をした。
「知らない3人組の男…うっ、うえぇぇん」
悔しくて泣き出してしまった万里愛の肩に小豆が手を添えると、万里愛はいっそう激しく泣いてしまった。そこで神田は身体の動きだけで答えられる質問をした。
「俺に負けたことで帰る場所をなくしたから、委員会に帰るために無職を殺そうとしたの?」
万里愛は首を横に振った。これは神田の予想の内だ。一度負けたら自分の至らなさを重く受け止めるのが自然な思考だからだ。他を当たっても負けることを予想した万里愛は正しい。
「じゃあ住む場所が必要だったんだね。ゴミ捨て場にいたのは、食べられそうな廃棄を探してたから?」
今度は頷いた。一般家庭のゴミ捨て場よりずっと有望だ。箱に鍵がかかっていなかったのは幸いと言える。
「3人組ってのがなぁ…偶然通りかかったの?」
今度も頷いた。落ち着いてきた万里愛はいつまでも泣き続けるのが自分に不利益だと判断し、目の涙を袖で拭って話を始めた。
「何が起きたのかわかんなかった…いきなり殴られて、服をビリビリにされてゴミ箱に捨てられた」
「その…エッチなことはされてないんだよね?」
「胸や股を触られたけど…」
「されたんだね。知らない人か…同じように廃棄を求めたホームレスか、そうじゃないなら…」
この場所は治安の良い場所だと思っていたから、このような凄惨な事件が起きることが信じられない。神田は冷静さを保ちながら、万里愛の精神のケアを小豆と考えた。
「住む場所がないってんならここにいればいいし、メシも出す。優劣はついたわけだし、黙って施されてはくれないか」
しかし過激派の万里愛はそれを拒んだ。敵に貸しをつくることは大きな屈辱で、これまでのことがすべて無駄になってしまうからだ。ここまで傷ついても神田を頼らないと言う万里愛に、神田は客観的なことを述べた。
「…じゃあどこで過ごしてどこでメシを食うってんだ?同じかもっと酷いことが起きるだけだ。もう委員会の活動なんてできっこないだろ」
「くっ、絶対に任務を達成して委員会に帰らないといけないのに…!」
小豆も委員会を抜けることを勧めた。しかし過激派は絶対に意志を歪めないのだそうだ。
「強い意志をもって委員会に入ったんだから、こんな状況になっても敵の言うことを受け入れて脱退することはないわ!確かにあんたらには借りができた。けどあんたらは敵!」
神田は呆れて長い溜息をついた。どうもこの少女は窮地を脱する方法を知らないらしい。最高の救済策を提案したのに断られたのなら、もうどうしようもないのである。
「万全に戻ったら真っ先にあんたを殺すんだから…」
「あのさぁ、もっと現実を見たらどうだ?俺にとって君はただの少女で、武器を持っていようがちっとも怖くないんだよ。俺を殺すなんて馬鹿げたことを考えてないで、自分がどうすれば安全に過ごせるかを考えろよ」
厳しめの口調で言うと、少女はそれを振り払うように首を横に振って起き上がろうとした。しかし全身に痛みがはしり、再び仰向けになってしまった。
「あまり動くな。かなり傷んでる。数日はかかるぞ」
「そうだよ。神田の言うこと聞いた方がいいって。あたしは救われたんだから」
小豆の姿は信頼の担保になる。プライドを捨てることさえできれば、非常に快適で心地良い生活を送れるだろうことは予想できる。しかし万里愛はまだ意地を張っている。
「何もできないままじゃ嫌なの。このままじゃ…あんだけ大口叩いておいて負けっぱなしってバカみたいじゃない…」
ここで神田はしびれを切らしてソファに寝転がった。
「あー、じゃあもう好きにしろ。俺の手には負えないや。小豆、この子はお前と違って過激派だからダメだ。俺は説得に疲れた」
神田が不貞寝を始めたので小豆は困惑し、彼を継いで万里愛を説得しようとした。
「そんな頑なになってるより、負けを認めて楽しい生活を始めるほうがいいって絶対。神田はいい奴だし、あたしは前より楽しいよ」
「あんたは敵に懐柔された軟弱者ってことよ。意志の弱いまま来たからいけないの」
「何とでも言いなよ。バカはあんたのほうなんだから。普通に考えたらわかるでしょ?自分が危険な状況にあるんだから今は生きることだけ考えてりゃいいの。逆にさ、そこまで無職を憎む理由ってなんなの?どうしても殺さなきゃいけないもんなの?」
万里愛は頭がパンクして黙り込んでしまった。小豆も溜息をつき、横になる場所を求めてソファを倒し、神田の隣に寝転がった。
「あたしもなんかどうでもよくなってきちゃったよぉ~」
分からず屋にかける言葉が尽きた。
「もうお前そこで寝てろよ。治ったら好きに出てって良いからさ」
「言われなくてもそうするわよ!2人して私が間違ってるとか言っちゃって、痛っ!」
「寝てろって」
神田は起き上がって日課を始めた。スペースが空いたのをいいことに小豆がそこでぐっすり寝始めたので、神田は何も気にせずゲームの世界に旅立った。
神田が戻ったとき万里愛はすっかり深い眠りの中にいて、小豆も似たように寝息をたてて眠っていた。神田は書き置きを残して買い物に出た。しかし向かったのはスーパーではない。彼にはある作戦があるのだ。
「あいつ何センチかわからんな…目測でいっか」
神田は作戦を進めていた。駅前のビルに入っている服屋にて大量の服を買うと、ニヤニヤしながら帰ってきた。
小豆が起きて神田に万里愛の看病を任せて夕飯の買い出しに出た。好きに買って良いということなので、店の隅まで見て気になるものを手に取る。扱っている品の種類が思ったより多いことに気付くし、安いイメージのあるドラッグストアより安いものもあることがわかる。小豆はいつか役に立つだろうと電球やタオルなどを買い、大量の菓子と飲み物、神田が好きな豆乳を箱で買って自転車のかごと後ろの荷台に積めるだけ積んで戻ってきた。
「ご苦労様~あ、豆乳買ってきてくれたんだサンキュー」
「万里愛はどう?」
「傷が痛々しいけど明日には立って歩けるようになるだろ」
「そう。よかった」
神田が夕飯を作り始めたので、小豆は神田がなんとなく机の上に置いていた袋の中を見た。
「おぉ?」
中身が神田の服ではなく子供服だったため、小豆は中を取りだして広げてみた。黒地にラメ入りの英字がプリントされた丸首のTシャツと、いつでも着られる水色のデニムサロペット、スタンダードな白いショーツと短めの靴下が入っていた。小豆は神田の度胸に感服して丁寧に畳んで袋に戻した。
「神田ぁ…」
度胸王の神田は手早く料理を完成させてローテーブルに置いた。皿の数は3つ、万里愛の分もある。彼女がまだ起きそうにないのに作ったのも、神田の作戦の1つだ。
万里愛が目を覚ましたのは深夜のことだ。神田も小豆も眠っている。彼女は起き上がることができたので、周囲を知ろうと暗い部屋を探り始めた。窮屈なこの部屋で動き回るのは危険なことで、彼女はゆっくり慎重に動いてキッチンに出た。目的はトイレだ。ボロボロの服を見ると自分が惨めに思えるが、もう泣いてはならない。なぜなら今は敵を倒す絶好のチャンスだからだ。水を流すとシンク下の扉の包丁を引き抜き、両手でしっかりと持って神田に近寄った。彼は床で眠っている。万里愛が彼の布団で眠っていたからだ。
「……」
彼女は強い意志を持っていると言った。それならこの躊躇は何だろうか。手が震えている。この男は敵で、今は無防備だ。ひと思いに突き刺せば致命傷を与えられる。しかし手が出ない。
「なんで…」
万里愛ですらどうしてかわからなかった。神田が苦しむ姿を想像したから?血を見るのが嫌になったから?それとも、
「恩を感じてるっていうの…?」
万里愛は今ではないと決めて包丁を戻した。畢竟、自分は意志の弱い人だったのだ。大口を叩いておきながらこの体たらく、恥と呼ばずして何と呼ぼう。それでも万里愛は殺人を遂行できずに布団に戻ってしまった。
神田はそれを知ることなく朝を迎えた。万里愛が起きたことは彼にとって大きな朗報で、上機嫌で朝食を作り始めた。
「おはよう、万里愛」
「名前を教えた憶えはないのだけれど?」
「小豆から聞いたんだ。まだ碌に自己紹介もしてなかったね。知っての通り俺は神田。いちおうタカノリっていう名前がある。朝食作ったから食べな。あと服。適当に買っといたから着替えるといいよ」
「勝手なことを…借りを作りたくないのに」
「無償でいいよ。本当に勝手なことだから。それよりほら食え」
神田がグラスに豆乳を注いで万里愛に渡すと、彼女はそれを飲み干してホットドッグを頬張った。ソーセージ以外にレタスとトマトがあるだけで豪華に見えるし美味しさが段違いに上がる。
「なんで敵にそんな施しをするわけ?私はあなたを殺そうとしているのよ?」
「可哀想なんだもん。あんなにボロボロにやられて放っておけるかよ。俺はまだ人のつもりだよ」
それはチャリティーの精神に他ならないのだが、神田はそうではないと否定する。あくまでも自分の得のために生きるのだそうだ。小豆はすっかりここに馴染んだ様子でのんびりと顔を洗いに行き、着替えを済ませて戻ってきた。
「神田寝癖半端ないな」
「そういうキャラで生きてく。ほらお前も食え」
「いただきまーす」
殺し屋と標的という関係をそこに見ることはできない。万里愛は思わず微笑んでしまい、それを誤魔化すためにムスッとした顔になった。それが彼女の性格を教えてくれている。
「よし、腹は満たされたわ。神田、死ぬ覚悟はいいかしら」
神田の前ではそのように振る舞っておかないと面目ないのでそうしているが、神田は彼女が空元気をしているように見えた。故にそれを快く受け入れ、じゃれ合いをするかのように構えた。
「来い!」
「神田ぁ」
「大丈夫だ。俺がまた強さを見せるだけだ。お前に護られるまでもない」
「言うわね。じゃあ遠慮なく行くわよ!」
万里愛は包丁を持って突撃してきた。しかしそれは神田にとってスローモーションに見えるくらい鈍く、あまりに単純で見切りやすいものだった。半身分動いて包丁の軌道から逸れると、通過した万里愛の腹を右腕で持ち上げて勢いを止めた。
「う、離しなさいっ!ちょっと!」
「弱っ…」
小豆は呆れて頭に手を当てた。神田は包丁を取り上げるとじたばた暴れる万里愛を降ろし、不敵に笑んで勝利宣言をした。
「もうわかっただろ。俺と小豆と楽しく暮らすか、俺に負けて奴隷になるかの2択しかないんだよ」
「うぅ、なにくそーっ!」
万里愛は勢いをつけて神田に体当たりを試みた。神田が小さな身体にぶつかったくらいでよろけるほど脆いなら彼女にも殺せたかもしれないが、神田は成人男性らしい頑丈な肉体をもって彼女を受け止めた。少し押しただけで後方によろけて尻餅をついた彼女に顔を近づけると、恐怖した彼女の股からまた水が流れてきた。
「ちょっと待って、あっ、だめっ!」
万里愛は慌てて股間に手をやったが、止まるはずがないのだった。神田は一歩退き、その様子を見てニヤニヤした。
「なんか可哀想を超えて愛しくなってきたわ…」
「雑巾雑巾…」
「もおぉぉぉ!」
万里愛は神田にまたしても敗北を喫したので大声で喚いてしまった。喚きながらおもらしする幼女は神田に新たな扉を開かせたので、違う勝負では万里愛は勝ったのかもしれない。
処理を終えた神田は正式に万里愛を迎えたこととして彼女に服を渡した。それが万里愛の好みに合うかはわからなかったが、彼女は今のボロボロの服よりずっとマシだと言って着た。これが絶妙に似合うのだった。
「完璧じゃないっすか。俺が気に入ったのを買ったんだけど正解だったなこれ」
「そうだね。神田にしてはいいセンス」
サイズがぴったりだったのが何よりの驚きで、神田は自分の目測が正しいことを知って喜んだ。万里愛は恥ずかしそうに身体を縮めてはいるものの、どこか嬉しそうでもある。「痣が治ればだな。それまではストッキングとかで隠しとけばいいべ」
「じゃああたしが買ってくるよ。万里愛、今日はあたしと買い物だ。一着だけじゃ足りないんだから」
「頼んだ。万里愛、小豆お姉さんの言うことちゃんと聞けよ?」
「わかったわ」
万里愛はまたも敗北したが、使命を諦めたわけではない。小豆と万里愛を2人きりにすることは危険にも思えるが、神田がほんの少しの力を使うだけで勝てる相手なら小豆が対処することもできるはずだ。
小豆のスマホさえ取り上げてしまえば神田を召喚されることはない。万里愛は委員会の裏切り者への断罪を企んでいた。神田から金を受け取っていた小豆が無難な服屋に入って万里愛に合いそうな服を選び始めると、万里愛はスマホを手にする作戦を実行した。
「ちょっと調べ物をしたいの。スマホを貸してくれる?」
「はい」
小豆はあっさりとスマホを手渡してしまった。彼女にとって万里愛は仲間で自分と同じく神田の軍門に降った人だから、危険ではないという認識だ。万里愛はしめたと言わんばかりに口角を上げ、近くの商品を小豆の顔へと投げつけた。小豆が咄嗟にそれを掴むと、体重を乗せた体当たりが行われた。小豆がよろけて通路に尻餅をつくと、そこへ手が迫ってきた。
「!」
小豆が咄嗟に躱して万里愛のの背後をとると、万里愛は振り向きざまに手刀を振るって首を傷つけようとしてきた。
「万里愛!」
「ふふふ、神田を呼ぶことはできないわ!漸くあなたを処刑できる…」
万里愛は立ち上がった小豆と正対してゆっくりと近づいた。小豆はじっとそれを凝視して飛び出すタイミングを見計らっていたのだが、その集中を解いたのは飛び出した万里愛ではなく、その後ろの人物だった。
「あの~お客様、商品で遊ぶのはご遠慮くださいね…」
物腰柔らかそうな黒髪1つおさげの中年の女性店員の声が万里愛を止めさせた。小豆の足許には投げつけられた服があり、床の埃が端についてしまっている。
「すみません、これ買いますから…」
小豆が頭を下げて服を拾い上げた。視界の広範囲を奪うために大きな面積のものを選んだのだろう、白いワンピースだ。万里愛に着られるサイズではなかったが、持ち上げている小豆には見事にぴったり合う。
「万里愛、あんたなんてことすんのよ」
「く、これも効かないか…!」
小豆は呆れて万里愛に迫り、狼狽える彼女からスマホを取り返した。これで万里愛は圧倒的な劣勢に立った。
「なんで勝てない…!」
「諦めろって言ってんだよ。あんたは弱い。強い意志を叶える能力がない。意識だけ先走ったところで実力がなければ何事も成し遂げられないんだよ」
「……」
戦意が消沈したのか、万里愛は力なく項垂れて小豆に引っ張られて売り場に連れて行かれた。彼女の服を買いに来たというのに彼女が曖昧な返事しかしないものだから、小豆は不機嫌になって自分のセンスでいくつかを選んだ。
「小豆」
「ん?」
「どうして私はうまくできないの?」
声色から嘆きを読んだ小豆は神田のように極めてシンプルに答えた。
「幼いから」
「そう…」
「あんたは一回脳みそを空っぽにするべきだよ。そうしたら神田が何もかも詰め込んでくれる。委員会やら使命やらのことなんて今のあたしにとっては超くだらないものだから、あんたもそう思うようになるよ」
「私がどれだけ委員会に人生を捧げてきたか、あなたにはわからないでしょ」
「知ったこっちゃないね。けど程度は関係ない。0か1か。あんたが今すぐ神田に人生を捧げても、これまでと同じ1だよ」
暴論だとしても、小豆に言えることはこんなことだけだった。万里愛の意志が徐々にほぐれてきたと感じた彼女は最後の仕上げは神田こそ担うべきだと考え、選んだ服を買って万里愛を連れ帰った。万里愛は帰り道、何も喋らなかった。
神田は壁倒立をして腕を鍛えていたようで、2人が帰ってくると赤い目をして迎えた。
「神田、この子まだ戦うつもりだよ。なんか言ってやってよ」
「おうおう戦え戦え。そのうち慣れておもらししなくなるだろ」
「ッ!」
万里愛が屈辱を思い出して神田を睨んだが、神田はニヤニヤして続けるのだった。
「俺は何回見てもいいと思ってるから挑んでほしい。けどどうだろう、俺は飽きやすいから、飽きたら本気で殴り返すかもしれない。そしたら助けた意味がなくなるから、その時は襲わないでくれ」
「都合のいいことを…!」
「パンツがいくらあっても足りないねぇ!」
神田のゲス顔を見た万里愛は赤面して憤り、全く反省しないまま神田に挑んだ。神田は上手に彼女の脇の下に手を差し入れると、垂直に持ち上げてから引き寄せた。
「んん!?」
「神田ぁ!」
万里愛が神田に抱きつくようになったので小豆が叫んだ。神田はすぐに万里愛を降ろしてニヤニヤしながら見つめ、さらに憤る彼女を挑発した。
「挑む度に君が恥をかく。そうして俺は意気を挫く。ゲス戦法だ!」
神田のゲス戦法にはまだまだ技があり、強敵を相手にすればそれを見せるだろう。
「ああもお!うっざいの!!」
万里愛は両手を振り下ろしたり床に転がったりして駄々をこねて精一杯の抵抗を見せたが、神田と小豆がひたすらニヤニヤするだけなのだった。
「ほんと大っ嫌い!」
万里愛のクセはおもらしです。偶然にも神田がおもらしフェチだったので彼女は温かく迎え入れられることになりました。マイナスポイントでも時としてプラスになるんですね。僕にはプラスになりそうなマイナスはありません。以上です。