第10話 意外とマッチョマン
入居できる日になったので契約の最終チェックを終えて鍵を受け取った神田は1人でホームセンターに行っていた。何故か?彼は家具を買いに来たわけでもないし、今すぐ必要な雑貨があるわけでもない。
その答えは、じきにわかる。
神田たちの住むアパートの塀に沿って停められた一台の軽トラック。その運転席から出てきたのが、神田だ。
「神田って免許持ってたんだね」
「ああ、オートマ限定だけどな。マニュアル高ぇんだよ。今日日マニアの車しかねぇし」
「意外ね。こんな都会に住んでるんだから車を運転する機会なんてないでしょ?」
「単身者だからな。旅行に行くなら電車だし」
大学生になっていたなら友人と旅行に行くときにレンタカーを運転したかもしれないが、それは別世界線の話である。いつかバイトをするときに資格欄を空にするのが嫌だということで一応とっておいたのだが、これまで運転したことは数回しかない。それでも憶えているものだし、素人同然だからこそ教わったことを忠実に実行できる。
「ほら、さっさと積み込むぞ。長く停めると怒られるんだから」
「へいへい」
軽い箱を持ってくるのが小豆と万里愛の役割だ。それが終わったら神田が冷蔵庫や洗濯機などの重いものを運ぶ。狭い廊下と階段を重いものを持ちながら移動するのは極めて危険だが、神田はその容姿からは想像もつかないほどの怪力の持ち主なのだ。
「ぬうん!」
気合一発、神田の手によって持ち上げられた冷蔵庫が脚を久々に床から離した。ズシンズシン移動しながら慎重にトラックの荷台に積み上げると、それを囲うように本を詰めた段ボール箱を置く。そうしないと倒れてしまうからだ。
荷積みは数十分で終わった。神田以外にトラックに乗れるのは1人なので、力の弱い万里愛が家に残って掃除を行う。トラックが発進すると、小豆が声をあげた。
「すげぇ、かっこいい」
「久しぶりで怖ぇ~」
「事故らないでよ?」
「わーってるよ。右ヨシ、左ヨシ、前方ヨシ」
わざと時間をかけて注意深く進むと、数分で新居についた。駅前を通らず遠回りをすることで難しい交通に巻き込まれることを避けた。駅前はバスやらタクシーやらがたくさんいるから、合流や車線変更が難しい。無事に停車した神田は新居の扉を開けて小豆とともに段ボールを運び込んだ。初めて入る小豆はその部屋の広さに感動している。
「うわぁぁ…ここにこれから住むんだよね?テンションあがるぅ!」
「段ボール開けてて。配置は俺がやるからそこらへん置いとくだけでいい」
「はいよー」
神田はまた怪力を発揮して冷蔵庫と洗濯機を新居に運び込むと、一息ついてからこう提案した。
「万里愛連れて戻ってくるからコンビニ行っといてくんねぇ?あいつ置いたら車返しに行く」
「いいよ。何食べたい?」
「タルタルサンド」
「おっけー」
神田は小豆より先に家に戻るだろうということで鍵を彼女ではなく万里愛に渡すことにして車を発進させた。1人で運転するとなんだか心細く、臆病者の運転で安全に万里愛のもとへ戻ってきた。
「ありがとね。助かったよ」
「ふふん、お礼をするのよ」
「昼飯なにがいい?今小豆がコンビニでメシ買ってくれてるから」
「コロッケパンと牛乳プリン」
神田がそれを小豆のスマホへ送信した。万里愛がトラックに乗り込み、神田は再び新居へ向けて発進した。
「私車って久しぶりに乗ったわ」
「そうかい。前は助手席に乗れなかったか?」
「そうね。チャイルドシートの記憶があるわ」
後部座席からの景色と助手席からの景色は異なるだろう。新しさを感じた万里愛は着いてしまったことを残念に思いながら、もう1つの新しいものと出会うべく鍵を受け取った。神田は車を返しに行ったので、万里愛は小豆が帰ってくるまでの間に残りの箱を開けて中を取りだしておいた。
全員が集合したのは正午を少し過ぎた頃のことだった。組み立てられたテーブルには大量のコンビニ飯が置かれ、小豆がレシートを神田に差し出した。
「なんかポイントつくのがあったからいっぱい買っちゃった」
「ほーん…ああ、期限近いの買うともらえるやつか」
神田はあまりコンビニに行かないが、ゲーム仲間にコンビニ店員がいるので彼の呟きを見れば何が起きているかを知れる。廃棄問題を少しでも改善すべく、期限の近いものを店のカードで払うことで税抜き価格の5%をポイントとして付与することにしたのだ。それを示すシールが机上のいくつかの商品についている。
「コンビニ飯って美味くなったよなぁ」
「昔不味かったっけ?」
「憶えてないわね。昔すぎて」
「そっか…なんか高いわりには感動するほど美味くなかったんだけど、今は値段に見合う美味さだと思うんだよね」
容量が減ってコストパフォーマンスは悪くなっているが、味は美味くなっている。コンビニ店員曰く、廃棄がおいしい。
「さて、食い終わったら整理をしますかね。俺はコンセントが近くないとダメだからあそこね」
これに文句を言う人はいなかった。なぜなら、全額神田が負担しているからである。小豆はテレビの前がいいと言って神田の隣に陣取り、残りを万里愛が占有した。あっさり合意したのは、どこも不可侵ではないからだろう。動線を意識しながら家具を配置すると、新しい部屋をすっかり慣れたものと思えるようになった。
「神田、お疲れ様。車運転するのって疲れるんでしょ?」
「まあね、久々だったってのもあって疲れたぁ」
神田が布団を敷いて寝始めたので、小豆と万里愛は近くを知ろうと散歩を始めた。南口のほうに移動したからこれまでとは利用する店が異なる。どこのスーパーが安いとか、どんな店があるかとかを把握しておけばこの先節約に一役買えるだろう。
南口は北口と比べると治安が悪いと言われているが、2人が歩いてそう思うことはなかったようだ。
「いろんな店があったわね」
「ええ。なんかいかがわしい店もあったけど、夜に出歩かなければいいのよね」
「いかがわしい店か…まあ、どこにでもあるんだろうな。それで食ってる人がいるんだし」
小豆は風俗店に一定の理解を示したが、夜間に怪しい人がうろついていることには警戒せねばならないとした。
「出歩かなきゃいけないときは神田を連れて行こう」
「そうね。常人のふりをした超人だもの。なんたってこの私を相手に無敗だもの」
どうやら貫手でダウンさせたのは勝利にカウントしていないらしい。万里愛にとって強い神田が風俗街をうろつく男より強いかどうかはわからないが、そもそも立川は人が出会えばいきなり戦闘が始まるほど世紀末な場所ではない。
「神田…冷蔵庫とか楽々持ち上げてたね」
「どこにそんな力が宿ってるのかしらねぇ…」
万里愛は神田に近づいてシャツを捲ってみた。なかなかの腹筋がある。
「ちょっと、怒られるよ」
「見るだけよ…うーん、一般人ね。じゃあこっちかしら」
「おいこら」
小豆が制止をかけたので実行されることはなかったが、万里愛は神田のズボンを捲ろうとしていた。彼女にとって神田は倒すべき相手だから何をしても良いのだ。
「ん…なんだ、寝たいなら布団で寝ろ」
「ここも布団よ?」
「屁理屈こねんなや…ん、なんで服が捲れてんだ?お前らなんかした?」
神田が聡いので万里愛は咄嗟に退いて小豆に罪をなすりつけようとした。自分より小豆のほうが神田に赦されやすいと思ったのだ。
「いや、なんもしてないよ?」
「日課やるか…」
神田は引っ越したとしてもやらねばならない日課を始めた。こうなるといよいよ妨害できなくなるので、万里愛は諦めて本を読み始めた。神田がたまに買う雑誌だ。その内容のほか、神田の嗜好を知ることができる。ある程度神田の嗜好を知っている小豆は昨日に続いてゲームを始めた。
すっかり夕方になっていて太陽が落ちていたので、神田は小豆に留守番を任せて万里愛とともに買い物に行った。彼女と二人で買い物をするのは初めてだ。
「今日の夕飯は何にするつもりなの?」
可愛らしい小さな手で神田のゴツゴツした腕を掴んだ万里愛。自分好みの答えを期待しているようだ。
「何食べたい?」
「そうよ、それが正解よ。私の意見を聞く前に献立を決めるなんてダメよ」
「まあ、そうやな。で、何食べたい?」
「そうね、カレーがいいわ」
神田はすぐに小豆にメッセージを送った。小豆はゲームに夢中だったようで、1試合終わるまでの数分は返信がなかった。彼女はカレーでもいいと言うが、甘口でなければダメらしい。
「俺も甘口派だし…お前は?」
「カレーならなんでもいいわ。ああでもグリーンカレーは辛すぎるわ」
「火吹かれて家燃えても困るし、甘口だな。蜂蜜も買おう」
売り場を知り尽くしている神田に遅れまいとその腕を掴んで離さない万里愛は、他の客からは妹のように見えただろう。さすがに娘には見えないはずだ(神田が若いため)。
「今日も神田が調理してくれるの?」
「俺にさせてくれよ。お前の料理は殿上人が食べるもんだから、庶民の俺の料理は俺が作るよ」
褒めちぎっておけば万里愛は機嫌を傾けないだろうと思ったので、殿上人とかいうよくわからない単語を出した。予想通り万里愛は自慢げに胸を張っている。
「そういやカレーと言えば液はねだな。どうせお前みたいなお子ちゃまはここんとこ染みだらけにするんだろ」
「失礼ね。カレー好きなんだから丁寧に食べる方法くらい知ってるわよ」
「ほう?でもほら、うっかりってことがあるじゃん。折角可愛い服なんだし、汚れ落ちなくなったら困るからさ」
その理由であれば納得してくれるらしい。神田は使い捨ての紙エプロンをかごに入れた。この辺りの気の利き具合は万里愛も高く評価している。
「あんた見た目はバカっぽいのに意外と紳士的ね」
「女の子はデリケートに扱えって母さんから教わったんだよ」
父親は『股間はデリケートに扱え』と言っていたらしい。
「母さんね…あんた、ご両親はもういないんだってね」
「そうね」
「寂しくない?」
「寂しくないわけねぇだろ。俺だってまだ若いんだぞ。親ってのは子供が立派な大人になってから死ぬもんだと思ってたよ」
寂しいと明言した神田に対し、表情の向こうにある感情を読み取ろうとした万里愛が慈愛を見せた。慈愛を見せるのは神田だけではなかったのだ。
「私はお母さんの代わりにはなれないだろうけれど、寂しいと思ったときはいつでも傍にいてあげるわよ?ってか傍にいないと私が寂しさにつけこんで殺せないわ」
「殺人ありきかい。まあでもありがとな。近くに親しい人がいるっていいもんだ」
「親しいかしら?」
「まあまあ」
このときばかりは敵を憎めなかったので、万里愛は敢えてワガママを言って神田の気を引いた―彼が寂しさを感じないように。
新居のキッチンは広い。これまでは切った具材を置く場所にも迷っていたが、これからはまな板の傍に置ける。神田の作業が加速したため、所要時間の大半が煮込みになった。
「神田カレーだ!」
「ブランドみてぇに言ってっけどよぉ」
「あれだね、名物にしよう。いつか店出してさ」
「そう簡単じゃねぇぞ店って…経営とかあるし」
「そういう細かいのは言いっこなしだよ」
それが肝であるとは誰も知らないし、実感しようがない。神田カレーはそこそこ美味しいので、リピーターが発生した。
「今思ったんだけどさ」
小豆が片付けをしながら切り出す。ゲームを始めようとしていた神田と本を読み始めた万里愛が注目する。
「神田にできないことってあるの?万能じゃない?」
これまでを振り返ってみよう。神田は1人暮らしなので家事全般ができる。小豆と万里愛に勝つくらいの戦闘能力がある。タイピングが得意。パソコンに詳しい。ゲーム内では戦術家として知られている。金持ち。最近はオシャレ。萌え萌えきゅんを躊躇なくするくらい度胸と愛嬌がある。
さて、どこに欠点があろうか。小豆と万里愛にはモデルほどイケメンではないことくらいしか思い浮かばなかったが、それを欠点と呼ぶかは人による。しかし本人は多くを欠点と認めている。
「そんなに頭よくないし、運動だってプロ並みじゃないし、泳げないし、日本語以外喋れないし、彼女いたことないし、童貞だし、無職だし」
「あ、そうだった無職だった。でもそれってあたしらも同じなんだよね」
だから責められない。神田の挙げたもののうち貶しに使えるものは童貞くらいだ。
「質が低くてもいいんなら何でもできる。けど何かに特化してるってわけでも…ゲームっていうのは実生活には役に立たないもんだと思ってるし…うん、特化したものはないね」
「そうかなぁ…でもなんかすごい人に思えるんだよね」
「そうだとしたらお前らがショボいんだ」
「なにおー!」
小豆と万里愛は寄ってたかって神田をボコボコにしようとしたが、威力が低いので神田は無傷のままだ。
「万能じゃなくてもいいし欠点があってもいいだろうが。それが人だよ。俺はお前らのいいところも悪いところも少しは知ったつもりだよ」
神田はソファに座って脚を組んだ。
「あたしのどこがよくてどこが悪いってんだい」
「お前はわかりやすい。態度が顔に出るから対処がしやすいし、溜め込んだものを短時間で放出してくれる。悪いところはあれだな、不注意だな」
「生まれつきだよぉ…万里愛のほうは?」
「万里愛は振る舞いが上品だな。礼儀作法を重んじるのは日本人として称賛すべきことだと思うし、見習うべきことがある。悪いところは…自分を過大評価しがちってことかな」
「あら、そうかしら?」
「そうだろ。だから俺に挑むんだろ?」
「むむむ…そういえばこっちに移ってからまだ戦ってなかったわね。記念すべき新居第1回をやろうかしら」
万里愛は包丁が遠くなったので肉弾戦で勝つつもりだ。神田はまた幸せなシーンを見ることができることを喜び、一瞬にして万里愛を制圧した。
「うぇぇ…」
じょろろっ、とおしっこが漏れて床に広がる。小豆は雑巾を既に用意していて、水たまりに被せて吸わせた。
「恒例行事かよ。でもありがとう万里愛。眼福だぁ」
「飽きてよ…」
「ああ、白いパンツが黄色いパンツに…うっ」
膝蹴りを食らった神田は後方によろめいて椅子の脚に頭を打った。
「ヘンタイなんだから…」
「あんたが漏らさなきゃいいだけの話では?」
小豆は呆れてバケツと雑巾を万里愛に差し出した。
「だって怖いものを見たら出ちゃうじゃない。あなたも怖い映画とか見ればいいのよ。そうよ。神田、何か怖い映画持ってないの?」
「お前また漏らしたいの?フェチじゃん。歓迎するよ?」
「違うわぁ!」
神田は脛を蹴られて悶絶した。転がった先に万里愛のおしっこを吸った雑巾があったので、彼の後頭部が一瞬にして治癒した。




