第30話 この戦いからは逃げられない その2
理沙の全エネルギーを載せたバトルアックスは――隻眼のオークに届いた。
だが、大きく鋭い刃が魔物の肩口に当たる直前、オークは咄嗟に瑞希たちを振り払い両腕でこれをガード。
戦斧の一撃は強靭な筋肉の盾を切り裂いたとは言え……急所に達することはなかった。
両の腕に深く刻まれた傷口からしぶいた血潮が、真正面に着地した理沙を朱く染め上げる。
黒オークは耳障りな絶叫と共に身体を震わせて――
「やったの!?」
叫んだ瑞希が、吹っ飛ばされた。
「え?」
一瞬で遠のいていった瑞希は壁に激突して意識を失った。
その妙にコミカルな一幕を間近で眺めていた理沙もまた、腹に強烈な衝撃を受けて大きく後方に跳ね飛ばされる。
幸いと言うべきか、通路を背にしていたおかげで壁にぶつかることはなかったものの、少女の小さな身体は石畳の通路に放り出されてゴロゴロと転がっていく。
「うう……ゴホッ」
何とか頭を上げると、血まみれのオークが右腕にしがみついていたゴブリンを投げ飛ばしている姿が目に入ってくる。
あれだけの血を流しておきながら、あの化け物の腕は機能を失っていない。その事実に戦慄した。
ホブゴブリンとは格が違う相手だと認識していながら、心のどこかで『さすがにこれは効いただろう』と言う慢心があった。思い返せば完全にフラグだ。
しかし……胴体こそ無傷ではあるようだが、深手を負わせたことは間違いなさそう。現にオークはすぐさま追撃に移らず、その場で立ち尽くしている。
「なっ!?」
立ち上がった理沙の蒼い瞳に、とんでもない光景が映し出される。
凄い勢いで血を噴き出していたはずのオークの傷が、みるみるうちに塞がっていくのだ。腕から流れ落ちていた血は既に止まっている。
そして――ひと際大きな咆哮が耳をつんざいた。黒い体毛に包まれたオークの全身から幾筋もの湯気が立ち昇る。
復活してしまったモンスターがズシン、ズシンと歩みを進める。黒豚の魔物が大きな人斬り包丁を振りかぶった先には、意識を失ったままの瑞希がいて――
「『ピンクライト』!」
理沙は咄嗟にスキルを発動させていた。
闇に閉ざされた通路の天井付近から、桃色のスポットライトが少女の肢体に浴びせられる。
煌めく金髪、汗が光る白い肌を僅かに隠す黒い布地。扇情的な彩りにオークの意識が支配され――欲情したモンスターは理沙に向かって突進を始める。
それは奇しくもかつての地下21階を思い出させる光景。理沙の身体が、心が震えた。黄金のツインテールが闇に揺れる。
あの時と同じくオークは少女に詰め寄って――しかし、少女はオークの巨体から逃れようとはしない。
「『だれもアタシをとめられないッ!』」
腹の奥から発した叫びが総身を貫いた。
雄たけびと共に理沙の中心から全身に熱が駆け巡る。
痛みは吹き飛び、力が漲る。震える心が――奮い立つ!
バトルアックスを構えて――オークを迎撃するために石畳を蹴った。
「うわあああああああっ!」
バトルアックスと人斬り包丁。
巨大な一対の刃が闇の中で火花を散らす。
それは夏の夜空を彩る打ち上げ花火のように、あるいは散り征く線香花火のように。
互いの命を焼き尽くさんとする輝きが地下19階に炸裂する。
★
ガイン、ギインと重い金属がぶつかり合う音がする。
小柄な理沙と大柄なオーク。
互いの繰り出す刃が、ただのひとつの過ちもなく打ち鳴らされて、地下19階の空気を震わせる。
耳を澄ます者がいたならば、時折鈍い風の音が加わることに気付いただろう。
オークの左腕が伸びて、その拳が理沙を打ち据えようとするのだ。
理沙が拳を躱すと、硬く握りしめられたオークの左手は勢い余って壁や床に激突し、そのたびに通路が揺れる。
オークはアドレナリンの過剰分泌によって痛みを感じていないようで、ただひとつ残された右目を血走らせて右に左に腕を振るう。その全てが、文字どおりの必殺。
嵐にも似た理不尽な暴虐の塊だが……対する理沙も負けてはいない。
『コスプレ:じゃがーのーと』の力で振るわれるバトルアックスもまた、ひとたび触れればただでは済まない。
尋常でないパワーが載せられた重すぎる刃によって生み出される破壊の旋風が、オークの巨体を飲み込もうと軋みを上げる。
力と力。刃と刃。
ひとりと一匹が産み出す暴力の拮抗は……徐々に均衡が崩れ始めた。
戦いの流れを掴んだのは――小さな身体で大きな戦斧を振るう理沙。
黒豚のミスにうまくつけ込んでバトルアックスをその巨体に叩き込んでいく。
まずは一撃、そして二撃。
並のモンスターならば触れただけで木っ端みじんになりかねないその斬撃は、しかしオークの命を奪うに至らない。
隻眼の魔物は全身に無数の傷を作りながらも、硬化した皮膚と筋肉を駆使してバトルアックスによる致命傷を避けている。
――せっ!
苦境に立たされたオークは大きな牙を生やした口から煙を噴き出し、その顔にはもはや凶相とでも呼ぶべき表情が浮かんでいる。対して――優勢であるはずの理沙もまた必死。
日頃の小悪魔じみた可愛らしい表情も余裕もどこかに吹き飛んで、ここに居るのはただ眼前の敵を殺戮することだけに心を奪われた小さなバーサーカーであった。
――せっ……押せっ!
身体の中から湧き上がる力と衝動に意識が飲み込まれそうになる。
無理に抗うことなく身も心も委ねれば、目の前のオークを圧倒できそうにも思えてくる。激しすぎる誘惑だった。
しかし一方で、その狂熱に警鐘を鳴らしている自分がいる。
冷静さを失ったら負け。そんな根拠のない不安が常に頭の片隅にある。
「だからってさぁ!」
力任せにオークの巨体を押し退けて、大きくバトルアックスを振り上げた理沙は――
「あ……」
ガランという音が、やけに大きく通路に響いた。
斧を取り落としたと気付いた次の瞬間、頭が筆舌に尽くしがたい痛みによってギューッと締め付けられる。身体中から力が、熱が抜けていく。
『だれもアタシをとめられないッ!』の効果時間は……5分。消費MPは最大MPの3分の1である。
これまでにも何度か体験してきたとはいえ、この急激なMP消費と脱力に慣れることはできない。
しかも、今、理沙の目の前には興奮状態となったオークがいて、体勢を立て直した黒豚は形勢逆転と見るや両腕で肉切り包丁を高く掲げ上げていて、
「ハアッ!」
耳に透る澄んだ声と共に、オークの背後から血飛沫が待った。
★
瑞希が目を覚ました時、フラフラの頭を最初に支配したのは『何が起こったのか?』という疑問だった。
ふたりと一匹の連携によってオークに理沙のバトルアックスが打ち込まれ、血飛沫が舞った。
『勝った』と思ったところで身体に衝撃を受け、宙を舞う感覚の後に背中に痛み。
そして――
――オークは……どうなったの?
頭を押さえながら手元に転がっていた魔剣を掴む。
立ち上がって……辺りに鳴り響く耳障りな音に気付かされる。戦闘は終わっていないと知った。
身体を壁に預けながら広場を出て通路に向かい、そこで目にしたのは――崩れ落ちようとする理沙と、刃を振り上げたオーク。
全身の血が沸騰した。そこから先は何も考えていなかった。
気が付いたときにはオークに背後から切りかかり、魔剣はその逞しい背中を容易く切り裂いていた。
『今度こそやった!』
会心の一撃を叩きこんだ瑞希は、振り向いたオークと目が合った。目が合ってしまった。
そして横殴りの一撃で壁に叩きつけられた。
理沙が聞いたら『やったとか言うのフラグだから』とため息をついただろう。
倒れ込みつつも意識を保ち続けた瑞希が目にしたのは、自分に向かって振り下ろされる刃。
――ああ、私はここで死ぬのか。
迫りくる現実すなわち死を瑞希は受け入れた。
できれば理沙だけでも助かってほしい。
そう思って……そっと目を閉じた。
「『ピンクライト』!」
聞き慣れた理沙の声。
血なまぐさい地下にあって、時に可愛らしく、時に艶めかしく響く声。
瑞希の耳に届いたその声に、ほんの一瞬だけ優しい気持ちが胸に灯り――その言葉の意味するところに思い至って目を見開いた。
――――
『ピンクライト』:消費MP5:自分にターゲットを集中する。意思のない相手には効果がない。ターゲットが術者に性的興奮を覚える場合は効果が大きい。
――――
互いに習得しているギフトやスキルについての情報は隠すことなく共有している。
だから――瑞希は理沙の意図に瞬時に思い至った。
動くことすら侭ならない瑞希の目の前で刃はストップしており、オークの眼差しは理沙に向けられている。
桃色の光に照らされた金髪の少女は、その全てが美しく、そして蠱惑的だった。
魔物の殺意すら飲み込むほどの誘惑は、もはやある種の呪いに近い。
瑞希以上に、それこそ指一本動かせないはずの理沙の肢体に凶悪なオークの手が伸びて――
黒髪の少女剣士は屈辱と、恐怖とそして尽きぬ無念に歯噛みしつつ目蓋をぎゅっと閉ざした。
「逃げて! 逃げなさい!」
暗闇の中、やたら切羽詰まった理沙の声が耳朶を打った。
★
奇跡が起きた。
逃げ場なしと思われた瞬間、背後からオークに襲いかかった瑞希が、その巨大な背中を袈裟切りに。
しかし背後からの完璧な奇襲すら致命傷には届かず、瑞希は怒りを滾らせたオークに殴り飛ばされた。
もはや興奮の絶頂にあるこのモンスターは、痛みを与えただけでは止まらないのだ。
倒れ伏した瑞希にオークの刃が叩きつけられる直前、再び理沙は叫んでいた。
「『ピンクライト』!」
瑞希とゴブリンが前衛として力をつけていくほどに使わなくなっていったターゲット集中用のスキル。
両腕、両脚、アクセサリ。3箇所の装備パーツをプチデビルから変更していても、魅了効果は健在だった。
オークは自らの背中を大きく切り裂いた瑞希を放置して、通路にへたり込んだ理沙に狙いを変更した。
全身に力が入らない。理沙は迫りくる巨体を呆然と眺めていた。自分がどんな目に遭わされるかはわからない。でも、瑞希だけでも地下20階に逃げ切ってほしい。
ホブゴブリンたちから助け出したことをどうこう言うつもりはない。でも……彼女を闘いに駆り立てた一因はきっと自分にある。だから、彼女をここで死なせるわけにはいかない。
きっといつかは地上から救援部隊がやってくる。階段を降りさえすれば命は繋がるはずだ。幸い最近はかなり稼いでいる。一日100マネーの宿泊料も、ひとり分なら当面の間は問題なかろう。
ゲーム的な世界のルールに詳しくない彼女。自分が最後まで面倒を見てあげられないことは悔やまれるけれど……瑞希には自分の分も生きてほしかった。それが、最期の願い。
しかし――オークの魔の手は理沙に届かなかった。
金色に輝くツインテールを靡かせた少女がダンジョンの地下深くで戦い始めてから、ほとんどずっと行動を共にしてきた相棒がいた。
汚れた緑の肌の短身痩躯。作りそのものは不細工だけれど、最近は愛嬌すら感じるようになってきた顔立ち。
ホブゴブリンから分捕った身の丈に迫るほどの大きな棍棒がトレードマークのゴブリンだ。
投げ飛ばされていたゴブリンは、いつの間にか戦線に復帰していた。
オークの注意が瑞希に、そして理沙に向けられた隙をついて、小鬼は全体重を乗せた大棍棒をオークの脚に叩きつけた。
意識の外から繰り出された一撃に、黒豚はその巨体を傾かせた。おそらく脚が折れたのだろう。
だが……オークの眼は死んでいない。それどころか獲物を味わう悦楽を邪魔された怒りが滾って爆発しそうになっている。
理沙は黒い豚面の表情変化、その一部始終を間近で見せつけられていた。
「逃げて! 逃げなさい!」
咄嗟に叫んだ。しかしその甲斐なく――ゴブリンの献身に対する代償は凄まじいものだった。
前のめりに倒れ込んでいたオークの右腕が分厚い刃ごと振るわれて、直撃。
紫色の汚液をまき散らしながら、緑色の小さな身体が吹き飛ばされた。
「この……このおっ!」
その光景に、理沙の世界が真っ赤に染まる。心の中からあらゆる感情が吹き飛び、ただ怒りだけが残った。言葉にすらならないナニカを叫んで立ちあがった。
激しく傷つけられたはずの身体はまったく痛みを感じることなく、少女は倒れ込んだオークに向かって全身全霊でバトルアックスを振り下ろす。
重い手ごたえがあった。そして石畳の床をガツンと削る感覚も。
ゴロリと転がる隻眼の首に目もくれず、理沙は身体を引きずってゴブリンに近寄っていく。
倒れ伏した相棒の傍にたどり着いた少女は、眼前に広がる光景に……震え、慄き、顔を青ざめさせた。
「ウソ……こんなのうそ」
可愛らしいピンクの唇から漏れる力のない声。
ゴブリンの身体は――半ばまで断ち切られていた。
因縁よりも……




