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第29話 この戦いからは逃げられない その1


理沙(りさ)!」


 トラウマじみた恐怖によって狭窄してゆく少女の耳朶を相棒の声が打つ。

 その凛とした響きが、闇に閉ざされそうになっていた視界を明るく照らしていく。

 理沙は思わず唾を飲み込んだ。もし自分がひとりきりだったら……想像するのも恐ろしい。


「ご、ごめん。ちょっと意識が跳びかけてた」


「大丈夫?」


「ええ、ありがと。助かった」


 瑞希(みずき)は特に気にした風でも無さげに頷き、


「……あれが、以前あなたが言っていた?」


 続けて放たれた問いに、理沙は……小さく小さく頷いた。

 黄金の髪が微かに揺れる。


「オークよ。しかもアタシを追いかけ回してたやつだわ。あの潰れた左目に見覚えがあるもの」


 答えつつ豚面の魔物を睨み返す。小刻みに震える身体を無意識のうちに抱きしめていた。

 いったいどうやってあのモンスターがここに現れたのか。それを考えても意味はなさそうだった。

 床に空けた穴が勝手に埋まるようなダンジョンと言う未知のフィールドでは、想像もつかないことが容易に起こりうるということだ。


――奴は地下20階への階段前にいる。すり抜けて階段に飛び込めるかしら?


――難しい。前にアタシを逃がしたことを覚えてるみたい。階段前から動こうとしない。


――仮にうまく逃げおおせたとしても、このゴブリンを奴の目の前に放置するわけにもいかない。


 すっかり気安い間柄となったゴブリンにチラリと目を向けると、何故かサムズアップされた。やる気満々だ。

 初めてダンジョンに落とされて、オークに追い回されたあの日からすでに2か月近くが経過している。

 過ぎ去った日々のほとんどは闘いに次ぐ闘いの繰り返し。レベルを上げてスキルを磨き装備を整えた。

 幾度となく激戦を潜り抜けてきた理沙は、最早あの時の無力な少女ではない。


 世界がアップグレードされた4月1日、理沙はまだ戦いを知らないごく普通の少女だった。

 迫りくるモンスターはいずれも劣らぬ脅威でしかなかった。個々の戦力差を計れる段階ではなかった。

 未知なる恐怖に慄く心をハリボテの勇気で奮い立たせ、弱気に俯く顔を継ぎ接ぎだらけの腕で持ち上げて前を向いた。

 歯を食いしばって、少しずつ力を蓄えて、頼りになる仲間たちの力を得て。ようやくここまでやってきた今の理沙から見たオークは……


――強い。少なくともホブゴブリンよりは上……


 自身が強くなったからこそ、眼前のモンスターの力を以前よりも推し量ることができるようになった。なってしまった。

 あの豚面の魔物は、今までに見たどのモンスターよりも間違いなく格上。

 ホブゴブリンと比べてどれくらい強いかは……残念ながら判断できない。

 初日に遭遇したときには、あちらも本気を出していたわけではなかったことくらいは理解できる。

 一度別のフロアへ移動して時間を潰す、あるいは通路を引きずり回しつつ他の道から階段を目指す。

 いくつものアイデアが泡のように生まれ、そして消えていく。決定的なイメージが湧かず、どう動けばいいか判断できない。


「理沙、戦いましょう」


「瑞希?」


 突然の言葉に身体がビクリと揺れた。

 声の発信源たる相棒に蒼い瞳を向ける。

 力強い語気で言い放つ瑞希に、その意図を問いかけるように。


『戦う』


 その選択肢は、先ほどまでの理沙の脳裏には浮かばなかった。

 無意識のうちに後ろ向きな思考に捕らわれていたことに気付かされる。

 黒髪の少女は理沙の眼差しを受けて、己の胸の内から拾い上げた言葉を紡ぐ。

 口振りは瑞希らしくもなくたどたどしいものだった。それでも真摯な心は伝わってくる。


「私は、私は理沙のことを凄いと思ってて……でも、その理沙だって絶対に無敵と言うわけじゃないってわかってて……」


 瑞希にとって理沙は頼りになる相棒であり、同時にダンジョンを生き抜くための師匠でもあった。

 決して短気を起こさずじっくりとレベルアップを重ね、そして常に安全な退路を確保する。余人が聞けば臆病と嗤うかもしれない。

 しかし――平和な現代日本に生きてきた少女たちが、人跡未踏のダンジョン、その地下17階にあって未知のモンスターと戦い続けることが、ひいては生き残ることができているのは……ひとえにその細やかな配慮の積み重ねによるものだ。

 危なくなったら逃げていい。逃げて、生き残って、そして強くなって。ほんの少しずつでもいいから前へ進む。上を目指す。その常軌を逸した根気こそが理沙の強さの源であることを瑞希は身を持って知っている。


 でも。

 瑞希の語り口、その風向きが変わる。


「逃げるべき時は逃げてもいい。でも、この戦いからは逃げてはいけないと思う」


「……逃げてはいけない?」


 理沙は不審げに眉を寄せた。

 瑞希は頷いて、話を続ける。


「単に地下20階への階段を塞がれているからとか、そう言うことではなくて。理沙は前に言いましたよね。たとえ地上に戻れても、これからの世界はダンジョンやモンスターと切っても切れない関係になるって」

 

 急に話題が跳んだけれど……確かに以前そんな話をしたような気がする。


「私たちはこれからも戦い続けることになって……だから、理沙はこんなところで躓いていてはいけない。……ごめんなさい、上手く言葉にできません」


 力無く首を横に振ると、黒髪のポニーテールがダンジョンの闇に融けるように弧を描いて揺れた。

 言葉の代わりに――腰に佩いた魔剣を抜き両手で構えた。

 その面差しには静かな闘争心が垣間見える。


「戦いましょう。私たちは地上に帰るんです。こんなところで立ち止まってはいられません」


 決意に満ちた瑞希の声が、金髪少女の心を打った。

 唐突に理解する。

 理沙にとっての隻眼オークは、瑞希にとってのホブゴブリンだ。

 トラウマを払しょくしなければ――前に進むことは叶わない。

 これは感情の問題だ。誰にだって逃げられない戦いがある。そういうことだ。

 無理やり理屈を付け加えるならば、バトルを避けてこの場を凌いだところで、いつ姿を現すともしれないオークの影に怯え続けていては、どの道ダンジョン脱出は叶わないだろうと言ったところか。

 心を決めると肝が据わった。浅く乱れていた呼吸が平常モードに切り替わる。

 ブルブルと頭を振ると、黄金のツインテールが闇の中で螺旋を描いて輝きを増した。

 理沙の双眸に力強い光が戻る。遥か彼方、空の果ての色。


「ええ。アタシたちは先に進む。そのために……コイツはここで倒す!」


「ええ! ええ!」


 理沙の声と共に瑞希がオークに向かって駆け出した。すかさずゴブリンが追いかける。

 そして――


「『シャドウバインド』!」


 彼我の間合いはちょうど10メートル。

 理沙の魔法が、戦闘開始の号砲を打ち鳴らす。



 ★



 理沙が仕掛けた影の鎖は、巨大な刃を構えるオークの右手に絡みついた。

 黒い豚頭は苛立たしげに腕を振り、あっさりとこれを引きちぎった。

 オークは傍目に見てもわかるほどに戦意を滾らせている。

 牙を生やした口を大きく開き――つんざくような雄たけびが地下19階を振動させる。


 ――咆哮。


 ほかのモンスターの場合だと仲間を呼び寄せるための合図となる叫び声だが、今この状況に限って言えば敵の援軍の存在は感じ取れない。

 普段この地下19階にたむろしているゴブリンはオークを恐れて逃げ出しており、そして隻眼以外のオークはこの階層にいないようだ。

 しかし、この咆哮にはもうひとつの力がある。敵対者に向けた威嚇行為だ。

 強靭なる音の一撃は、心弱き者の足をすくませ、身を縮こまらせ、そして怯懦を呼び起こす。


 オークに立ち向かう少女たちは――退かなかった。怯まなかった。

 いきなり『シャドウバインド』の拘束を逃れたことに驚きつつも、その一瞬のスキをついて瑞希が魔剣を振るう。闇に煌めく刃の狙いは――剛毛に覆われた首筋。

 だが……オークは左腕を前に突き出して黒髪の少女が繰り出した刃を受ける。


「なっ!?」


 驚愕する瑞希。

 ホブゴブリンを軽々と断ち切ってみせる魔剣の斬撃が、オークの分厚い腕に阻まれた。

 黒豚の腕からはわずかに血が流れるものの致命傷からは程遠く、しかも筋肉に挟まれた刀身はガッチリと固定されて動かない。

 魔剣を引き抜くために足を止めてしまった少女剣士に向かって、丸太のような太い右腕に握られた肉切り包丁が唸る。


「ギャッ!」


 その右腕にゴブリンの大棍棒がヒット。しかし上から叩きつけてくるゴブリンの一撃をオークは腕力だけで跳ね飛ばした。

 集中が途切れたせいか、ストームバイトに絡みついていた筋肉が緩んだ。瑞希は魔剣を回収しつつ間合いを開けることに成功。

 吹き飛んだゴブリンは、クルリと空中で一回転して着地。こちらも特にダメージはない。

 ひとりと一匹は慎重に間合いを取って武器を構えた。仕切り直しだ。


「強い……」


 ただの一合で理解させられる。目の前のオークの底知れぬ強さを。

 いつも自分を導いてくれる理沙があれだけ尻込みしていた理由を。

 これまでにも強力なモンスターと相対してきたことはあった。

 瑞希にとって、その代表がホブゴブリンだった。

 でも――あのモンスターと戦った時とはまるで違う。

 理沙の魔法による足止めは功を奏さず、自身の魔剣が敵手の身体を切り裂くこともかなわず。

 当のオークは瑞希たちの目の前で、傷つけられた左腕をべろりと舐めている。

 

『この程度、唾をつけておけば治る』


 そう言わんばかりの余裕を見せつけてくる。忌々しい。

 オークの巨体が発する圧力に怯みそうになり、そんな己の弱い心を叱咤する。

 理沙に大見得切っておいて、そんなことでどうすると。

 あの言葉は理沙に向けたものであり、同時に自分に向けたものでもあった。


 黒髪の少女はギリッと奥歯を噛みしめる。

 血が噴き出しそうなほどに、歯が砕けそうなほどに強く、強く。

 

 ホブゴブリンをサクッと屠れるようになった今でも、理沙と出会う前にさんざんに追い回されていたぶられた夢を見て夜中に跳ね起きることがある。

 弱い自分を克服したいと思う。強くなりたいと日々願っている。その思いが瑞希に剣を執らせ、そして振るわせる。

 自らの手で魔物を討つたびに、少しずつ強くなれているような気がした。いや、そうあってほしいと願った。

 自分のためにも、そして自分を救ってくれた理沙のためにも。強敵と出会ったくらいで容易く崩れてしまうような有様ではいけない。そんなものは本当の強さとは呼べない。

 だから――


「こんなところで、引き下がるわけにはいきません!」


 瑞希は再び石畳を蹴ってオークに向かう。

 ゴブリンも棍棒を担ぎ上げて駆けている。

 どちらも向かう先は同じだ。豚頭討つべし。


 ひとりと一匹は同時に飛びかかった。

 瑞希は左腕を、ゴブリンは右腕を狙う。

 それぞれを腕一本でいなしたオークは余裕の笑みを浮かべ、そして正面を見て――己に残された唯一の目を剥いた。


「いくら強くたって、腕は二本しかないんだからッ!」


 巨大な戦斧を担いだ理沙が、そこにいた。黄金のツインテールを靡かせて。

 大きく振りかぶったバトルアックス、その凶暴な刃が垂直に叩きつけられようとしている。

 両腕を封じられたオークには、その一撃を避ける術がない。


『ぶっとばすわよっ!』


 金髪の少女もまた――咆哮。

 その小さな身体から溢れるエネルギーが地下迷宮に炸裂する。



 ★



『シャドウバインド』が呆気なく解除さ(レジら)れて、理沙の頭は真っ白になった。

 弱体魔法の効果がないということは、自分がほぼ戦力外になるということ。

『ブラインド』は相手を暴れさせるだけだし、『ピンクシュート』を撃つには間合いが遠い。そもそも魅了が効く保証がない。射程5メートル。失敗は死を意味する。

 だから役立たず。これまではそうだった。


 しかし、今は違う。


 黒猫店長の計らいで手に入れた装備によって得た新たな力『コスプレ:じゃがーのーと』

『技能・斧』によってぶん回されるバトルアックスは、当たりさえすれば十分な火力が出るのだ。当たりさえすれば。

 仲間たちが左右からオークに向かっていく姿を見て、理沙は自分がどう動くべきか瞬時に判断した。

 そして――


 華奢な肢体に張り詰めた筋肉を捩じりあげ、生み出されたエネルギーは『技能・斧』によって一部の無駄もなくその刃に収束されて。

 仲間たちによってがら空きになったオークの真正面から大きく振り下ろされた。

 次の瞬間、耳を覆いたくなるような絶叫が地下19階の通路に響き渡った。

ようやく因縁の戦い!

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