第17話 現れた人影 その2
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地下18階では理沙とこん棒ゴブリンで同時に10体近いゴブリンを屠ったこともある。
しかし、それはゴブリンが前衛を務めて一方向からやってくる敵を相手取り、『ピンクシルエット』で同士討ちを狙いつつのバトルだった。
さらに間合いを調節するために少しずつ後退したりと言った小技も使っていた。
現在の理沙が置かれている状況は3対4ではあるものの、下僕ゴブリンは背後で短剣を持ったゴブリンと相対しており、理沙と通路の奥からやってきた3匹を遮るモノが何もない。
逃げてきた女性は意識を失っているどころか生死不明で動かせない。これでは間合いもクソもあったものではない。
発動中の『ピンクシルエット』が効果を及ぼしているようには見えない。蒼い瞳が睨み付ける3匹はいずれも正気を保っている。
そして、その3匹のうち1匹はいまだ相見えたことのない上位種と思しきゴブリン。
……魅了が効いていないのも、あのボス格のせいかもしれない。
不利だ。認めざるを得ない。引き際を誤った。
ホブゴブリン1匹とゴブリン2匹に視線を固定しつつも、背後で戦っている2匹のゴブリンが気になって仕方がない。
こん棒ゴブリンが敗北したら、都合4匹のモンスターに前後から挟撃されることになる。
どう見ても毒っぽい紫色の液体が塗られた短剣が理沙の肌を傷つけたら、いったいどうなるのか。
前2匹のゴブリンは地下18階のそれと大差ないように見えるが、大きなこん棒を構えるホブゴブリンはどれほどの強さなのか。
少しでも隙を見せれば、モンスターたちは動けない女性を蹂躙するだろう。懸念すべき問題が多すぎる。
――逃げるか?
その選択肢が脳裏に浮かんだ。
地下18階への階段までは、さほど距離がない。
ホブゴブリンたちは機敏には見えないから、隙をついて離脱してマップを見ながら最短経路で走れば、地下20階の黒猫商店まで逃げ切れる可能性は十分にある。
ただし――意識を失っている女性を見殺しにすれば、という条件が付く。
体力も腕力も充分とは言えない理沙がこの女性を抱えて逃げるのは無理だ。
逃げるという選択肢、それは誘惑だった。この状況を解決するための抗いがたい魅力がある。
しかし――
「見捨てられるって言うのならさぁ……最初っから助けたりしないのよ!」
理沙は踏みとどまった。
背後は自分のゴブリンを信じる。
前のゴブリン2匹は素手のザコ。こいつらは鞭と『ピンクシュート』で倒す。
ホブゴブリンは……
「どうにかしてやるわよ! 『ピンクシュート』!」
左手の人差し指の先から桃色のハートマークが放たれる。
狙いは――ホブゴブリン! こいつを魅了できれば、すべては雑に解決する!
突進を見越した先撃ちだったが……ホブゴブリンはこれを避ける素振りを見せなかった。
『しめた』と心の中でガッツポーズを決めた理沙は、しかし次の瞬間、そのまま目を剥く羽目になった。
ホブゴブリンはその巨体に相応しい大きな左手で傍のゴブリンの頭を掴み、理沙に向けて放り投げてきたのである。呆れるほどの力技であった。
『ピンクシュート』はそのゴブリンにヒット……しかし魅了できようができなかろうが、単純に質量が飛んでくるのだ。
理沙としては躱さざるを得ない。幸い回避は成功したが体勢は崩れる。
「くっ……そぉ――――ッ!」
『ピンクシュート』が成功したかどうか確認する余裕もないままに、飛び掛かってくるゴブリンとホブゴブリンに向けて鞭を振るう。
空を切る音と衝撃に小柄なゴブリンは怯むものの、ホブゴブリンは顔色を変えることもなく突っ込んでくる。
無茶な姿勢から繰り出した鞭のダメージなど大したものではないらしい。単に理沙が弱いだけかもしれない。
間近に迫ったホブゴブリンが振り下ろしてくる大きなこん棒をサイドステップでギリギリ回避。
しかし、続けざまに放たれた左の拳が理沙の腹を打ち――少女の小さな身体は壁に吹き飛ばされた。
「カハッ!」
頭こそ打たなかったものの、背中の痛打に肺から空気を吐き出して悶絶。
腹に貰った打撃が呼吸を乱し、腰から下に力が入らない。これまでの人生でついぞ味わったことのない暴力に、身体的にも精神的にもダメージが大きい。
さらにズシンズシンと間合いを詰めつつ――突撃体勢からタックルを仕掛けてくるホブゴブリン。大質量の体当たり、直撃すればタダでは済まない。迷っている暇はない。
「『ブラインド!』」
金髪の小悪魔は、その巨体に向けてこれまであまり出番のなかった暗黒魔法を放つ。
『ブラインド』は単純に相手の視界を闇で遮る魔法。
『ピンクシュート』とは異なり抵抗される心配はない。
視界を奪われたホブゴブリンは勢い任せに突進し――理沙はこれを転がって避けた。
ホブは盛大に体を壁にぶつけて自爆。衝撃で通路が揺れる。ざまぁであった。
「ハアッハアッ……じょ、状況はッ!」
たたらを踏みつつ振り返った理沙の上半身が突如拘束される。
残っていたゴブリンが正面から抱き着いてきたのだ。
両腕を回して少女の綺麗なツインテールを掴み上げ、両脚で脇を挟み込むようにして密着。
理沙の視界がゴブリンの汚らわしい肌で埋め尽くされて、そのおぞましい感触と臭いで意識が跳びそうになる。
頭と首筋に粘着質な水音。上は涎として……下は――想像したくもない!
「このッ……離れなさいよ!!」
必死になって鞭を振り回すも密着しすぎているゴブリンには当たらない。
調子に乗って獲物の肢体に汚らわしい身体を擦り付けてくるモンスターだったが、
「ギャフッ!」
理沙は数少ない自由に動かせる部分――顔と言うか口と言うか……虫歯ひとつない白い歯でゴブリンの腹に噛みついた。
予想外の痛みにゴブリンの拘束が緩み、矮躯のモンスターは横合いからの衝撃で吹き飛ばされる。
見れば最初に『ピンクシュート』を食らったゴブリンが、濁った瞳にハートマークを浮かべて体当たりしてきたのだ。
しかしこのゴブリン、いつも付き従うこん棒ゴブリンとは違って理沙を助けようとしたわけではない。
目の前にいる魅惑的な獲物を独り占めするために同族を押し退けただけ。その証拠に、灰緑の矮躯は少女に向かって襲い掛かり――
「甘く見ないでッ!」
両目にハートを煌めかせたゴブリンは、己の欲望を達することはできなかった。
咄嗟に太腿からダガーを引き抜いた理沙は、目の前のゴブリンの喉にその刃を突き立てる。
何が起きたのか理解できていない魔物は、熱く汚らしい血をしぶかせながら背中から倒れ込んだ。
噛みついたときに口に広がった感触、汚臭、そして味。汗と垢と泥が入り混じった形容しがたいエグみ。
今しがたゴブリンから浴びた血を拭う間もなく、間合いを取って鞭を振るう。
黒い鞭の衝撃に怯んだゴブリンは、背後からの強打に沈んだ。
こん棒を脳天に食らって昏倒し、そのままボコボコにされて消失。
理沙のゴブリンと短剣ゴブリンの戦いは、いつの間にか前者の勝利で終わっていたのだ。
「あと一匹……え?」
短剣ゴブリンはこん棒で殴られてすでに消失している。
ホブゴブリンに従っていた2匹のゴブリンは、理沙の短剣と背後からの殴打で消失している。
だから残りはホブゴブリン1匹。劣勢と思われていた状況からここまで盛り返した理沙は――目の前の光景に絶句する。
自爆から立ち直ったホブゴブリンの右手にこん棒はなかった。
代わりに――ボサボサの黒髪に覆われた女性の頭を掴んでいる。
その姿が意図するところは明白だ。
「人質……卑怯者ッ!」
忌々しげな理沙の叫びが石の通路に木霊する。
全身を汚した新しい獲物を見て嗜虐に顔を歪めるホブゴブリン。
こん棒ゴブリンが突撃を掛けようとして――ご主人様に制されて足を止める。
『なぜ?』と言いたげな顔を向けてくるが、理沙としては『人質を見捨てて突撃しろ』なんて命令できない。それが例え初対面の人間であったとしても、だ。
状況は……すこぶる芳しくない。
ホブゴブリンの戦闘能力は未知数のままで人質を取られてしまっている。
モンスターはモンスターなりに知恵が回るらしい。
自分たちが追いかけてきた黒髪を盾にすれば、理沙の動きを押さえることができると理解しているようだ。
元々この戦いは理沙たちがこの人間を見捨てようとしなかったところから始まった。その状況から推測したと思われる。
女性はまだ意識を取り戻しておらず、自分が置かれている状況を把握していない。
ゆえに静かなままであるのだが、これは不幸中の幸いと言えるかどうか……
ホブゴブリンが右手に力を込めれば、その小さな頭は粉々に砕け散ってしまうだろう。
理沙が様子を窺っていると、ホブゴブリンは左手を開いたり閉じたりし始めた。
意味が分からず眉を顰めると、大柄なゴブリンは苛立たしげに自分のこん棒を蹴り飛ばした。
それで金髪のロリ悪魔はようやく相手の意図を理解させられる。
「人質の命が惜しければ武器を捨てろってことね……」
ギリッと歯噛みしつつも、文字どおり頭を押さえられていては何もできない。
武器を捨てればどうなるのか。少なくとも事態が好転することはないだろう。
――人質さえいなければ……
長い長い沈黙の末に――理沙は鞭を、そしてダガーを床に落とす。ゴブリンにもこん棒を捨てるように指示。
ゴブリンは戸惑いを覚えたようだったが、少女が蒼い瞳で強く睨み付けると最後には素直に従ってくれた。
武装解除した理沙を見て満面の笑みを浮かべたホブゴブリンは、人質の頭を握りしめたまま接近してくる。
その行く手を阻むものは何もなく、たちまちのうちにひとりと一匹の間合いは殆どゼロになった。
ゴブリンの血と汗と涎に塗れてぬめ光る理沙の白い肌を、ホブゴブリンの無遠慮な視線が這いまわる。
巨体のモンスターは少女の白い下腹部に輝く桃色の紋章に目をやって、耳元まで大きく裂けた口を舌で舐めまわす。
ホブゴブリンからしてみれば配下を失ったことは腹立たしい……しかし、目の前で震える極上の獲物、この艶めかしい少女を楽しむことができるのならば問題ないと考えているようだ。
澱んだ思考が情欲と興奮に霞む様子が容易に見て取れる。
力無く項垂れた獲物を見下ろすその姿からは、胸の内から湧き上がってくる得も言われぬ快楽の情動が滲み出ている。
卑劣な手段に訴えたことを恥じる心などないホブゴブリンは――しかし、その油断ゆえに右腕に走った痛みに気付けなかった。




