09 話し合い
入った喫茶店は一時間もしないうちに閉店するということもあり、人はほとんどいなかった。
隅の方に座ると、対面に樋口さんが座る。
その表情に反省の色はなく、むしろ怒っているようでもあった。
新浪は気まずそうだったが、俺が促すと隣に座る。
店員がきたところで軽く注文を済ませると、俺は口を開いた。
「単刀直入に言いますね。俺は、あなたの不倫関係を終わらせるよう依頼を受けました」
「誰からよ」
「それは言えません」
「どうせ、あの人のことが好きな社内の奴でしょ?」
「おそらく」
「えっ、そうなの?」
樋口さんの言葉に首肯すると、新浪が驚いたように声をあげた。
「本人があなたに不倫を止めるよう直接言ってないのは、そういうことでしょうね」
だが、俺はそんな新浪を無視して話を続けた。
「なにそれ? じゃあ、あなたは別の女の不倫を助けるために、私に手を引けってこと?」
「俺はお金を貰って依頼された関係を終わらせるだけです。それに、依頼人はあなたを『助けたい』と言っていました」
「馬鹿なこと言わないでくれる? 終わらせ屋に依頼しておいて私を助けたい? 寝言は寝てから言って」
「もちろん建前だと思います。あなたの言うとおり依頼人が真に望んでいることは自分が不倫相手になりたいという願望でしょうね……」
この依頼を受けたとき、川栗さんがそういう意図で依頼をしてきたことを俺は想像していた。
もちろん、それは推測の域を出ない。
だが、彼女が真に同僚である樋口さんに不倫を止めてほしいのなら……絶対に終わらせ屋なんかに頼むはずがないのだ。
確たる証拠はないが、違和感の一つ一つを繋いだ辻褄合わせをすると、やはりそう考えるのが自然だと思える。
「……おかしな子ね。私にそのカメラを突きつけて脅すつもりじゃないの?」
「もし脅すのなら男のほうに接触していますよ。彼には家庭があります。脅すには十分すぎる材料だ」
「たしかに……言われてみればそうね? じゃあ、なんで私に」
樋口さんの顔から怒気が薄れた。
俺はカメラを、目の前に置く。
「このカメラには、お察しの通り証拠が写っています。ですが、それは脅迫するためじゃありません。俺との会話をスムーズに行うため」
「どういうこと?」
「俺は見ての通りまだ学生です。話をしても相手にされないことの方が多い。だから、話をせざるを得ない状況に持ち込むためには証拠を握らなければいけなかっただけのことです」
証拠もなく話しかけたりなどしたら、彼女は逃げてしまえる。
二人でいるところに話しかけたとしても、簡単に言い逃れはできてしまう。
それをさせないために写真は必要だっただけ。
「……終わらせ屋なのよね?」
「はい。れっきとした」
「なんか思ってた印象と違うけど?」
「もう一度言いますが、依頼人はあなたを"助けたい"と言いました。俺はあなたを不幸にするために来たわけじゃありません」
樋口さんは俺をまじまじと見てから、鼻で笑う。
「もし本当に私を助けたいのなら、あの人と奥さんを別れさせて」
「それはできません」
「私を助けたいんでしょう?」
「あなたの思っている幸せは社会における幸せじゃありません」
「だったらなによ。私を助けるっていうのは、私の幸せに加担するってことでしょ?」
「違います。俺が、俺の独善であなたを助けるんです」
そう言うと、樋口さんは口を開けたまま無言になった。
「俺はあなたの幸せなんて知りません。ただ、俺から見て、このままじゃあなたは不幸にしかならないと断言できる。相手には家庭があります。そこにはまだ年端もいかない子供がいます。全てを投げ出してこれからを生きていくなんてあまりに無責任すぎる」
そう言うと、樋口さんは浅く息を吐き出した。
「仕方ないじゃない。それでも……好きなのよ」
「終わらせることは出来ない?」
「わかってるわよ。これが許されないってことぐらい。でも、本当に仕方ないの」
そうなのだろう。誰も好きで不倫や浮気なんてするわけじゃない。
好きになってしまったのだ。その気持ちに気づいてしまったのだ。
だから、終わらせることができないでいる。
「俺は終わらせ屋です。たとえどんな関係であろうと、終わらせたい関係があるのなら、それを助けることができます」
そして。
「……樋口さん。あなたが相手から物理的に離れてくれるのなら、引っ越しの費用援助や転職を提供できます」
だからこそ、終わらせ屋がいた。
「転職……?」
「あなたのキャリアや業績から、もっと稼ぎの良い職場を紹介できます。引っ越し費用も値引きできる。俺たち終わらせ屋はそういう組織です」
この仕事を始めた頃、彩芽さんは言っていた。
関係を終わらせるには物理的に離すことが基本なのだ、と。
だが、それは簡単な話じゃない。
今いる場所を捨てて一からやり直すには、相当な力を要する。
だからこそ、終わらせ屋はそれを支援するのだ。
「そんなこと、本当にできるの?」
「できます。というより……やらなければならない。関係悪化で事件が起こるくらいなら、それを未然に回避することの方が大事です」
そう、これこそ警察が『終わらせ屋』を取り締まられない最大の理由。
事件が起こってから動くのが警察であり、事件の大半は関係悪化によって起こっている。
その関係を終わらして事件を未然に防いでいる俺たちを、警察は取り締まれないのだ。
「でも……」
樋口さんはうつ向いて唇を噛み締めた。
それに俺は、潮時だと判断する。
「このカメラに映っているものですが」
そう言って、俺はカメラの液晶部分を彼女に見せた。
そこには、樋口さんと男がキスをしている所がばっちり映っている。
「あなたと話ができたので、これはもう必要ありません」
その画像を俺は目の前で削除した。
彼女の目が一瞬で見開かれる。
「必要なのは樋口さんの決心です。……これを」
そして、名刺を取り出して彼女の前に置いた。
「よく考えてみてください。樋口さんはそれができる人だと信じています。あなたが好きになった彼はどうすれば幸せになれるのか……社会における答えは一つしかありません」
少しズルい言い方をした。
「本当に……思っていたのと違うのね」
樋口さんはそっと、それを手にする。
「まだ先の話ですが……もし人間関係を終わらせたくて困っている人がいたら俺を紹介してください。こっちは金さえ払ってもらえれば何でもしますので」
ニッコリと営業スマイルをすると、彼女は吹き出したように笑った。
「本当に学生?」
「学生ですが」
「なんか、胡散臭いメンタリストみたい」
「そうですか?」
「うん。それと……聖人とか」
聖人は言い過ぎだろう。
「じゃあ、もう一つ付け加えておきます。……もしこの先、人間関係で依頼人を助けたいのなら金次第で助けますよ」
樋口さんは訳が分からないというようにポカンと口を開けていたが、やがて理解したのだろう。クスクスとまた笑う。
「前言撤回。悪魔ね、やっぱり」
「他人の関係にズカズカと割り込むのが仕事なので」
「答えはノーよ。私はその人を助けたいとは思わないわ」
「……わかりました」
俺はそこで立ち上がる。通路への道を塞いでいた新浪も慌てたように立ち上がった。
「一週間待ちます。決心がついたら連絡をください。望みを言葉にしてもらえればこちらは出来る限り支援します」
「わかったわ」
「もし、終わらせる気がないのなら……その時は無視してください。俺はそれ以上踏み込むことはできません。ただ、義務があって一応警察に報告しないといけない、とだけ」
「警察に?」
「えぇ。事件に繋がる可能性がゼロとは限りませんから」
「……そう、なの」
「それだけです」
俺は彼女を残したまま喫茶店を出る。会計は全て済ませ、レシートだけ貰っておいた。
「あの……さっき最後にしてた会話ってどういう意味?」
店を出てからしばらくすると、新浪が話しかけてきた。
「なにが?」
「ほら、悪魔がどうのこうのって話」
「……あぁ、あれは『もし川栗さんと男が不倫関係になったら、金を出して助けるか?』って聞いたんだ」
もちろん、それは推測でしかないし勝手な想像でしかない。
ただ、そうなる可能性は捨てきれない。
「川栗さんは……本当にそんな思惑で黒井くんに依頼してきたのかな……」
「わからない」
「もし、樋口さんが離れても……川栗さんが不倫したら一緒じゃないのかな……」
「少なくとも、川栗さんの言った『樋口さんを助ける』というのは達成できてる」
「もし、本当にそうなったら……黒井くんはどうするの?」
「どうもしない。金は動いてない」
「……そっか」
それは彼女や彼次第だ。俺ではもう、どうにもできない。
新浪の家につくまで彼女はずっと黙ったまま何か考え事をしていた。
だから、俺から話しかけることもなかった。
そうしていつものように別れるとき。
「――なんだろう。まだ、頭の中がよく整理できてないの。だから、このまま別れるね」
「整理なんてしなくていい。それを整理したら、きっと大事な感情を捨てることになる」
「黒井くんは……そうやってきたんだね」
「俺はこの仕事をする前から捨ててるんだ」
「……そう、なんだ。でも、今日はついていって良かった。黒井くんのことを知れたし」
「俺は止めた。あそこで話した内容は、知らなくて良いことだった」
「それでも良かった」
そう言って新浪は笑う。
「あのね」
「ん?」
それから彼女は「やっぱり何でもない」と首を振る。
なんなんだ……一体。
何かを言いかけて止めた新浪は、いつものように小さく手を振った。
俺はそれに軽く手を上げて応えるだけ。
もう少し……ショックを受けると思ったんだがな。
彼女が取り乱さず、邪魔にならなかったのは意外だった。
てっきり、感情のままに口出しをしてくるかと予想していたからだ。
「慣れてきた……のか?」
口に出してみたが、なんとなくそうでは無いような気がした。
どうやら新浪については、まだまだ分からないことだらけらしい。