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08 終わらせ屋の覚悟

 新浪には一週間後まで何もしないと伝えてある。


 だが、それはあくまでも不倫現場の撮影だけで他にやることはあった。


 午後八時過ぎ。

 樋口さんがビルから出ていくのを見たあと、俺はそのままそこに居続けた。


 今回調査するのは不倫相手の男の方だからだ。


 彼がビルを出てきたのは八時半を超えてからだった。そのまま一人で駅へと向かっていく。

 俺はその後を一定の距離を保ち尾行した。


 高そうな鞄を片手に持ち、スーツの上にはこれまた高そうなコートを羽織っている。社内でも地位の高い職についていることは見ただけでわかる。


 仕事ができるのだろう。

 だが、プライベートはとても残念。


 男は電車に乗り込んで三十分ほど乗車していた。降りた駅の改札を出ると、閑静な住宅街へと歩いていく。


 そうして男がたどり着いたのは立派な一軒家だった。


 カーテンは閉まっているものの、そこに映る影が温かい家庭を想像させる。


 荒井承(あらいつぐ)秀徳(ひでのり)

 彼は五年前に結婚しており一人の娘を持っていた。仕事も順調で、出世街道を歩むいわば勝ち組である。


 何が彼を不倫などという行為に走らせるのか俺には分からない。それを知る者がどれほどいるのか分からないが、依頼人であり同僚である川栗さんが知っているくらいなのだから、もしかしたら噂くらいにはなっているのかもしれない。


 もし、その事実がこの家庭に発覚でもしたらどうなるのだろうか。想像したくなかった。


 俺はその温かな家庭をカーテン越しに観察する。


 カメラは持ってきていない。撮影する必要性がないから。


 だが、俺はそれをこの目で見ておく必要はあった。


 終わらせ屋が社会に存在しているのは、終わらせたくても終わらせられない現状がそこにあるからだ。

 終わらせたい者がいるように、終わらせたくなくて邪魔をしている者もいる。


 だから、終わらせることで不幸になる者が出てきてしまう。


 俺はそれを確認しておきたいのだ。


 自分が終わらせることで不幸になってしまう者たちを……それを止める術がなかったとしても、認知しておきたかった。


 新浪に言ったように、不倫の証拠をこの家庭に叩きつけるつもりはない。まぁ、終わらせ屋の中にはその手段をとる者もいるのだろう。


 樋口さんと男の不倫を終わらせるのに一番手っ取り早い方法は、男の家庭にその証拠を叩きつけてしまうことだからだ。

 そうやって、不倫の罰を男に与え、不倫が如何に許されざる行為であるのかを教える。

 そうやって、終わらせるのが一番手っ取り早い。


 だが、俺はその手段を取りたくなかった。


 誰も幸せになれないからだ。


 もちろん、そんなのは理想主義的な考えであることは知っている。

 不倫自体が許されないのに、誰かを幸せにしようという考えはあまりにもおこがましい。


 それでも。


 それでも……俺は考えてしまうのだ。

 俺が誰かの関係を終わらせることで、一人だけでも救いたいと考えてしまう。


 独善的な正義だと分かっていても、俺はそれを模索せずにはいられなかった。


「帰るか……」


 いつまでそうしていたのかは分からない。

 ただ、俺が確認したかったものは見れた気はした。


 気持ちは驚くほど冷めている。

 それはきっと、覚悟ができたからなのだろう。


 足取りは重い。それでも歩みを止めることはない。


 そして、思考を止めることさえない。


 考えていた。俺は終わらせ屋としてどう動くべきなのかを。







 その日は、不倫現場を撮影する日。

 俺は既にいつもの所に待機しており、その隣には新浪もいる。


「撮った写真……本当にどうするつもりなの?」


 そんな新浪は、少し警戒した様子で俺に問いかけてきた。

 視線は、俺と俺が彩芽さんから借りてきた特殊なカメラをいったり来たりしているわ、


「なぜ、そんなに写真の使用を気にする?」

「だって、別に不倫を止めさせるのに写真は必要ないよね?」

「まぁ、たしかに」

「その、樋口さんって人に直接言えば良いだけじゃないの? 不倫はダメだって……言ってあげるだけじゃダメなの?」


 それに俺は首を振った。

 彼女は根本的なことを見落としている。


「たしかに、彼女に言って不倫を止めさせることはできる。だが、それは"俺たちの役目"じゃない」

「役目?」

「彼女にそれを言って止めさせるべきなのは、同僚である依頼人のほうだ」

「川栗……さん、だっけ?」

「そうだ。樋口さんにそれを言って止めさせるべきは川栗さんだ。だが、彼女はわざわざ終わらせ屋に依頼をしてきた」


 新浪は小首を傾げる。


「たしかに……なんで川栗さんは、彼女に直接言わず黒井くんに依頼なんてしてきたのかしら……?」

「さぁな」


 俺はそれだけを答えた。


「だって、川栗さんって同僚の樋口さんを"助けたい"んでしょ? なら、まずは自分で彼女に言うべきなんじゃないの?」

「そう言ってるだろ。だから、俺たちは彼女に直接それを言うべきじゃないんだ」

「じゃあ、黒井くんは一体どうやって不倫を終わらせようとしているの?」

「それは――」


 そのとき、ビルから樋口さんと男が現れた。


「取り敢えず話は後だ。追うぞ」

「あっ、待って」


 俺と新浪は先週と同じように尾行を始めた。

 彼らは、一週間確かめられなかった愛を溢れさせるように人気のない路上でキスをし始める。


 それを、俺はカメラにおさめた。


 さすがは彩芽さんから借りてきたカメラだけあって、確認すると写真はしっかり撮れていた。

 その際、後ろから嫌悪の視線を感じたが今はそれどころじゃない。


 そして彼らは同じように、同じホテルへと入っていく。

 それを、俺たちは見送った。


「……なんか、気分悪い」

「ならここで止めておけ。これからたぶん……もっと気分が悪くなる」

「へ? 今日はここまでじゃないの?」

「いや、ホテルから出てきたあと樋口さんに接触する」


「……は?」


 新浪がすっときょんな声をあげた。


「なんで……? 直接彼女に言うの?」

「それ以外何がある?」

「だって、さっきそれはしないって言ったじゃない」

「不倫を止めさせるには直接言うしかない」

「それはそうだけど、黒井くんさっき自分で言ったんだよ?『それをすべきなのは川栗さんだ』って」

「そうだな? だが、川栗さんはそれをするつもりがないんだ。俺がしないで誰がする?」


 新浪は困惑していたが、やがて呆れたような表情をした。


「何を言ってるの?」

「分からなくて良い。それより……俺はここで帰ることをお前に薦める」

「こんな所で引き返せない」

「引き返した方が良いこともある」


 俺は間を空けて言った。


「帰った方がいい」


 だが、新浪は動かなかった。

 それに俺はため息を吐き出す。


「俺はちゃんと言ったからな? ここに残ったのはお前の選択だ。だから、何を見ても聞いても全部責任はお前にある」

「それでも知りたい」

「好奇心は猫をも殺す」

「それでも……私は知りたい」


 なぜ、新浪はこんなにも終わらせ屋について知りたいのだろうか。

 なんというか、その根底にあるのは純粋な好奇心だけではない気がした。


 だが、俺はそんな思考を振り払いホテルへと注視する。

 手に持つカメラには、しっかりと不倫の証拠が残されていた。


 これで、樋口さんが言い逃れをすることは出来ないだろう。

 これを見せつけさえすれば、不倫を認めざるを得ないだろう。


 その上で、俺は彼女に不倫を止めさせなければならない。


 彼女と男の関係を終わらせる。それこそが、終わらせ屋としての役目。


 そして、きっと終わらせ屋である俺にしかできないこともある。


 新浪は待っている間、ずっと無言だった。

 それはかえってありがたくもあった。


 だんだんと冷え込んでいく夜の街。その中で俺は、今からやろうとしていることが『果たして本当に正しいのかどうか』を、じっくり自問自答することができたからだ。


 そして。


 二時間ちょっと経ってから、ようやく二人がホテルから出てきた。

 彼らはそこで別れ、別々の帰路につく。


 俺は建物の影からでると、そのまま真っ直ぐ樋口さんへと向かう。

 新浪が遅れて付いてくる音がした。


「すいません。樋口さんですね」

「へっ!? な、なんですか?」


 声をかけた樋口さんは、ビクリと身を震わせて止まった。

 微かに安いシャンプーの香りがする。それは清潔な匂いのはずなのに、俺にとってはひどく汚れた匂いであるように感じる。


「終わらせ屋です」


 俺はそのまま彼女に名刺を差し出す。


「終わらせ……屋?」


 樋口さんは信じられないというような顔で俺を見た。


「はい。とある方の依頼であなたを調査していました」


 その調査が何なのかは言わずにおく。だが、彼女は一瞬で悟ったに違いない。


「いや、別に私はやましいことなんてなにも……」


 誰もやましいことなんて言っていない。なのに、それを口にするのは自覚があるからだ。

 俺は無言でカメラを掲げた。


「少しお話しても良いですか?」


 樋口さんはそのカメラを見て、観念したようだった。

 ガックリと項垂れるように下を向く。


 そして。


「別にいいわよ。ただ……本当に終わらせられるの? 見たところまだ子供じゃない」


 顔をあげ、敵意のある視線を俺に送ってきたのだ。


「近くの喫茶店で良いですよね」

「えぇ。まぁ、何を言われても止める気はないけど? 私たちは愛し合ってるの」


 開き直ったような態度だった。


「そこの彼女はなに?」


 そんな樋口さんが、固まったままの新浪に視線を向ける。


「助手です」

「可愛い助手だこと。仕事に恋愛感情なんて持ち込んじゃだめよ?」


 皮肉めいた言葉を投げつけてくる。

 それを俺は無視した。


「行きましょう」

「はいはい」


 そのまま俺は駅前の喫茶店へと向かう。


 俺は樋口さんの前を歩き、彼女に見えないよう深く息を吐き出した。


 さて、ここからだ。

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