06 不倫現場
その日から俺は学校と新浪家、そして件のビルとを往き来する奇妙な生活がはじまった。
それが終わるのは、樋口さんの不倫現場を抑えられた時なのだが……大抵彼女は一人でビルを出てきてそのまま駅に向かい一人で電車に乗ってしまうため、いつも失敗に終わってしまう。
その後、新浪を家まで送り届けて帰宅する流れはもはや日常のルーティンになりつつあり、その事実に時折怖くなる。
そして、それは張り込みを始めてちょうど一週間経った時のこと。
「――今日は不倫してくれるといいね」
「お前……最低なこと言ってるぞ」
「だって仕方ないじゃん。ここまで何もないとこっちがつらいよ」
「お前は来る必要ないんだがな……」
「まだ助けてもらった借り返してない」
俺が立っている隣で、壁に寄りかかりつつあんパンと牛乳を両手に愚痴っている新浪。その格好は灰色のパーカーにパンツ、靴は運動用のものと、かなり張り込みに慣れた風貌をしていた。
「黒井くんも食べる?」
「あぁ、ありがとう」
ポケットからもう一つあんパンを取り出して掲げる新浪。それを受け取ると一口食べた。……つぶあんか。あんパンを分かってるな、こいつ。
ちょうどそんな時。
樋口さんがビルから出てきたのを確認する。しかも、その隣には一週間前と同じ男が隣にいた。
どうやら不倫する日は一週間に一度と決められていたらしい。
「……きたぞ。ようやくだ」
「ふホォ!?」
あんパンをもぐもぐしていた新浪は牛乳をストローで吸い上げると無理やり流し込むと慌てて立ち上がる。
「うわぁ、本当にしてるんだ……」
彼らは仲良さげに腕を組んでおり、駅とは反対方向に向かって歩いていく。明らかにいつもの帰路とは違った。
しかも、度々立ち止まってはキスをしている。
樋口さんからせがみ、それに男が答えているといった内容。
「うわぁ、うわわぁぁ……」
その度に後ろがうるさい。
そのまま彼らは怪しげなネオンが灯る街道へと向かい、そのまま近くのラブホテルへと入っていってしまう。
それはほぼ『黒』と言って間違いない光景だった。
「あのさ……もしかして入るの?」
ラブホテルの位置と名前を覚えていると、後ろからツンツンとコートの端を引っ張られ、振り返れば顔を真っ赤にした新浪。
「今日はやめておこう。現場を写真で抑えるには専用のカメラがいる」
そういった高機能のカメラは値段が高く、俺は持っていない。だが、彩芽さんの事務所には置いてあるはずだ。
「現場って……その、やってる最中?」
「いや、キスだけで十分だろう。おそらく来週も同じ日にするはずだ。だから、明日からは来る必要ないな」
彼女がホッと息を吐いた。さすがの俺でもラブホには入れない。
「じゃあ、今日はここまでか。……次は来週ってことだよね?」
「……」
「……黒井くん?」
「あぁ、そうだな」
危なかった。危うく「男の方も調べる」と言ってしまうところだった。
だが、新浪には男の方をストーキングするのはキツいだろう。なにせ、不倫していることを知りながら、彼の家庭を垣間見なければならないのだから。
それは、彼女には見せてはいけない気がした。
「じゃあ……帰ろっか」
「あぁ」
そうして、きた道を戻っていた時だった。
「君たち、少し良いかな?」
後ろから話しかけられ、振り返ると警官がいた。
その表情は笑顔ではあるものの、明らかに俺と新浪を補導しようという雰囲気を感じる。
「あの……えと」
「終わらせ屋です。不倫調査で張り込みをしてました」
戸惑う新浪を押し退け、俺は名刺を取り出す。
「……君が?」
「はい。照会してもらって構いませんよ」
警官は怪訝そうに名刺を受け取ると、無線で何かやり取りを始めた。
それを俺は堂々と待つ。
終わらせ屋は闇の職業とされてはいるが、人間関係を円滑に終わらせることは人の命を救うことにも繋がる。
だから、人からの聞こえが悪く表立って活動できないだけで、決して認められていない仕事ではない。
問題は新浪の方だった。
彼女は未成年であり、俺のように特例が働くわけでもない。
たとえ終わらせ屋といえど、夜中に未成年を連れ回して許されるほど世の中は甘くない。
「……驚いた。君、その歳で終わらせ屋の助手をしているのか」
無線機での通話を終えた警官が名刺を丁寧に返してきた。
それを受け取りながら、俺は苦笑いをする。
「本当はこんな時間まで助手をしてはいけないんですが……先生が別の調査で出払っているので仕方なく」
「……たとえ仕事でも、その辺は守ってもらわないと困るよ?」
「すいません。そう先生にも伝えておきます。それと彼女なんですが――」
俺は先日の喧嘩騒動から、しっかりと"言い訳"を考えてきていた。
「――その不倫している人の娘さんで、今回の依頼人でもあるんですよ」
もし世の中が甘くないというのなら、人が甘やかしたくなる理由を作ればいい。
不憫を演じ、同情を誘い、優しさを引き出してしまえばいいのだ。
「そう……なのか」
案の定、警官はそういった視線を新浪に送る。
「あの……止めてもらえますか。私はそんなことで可哀想なんて思われたくないです」
そしたら、新浪が警官を睨み返したのだ。
「……すっ、すまない」
警官はたじろいだ。
なんの打ち合わせもしていなかったが、新浪は察してくれたのだろう。
そこには演技とは思えない迫真さがあった。
「あの、今日の調査は終わったのでこれから戻ります」
「そ……そうか。寄り道せずに帰りなさい」
「はい」
彼はそう言い、逃げるように離れていく。
新浪がその間も警官を睨み付けていたからだ。
「よく咄嗟にそんな演技できたな」
警官がいなくなった後で新浪を褒めると、彼女は長いため息を吐き出してから。
「……やるでしょ? わたし」
そう笑顔を溢した。
そこには怒りの形相など微塵もなく、完璧な笑みがあったのだが……俺は何となく、その完璧さが逆に不気味なようにも思えた。
何故なら……この一週間、新浪と過ごして思ったことは『彼女は感情に嘘をつくのが下手』というものだったからだ。
「帰るか」
「うん」
しかし、その違和感はすぐに頭から消え去り、危険を掻い潜れたという安堵感に満たされる。
「というか、黒井くんが終わらせ屋だって初めて実感した」
「俺も忘れかけてたな」
会話をしているせいもあったのかもしれない。
それよりもやらなきゃいけない事で頭が一杯だったからかもしれない。
だから……俺は新浪の色んなことについて、知らないまま日々を過ごしてしまっていた。