10 川栗さんの本性
樋口さんから連絡がきたのは期日である一週間後だった。
連絡を取り、彩芽さんの事務所へ案内すると話はサクサクと進んだ。
そこら辺の仕事について俺はまだ教えられていない。
ただ、樋口さんが今いる会社と連絡をとり、彼女の業績に関する資料や様々な情報を受け取ったあと、転職に関する機関とやり取りをして新しい職場を見つける……という流れは把握している。
そういった仕事には必ず機密情報が絡んでくるため、俺は手出しできないのだ。
「――ありがとうございました」
樋口さんの新天地が決まったのは、その三日後のこと。
新しい職場は彼女が今している仕事とほぼ同じであるうえに、一部上場をしている企業であるため給料も悪くないらしい。
そうして、樋口さんは近いうちに今いる会社を退職することになった。
最後、事務所に訪れた樋口さんはお礼を言って出ていった。
その表情は疲れていたものの、目にはしっかりとした光が宿っていたように思う。
そう。誰も好んで不倫や浮気をするわけじゃない。
心のどこかには罪悪感があって、気づかぬふりをしてもそれは重く心にのし掛かっている。
それを手離すチャンスを誰もが望んでいる。
ただ、それができなくて多くが悩んでしまっている。
ありがとうございました。その言葉を聞いても、俺は果たして本当に良かったのだろうか? と思ってしまう。
それはきっと、不倫相手だった男の家庭を目にしたからだろう。
だが、それで良いのだとも思う。
誰かの関係を引き裂いて善人面できるような者は……きっとこの仕事には向いていない。
「上手くやれたようだね。さすが私が見込んだだけはある」
樋口さんが出ていったあと、彩芽さんは俺にそう言ってコーヒーをすする。人前に出たからだろう。見慣れない綺麗なスーツを着ていた。
「ちなみになんですが、引っ越しって今回も手伝う感じですか?」
手を上げて質問してみると、彩芽さんは「何を言ってるんだ?」というような顔をした。
「当たり前だろう。引っ越しの値引きは大変なんだ。人員をこちらで補充するくらいはしなければいけない」
「はぁ……結構重労働なんですよね、あれ」
「筋トレだと思えばいい。終わらせ屋なんていつ襲われてもおかしくない仕事だからね。日々鍛える手間が省けたようなものだ」
「じゃあ、彩芽さんも参加するんですか?」
「いたいけな女性が参加するわけないだろう。何を言っているんだ君は」
そう言ってコーヒーを再びすする彩芽さん。
ほんと、何を言ってるんだこの人。自分が言ってることの矛盾に気づいてほしい。
引っ越しというのは、樋口さんが頼んだ業者の手伝いをするということである。俺は度々そういった事に駆り出されているため、今回が初めてではなかった。
「それよりも、彼女はどうした?」
「誰ですか……?」
「とぼけるな。終わらせ屋がバレてしまった子のことだ」
「あぁ」
あの日から新浪とはほとんど会話をしていない。
学校でのやり取りはほぼ無かったのだから当たり前なのだが、LINEには『全部終わったら詳細を教えて』とだけあった。
「特には何も。もともと終わらせ屋に興味があっただけですからね。満足したのかもしれません」
「ふぅむ。なら良かったじゃないか」
「まぁ、そうですね」
彩芽さんはそう言ってコトリとマグカップを置いた。
「私が君の親に挨拶をしなくてもよくなったわけだ」
「挨拶?」
「言っただろう? 学校にバレたら転校すれば良いと。その時は私が間に入らなければならないからね」
「そういうことですか……」
「今、何か期待したかね?」
「……まさか」
「しても良いんだよ?」
妖艶に彩芽さんは笑った。
その笑顔は、からかっている時の表情だと分かっていたから冷静でいられる。
「こんな学生たぶらかしてないで、早く彼氏の一人でもつくってください」
「頑張ってはいるんだ。ただ、職業柄なかなか難しくてね?」
それには何も言えなかった。
俺がそうであったように、彩芽さんも仕事を通じ、これまで散々人の醜い部分を見てきたはずだ。
そんな人が、そうそう恋人などつくれるはずがない。
それに、世間的にも終わらせ屋を恋人にしたい人など少数派だろう。
「取り合えず依頼人には報告はしたまえ。まぁ、彼女が退職することは知れるだろうし向こうから連絡がきても良さそうなものだが」
「連絡しておきます」
「うむ。あとで報告するように」
依頼人である川栗さんに連絡を取ると、すぐに会う約束ができた。
場所は最初に会った喫茶店。
ただ、新浪のような事例があるため、今度はかなり用心をした。
「――彼女が退職する噂を聞きました」
彼女は、開口一番にそう言った。
「はい。全てこちらで済ませました」
「本当に何事もなく終わらせるんですね」
「それが仕事なので」
「驚きました。ありがとうございます」
川栗さんはそう言って頭を下げてきた。
それから、事務的な話に移ろうとした俺だったが。
「あの……部長はどうなりましたか?」
部長と言われ一瞬考えてしまう。
それから、不倫相手の男だったことを思い出した。
「相手側には何も。彼女が伝えない限り、このことは知られないでしょう」
まぁ、別れる決心がついた樋口さんがわざわざ事の詳細を男に教えるとは考えにくい。何も言わずに去るのが普通だろう。
「ちなみに……部長の奥さんもこの事は?」
「知りません」
「そう、ですか」
そこには、なんとなく残念がるような感情が垣間見えた気がした。
「なにか?」
「あっ、いえ。……てっきり、不倫現場の証拠を奥さんに見せたりしたのかな、なんて思っていたので」
取り繕うような笑顔。そこから吐き出されたのは、あまりにも非道な手段。
「そうやって欲しかったですか?」
「……まさか。穏便に済んで良かったですよ?」
その笑顔は完璧で、もはや感情を窺い知ることはできない。
だからこそ、それは俺をイラつかせた。
「良かったですね。邪魔者がいなくなって」
そう言った瞬間、川栗さんは目を見開き……やがて細める。
「なんのことですか?」
「いえ、何も。こちらはお金さえ払って頂ければ何も問題ないので」
「そうですか? なにか問題発言が聞こえた気がしましたが」
「勝手な独り言です。無視して頂けるとありがたい」
「そうですか」
既に声音も作られたようにハキハキとしていた。
「ちなみにですが、結婚されてる人でも関係を終わらせる事ってできます?」
そして、その声音のまま彼女はそう質問してきたのだ。
俺はなんと答えようか迷ったものの、正直に白状することにした。
「できますよ。そういった依頼がないわけじゃありません。ただ……その殆どは著名人であったり、お金を余らせてる富豪たちですね。娘を離婚させて欲しい、なんてのはこの界隈ザラにあります」
「さぞかし、お高いんでしょうねぇ」
「えぇ。故意に離婚させるのは裁判も関わってきたりしますからね」
「金額を聞いても?」
「最低でも一千万は」
「なるほど」
そして数秒の間があったあと。
「勉強になりました」
川栗さんはそう言った。
思わず安堵の息を洩らしてしまう。もし「依頼したい」などと言われたらどうしていいか分からなかった。
「今回はありがとうございました」
「いえ……。こちらこそご利用ありがとうございます」
その後、事務的な話を終えようやく全てが終わる。
「それと、これは私の勝手な独り言なんですが――」
そして最後、川栗さんは笑顔のまま俺に言ったのだ。
「今後、そちらを利用することはないです。私が満足するような結果ではなかったので。もし今後も商売を続けたいのならご参考までにどうぞ。顧客の満足度を考えることも大切なことですよ」
さすがに笑ってしまった。
「貴重な意見として承ります」
そう返して頭を下げる。
川栗さんは最後まで笑顔のままだった。
彼女のような人はたまに見かける。そもそも、他人の関係を終わらせて欲しいなどと依頼してくる人たちの多くがそういった人だ。
そして、その度に俺は恐怖した。
人間のおぞましさに。浅ましく醜い正体に。その……強欲さに。
それは、彩芽さんが彼氏をつくれないのも納得できてしまうほどに。




