幸せは、いつも
願ったのは、たった一度だけ。
けれど、それがいけなかったのだろうか。
どうやら神様は、張り切ってしまったらしい。
願いは、私の想像を超えて、叶っていた。
もし、一番初めの、願う前の自分に出会えたのなら、こう言いたい。
――願うのはやめなさい。
地獄を味わうことになる。
とはいえ、きっと、私は何度でも同じことを願うのだろう。
――それほど大切な、恋だったのだから。
◇ ◇ ◇
レイパスレザル聖国には、聖女、と呼ばれる存在がいる。
七年に一度代替わりする聖女は、託宣の儀式により選ばれるが、若い少女の時もあれば、孫もいるような女性だったりする。
まさに貴賤問わずだが、必ず聖国民の女性であった。
聖女、と奉られるからには何かしらありそうだが、厳しい戒律もなく、ただの栄誉な役職、程度だ。
政治には不可侵であるし、お言葉が云々もない。
ただし存在しているだけで世界が平和な証、とされているため、身辺警護は非常に厳重だ。
実際、任期を終えるまでに死んだ聖女がいたが、七年の決まりは変わらず、残りの年月は不作不況等々、不遇の時代だったらしい。
さて、当代の聖女は、平民――孤児だった。
名を、シンシア・デイル。ちょうど今年で任期満了の年を迎える、19歳である。
彼女は六年前、史上最年少に次ぐ13歳で聖女に選ばれた。
色こそありふれた茶髪だが、ふんわりとしたストレート。
瞳は深みのある青で、肌は白磁器のよう。
ふっくらとした可愛らしい唇は潤んだピンクで、肢体は出自の影響か肉付きはよろしくないものの、華奢で庇護欲をそそった。
ようは美少女であるが、控えめであり、微笑を称えて話に耳を傾ける姿はまさしく聖女と、専らの評判だ。
そんな彼女を世間は好意的に思っており、任期満了をめでたく思いつつも惜しんでいる。
そんな彼女には、秘密があった。
実は、この聖女の任期の期間を、すでに両手では賄えないほどに繰り返している、と。
「本当、なんであんなことを願ってしまったのかしら…」
そっとため息をつく。
いや、理由は嫌というほど知っていた。
「なんだ、何か願い事をしたのか?」
「…昔の話よ」
お前が元凶だ、と喉元まで出掛かり、寸でで呑み込む。
私の斜め前のソファで足を組み、まるで自室と言わんばかりに寛いでいる男。
聖女を守る専従騎士団の団長である、フェリクス・エブナー。
31歳の独身。光の加減で蒼くも見える銀髪に、澄んだ明るい空色の瞳。貴公子と言うよりは歴戦の猛者と言った風貌で、言葉遣いもやや砕けている。
けれど面倒見が良い兄貴肌だからか、その砕けた口調もいっそ魅力で、特定の相手が居ないのは聖女のお守りのせいだと皮肉られる始末。
護衛としての実力は非常に高く、こうして怠慢に見える姿を晒しても、一瞬後、私へ凶刃が迫れば防ぐほどの警戒心や俊敏性は持っていた。
そのことに疑いがないからこそ、私は彼へ苦言を呈したことはない。
『はじめまして、小さな聖女さま。私はフェリクス・エブナー。これから先、貴女のことをこの身に代えても、お護りします』
にっこりと笑った彼は、当時栄養不足が祟りかなり小柄だった私のために片膝をつき、手を差し出した。
騎士然とした――いや、まぁ、実際にはまさしく騎士なのだけれども、格好良いお兄さんに、私は一目惚れをしたのだ。
年齢が一回り離れていることから、まるで兄妹のようだったが、それでも、初恋で、本気だった。
別に、恋愛を禁じられているわけではない。
聖女だから結婚できないわけでもなく、歴代の中には任期中に結婚出産した場合もある。
拙いながらもアピールはしていた。
あからさまな時は流石に彼も流すことは出来なかったのか、困った顔で「そんなこと言うもんじゃない」と窘められていたけれど。
少なくとも周囲は、あたたかく見守ってくれていたように思う。
当の本人には、相手にされていなかった。
それでも、諦められなかったのだ。
そして、次代の聖女への引き継ぎも終わり、任期満了の三日前の夜。
私は、狂った騎士に殺されそうになった。
後に「団長に奪われるくらいなら、殺して自分も死のうと思った」と供述したと伝え聞いたが。
どうでも良かった。
だって、彼が。
フェリクスが、私を庇って殺されたのだから。
怯えて動けなかった私を剣から庇って、それでも取り押さえた。
昏倒させてから紐で縛り上げた後、そのまま倒れたのだ。
それを見て、私は弾かれたように駆け寄った。
フェリクス、と泣き叫び、あらん限りの声で人を呼ぶ。
あっという間に絨毯を血で染めながら、縋り付く私の頬を撫でて、彼は笑った。
「良かった、無事…だな」
人が来ない。
つまり、護衛騎士が守護していないのは、一重にあの犯人が何かしら仕掛けたからだろう。
彼が胸ポケットから小さな棒を取り出す。
その端を口に銜え、吹いた。
掠れた、空気の抜けたような音しか感じなかったが、それでも遠くから何人もの駆ける足音が聞こえてくるのが分かる。
「フェリクス、フェリクス…っ」
「泣く、な…かわいい、かお、だい…し…」
「ッ、」
声がところどころ伴わない。
彼の命がこぼれ落ちていくのが如実に感じられて、息すら出来ない。
重い上半身を、血も厭わずに強く抱きしめた。
「しあわ、せに…、…お…の、…さ、」
その囁きに顔を上げる。
これ以上なく開かれた視界いっぱいに、満足げに微笑んだ彼の顔から力が抜ける瞬間が映し出された。
「団長、聖女様!!」
やっと部屋に到着したらしい騎士たちが、部屋に突入するなり絶句する。
何か言われたが、分からない。
ただひたすらに、フェリクスに抱きついていた。
引き剥がされそうになれば猛然と暴れ、とにかく縋っていないと自我が保てないと本能で悟っていた。
三日間。
魔法で腐敗を遅らせてもらいながら、ずっと抱きついていた。
眠っているだけのような彼は、すでに冷たい。
まるで添い寝するように横になりながら、それでも離れるという選択肢は存在しなかった。
「ずるいよ…フェリクス」
世代交代の儀式は、新しい聖女がいれば良い。
先代となる聖女はすでに、用済みになる。
その時を、待っていた。
――幸せになれ。小さな、俺の聖女さま。
「なれるわけ、ないじゃない」
ずるい。
最後の最後で、あんなことを言うなんて。
専従騎士団は聖女のための騎士団だ。
たった一人の聖女に仕えるもよし、聖女の女性たちに仕えるもよし。
本人の希望が優先される。
フェリクスが前者だったらしいことは、後に新聖女と共に団長が挨拶に来た時に、引き継ぎが終わっていたことを明かされたから知っている。
「神様。叶うのならば、どうか――」
やり直す機会をください。
今度こそ、フェリクスと生きるために。
なんて。
叶うわけないのに。
そう自嘲して、襲ってきた眠気に逆らわず、目を伏せる。
先ほど、眠るように死ねるという毒を飲んだ。
自分の血で、せっかく清められた彼や服を汚すのは忍びなかったし、何より、綺麗なまま死にたかった。
すぐに後を追わなかったのは、一重に、残りの三日間は私が聖女だからだ。
たかが三日、されど三日。
天変地異が起こらないとも限らない。
その原因としてフェリクスが挙げられてしまうのは、私自身が許せなかったから。
そして私は瞬いて、目の前の光景に愕然とした。
「はじめまして、小さな聖女さま。私はフェリクス・エブナー。これから先、貴女のことをこの身に代えても、お護りします」
片膝をついて、目の前で微笑む男。
私の知るフェリクスよりも随分若く、そして、懐かしい言葉と姿だった。
「フェリクス…っ!!」
「おっと、」
途端溢れた涙のままに、彼に飛び付いた。
なんなく彼に受け止めてもらえた私の体も、うんと小さい。
突然名を呼んで抱きついたのだ、このフェリクスにとっては初対面の子供で戸惑ったろうに、そんな様子はおくびにも出さずに優しくあやしてくれた。
そして私は、悟ったのだ。
神様が、やり直す機会をくださったのだと。
けれど。
それが地獄の入り口だとは、この時の私は知らなかった。
ただ、この奇跡に、感謝していたのだ。
ふ、と息をつく。
この七年を繰り返す内に、心は大分擦り減っていた。
フェリクスは、いつも死んだ。
私を庇ってだったり、事故にあったり、病気にかかったり。
ちょうど七年目の間に、何かしらの死因で。
初めの頃は、頑張っていた。
体を鍛えたこともあったし、フェリクスを団長から外したこともあった。
もちろん、彼に話したこともある。けれど「気を付ける」の言葉のみで、本気にはしていなかったのだろう。結局死んでしまって、言ったのはその一回きりだ。
誘惑したこともあったが、いつの彼も、頑なに私の想いに応えてくれたことはない。
必ず彼は死ぬ。
ならば彼の死に折り合いをつけて、私が生きようとしたらどうなるのだろう?
そう思って、任期満了の日付が変わるのを待ったことがある。
しかし、日付が変わった瞬間。
気が付けば、13歳に戻っていた。
そこでやっと私は気付いた。
――フェリクスと生きたい。
そう願ったからだ、と。
(本当に、なんでそう願ってしまったの…)
こうなると分かっていたら、もっと言葉を変えて願っていただろう。
こんな地獄のような巻き戻しは望んでいない。
「…何があった?」
「え?」
「サイラス殿下のことか?」
的外れもいいところだ。
しかし、私の想いに気付いているくせに、他の男の話をするとは。
思わずじとりと睨む。
「…ひどい人」
「は?」
「なんでもないわ」
サイラス・ラ・フェドガラスト。
ここレイパスレザル聖国の第三王子殿下で、私に求婚している人だ。
年齢は18歳と一つ年下だが、物腰や性格は落ち着いていて、時折年下ということを忘れてしまう。
金髪碧眼のまさしく物語から出てきたかのような王子だが、彼には重大な隠し事があった。
彼は、閨事が出来ないという欠陥がある。
私はこの狂いそうな時の中で、それでも何度だってフェリクスに恋をした。
いっそ愚かだと思うし、ここ何回かでは、これはもはや恋ではなく執着なのではと首を傾げているが。
それでも、彼の言動や行動で一喜一憂し、胸を高鳴らせている間は恋だと思っている。
もちろん私は彼への恋情を隠していない。
だからこそ、報われていないことも周囲は知っていた。
そんな中で、サイラスは取引を持ちかけてきた。
自身の都合も晒した上で、結婚してほしいと。
身分的には、第三とはいえ王子と、孤児だ。
普通なら有り得ない。
けれど、私は聖女だった。自分で言うのもなんだが、国民からの人気は高いと自覚はしている。
なにより、平民の聖女と王子の結婚は、前例がないわけではないのだ。
それもいいかな、と思った。
けれど大前提として、フェリクスが生きなければ意味がない。
この魔の一年で、フェリクスを生かさなければ意味がないのだ。
だから、荒唐無稽なこの話をした。
思えば、かつてのフェリクス以外でこの話をしたのは、気の遠くなるような中でサイラスが初めてだ。
彼はしばらく思案した後、こう言った。
「もし、申し出を受けてくれるのなら、私の婚約者の護衛と称して、騎士を増やそう。団長も、守れるように」
ホッとした。
信じてくれたこと。
なにより病はともかく、それ以外での死因については回避ができそうだ、と。
――けれど私は、まだ返事を保留にしている。
どうにも出来ない恋心が、拒んでいた。
そもそも、彼に面と向かって拒絶されたわけではない。
もちろん断られたら、死にたくなるほど落ち込むだろうが。
はぁ、と肩を落として、またため息をついていたと自覚した。
今度は彼がじとりとした目を向けてくる。
「…俺には話せない、か?」
「あら、そう思うだけの理由に心当たりでもあるのかしら」
「シンシア」
咎めるように名を呼ばれる。
たったそれだけのことで、心は痛んだ。
その痛みを無視して、ティーカップを両手で持つ。
香りを嗅ぎながら、一口含んだ。
その時。
今度は彼が、はぁ、と溜息をついた。
自分でも分かるほど、肩が跳ねる。
「…もう、いい」
「!」
バッと勢いよく彼を見た。
失望、あるいは諦めのような眼差しが、私を見据えている。
心臓が軋み、嫌な汗がじんわりと浮かんだ。
これまで繰り返した中で、ただの一度も。
こんな風に、彼が諦念を滲ませて私を見たことはなかった。
――これでいいじゃないか。
これで、心置きなくサイラスの求婚を受け入れられる。
そう囁く声がする。
ああ、でも。でも!
「――!」
フェリクスが、ハッと息を呑んだ音がする。
(私…まだ、こんなに泣けたのね)
大泣きしたのは、初めて彼が死んだ時と、初めて彼に再会した時だけだ。
最近では大泣きどころか、滅多なことでは泣けなくなってしまったのに。
それくらい、衝撃だったのだ。
「だ、って…貴方は…」
「……」
「フェリクスは、いつも、私を信じないじゃない…!」
そう。
サイラスは――あまり交流のなかった彼は、疑うことなく信じたのに。
いつもそばに居て、見守ってくれているフェリクスは。
繰り返している話も、恋心すら、信じない。
「シンシア…、」
「いつも貴方は、私の言葉を信じない! 本気で、私の言葉を考えてくれたことなんて、ない癖に…っ!」
結局、そういうことなのだ。
この七年のはじまりの言葉はいつも同じだが、終わりの言葉はいつも違う。
私の心の中でいつだって輝いて見えるのは、結局のところ一番最初の――私を地獄へと進ませたフェリクスだ。
最初に愛した彼は、最後の最後、私に、返事をくれたのだと思っている。
置いて逝ってしまう後悔を滲ませて、それでも真摯に、私の想いへの返事をくれたと、そう思っている。
『幸せになれ。小さな、俺の聖女さま』
あの時だけだ。
数えるのをやめてしまった中で、その一回の言葉を支えに私は今まで繰り返してきた。
謝られることはあった。
幸せを願われたこともある。
それでも、独占欲や恋情を示唆するような遺言は、あの最初の一度きりだった。
(でも、もう、無理よ。フェリクス)
目を見開いて絶句している彼を真正面から見据える。
しゃくりあげながら、私は、自分の中の希望や期待が――心の支えが、崩れていく音を聞いていた。
もういやだ。
愛する人が死ぬのを見るのは、もう、いやなのだ。
これ以上は狂ってしまう。
次はきっと、恋ではなく執着になる。
縋れるよすがを失くした心は、もう愛情を抱けない。
「貴方の命と引き換えに生きるなんて、そんなこと、私は望んでない」
「……」
「どうして、貴方はいつも、私のために生きようとしてくれないの…?」
「シ、ンシア…、何を言って…?」
「もういっそ、貴方が私を殺してよ…!」
私が先に死んだことはない。
いつも任期を満了してから、後を追っていた。
それは最早、僅かに残された私の聖女としての意地だった。
神様。神様。
こんな地獄、私は望んでいません。
どうか、私に慈悲をお与えください。
何度願っただろう。
それでも、それが叶ったことはない。
「シシィ!」
「…ッ、」
懐かしい呼び方に、大きく目を見開く。
途端、彼の腕の中に囚われた。
私の横に片膝を乗り上げ、上から覆い隠すように抱きしめられている。
あたたかい腕。
けれど丁度頭の位置にある彼の心臓は激しく脈打っていて、痛いくらい力を込められた腕は、震えていた。
「フェ、」
「ごめん…ごめんな、シシィ」
深い悔恨と、涙の滲む声。
けれど、先ほどまでの戸惑った様子はなく、ただ、絶望に満ちていた。
突然の変貌に、むしろ私のほうが戸惑っているだろう。
驚いて、涙も止まってしまった。
「俺は…俺は、なんてことを…、」
「フェリクス…?」
「俺の、せいだな。俺が君を地獄に引きずりこんだ」
息が止まる。
「シシィの幸せを願っていたのは本当だ。でも、それと同時に、俺は逆のことも考えていた」
徐々に腕の震えが治まってゆく。
突然の告白に、何も口を挟めない。
「本当は、俺が、幸せにしたかったのに…! こうなる前に戻れたら――死を自覚する度にそう思い、思って俺は思い出す。俺はいつもいつも遅い。君を置いて逝くことが決まってから、思い出す」
「フェ、リクス…?」
「だから絶対に、君を縛るような言葉を遺してはいけないと思っていた。だが、思いもしなかったよ…君は、いつも、覚えていたのか…?」
呆然とした。
唇が戦慄く。
緊張と、不安と、恐怖と。
僅かな期待を込めて、問いかけた。
「ねぇ、私、ずっとずっと、待ってるのよ…? 何度も、何度も頑張れたのは、フェリクスが、最初にくれた想いがあったからなの…その言葉を、死ぬ前じゃなくて聞きたくて、ずっと待ってるの。…覚えてる?」
彼と同じように、私の胸も大きく早鐘を打っている。
ふー、と長く息を吐く音。
「…俺が覚えている中で、最初の君への言葉がある。それが君の支えの言葉であったのか、自信はない」
「……」
「ただ、その言葉は。今までの中で、最も純粋に君のことを考えていた言葉だ」
そっと抱擁が解かれる。
見上げる前に、頬に彼の手が触れた。
優しくあやすようなそれに、いつかの光景が蘇る。
恐る恐る見上げれば、あたたかな、笑み。
「――幸せになれ。小さな、俺の聖女さま」
止まっていた涙が、次々と溢れて止まらない。
ああ。
きっと私は、今この瞬間のために地獄の中を彷徨っていた。
「泣くな、シシィ。シンシア」
その首に両腕を伸ばして、抱きついた。
しっかりと抱きしめ返してくれて、頭や背中を撫でられる。
「、フェリクス…っ、」
「ああ。シンシア。ごめんな…ごめん。いっぱい、頑張ったな」
「…っ、もう、私より先に、死なないで…!」
彼の手が止まる。
またゆっくりと撫でだして、彼の静かな声が耳元で囁いた。
「約束は、できない」
「、」
「でも、少なくともこの一年は、死なないと誓う。何が起こっても――たとえ恥を晒すことになっても、罪を犯してでも。君のために。君をこの地獄から解放するために、なんとしてでも生き足掻く」
確固たる意志の宿った断言。
生きる。
生き抜いてやる。
彼からのその言葉が、ずっとずっと、欲しかった。
けれど。
「…でも、君が俺に付き合う必要はない。もう、いいんだよ」
「――は?」
また、一気に涙が引っ込む。
思ったよりも低い、冷たい声が出てしまった。
そっと身を離せば、私の怒りが伝わったのだろう。
フェリクスは不思議そうに首を傾げた。
「だから、シンシア、」
「一つ、聞くけれど」
二度も聞きたくなくて、彼の言葉を遮る。
怒りが滲むのは、不可抗力だ。
流石に彼も、「これはなにかまずい」と思ったのか、素直に口を閉じた。
「もしかして、まだ、信じてないの」
「……」
「私、必死にこんな地獄に耐えていたのは、貴方の最初の言葉があったからって、言ったわよね?」
「……」
「言ったわよね?」
「はい」
先ほどの感動も。
想いが通じたと思ったのに。
「私が、貴方を愛してるって。まだ信じてくれないの」
「…それは、」
「言っておくけれど。私、聖女の役を降りた日から後の生活、送ったことないのよ」
彼が目を丸くした。
それを見て、ようやく気付く。
この地獄は予想外でも、最初にやり直しを望んだのは、私も一緒なのだ、ということや。
後を追い続けていたことも含めて、彼は知らないのだ。
それも、当然だ。
彼は、死んでいたのだから。
「だって。最初からしばらくは、聖女の役目を終えたその日に、私も後を追って死んでいたのだもの」
「――ッ!?」
「本当はすぐに後を追いたかった。でも、残りが数日でも当代の聖女が死ねば、天変地異が起こらないとも限らないでしょう? 貴方が原因だなんて、誰にも言わせたくなかったから」
「シンシア、」
「貴方のいない世界なんて、なんの価値も魅力もない。いつか傷が癒えて幸せに? 冗談じゃないわ。私には、貴方のいない世界で生きるより、死んで天国にいる貴方を探しにいくほうがよほど有意義なの」
彼がキュッと唇を引き結んだのを見て、自嘲した。
(フェリクスが怒るのは、分かっていたことよ)
彼はそういう人だ。
他人のために自分の命を投げ出せるくせに、他人が自分のために命を投げ出すのを良しとしない。
ふざけるな、と言いたい。
「さっき、言っていたわね。俺が幸せにしたかったって。私も同じ気持ちよ。貴方に、フェリクスにこそ幸せにしてもらいたかった」
そっと両手を持ち上げて、彼の頬を包み込む。
冷たくない。あたたかい。
生きている証だ。
そう、まだ、生きている。
フェリクスは、まだ、生きている。
「あったかい」
眩しげに目を細めて、つい小さく呟いた。
引き結ばれた唇は変わらず、けれど彼の瞳が傷付いたように揺れる。
「ねぇ。フェリクス。貴方は私の愛を、それでもまだ疑うの?」
ゆるゆると目を閉じた彼。
ため息のような長い息を吐きながら、そっと頬の両手を外される。
手を握ったまま下ろされて、その額を私の肩へと寄せた。
「…俺は、一回りも年上だ」
「ええ、知っているわ」
「君を地獄に閉じ込めた」
「だからそれは、そもそも私も望んだことだって言ったでしょう」
「サイラス殿下が、」
「あの人は、私が貴方を愛していると知っているからこそ、私に求婚してきたのよ?」
「…は?」
低い、苛立ちを含んだ声を上げ、顔を持ち上げる。
至近距離で目が合うが、照れるような心の余裕はなかった。
不機嫌なそれの理由を考えて、少しだけ甘い期待に胸が疼く。
未だ握られた両手に、ほんの少し彼が力を込めた。
「どういうことだ?」
「あの人にもどうしようもない事情があって、契約を望んでいるの。白い結婚のね。だからあの人にとって、私は好都合だった。それだけよ」
「……」
「それに、そもそも、貴方に嫉妬する権利があると思っているの?」
何か言いかけたが、ピシャリと言えば言葉を飲み込んだようだ。
さすがに、まだ私の怒りが解けているとは思わなかったらしい。
そのまま無言で時が経ち、やがて。
「シンシア」
「なぁに」
「俺は、その権利が欲しい」
無言で見つめ返す。
我ながら冷ややかな眼差しだと思うが、それでも彼の瞳は揺らがない。
「俺は、シンシアが思うほど器用じゃないんだ」
君は、俺を美化するきらいがある、と続けて言いながら苦笑をする彼。
「今の立場は君が護衛の対象で、俺はその護衛たちの長だ。それがもし、恋人になったら。俺以外の誰にも君の警護をして欲しくないし、気の緩む時が必ず来る」
そういう時にこそ、災いは降りかかりやすいのだと。
フェリクスは、静かに続ける。
「ずっと俺は、本能的に君を拒絶していた。愛称を呼ぶことも、君の気持ちに応えることもしてはならないと。そして最期、すべてを思い出した時に、安堵するんだ。――ああ、こうなるから、最初の俺が心に戒めを残していたのか、と」
ふ、と吐息をこぼす。
懐かしむように、彼は目を細めた。
「正直、君の純粋な好意は嬉しく思っていた。だが、それは憧憬とどう区別する? 君の出自や生活も、知っている。だからこそ最初に無条件で優しくした相手に恋をしたと勘違いした、将来君がそう思わない保証はどこにもない。そう思っていた」
「、でもそれは」
「今は分かっている。俺のほうが勘違いをしていたと、ようやく解ったよ」
片手を離したフェリクスは、髪を梳くように撫でてきた。
そのままそっと髪を耳に掛けられ、つい頬が染まる。
こんな甘やかな触れ合いは、したことがなかった。
「今だから言う。一番最初、俺はシンシアの好意を、受け入れようとしていた」
「!」
「聖女の役を降りれば、年齢差以外の俺の歯止めは関係なくなる。だからその時に、俺はシンシアに求婚をしようと思っていたんだ」
その様子だと、皆黙っていたようだが。
驚きに目を見開いた私を見て、おかしそうに彼は笑っていた。
「聖女の役職は、誉れだ。名ばかりとはいえ、その存在が世界平和をもたらす。当代にしか力はないが、世界平和に貢献した事実はなくならない。手に入れようと画策する者らは多い…君は、知らなかったようだが」
「だ、って、私には貴方しか見えていないもの…」
「知ってる」
ふ、と自嘲のような吐息をこぼす。
そう、ずっと知っていた。
そんな呟きを、聞こえなかったフリをした。
「最初の時。俺は方々に打診し、頭を下げながら、君への求婚の許可を得ようと必死に動いていた。住む家を整えたり、指輪を作ったり。初めて、金に糸目をつけない生活を送っていた」
「知らなかった…」
「当然だ、知られないように動いていた。次代の聖女が決まって、いよいよ退任に向けて事態が動き始めた時。ビクターが話しかけてきた時があった」
久しく聞かなかった名に、体に無意識に力がこもる。
ビクター・オーイェン。
彼こそが、最初のフェリクスを殺した騎士だ。
それに気付いたのだろう。
優しく頭を撫でられる。大丈夫だ、とでも言うように。
彼は最初の、フェリクスを殺した時以降、騎士団に在籍はしているものの、見かけたことはなかった。
君が彼を苦手にしているようだったから、見かけないところに配置していたと告げられて、彼はなんやかや、私のことをよく見ていると思い知る。
「『団長は、本当に聖女さまに結婚を申し込むおつもりですか?』。後で考えてみれば、おかしな発言だったな。俺の覚悟が決まった時、騎士団にはその考えを口止めとともに伝えていた。聞かれた時には、すでに粗方の準備は整っていたんだから」
記憶の片隅にあった言葉を、ふと思い出した。
ビクターは、「団長に奪われるくらいなら、聖女を道連れにして死のうとした」そんな感じのことを言っていたはずだ。
奪われるもなにも、とぼんやり考えた記憶がある。
つまりは、そういうことだったのだろう。
彼が結婚を申し込めば、私に断る選択肢はない。
むしろ喜んで頷いたはずだ。
一番初めの時が一番幸せだったが、それと同時に一番後悔も多い。
「シンシア。あの時の言葉を、少し訂正したい」
唐突に立ち上がり、身を引いた彼。
目の前で片膝を立てて跪き、そっと左手を差し出された。
瞠目する。
これは…――
「君を傷付けてばかりいた。歳が離れているから、仕事に専念できなくなるから。そんな言い訳をして、逃げていた臆病者だ」
真っ直ぐに見つめ合う。
彼の右手が、そっと彼の胸の、心臓の上に添えられた。
「これからは私の命に代えても…いや。この私の命が続く限り、君を守り、尽くします」
両手で、口を覆う。
ああ、やけに今日は泣く日だ、なんて、ぼんやりと思った。
誰が想像しただろう。
これが夢でなければいい。
こんな。
これは。
「俺が、幸せにする。いや、一緒に幸せになりたい。だから。――結婚してくれ。小さな、俺の聖女さま」
◇ ◇ ◇
旧レイパスレザル聖国には、聖女、と呼ばれる存在がいた。
七年に一度代替わりする聖女は、託宣の儀式により選ばれるが、若い少女の時もあれば、孫もいるような女性だったりする。
まさに貴賤問わずだが、必ず聖国民の女性であった。
聖女、と奉られるからには何かしらありそうだが、厳しい戒律もなく、ただの栄誉な役職、程度だ。
政治には不可侵であるし、お言葉が云々もない。
ただし存在しているだけで世界が平和な証、とされているため、身辺警護は非常に厳重だ。
実際、任期を終えるまでに死んだ聖女がいたが、七年の決まりは変わらず、残りの年月は不作不況等々、不遇の時代だったらしい。
さて、聖女の中でも一二を争う人気があるその聖女は、元は平民――孤児だった。
名を、シンシア・デイル。任期満了時の年齢は、20歳である。
彼女は、当時史上最年少に次ぐ13歳で聖女に選ばれた。ちなみに最終的には歴代四位の若さと、千年以上の歴史ある聖女史の中で語ればその若さがよく分かるだろう。
現存する絵姿はないが、その出自の影響でか、非常に華奢で、また、儚げな佳人であったと伝えられている。
シンシア・デイルを語る上で外せない話題はいくつかあるが、その出自と年齢ではそぐわない逸話がある。
『当代聖女シンシアは、控えめであり、常に微笑を称えている。聖職者として話に耳を傾ける姿は、まさしく聖女といえよう。任期をたった七年と思わせる聖女は、正直、ここ最近では見かけなかった』
当時の神官長セオドアは、そう自身の日記に記している。
彼女を世間は好意的に思っており、任期満了をめでたく思いつつも惜しんでいるのだと綴ってあるが、真偽については未だ論争が絶えない。
確かにあの時代において、孤児出身の聖女がそう振る舞えたとはにわかには信じ難い。
しかし当時の第三王子が求婚した、との記録も残っていることから、ある程度のそうした振る舞いがあった上で、王族を慮って誇大表現をしたというのが最近の通説だ。
また、彼女を語る上で外せない人物がいる。
後に夫となった、シンシアが聖女の時の専従騎士団団長、フェリクス・エブナーである。
シンシアは彼を慕っていたが、彼はずっと断り続けていた。
護衛に徹するフェリクスだったが、任期最後の年に、シンシアが第三王子に求婚される。
六年も断られ続けていたシンシアがその求婚に応えようか悩んでいると、フェリクスは逆にシンシアへ求婚をした。
そう、彼はずっと愛していたのに、職務のために断っていたのだ。
第三王子は少しの間粘ったそうだが、求婚は取り下げられていることから、シンシアを巡る三角関係はフェリクスの勝利で幕を閉じた。
かくして二人の恋物語は純愛として創作意欲を掻き立てるのか、歌曲や演劇、書籍など、数多く作られている。
このフェリクス・エブナーだが、彼もまた出自が謎に包まれていた。
騎士としての技量については、史料によって非常に優秀であったと残されている。
しかしある時突然、彗星の如く現れ、大きな不満もなく団長の地位に就いていることから、何某かのやんごとなき身分の子息だったのでは、と言われている。
第三王子の求婚を断ることができたのも、実はそれも関係しているのでは、と囁かれてもいた。
シンシア・デイルが聖女を退任してから後の足跡はよく分かっていないが、彼女の二代後の聖女ミリアの手記に、一度だけ登場したのが、彼女のその後で唯一にして正式な彼女のその後だ。
『皆が憧れているシンシア様が、なんと私の子の誕生祝いに来てくださった! シンシア様の上のお子様と私の娘が同い年だと知り、駆けつけてくれたそうだ。シンシア様と同じ、柔らかな茶髪を持つものの、幼いながらそのご父君に瓜二つの息子さんで、一昨年生まれたという娘さんもお連れだった。娘さんもまた、ご父君譲りの銀髪に顔立ちで、…(中略)…とても幸せだと仰り、嘘偽りのない笑顔だった。聖女をされている時のシンシア様をお見かけしたことがあるが、その時よりも儚さは薄れ、私もようやく彼女が生きている一人の女性なのだと認識できた』
その後数十年途切れ、後は訃報が伝えられるのみだ。
妻に先立たれたフェリクスはその約一年後に病没している。
息子マリウスに語ったというその最期の言葉は今なお語り継がれ、また、それが創作意欲を掻き立てる一助なのかもしれない。
この記事の最後は、その言葉で締め括ろうと思う。
私自身、妻と息子がいるが、果たして同じような言葉を残せるか。
いや、少しでも近付けることができればいいと、思っている。
「私は団長時代、非常に臆病者だった。年齢や職務を言い訳に、シンシアの真っ直ぐな好意から逃げていた。
けれど、彼女を幸せにするのは自分でありたいとも思っていた。
とんだ勝手な男だろう?
でもな、マリウス。私はこれだけは自信を持てる。
シンシアと結婚して、私は今まで、幸せに生きてきた。
彼女への求婚の誓いを違えることはなかった。
命が続く限り、私は彼女を愛し、共に幸せな時を歩んだと、胸を張って言える。
意地悪な神を前にしても、私は同じように言おうと思う。
様々な試練がありました。
それでも、私は、私の聖女と、幸せになれました、と」