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タバコを吸おうとしてライターのホイールを回しても、一向に火がつかない。飽きるほど回してみたが、そのうち親指の腹が痛くなった。見てみるとオイルが切れている。こういう時に限って部屋のどこを探しても代わりのライターが見当たらないのだから、この時からすでに俺の厄日は決定されていたと言えよう。
タバコが吸えない毎日など生ける屍と一緒だ。俺は本数を多く必要とするタイプではないが、ここぞという時にヤニがいるタイプだ。
タバコの価格が高騰に高騰を重ねて高級品となった今日、懐が寂しい時は一日一本までに抑えることもできる。だが禁煙をしろと言われれば断固拒否する。一本とゼロ本の間には越えられない壁があるのだ。
朝と言ってもそれは俺の体内時計を基準にした時の話で、実際のところ日はとうに昇りきっている。ライターがなければオハナシにならないし、とりあえず外に繰り出すことにした。
安息の隠れ家の外に一歩でも出れば、見えるのは殺伐とした廃墟たちだ。ほったらかしにされて久しい道路をぽつりと一人歩いていく。一応添えておくが、下町の全てが無人区画な訳ではない。ライターが手に入るところまで行けば人もそれなりにいる。だが人と言っても、集まってくるのは下町に巣つくゴロツキばかりだが。
消防車につなぐための採水口から、水が溢れ出している。ひび割れてめくれたアスファルトに足を引っ掛けて転びそうになる。廃墟たちのほとんどはガラスもはめ込まれておらず、壁だけが剥き出しになっているものもある。
道すがらも未練がましくライターの点火を試みるが、いよいよ親指が水膨れになりそうだ。べつに執念とか、諦めが悪いだとかそういう高尚なものではない。だがそれでも一応は天に通じたらしく、一瞬だけネズミ花火のような最後の火が上がった。よし来た。最後のあがきの炎にタバコの先を近づけて──、
真横を豪速で何かが通り過ぎた。遅れて爆風が後ろから吹きつけてくる。
爆風は火種を消したばかりではなく、周囲のゴミ屑を巻き上げ、俺の上着の裾をはためかせ、髪を巻き上げ、かぶっていたニット帽を吹き飛ばした。
ホバーカーだ。ボディに傷と火薬の煤が目立つホバーカーは、ガガガガと地面を削り取りながら俺を飛び越えた数十メートル先に胴体着陸した。運転手が無事で済まない程の乱暴な着地だ。
気づけば、くわえていたタバコがポトリと落ちていた。随分と長い間棒立ちになった気分だ。実際にはまだ数秒しか経っていない。
ホバーパトだ。警察の車が胴体着陸してきたのだ。
「なにがどうなってんだ」
非常時からわずか数秒、狙ったかのように腕時計型端末から着信音が鳴った。
「ロクス」
『はぁい。知ってる? 今さっき彗星の如く二台のホバーカーが隅田川高架下でチェイスを繰り広げてるって口コミ。しかも一台はホバーパトだってさ。ケーサツだよ。ゴロツキたちが戦々恐々、ついにフェライトコア社の横暴が下町にまで伸びはじめたかともっぱら噂でさぁ』
情報処理に数秒を要した。「マニュアスか?」
『あ、もしかして寝起き? それはさておき情報を売り買いする僕からしたら鮮度ホヤホヤのいいネタなわけよ、暇なら調べてくれない?』
「ちなみにそのうちの一台、ついいましがた墜落したんじゃないか?」
『あれ、よく知ってるね。どして?』
「今俺の目の前に落ちてきたからな」
『えぇ、マジで? さすがのロクシェル=ソルト様だなぁ。持ってるねぇ」
何を持っているというのだ。悪運か? 冗談じゃない。
「これは久々に高く売れる資源が降ってきたってことじゃなーい? 高く買ってあげるからあとで絶対こっちきて。それじゃあ後ほど』
ブッと電波が途切れる音とともに一方的に通話が終了された。
「調べろっつってもなぁ。くそ、タバコが」
情報すら食い物にする換金屋のマニュアスがこの件をつかんだとなると、他の連中がここを突き止めるのは時間の問題だろう。人が集まってくれば乗り捨てられたホバーカーなどバラされて部品ごとに売られてしまうのが関の山だ。とくにホバーカーに積んでいる浮遊鉱石など、闇市場でかなりの額になる。あれはフェライトコア社しか量産のノウハウを知らない、ライバル社がいくら模造品の精製を試みても未だ成功例のない未知の技術なのだ。
浮遊鉱石には謎が多すぎる。
ひとまず落ち着こう。飛んで行ったニット帽を探しにいかなければ。しかし何が悲しくて、道路のど真ん中で大の大人が中腰にならなくてはいけないのか。俺の相棒ニット帽をやっと見つけて頭にかぶり直し、ついでに落ちていたタバコを拾う。埃を払って口にくわえ直しライターを構えたところで、はたと考える。
破損してバランスを整えるのがやっとの状態のホバーカーを胴体着陸させることができたということは、中の運転手は着陸までは少なくとも生きていたということか?
「おい、おい!」
乱暴に駆け出してホバーカーに向かった。まったく、俺は星の王子様かってんだ。
煙を上げ続けるホバーパトの運転席の方に駆け寄る。フロントガラスは、波紋の広がりかたからして助手席側からインパクトして大破してるようだった。
「生きてるか!?」
ホバーカーの運転手と思しき人物は、シートベルトに支えられながらもだらりと頭を下げて俯き加減に倒れていた。ポニーテールで顔が隠れて表情は見えない。
いや待て、女か? 女のホバーカー操縦士なんてものが存在するのか!
ともかく、運転席のドアをこじ開けて女を背もたれに寄りかからせた。線の細い透き通るような綺麗な顔をしている。眼鏡が運転席のボンネットに吹き飛んでいた。
そんな美人の彼女には悪いと思ったが、いや実際にはそんなことは微塵も思ってもいなかったが、頬を何度か軽く叩く。
「おい、しっかりしろ。おい!」
まさか、こんなにか弱そうに見える女が、しかも今気を失っている人間が、破損の激しい機体でバランスをとりながら、朦朧とした意識の中で無事にホバーカーを胴体着陸をさせたとで言うのか。
もしそうなら、なんという神業だ。
「うっ……」操縦士がうめき声をあげる。
「よし、生きてるな。待ってろ、いまシートベルトを外してやる」
体に目立った外傷もなさそうに見える。身を乗り出して、ベルトのスイッチを押そうとした時、はじめて助手席側の様子が目に飛び込んできた。
「おい、これは」喉が干上がっていく感覚がする。
助手席の男は、肩側から、ドアのガラスを縁取る鉄骨が突き刺さっている。どこからどう見ても、一刻を争う重傷者だった。運転手よりもまず、助手席の警官らしき男の処置をせねばなるまい。
「ここは……」
俺がシートベルトを外させようとしていた女性操縦士が、細く声を上げた。視線を戻してみると、女はうっすらとまぶたを開けて視線だけで辺りを確認している。瞬きを数回して、やがて手で頭を押さえて、しっかりと上半身を背もたれから離した。
動けない、というわけではないようだ。
「あんた、大丈夫か」
「え、ええ。なんとか」
奇跡だ、あんな着陸をして運転手がほぼ無傷とは、まったくもって奇跡としか言いようがない。「痛むところはどこもないんだな」
「はい、ちょっと頭がぼんやりしますが」
「早々で悪いんだがな、あんたの連れは相当な重傷だ。動けるならいますぐ手伝え」
連れ、という言葉に操縦士は慌てて助手席を見た。「先輩」と喉が詰まった声で口を塞ぎ、助手席の背もたれを掴んで前のめりになる。
「先輩、先輩!」
「おい、あんた名前は?」上着を脱ぎながら女性に聞く。
「み、ミラ=クオーツです」
俺を上目遣いに見ながら答えた。ミラと名乗った女の目が一瞬、俺の腕と脇のあたりに注がれたのはおそらく気のせいではない。肩から提げている拳銃のホルスターが嫌でも目についたのだろう。俺だって、この非常時でなければわざわざ上着を脱いで得物を見せびらかす趣味などない。
「きゅ、救急車を」
「そんなものがあるわけあるか。ここは下町だぞ、救急車も病院もねえんだよ」
ひっ、とミラが声を上げる。しまった。こいつは今、右も左もわからないはずなのに、口調が乱暴になった。俺もこの状況に少なからず動揺しているということか。
帽子越しに頭をボリボリとかいて、とにかく肩の力を抜く。
「よしミラ、落ち着いて聞けよ。そいつを助けるために、色々やってもらいたいことがある。いいな」
操縦士は二度強くうなずいた。
「まず、その色男の名前は?」
「マイン=クロフトです」
「マインだな。見たところ二人とも警官だろう。ホバーパトには簡易救命医療道具が積んである。使ったことはあるか?」
「訓練でしか……実際には」
「わかった、俺が取って用意するから、その間マインを呼んでいてやれ。体は動かすな。寝かせなくてもいい。つらそうだったらシートベルトを外してやれ。あと」
ロクスは脱いだ上着をミラに投げる。
「これで強く傷口を押さえてろ、まぁ止血だな」
「はい」
「いい返事だ」
ホバーパトのトランクへ向かう。ミラという警官は気付いていないのかもしれないが、一刻を争うのは二重の意味がある。
まず、マインという警官の治療のリミット。そして、墜落の一報を聞きつけた下町の住人たちが、ここにやってくるまでのリミットだ。
こんなに派手な着陸をしたのだ、先ほどの通話の主であるマニュアスの情報拡散力も考えると、一刻を争う。資源を漁りに誰かがここへ寄ってくると、とても面倒なことになるのだ。
着陸で歪んでしまったトランクを蹴り上げて無理やりこじ開けた。ミラがマインを呼ぶ声が廃墟の壁に反響して、俺の耳にまで聞こえてくる。
救命医療用具は確かにあった。だが、無菌保存されているはずのそれらが衝撃でトランク内に開け放たれて散乱している。よくみると、長らく使われていないのか、トランクの中は埃だらけだった。
これでは治療がままならない。
「さすが、腐っても警察だな。治療用具の充実度は旧時代の比じゃねぇ」
無理やり自分にそう言った。そうでなくてはやっていられるか! ともかく用具をありったけかき集めて、助手席側の床に落とす。
「おいミラ、まさかナイフは持ってないよな」
「す、すいません」
「謝るなよ」
ナイフ。あと、火と酒と水か。
「よく聞け。今から俺が必要なものを取りに戻る。その間、ここで待っていられるな」
「い、行かないでください!」ミラはすがるように俺の服の裾を握った。
「十分で戻る。歌でも歌え、気が紛れる。ただし小声でな。大声出して居場所を知らせるようなことはするなよ」
俺は、裾を掴むミラの手を握ってやんわりとひきはがす。
彼女の手はとても冷たかった。




