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あんなに派手に動いたのに、奇跡的にジッポライターは無事だった。蓋を開け、タバコに火をつける。一連の流れる動作の後に蓋をしまうと、きん、と小気味良い音がした。
タバコの煙に慣れていないらしいミラは副流煙でしばらく咳き込んで、慌てて風上に逃げた。俺の横のもう一つの車止めに並んで腰掛ける。
ちょこんと腰掛けるミラの様子が、失態でしおれているのもあいまってずいぶん小さく感じられた。
「警察官、向いてないんじゃないのか」
「そうでしょうか」その言葉の尻に疑問符はなかった。
「フェライトコア社の犬に成り下がった警察なんぞに、公務員としての魅力を感じるやつもいないだろう。なんでそんな運転技術がありながら警官をやっているんだ。お前……いや失礼、君の腕なら、天下のフェライトコア社付き運転手にもなれただろうし、傘下の自動車会社の試運転パイロットにでもなればよかったんじゃないのか」
「そうなのでしょうね、きっと」ミラは、自身の癖らしい苦笑まじりの表情をした。
ミラの過去に興味があるかと問われれば、正直どうでもよかった。だから俺はそれ以上ミラの職業の追求はせず、代わりに言う。
「お前、マニュアスに自分が警察官だって言っただろ」
弾かれたように俯いた顔を振り上げた。ポニーテールが揺れる。もう何度も見飽きてしまった、丸くなった目をこちらに向ける。
なぜわかったのか、と全身で問うていた。
「俺もあいつも下町は長いが、あのマニュアスが一度でも俺に情報を前売りした事はない」
だが今回ばかりは気前よく情報を振りまいた。そうした理由は一つだけだ。
「自身の持つ情報を開示しても余りある、さらに大きなネタを掴んだからだ。俺がヤニを吸っている短い時間でそんな情報を与えられるとしたら、お前が素性を明かすくらいしかない」
あまりにも簡単で推理とも呼べない論理的帰結に、ミラはなにも言う事はないようだった。そうだ、言い訳の余地があるはずない。
「俺は言った。人を疑え、俺の指示に従え、それがお前に付き合う条件だ、と。そのどちらも破ったわけだが、ミラさんよ」
「でも、あそこで私が素性を明かさなければ、マニュアスさんから情報を引き出すこともできなかったはずです。ロクスさんの助けになるかと」
「あの換金屋を信用するなと言ったはずだ」
思わず語気が強くなる。
「換金屋のあいつも、あんな緩い表情で人当たりよく振る舞うが、裏では自身の利益のためにあらゆる人間に情報を売り渡す男だぞ」
警察官が下町に丸腰で入り込んだとなれば、ミラの元へどんな組織が集まってくるか想像に難くない。有象無象、魑魅魍魎。ホバーカーに集る解体屋たちなど霞むような連中ばかりだ。ホバーカーを入手するどころの単純な話ではなくなる。
ミラを襲った解体屋の二人組で、もう十分懲りていたと思っていたのに。
「下町の誰も信用するな。山ノ手とは違うんだよ、何もかも。この町の人間ですら下町の誰をも信用していない。乗り掛かった船に降りる前の、最後の忠告だ」
言葉で畳み掛けている間に、ほとんど吸っていないタバコがフィルターに達した。一本を無駄にしてしまった、くそ、結構値段が高いのに。しかたなくタバコを地面に捨てて、靴底で踏み潰す。
俺が立ち去ろうと丁度背中を向けたとき、ミラがポツリと声を上げた。
「なぜ、警察官になったのかと、お聞きになりましたね。警察官には向いていない、なぜフェライトコア社にパイロットにでもならなかったのかと」
「ああ、聞いた」
「私には、兄がいました」
まさか、去り際のこの状況で身の上話を始めるとは露ほどにも思っていなかった。振り返ってミラを見る。
「私の父方の家は、親戚も含めて殆どがフェライトコアの関連会社に就職する、いわゆる現代の名家です。兄も例外なくフェライトコア社の技術者として就職しました。ちなみにロクスさんに貸しているジッポ、元々の持ち主である祖父は、フェライトコア傘下の、ビヒクルというホバーカー製造会社の技術者でした。兄と祖父は、特別仲が良かったと思います」
喉が乾いているのか、ミラは唾を飲み込むために一拍の間を置く。
「言うまでもないことかもしれませんが、兄のいたフェライトコア社は黒い噂の絶えぬ超弩級企業です。機密管理も徹底しています。私警察のフィーファイを使って黒いことも相当行なっていることでしょう」
「それ自体が許せないから警察官になったとでも?」
話が見えず、俺はつい横槍を入れた。するとミラは初めて声を短く上げて笑う。
「まさか。私だってホバーカーと共に生きてきました。今更体制についてとやかく言うつもりはありません」
「じゃあ」
「私が高校に上がった時のことです。なんの前触れもなく、兄はフェライトコア社から存在を抹消されました」
「殺されたということか?」まさか、いくらなんでも表立って社員を殺すような真似をするとも思えない。
ミラは首を横に振る。
「いいえ、それよりもある意味残酷なことです。兄からの連絡が途絶えたので社に問い合わせたら、『そのような社員はいない』と言われました。姿も見えず行方不明になったので、兄の知り合いをあたってみても心当たりがないというのです。『行方を知らない』ではなく、『そんな知り合い、いたっけ』と言うのです。社の同期、かつての学校の恩師、かかりつけの医者……どうあっても兄のことを忘れよもない人物までも、まるで兄のことなど存在しないように言うのです。いてもたってもいられずに、役所に行きました。引っ越したのかと思って兄の所在を確かめに行ってみたのです」
まさか。俺の表情の機微を目ざとく見つけたミラが、そうです、と頷いた。
「役所の戸籍から兄が消えていたんです。兄は存在しないことになっていました。私は末っ子から一人っ子になっていました。公的書類を改竄したり、知り合いに一人残らず根回しして兄に対する箝口令を敷くなど、フェライトコアにしかできません。社の良からぬ秘密の一端を覗いたのか、何か不祥事を働いたのか、反フェライトコアやレジスタンスに決定的な情報を流したのか、今となっては兄が何をしたのか知りようもありません」
ミラが再び俯く。俺はヤニをもう一本取り出す。
「戸籍を消され、公的な存在を抹消されるというのがどう言うことか、下町に暮らすロクスさんならわかるでしょうか。まず山ノ手で暮らすことはできません。フィーファイに見つかればすぐに捕まるでしょう。それほどの強権が行使されたということです。ですが、まさか兄に限って家族を心配させるような悪事や不祥事を働くなんて、絶対にあり得ません。なのに──」一度言葉をつまらせる。「なのに、家族の誰も、兄に何かあったのではと思ってくれませんでした。名家であるのでなおさら、フェライトコアに存在を抹消されるほどの不名誉をしでかしたと罵る始末です。あんなに仲が良かった祖父ですら、ついぞ兄を口汚く恥知らずと罵る始末です」
ミラは、車止めから腰を浮かせて立ち上がった。
「そのときから、私だけは兄を信じようと決めました。この世界の誰も兄を信じなくても、私だけは……」
「それほどの運転技術を持ちながら、警視庁交通課に入ったのは、その兄とやらの行方を調べるためか」
「はい」
「それで? 警察に入った経緯を話したのはいいが、それで俺を引き止められるとでも思ったのか?」
「ロクスさんは、私に人を疑えと言いました。下町の人間全てを疑え、下町の人間ですら同じ町の人間を信じない、と」
「それがどうした」
「私が誰か一人を疑ったら、誰が兄を信じてくれますか」
一瞬、背筋に悪寒が走った気がした。
まさかミラは、すべての人間を疑いなく信じようとでもいうのか?
「兄とやらを信じてやるのは勝手だが、それでなぜ他人を一人残らず信じてやろう、という思考になる?」
「下町の人たちも、兄と同じだからです。彼らのことを誰一人として信じてくれる人がいない」
「だから、それでいいと言っているだろうが! この町の人間なんて、どうせろくな奴らじゃない。お前だって、その洗礼を嫌というほど受けただろう!」
「でも、あなたは私たちを助けてくれました」
手に持っていたタバコが落ちた。ミラの言葉がするりと入り込んで、不覚にも言葉を失った。
真っ直ぐな瞳が俺を見る。
「下町に住むすべてがろくな人間じゃないとおっしゃるなら、あなたが私にしてくれた優しさには、どう名前をつければ良いのでしょうか?
私はあなたに、そんな命の恩人ですら疑えとおっしゃるんですか?
人によって疑ったり信じたり……そんな選別をしている人間に、たった一人で兄を信じ抜くことができると思いますか?」
先ほど感じた悪寒の正体が、うっすらと分かった気がした。
俺はミラと会ったとき、解体屋のバールの男にミラが襲われそうになったとき。男が『俺についてくれば怪我人とホバーカーの安全を保障してやる』と嘯いたとき。
俺はてっきり、ミラの気が動転して男の言葉を真に受けたのかと思っていた。パニックで逃げることも頭から抜け、とにかく男の言葉に従うしかない、と思ったかと錯覚していた。
ミラはあの時も、正気だった。
正気も正気だったのだ。
十人いたら十人がバールの男の言葉を信じないあの状況の中で、ミラはあの男の言葉を信じると、心の底から決めていたのだ。
恐ろしい、などという生易しいものではない。これは紛れもない狂気だ。
サイコパスが持つ、殺人への信念めいたものと、本質はまるきり一緒だ。
「たとえ裏切られると分かっていても、お前は人を疑うことをしないのか」
「人を信じるのは私の都合ですし、裏切るのは相手の勝手です」
「はぁあ」
「せっかくの忠告ですが、守れそうになくて、すみません。ここまで来てくださって、本当にありがとうございます」
そう言って、ミラは俺についてくるよう頼んだのと同じように深々とお辞儀をした。
まいった。これはほとほとまいった。
なんて人間がホバーカーごと落ちてきたんだ。
『あなたが私にしてくれた優しさには、どう名前をつければ良いのでしょうか?』
こんなこと、一度として誰にも言われたことがなかった。
俺がミラたちを助けたのも、ミラの頼みを受けてここまでついてきたのも、ただのなりゆきだ。
俺ですら自分の一連の行動に、名前をつけられずにいる。
俺を信じると暗に言ってくれた時、俺がタバコを落とした瞬間に感じた、あの気持ちの名前も。
「やはり、乗り掛かった船ってことか」
ここで降りたら、俺は海に流される。それはごめんだ。この気持ちの正体を、探れずに終わってしまう。
「まぁ、なんだ。とりあえず頭をあげろ。落ち着かねえ」
俺がまさかこの場にとどまると思っていなかったらしいミラは、様子を伺うようにおずおずと顔をあげる。
俺は、そんな彼女の目を真っ直ぐに見た。
「とりあえず、やれるだけはやってやる」




