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アカネ月の娘 1  作者: 遠部右喬
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運命の始まり

 それは、あかね月になったばかりの夜だった。

 さらさ月に、妻と、まだ一歳になったばかりの子供を亡くしていたウネリは、唐突に目を覚ました。まだ夜明けには程遠い時間らしく、闇に目が慣れるまで少し時間がかかった。

 さっきまで、夢を見ていた筈なのに、どんな夢だったか思い出せない。幸せな夢だった気もするし、哀しい夢だった気もする。ただ、凪いだ海に漂っているような、不思議な浮遊感だけが残っている。

 唐突にウネリは、なぜ自分が目を覚ましたのかを理解した。外から、赤ん坊の泣き声が聞こえているのだ。家の扉のすぐ向こうから聞こえてくる声に、先月死んだばかりの我が子を思い出し、胸がキリキリと軋む音を立てた。が、すぐに、おかしなことに気付く。

 初めは、村の誰かがぐずる子供をあやす為に家の外を歩き回っているのかと思ったのだが、赤ん坊の泣き声以外、あやす声も聞こえなければ、誰かが動く気配もない。この村に赤ん坊の居る家は数軒あるが、皆、ウネリの家から少し離れた処に住んでいる。わざわざウネリの家の前まで歩いて来るとも思えない。

 だがこうして、実際に赤ん坊の声がするのだ。考えたところで、答えが出るわけでもない。

 寝具を抜け出し、少し厚手の上着を羽織りながら、音を立てないよう、そっと三和土に裸足で降りた。長い黒髪を背中で束ね、よく日焼けした浅黒い肌のウネリは、闇に同化しながら外の気配を探った。

 赤ん坊の泣き声は、扉のすぐ前の様だ。が、やはり、それ以外の気配は感じられない。まさか、物の怪の類でもなかろう。意を決して、つっかい棒を外し、それを手にしたまま扉を開ける。拍子抜けするくらい、いつもの風景が目の前に広がっていた。足元に、赤ん坊が寝かされていることを除いて。

 籠に入れられ、暖かそうな綿入れにくるまれたその子は、一体いつからここにいたのだろうか。

 上等そうな身ぐるみを見る限り、村の子供ではないだろうと思われた。真っ黒で柔らかそうな髪が、いなくなってしまった幼い息子を思い起こさせ、一瞬息が詰まるような気がした。一年の終わりであるあかね月の名前の由来となった大きな赤いアカネ月が、もう一つの小さな小さな白い月、ハタ月を隠すように、天の真ん中にいる。夜も更けているこの時間、一体誰が、この赤ん坊をわざわざ連れてきたというのか。

 連れて来た……まさか、捨て子だろうか。その考えに至った時、自分でも思いもよらぬ激しい怒りが溶岩の様に一気に吹き上がった。己の命と引き換えにしてでも生き返って欲しい、しかし、その願いは聞き届けられることはなく、決して還ってこない我が子……それを捨てる親がいることが、今のウネリには理解出来なかった。

 それに、何故わざわざ自分の家の前に置き去りにされているのか解らない。ウネリの家は、村の外れの海岸そばにある。ここに来るまでに必ず村の中心部を通る筈だ。当然、そこなら家は何軒もある。おかしなことばかりだ。

 だが、一年中温暖なこの土地でも、あかね月の夜ともなれば外は冷える。辺りを見回し、誰も居ないことをもう一度確認すると、仕方なく籠を抱き上げた。囲炉裏の側に籠をそっとおろし、まだいくらか熱を帯びた炭を使い、火を熾した。じきに赤ん坊は泣き止んだ。

 夕食に食べた白米が少し残っていたので、それで手早く重湯を作りながら子供の様子を伺うと、じっと天井を見ているようだった。重湯が出来上がったので、そっと綿入れごとその子を抱き上げ、冷ましながら口元に運んでやると、お腹が空いていたのか、大人しくそれを食べ始めた。

 茶碗の半分ほど重湯を食べた赤ん坊は、安心したように大人しくウネリに抱かれていた。外に気を配っていたが、誰かが子供を探している様子は感じられない。

 そういえば外を見に行った時、自分以外の足跡がついてなかったことに、今更ながら気が付いた。海沿いにあるウネリの家の前は砂地で、風のない今日は、漁から帰って来たウネリの足跡がまだ残っていた。だが、赤ん坊を置いていったと思われる人物の足跡は残っていなかったのだ。

 まるで、物の怪に誑かされたような気持ちになったが、腕の中でぱっちりとした瞳を天井に向けている赤ん坊の重みと温かさは、どうしても警戒心を抱かせない。

(そうだ、籠に何かこの子の身元がわかるものが入っているかもしれない)

 そう気付き、そっと赤ん坊を座布団に下ろして籠を探ってみたが、書置きひとつ見当たらなかった。綿入れを探ろうかと思ったが、せっかく落ち着いた様子の赤ん坊を不安がらせてしまっては不憫だと思い、諦めた。朝にでも、改めて確認すればいい。もしかしたら、それまでに、誰かが、この子を迎えに来るかもしれない。

 ウネリは赤ん坊を籠にそっと戻し、自分もその側で横になった。


 朝になったが、やはりこの子の迎えは来なかった。仕方なく、目を覚ました赤ん坊の綿入れを探ろうとした時になって、初めてこの子が何かを握っていることに気が付いた。その手をそっと開くと、薄赤い小さな卵の様なものが収まっていた。

 ウネリはギクリとした。ある昔話が、脳裏を過ぎったのだ。

 それは、百年に一度、大地とアカネ月が最も近づく時に行われる祭り『豊月祭』の伝説だった。


 昔々、本当の大昔、まだ夜空に月が三つあった頃、世界に大きな災害が起きた。天が裂け、地が割れ、多くの生き物を呑み込んだ。一握りの生き物以外は、この災害で姿を消した。そのせいか、生き残った者たちもずいぶん様変わりしてしまった。それまでは、弱い生き物も強い生き物もそれぞれ同じ数だけいて、人間とうまく折り合いをつけて共存していた。その均衡が崩れ、毎年どこかで猛獣の被害により村が消滅し、流行病が人間の数を減らしていった。人間の寿命自体も、それまでとは比べ物にならない程短くなってしまった。三つの月の内、最も小さかったワタ月は、永遠に姿を消した。

 事態を何とかしようと、当時最高の神官達が、神様に必死で祈りを捧げた。日頃は仲の悪かった魔術使い達とも手を取り合い、それぞれの業で、神様に祈ったのだ。沢山の命がこれ以上消えませんように。子供たちが、無事大人になれますように、と。そして、神様に願いは届いた。神様は神官達に言った。『今後は、神官も魔術使いも等しく、神に祈りを捧げるように。百年に一度、あかね月の夜に巫女がこの世のどこかに生まれる。それと判るよう、巫女に神の(しるし)を持たせておく。巫女が十の歳になったら、世界で一番高い山に登らせ、神に祈りを捧げさせること。この世に続く価値があるなら、祈りはきき遂げられるだろう』

 それ以来、神官と魔術使いは、世界が恙なく廻るように手を取り合うようになった。


 神の標とは何なのか、その伝説では語られていない。昔話の詳しい下りは、永い時の中で失われてしまったのだろう。

 だが、それはおとぎ話だ。なんにしても、この子が捨て子ならどうするべきかは決まっていた。

 ウネリは、村の顔役でもある魔術使いを訪ねることにした。


 ウネリの暮らす村だけではなく、どの村や街にも、必ず魔術使いか神官が常駐している。

 その土地で、魔術使いや神官の才能のある子供が選ばれ、神殿と呼ばれる施設で必要な知識を学んだ後、そのまま神殿で学び続ける者も居たが、大抵はそれぞれの故郷に帰って行く。医術や様々な技術も学ぶ彼らは重宝され、自然と村の顔役になっていく。先に顔役として暮らしている先輩から、さらに細かい村のしきたりなどを学んでいき、いずれ自分も弟子を育てる。その土地の出身者が誰も居なかったり、亡くなってしまったりすると、神殿にいる神官か魔術使いが派遣される。

 兎に角、神官か魔術使いの、必ずどちらかは集落にいる仕組みになっていた。

 顔役とはいっても、普段は畑仕事をしたり、他の村人と何ら変わらない暮らしなのだが、困ったことが起きると、皆、彼らに相談に行くのだ。

 ウネリの暮らす村では、三十歳を幾つか過ぎた女魔術使いのミズナと、ミズナの下で修業中の神官、ヒナガという十代後半の青年が顔役になっている。やはり二人ともこの村の出身だった。他の村同様、村の中心部で畑仕事などをしながら暮らしている。

 今日も、朝早くからヒナガが畑をいじっていた。

「おはよう、ヒナガ。ミズナさんは、まだ寝ているのか?」

「おはよう、ウネリさん。こんな早い時間から来るなんて、珍しいですね。先生が、この時間に起きてるわけないじゃないですか。今日は漁に出なかったんですか?」

 ヒナガは顔をあげ、快活に言った。いつもニコニコとして優し気な風貌のこの青年は、密かに村の若い女に人気があった。

「漁より先に、相談事があってな」

 ヒナガは、ウネリの抱えている籠を見て、怪訝そうな顔をした。

「わかりました。先生を起こしますから、相談所に行きましょう」

 ヒナガは作業を中断し、一つ伸びをした。

 相談所とはミズナの暮らす家の土間の事なので、二人は並んで歩き、その道々、ウネリは昨夜の出来事を説明した。

「なるほど、事情はわかりました。確かに、巫女と神の標の話のようですね」

「……神官に言うことじゃないかもしれんが、神様なんか居やしないと、俺は思う」

 妻も子も、先月亡くしたばかりの男は、暗い目で呟いた。事情を知っているヒナガは、気を悪くした風もなく、ウネリを気遣う目で言った。

「カヤさんには、僕も世話になりました。昔から、面倒見が良くて、いいお姉さんだった……」

 ウネリの亡くなった妻は、結婚する前、まだ幼かったヒナガの隣の家に住んでいた。その為、ヒナガが神官となって神殿から帰ってきてからも、よく一緒に晩飯を食べたりしていたのだ。カヤ達が亡くなった時、茫然としているウネリに代わり、葬儀を取り仕切ってくれたのはヒナガだった。

「あの時は、世話になった。今更だが、ありがとう、ヒナガ。感謝しているよ」

「気にしないで下さい。それに、僕の仕事でもあるんですから」

 確かに、村の冠婚葬祭は、魔術師や神官の仕事の一つではあったが、葬儀だけではなく、暫くウネリの家に泊まり込んで、何かと世話を焼いてくれた。

 連れ立って歩いているうちに、ミズナの家が見えてきた。

「じゃあ、先生を起こしてきます」

 ヒナガは早足で、ミズナの家の裏口に周っていった。

 ミズナの家は、基本的に表口は鍵がかかっていない。表口入ってすぐの土間までは、常に誰でも入れるようにと、扉につっかい棒すらしていない。女の一人暮らしにしては不用心に思えるが、土間から奥の生活空間とは分厚い扉で仕切られ、頑丈な鍵がかけられていた。裏口の鍵は、この近くで暮らしているヒナガも持っているが、こちら側の鍵は、ミズナしか持っていない。

「アタシみたいな一人暮らしのいい女が身を守るためには、こんな鍵でも足りないくらいさ」

 と、ミズナはよく言っているが、本人の人となりをよく知る村人が不埒なふるまいに及ぶとは、誰も思っていない。年齢不詳の美貌だが、村の顔役というより、賭場の姉御といった荒くれ者すら一目置くような迫力があった。村の男衆には「熊の寝床に入ってく勇気はない」と、陰で言われているくらいだ。実際、腕っぷしは相当なものらしく、以前、離れた村から行商にやってきた一行にいた十七、八の若者が、ミズナにちょっかいをかけたことがあった。相手にしないミズナの腕を掴もうとしたが、数回瞬きをする間に地面に転がることとなり、若者の両親が慌てて息子を引き取りに来た。それからも若者は懲りずにこの村に商いにやって来ては、どういう訳かミズナを「姐さん」と呼んで一層慕っているのだが、ミズナは若者の名前すら覚えていないようだった。

 三和土に腰かけ、膝に赤ん坊の入った籠を乗せ、ぼんやり待っていると、ミズナとお盆に茶を乗せたヒナガが、その分厚い扉を開けて入ってきた。

「事情は、概ねヒナガに聞いた。その子、見せてみな」

 座布団に座るなり、本題を切り出す。ウネリは黙って籠に眠る子をミズナに差し出した。

「確かに、何かを握っているな。ヒナガ、見たことあるか?」

「いや、初めて見ます。一見、鳥の卵みたいですけど」

 話し声で目を覚ましたのか、赤ん坊がむずかり出した。

 ミズナは、思いのほか優しい手つきで赤ん坊を籠から抱き上げ、あやす様にしていたが

「ウネリ、この子のおしめはいつ換えた?」

 少し呆れたような顔で尋ねて来た。ウネリは顔を赤くして、口ごもった。

「いや、昨夜から一回も換えていない」

「可哀想に、おしめがパンパンじゃないか。お前の家にも、さらし位あるだろうに。ヒナガ、アタシの部屋から何枚か持ってきな」

「すぐ取ってきます」 

 ヒナガが奥に消えていくと、ミズナはウネリに言った。

「まったく、男はこういう事に気が回らないんだな。お前だって、おしめを替えたことはあるだろう」

 ウネリは、そういえば、子供のおしめなんかの世話は殆どカヤに任せきりだったな、と、今になって気が付いた。

「申し訳ない……」

 それは、この赤ん坊とミズナにではなく、カヤと我が子に向けた言葉だった。

 昔ほどではなくなってきたが、それでも子供が大きくなる前に亡くなってしまうのは、未だにあることだった。だから、どの村や街でも、子育ては大人たちの大事な役目であり、一族はもちろん、集落全体で子供を育てるのだ。

 おしめ換えに思い至らなかったことが、まるで子供に向き合ってなかった証のような気がして、ウネリは、カヤと子供に申し訳ない気持ちになった。

「四枚もあれば、足りますよね」

 物思いに耽っていたウネリは、ヒナガの声で現実に引き戻された。

 ミズナは、さらしを受け取り、手早くおしめを換えてやると、赤ん坊は機嫌がよくなったらしい。うっとりとした様な表情で、寝かされた籠の中から天井を見上げていた。

「女の子か。なかなか美人になりそうだ。腹も空いてるだろう」

「一応、夜、重湯を作って、食わせてあります。朝は昨夜の重湯の残りを温めなおして、食わせました」

「重湯は腹ふさぎ程度だからな。後で誰かの家に、貰い乳に行こう。だがその前に、この子をきちんと調べないと」

 ミズナは、口の中で小さく何かを唱えながら、赤ん坊のおでこの辺りに手をかざし、次に、赤ん坊の手元で同じことをした。暫くおでこと手元を行ったり来たりさせている間も、その子は、真っ黒な瞳でウネリの方を見上げるようにしながら大人しくしていた。

 やがて手を止めて、ミズナはウネリに言った。

「巫女と標で間違いない」

 そう言われても、ウネリには、普通の赤ん坊にしか見えなかった。

「あの、昔話のですか?」

「そうだ。お前は、あれを単なる昔語りだと思ってるだろう。だけど、昔語りってのは、多くの事実も含んでいるもんなんだ」

「そうだとしても、なんで巫女だとわかるんです?」

 ミズナは、今赤ん坊と卵から感じたことを、どう説明しようかと考えながら口を開いた。

「ウネリ、お前はもう、親兄弟はこの世にいないな? 親類らしい親類も、もういなかったはずだ。だが、アタシら魔術使いが見ようと思えば、お前と繋がる魂の糸が見えるんだ。糸の先の相手が死者になってしまっても、それはすぐに消えて無くなるわけじゃない。いずれ糸は消えたとしても、繋がりがあった痕跡は魂に刻まれ、消えずに残る。血の繋がりと魂の糸は、同義だ。そういうものなんだ。

 勿論、血の繋がりだけじゃない。生きていく中で、様々な縁に因って魂が結びつくこともある。

 だけど、この赤ん坊の魂は、誰とも繋がっていない。繋がっていた痕跡もない。少なくとも、アタシの眼には糸は見えない。正真正銘、この世にただ一人で生まれ、未だ誰とも縁を結んでいない。それを、『生まれた』って言うのなら」

 ミズナの言っていることは、ウネリにはにわかには信じられなかったが、黙って話を聞いていた。

「天から遣わされたとでも言われなければ、説明がつかないんだ。この子が手に持っているものも、一見卵の様だがそれとは違う。この子と卵の間に繋がりはあるが、でもそれは、魂の糸とはまた違う繋がりだ」

 それまで黙っていたヒナガが、口を挿んできた。

「確かに、前の巫女が誕生してから百年になりますね。先生、どうするんですか? 巫女ならば神殿の神官長様と魔術導師様に知らせを出さないといけませんよね」

「この子をどうするのかは、それこそ神殿のおっさん達が決めるんだろ。だけどきっと、この子は、ウネリ、お前が育てることになるだろう」

 ウネリは驚いて、思わず声が大きくなった。

「何でです? 何で俺が、見ず知らずの、あやしげな子供を育てることになるんですか! 無理ですよ……自分の妻や子供すら守れなかったのに……」

 最後は呟くような声だったが、最初の大声に驚いた赤ん坊が、泣きだした。慌ててヒナガが子供を抱き上げてあやしてやった。

「大きい声出すんじゃない。何も、お前一人に背負わせようってんじゃないさ。他の子の様に、村の皆と協力しながら育てるんだ。だが、いざという時、この子の親代わりになれる誰かが必要なんだよ。

 確かにこの子の出自は普通じゃない。魔術使いから見たら、魂の糸が無いなんて、例え化け物でもありえないんだ。だけど、それ以外は、どう見ても普通の赤ん坊だ。少なくとも、魂の形は、アタシらと変わりない普通の形だ。ならば、この子にだって帰って行く家が必要になる。誰でもない、お前の家に現れたのはお前が必要だったからだと……」

「無理です」

 ミズナを遮り、ウネリは言った。

「悪いが、この子はミズナさんが預かって下さい。それで、俺なんかよりもっといい家を見つけてやって下さい。俺は一人で生きていくだけで、精一杯なんだ」

 それは嘘だった。食い扶持が一人増えるくらい、今のウネリならなんとでも出来る。だが、自分にとっての家族とは、死んだ妻と息子だけだった。そこに他人を入れる気は起きなかった。

「お願いします」

 そう言い残して、ウネリは足早に自分の家に帰って行った。

 ウネリに置いて行かれた子供をあやしながら、ヒナガがミズナに呟いた。

「ウネリさんでも、あんなに大声出すことがあるんですね。いつも物静かに、カヤさん達を見守ってる処しか見たことがなかったから、驚きましたよ」

「あいつは、家族ってもんに人一倍憧れがあるんだろう。カヤ達を亡くしたばかりで酷なことを言っちまったと判ってるが、だからこそ運命に選ばれたんだ。お前にはわかるだろう?」

「そうですね。さて、これからどうしますか?」

「まず、この子に乳をあげないとな。ヨナに頼みに行こう。出過ぎて困るくらいだって言ってたからな。赤ん坊が飲みきれなくて、乳が張って痛いんだと。

 取り敢えずこの子は、昨夜遅くに来た魔術使いの仲間から預かったことにしよう。神殿に報告するのは、その後だ」


 ミズナからの報告がサンガ神殿に届いたのは、次の日の事だった。

 このサンガ神殿は、ミズナとヒナガの母校だった。

 神殿と呼ばれているが、神に祈りを捧げる為だけの場所という訳ではなく、神官と魔術使いを育てるための学校でもある。各国に必ず一か所は神殿があり、そのすべてが後進を育てる為の学校になっていた。

 神官と魔術使いに必要な才能は、それぞれ全く違うものだった。その為、神殿に集められた子供は、最初の二年は皆同じ事を学び、その後は能力の向きによって、神官と魔術使いのどちらかの科目を重点的に教えられるようになる。そして、早ければ二年、長くて四年で、それぞれの基礎を学び終える。

 だが、二つを完全に切り離して教えることはなかった。神官になるにせよ魔術使いになるにせよ、互いが何を学んでいるかを知るのは、とても重要だった。それは、どこの神殿でも同じだった。

 当然、それぞれの講師の頭である神官長と魔術導師は、良好な関係を築くため努力していた。神殿長には、神官と魔術使いそれぞれから選出された代表者が、一組となって就任していた。

 魔術導師のキキは、昼食を取る為に執務室を出た。神官長のマヤを食事に誘おうかと思い、隣り合っている神官長の執務室の扉を叩こうとしたとほぼ同時に、扉が開いた。

「やあ、丁度声をかけるところだった。昼食、一緒に食わないかね?」

 キキが言うと、マヤは手に持った紙をひらひらさせながら、いつもの微笑んでいるような表情で答えた。 

「いいね。だが、昼は少しおあずけにしよう。私も声を掛けるところだったんだ……新たな巫女が生まれたようだ。今、ミズナとヒナガから、文が届いたよ」

 ミズナ達の住む村から一番近いこの神殿は、それでも徒歩だと四日程かかる処にあった。その為、急ぎの連絡に鳥を利用していた。ヒナガは神殿に居た頃から、動物を育て訓練するのが上手だった。今も村で色々な生き物を飼っているらしい。

 あちらこちらとの連絡用に、神殿とそれぞれの街や村から大きな都市まで、伝書用の鳥が飼われている。それらは、馬などと共に訓練係の生徒達が面倒を見ていた。

 そして、つい今しがた、ヒナガご自慢の伝書用の鳥が、マヤの執務室に飛び込んで来たのだ。

「前回の巫女が生まれてから、今年で丁度百年。生まれるならそろそろだと思っていたが、ミズナの所とは」

「可能性は高かったからね」

 キキは、ため息をついた。

「ヒナガはとにかく、ミズナか……あの子は、魔術は優秀だったが、気性がな。それに、今度の祈りはどうなることか」

 それなりの年齢のミズナを、あの子呼ばわりする白髪混じりの魔術導師に、マヤは慰めるように言った。

「相変わらず心配性だね。ミズナなら、大丈夫だと思うが。この世界の理をよく知っているし、乱暴者に見えて、人の気持ちを慮れる優しさもある。ただ、養い親の説得には向いてないかもねぇ」

「だから、気がかりなんだよ。我々は気持ちに重きを置き過ぎてはいけないのだ。いずれ、そのことで苦しむ事になる」

「それを言うなら、ヒナガも掴み処のない不思議な子だったね。学業の成績は抜群だったし、発想力も人にはない物を持っていた。そのまま神殿に残ると思っていたけど、結局村に帰ってしまったし。まぁ、飄々としたところのある子だし、後進の育成よりは、自分の研究を続ける方が向いていると思ったのかもしれないね」

 マヤは、教え子達の顔を思い出しながら、キキに言った。

「だが、ミズナもヒナガも、とても優秀な生徒だったのは確かだ。心根もしっかりしていたし、大丈夫だと信じよう。我々は、何時でも助けを出せるよう、準備を怠らないようにすること位しか出来やしないのだ。

 さて、ミズナへの返事と各神殿への通達を書かなければ。早いところ済ませて、食事にしようじゃないか」


 ミズナの家を訪ねてから数日、ウネリは夜一人になると、考え込むことが多くなった。

 漁に出た時などに、ミズナが他の魔術使いから可愛い赤ん坊を預かっているという話は、仲間から聞いていた。もちろんウネリには、それがあの夜の赤ん坊だと判っていたが、ただ黙って皆の話を聞いていた。

 ウネリが五歳になる頃、両親が相次いで死んだ。両親とも既に親兄弟はなかったが、後二月もすれば、弟か妹が生まれるはずだった。

 両親とまだ見ぬ弟妹を亡くした時、まだ幼く、ただ泣くしか出来なかったウネリを、漁師の男が引き取ってくれた。妻に先立たれ、娘は二人とも少し離れた村に嫁いでしまっており、一人暮らしをしている男だった。陽気で優しく、悪戯をすれば、遠慮なくげんこつを食らわせるような真っ直ぐな男を、ウネリも本当の父の様に慕った。漁の仕事も、その男がすべて教えてくれた。

 ウネリが十七になり、カヤと結婚した時、誰よりもウネリの結婚を喜んでくれた。

「お前も、やっと一人前か。びーびー泣きながら俺の後をくっついて回って、これじゃ仕事になりゃしねえなんて思ってたのが、昨日の事みたいなのになぁ。これからは、お前が誰かを護ってやる番だな。カヤに感謝しろよ? お前と新しい家族をつくってくれるんだから」

 五十歳を幾分か過ぎていた養父は、次第に寝付く日が多くなった。ミズナからは、「寿命だ」と言われた。ウネリとカヤの婚礼を見届けて半年後、養父は亡くなった。ゆっくりとした、穏やかな最後だった。 

 葬儀の後、他の村に嫁いでいた養父の娘達がそれぞれの村に帰って行く時、涙ながらにウネリに言った。

「ありがとう、ウネリ、カヤ。あんたたちが居てくれて、父さんも寂しくなかっただろうよ。それに、あんたたちが早めに知らせてくれたから、私たちも父さんの死に目になんとか立ち会えた。本当にありがとう。何かあったら、遠慮なく私たちに言ってちょうだい。私たちも家族なんだからね」

「こっちこそありがとう、姉さん達。帰り道、気を付けて」

 そう言いながらもウネリは、義姉達の言葉で今までにない寂しさを感じた。義姉達が心から言ってくれた言葉だったが、同時に、そこには家族ではない者に対する遠慮も無意識に含まれていた。人の好い義姉達は、自分達の本心が漏れてしまったことに気付いていない。それが悲しかった。そして、自分もまた、義姉達を家族だと感じてはいなかったことに気付いてしまった。一緒に暮らした経験もない間柄だ。それでも家族と言ってくれたのに、まるで養父を取り上げられてしまったような気分になった。

 そんな気持ちを察したのか、義姉達を見送りながら、カヤは黙ってウネリの手を握っていてくれた。その小さな手が、ウネリの気持ちを穏やかにしてくれた。

 それから数年、ウネリとカヤの二人暮らしが続いた。カヤの母が健在だった間は、よく三人で夕飯を食べたりしたが、孫の顔を見る前に亡くなってしまった。カヤにはやや歳の離れた兄がいたが、カヤが結婚するだいぶ前に、大工職人になる為に、村から離れた大きな街に行ってしまった。そこで結婚して、今も村には帰らずその街で暮らしている。手紙のやり取りはよくしているようだったが、「お兄ちゃんの顔、もう忘れちゃったよ」と、カヤは笑っていた。

 ウネリがとカヤが、二十二歳になった時、子供が出来た。なかなか子供が出来ないことを密かに悩んでいたらしいカヤは

「やっと家族が増えるね」

 得意満面の笑顔で、腹をさすりながら言った。ウネリはそれを、不思議な気持ちで聞きながら、そうか、家族って、こうやって増えていくのかと思った。ウネリにとって家族とは減っていくものであり、増えていくものだという実感がまるでなかったのだ。じわじわと、暖かいものが広がっていくようだった。くすぐったいような泣きたいような、とにかくそわそわとしだしたウネリを見て、カヤは大笑いした。

「まだまだ生まれないんだから、今からそんな落ち着かなくてどうするのよ。それより、名前考えてよ。男の子と女の子、どっちが生まれてもいいように、両方考えておいてね。大丈夫、考える時間はまだたっぷりあるから」

 そして数か月後、カヤは男の子を生んだ。初産だったが、思ったよりお産は軽く済んだようで、母子共に元気だった。

「陣痛って、凄いのね。痛くて痛くて、死ぬんじゃないか、もう子供なんか絶対生まないって思ったけど、この子の顔見たら、全部吹っ飛んで、もっと生んでもいいかなって思ったわ」

 ニコニコしながら赤ん坊に乳をやるカヤを見ていたら、いつの間にか涙が零れていた。嬉しくも涙が出ることを、ウネリは初めて知った。

「ありがとう、カヤ」

 絞り出すように言ったウネリに、カヤは優しい笑顔を向けた。

 この笑顔を、家族を、必ず護ろうと、心から思った。


 子供が一歳になる頃、村の周辺に山犬の群れが姿を見せ出した。

 海沿いにあるウネリ達の住む村は、背後の北側が山になっていた。山といっても標高は低く、半日もあれば山向こうの村と往復できる程度のものだった。山頂には、津波などが来そうな時に村人たちが避難する為の小屋があった。この小屋は、普段は隣村からの帰り道にそこで休憩を取れるよう、村人達が交代で掃除などをしていたのだが、そこに山犬が現れるようになった。

 三月程前、いくつか離れた山間の村で火事があり、風向きが悪かったのか、山に燃え移ってしまった。幸い山が全焼することはなかったが、住処を追われ、この村の近くまで逃げて来た小動物達もいた。それを追って危険な動物達も、村の周囲をうろつくようになった。

 十頭程の山犬の群れは、村の近くまで降りてくることは殆ど無く、山に入らなければそれほど危険な目にあうことはなかったが、村の男達は、念のため、番犬を連れ山の麓近くで交替で寝ずの番をすることにした。

 それが起きたのは、秋も深まったさらさ月になってすぐの事だった。

 前日の夜当番だったウネリは、眠い目をこすりながら家に帰ると、カヤと息子が出迎えてくれた。

「お帰り。朝ご飯出来てるよ。食べる?」

「ただいま。そうだな、腹が減ってるから、食べてから、ちょっと寝るよ」

 カヤに抱っこされた息子を受け取り、笑いかけながら答えた。

「こいつ、随分早起きだな。いつもまだ寝てるだろ」

「なんか、昨夜ウネリが出てってから、ずっとぐずってたんだよね。やっと寝たなと思ったら、まだ明るくなる前に目を覚まして、父さん探してまたぐずって。お蔭で、私も寝不足よ」

 笑いながら、カヤは握り飯と汁物を用意してくれた。

「ほら、あんたがひっついてたら、父さんが食べづらいでしょ。こっちにおいで」

「大丈夫だ。父さんの膝に座りな。一緒に飯食おう」

「早くに起きたもんだから、お腹空くのも早かったらしくて、もう食べたのよ。これ以上食べさせたら、太っちゃうわ」

「なに、育ち盛りだもんな。ちょっとぐらい大丈夫だろ。沢山食べて、でかくて丈夫な男になるんだぞ」

「ウネリは、甘い!」

 膝の上で握り飯を少し分けてもらってご機嫌な子供を見て、二人は大笑いした。

 食事を終え、横になりながら、ウネリはカヤに言った。

「昨夜は出なかったが、近くに山犬が居るかもしれない。昼とはいえ、山の方に近づかないでくれよ」

「わかってる。でも、山側にある畑、ちょっと見てこないといけないから。ヨナさん達と連れ立って行ってくるし、番犬達だっているもの」

「なるべく大勢で行くんだぞ。くれぐれも気を付けてな」

「わかってるってば。いいから、もう寝なさいよ。おやすみ」

 上掛けを掛けてやりながら、カヤは心配性の夫に苦笑した。


 あっという間に眠り込んだウネリの目を覚まさせたのは、自分の名前を呼ぶ、村の男衆の大声だった。

「ウネリ! おい、ウネリ! 居ないのか!」

 叫びながら、土間に男が飛び込んで来た。何事かと飛び起きたウネリに、男は真っ青になりながら、震える唇で言った。

「山犬が出た……! 一匹だけだったが、すごいでけえ奴で……カヤが、坊主が……!」

 一瞬で跳ね起き、土間に立てかけてあった斧を取り上げると、ウネリは矢の様に家を飛び出した。

 山側の畑近くまで全力疾走すると、騒めく村人達の中から、ウネリを見つけたヨナが駆け寄って来た。

「山犬が急に現れて、坊を銜えて逃げて行ったの! カヤもそれを追っかけて……」

 急に空気が薄くなっった様に感じられ、心臓が、ぎゅっと縮んだ。

 カヤ達は子供を背負い、山側を警戒しながら、十人程で畑仕事をしていた。

 作業が一段落し、皆がそろそろ昼にしようと背中から子供を下ろした時、山側ではなく、畑の東側の茂みの風下になっていた所から、急に大きな茶色い塊が飛び出して来た。一番そこに近かったカヤ達にぶつかるようにすると、番犬達が騒ぐ間もない程の素早さで、あっという間に子供を銜えて走り去っていった。 

「どこだ? どっちに行ったんだ! 山に入ってったのか!」

「山じゃなく、西側に行ったよ! 今、旦那達も追っかけてるよ」

 聞くなり、ウネリは駆け出した。頭の芯が痺れた様に感じられ、自分がちゃんと走れているのかも判らなかった。二人を失うかもしれない恐怖に脚が萎え、膝から崩れ落ちそうになるのを、山犬への猛烈な怒りが支えた。

(すぐに行くから、二人とも、無事で居てくれ……!)

 程なく、犬の吠える声と男達の叫ぶ声が聞こえて来た。その方向に何があるか思い至って、ぞっとした。

 西側の村への道は緩い上り坂になっている為、海から見ると崖になっている所が数か所あった。どの崖も、高さは左程でもないのだが、崖下は岩場になっている。波も荒く潮流も複雑で、生まれてすぐから海に潜っているような漁師たちでさえ、普段なら近寄らない。

 その崖の一つから、声が聞こえて来ていた。ヨナの亭主のカイジュがウネリに気付き、足早に近づいて来て恐れていた事を口にした。

「坊主とカヤが、崖から落ちた」

 聞くなり、斧を取り落とし海に飛び込もうとするウネリを、カイジュ達が数人がかりで取り押さえた。

「こっちから縄で降りて、二人を探してる! 下からも船で探すよう、村の奴に伝えてある。頼むから、落ち着いてくれ!」

 カイジュ達が追いついたのは、自分が袋小路に入り込んでしまった事を悟った山犬が、逃げ道を塞ぐように立ち息を切らすヨナを排除しようと唸りながら崖に背を向けたところだった。我が子を取り戻そうと必死のヨナが、山犬に飛び掛かった。反撃しようと首を振った山犬の口から、子供の体が吹っ飛んだ。その先は、激しい波に洗われる岩場が待つ空中だった。迷うことなくカヤは空に飛び出し、子供を抱き寄せた。水に落ちる音は、一つしかしなかった。

 ウネリが駆け付けた時には、逃げ道を塞がれ、獲物も手放してしまった山犬は、既にカイジュ達に捕獲されていた。

 怒りの余り、青白い顔で斧を拾い上げ振りかぶったウネリの腕を、いつの間にか背後に立っていたミズナが掴んだ。

「やめておけ」

「放してくれ!」

「食わない生き物は殺さない、手向かいしてこない獣も殺さない。この世界の決まりだ。そしてアタシは、世界の決まりを守る為の魔術使いだ。気持ちはわかるが、この手を放すわけにはいかない」

「こいつは手向かいしてきた! 子供が、カヤが……!」

「例えそうでも、今のこいつは手向かい出来る状態じゃない。手を下ろせ」

 その時、崖下から男達が叫んだ。

「見つけたぞ!」

 ウネリは、ハッとして崖に駆け寄った。波に揉まれ乍ら、何とか二人を引き上げようと、男達が数人がかりで協力し、船を操り手を伸ばしていた。

「掴んだぞ! 引き上げてこのまま入り江に運ぶから、皆そっちに行っててくれ!」

 ウネリとミズナが、同時に走り出した。

 入り江に着くと、二人は既に船から下され、ミズナの家に運ぶ為の板に寝かされていた。男達の一人がミズナに話しかけてきた。

「水を飲んでる様じゃないんだが……」

 言い淀む声に不吉なものを感じた。

 誰かが乾いた柔らかい布を掛けてくれたらしく、ウネリからは二人の様子がよく見えなかった。駆け寄って二人に取りすがろうとしたウネリを、ミズナが厳しい声で止めた。

「揺するんじゃない! 怪我をしてるなら、傷にひびく! 出来るだけ静かに、アタシの家に運ぶんだ。ヒナガは居るか? 湯を沸かして、薬ときれいな布を用意しておけ。急げ!」

 ヒナガは返事を返すのももどかしいとばかりに、頷きながら走り出していた。

 ミズナの指示のもと二人を乗せた板が運ばれていく間中、ウネリは二人の名前を呼び続けていたが、答えが返ってくることはなかった。

 ミズナの家に運び込まれた二人は、囲炉裏の側に板ごとゆっくりと置かれた時も、動く様子はなかった。

「ヒナガ以外の者は、外で待っててくれ。ウネリもだ」

 二人の側を離れようとしないウネリを何人かで抱きかかえるようにして、村人達は外に出ていった。青ざめた顔で震えながら立ち尽くすウネリを、カイジュ達が支えるように寄り添った。

 程なく、ヒナガがウネリを呼びに来た。

 脚をもつれさせながら飛び込むようにミズナの家に入ると、布団が二組敷かれていた。囲炉裏から離れた方に子供が寝かされている様だったが、顔の上まで布が掛けられていた。

(何で顔にまで布が掛けられているんだ。これじゃあ、寝苦しいじゃないか)

 顔から布をどけてやると、息子は白い顔で目を閉じていたが、目立った怪我はない様だった。頭を撫でてやろうとした時、背後から枯れた声で、ミズナが言った。

「……もう亡くなっていた……おそらく、振り回されてた衝撃で、首が折れてしまっていたんだ……」

 言われていることが理解できず、ウネリは息子の顔をまじまじと見た。小さな口も、少し上を向いた鼻も、カヤによく似た睫毛がちの今は閉じられている目元も、ただ眠っている様にしか見えなかった。

(ミズナさんは、何を言ってるんだ?)

 ウネリは、そっと息子を抱き上げた。くたりとした体に、力が入ることはなかった。

(嘘だ)

「……嘘だ。こいつは眠ってるだけですよ。いつも寝坊助なんだ。だって、こんなにいつも通り……」

「助けてやれなくて、済まない……」

 絞るように、ミズナが言った。

 いつの間にか隣に来ていたヒナガが、辛そうにウネリに告げた。

「カヤさんも、まだ意識が戻ってこないんです」

 ウネリは、息子の体を抱きながら、横たわるカヤを見つめた。頭頂から鼻の頭まで布で巻かれ、辛うじて見えている唇は、渇いて皮がめくれていた。上掛けに伸ばそうとしたとした手を、ミズナに止められた。

「動かさないでやってくれ。体中、擦り傷や打撲だらけで、何か所か骨も折れているんだ。痛み止めを限界まで与えてるが、どれくらい効いてるのかわからない。酷く頭も打ってた。自分を捨てて、子供を庇ったんだろう。自分を護る為の傷は、一つもなかった」

 二人ともウネリには言い出せなかったが、カヤの頭の傷は、深刻なものだった。目に見える傷は縫えたが、頭蓋骨の一部は陥没し、頭の奥の方では、血が漏れて、溜まっている様だった。まだ息をしているのが不思議な位の、大怪我だった。

(せめて、もっと浅いところの出血なら、アタシとヒナガでどうにか出来たかも知れないのに……!)

 ミズナは口惜しさで、爪が食い込むほど拳を握った。自分に出来るのは、少しでも苦痛を感じさせないことだけだった。ヒナガが、薬草を漬けた水で、カヤの唇を湿らせてやっていた。

 その時、カヤの唇がピクリと動いた。ヒナガは、はっとして、カヤの口元に耳を寄せた。

 ウネリさんを呼んでますと、自分の代わりにウネリをカヤの枕元に座らせた。

「カヤ、どうした? 痛いのか?」

 カヤの顔に己の顔を寄せながら、ウネリが聞いた。

「あの子……どう……?」

 ボロボロになりながら我が子を案じる妻に、息子の死を告げることは出来なかった。

「……大した怪我はしてなかった。ありがとな、カヤ」

「……そう……」

 笑みを浮かべたのか、少し唇を震わせ、カヤはまた意識を失った。その後、意識が戻ることはなかった。

 次の日の朝、カヤは息を引き取った。

 茫然とするウネリに代わって、ヒナガが二人の葬儀を執り行った。

 その間ミズナは、村人たちに要所に獣除けの仕掛けを増やすよう指示を出した。そして、あの時捕まえた山犬には、厳重に術を施してから山に放した。

「二度と近づかない様、人に対する恐怖を魂に刷り込んだ。あいつは、新しい群れを作る為に、今までの群れを飛び出した若い個体だった。新しい群れを作れば、人に対する恐怖を群れの仲間に伝えていくだろう。少なくとも、あいつの子孫たちが人を襲うことはなくなる筈だ……アタシに出来るのは、これ位だ」

 カヤ達の葬儀が済んだ後、ウネリの家にやって来たミズナは言った。ウネリは、黙って聞いていた。怒りも哀しさも感じなかった。その様子を、ヒナガが気遣わし気に見ていた。

 ただボンヤリと、また自分は一人になったんだなと思った。子供の頃よりも、もっと孤独になった。

 漁にも出ず、放っておくと食事すらしないウネリの家に、ヒナガが泊まり込んで世話をした。黙って食事を作り、部屋を掃除し、湯を沸かし、着替えを用意してやった。

 二人の葬儀から数日後の夜、初めてヒナガはウネリに話しかけた。

「僕達神官は、魔術使いの様な眼は持っていないので、魂がどうなっているのか視ることは出来ません。

 その代わり、学ぶことがあります。全てのものは、同じ混沌から成り立っているという事です。生き物もそれ以外の全ても、同じところからやって来るんです。形を変え、時には目に見えない現象として、存在と消滅を繰り返す。そうやって、この世は廻っているんです。そうであって欲しいという希望ではなく、あなたの胸の中に生き続けるとかそういう事でもなく、確かな事として学ぶんです。それは、まるで愛しい者が生きる世界を守り続ける為の仕組みのように僕には思えます」

 ウネリと視線を合わせ、ヒナガは語りかけた。

「辛い時、哀しい時、しんどい時は、思い出に浸ってもいい。怒鳴り散らしたっていい。先生や僕に、文句を言ったっていいんです。

 でも、忘れないで下さい。たとえ触れ合えなくても、カヤさん達の存在も、きっとこの世界を廻らせているんです」

 ウネリは、カヤ達が死んでから初めて、心が騒めくのを感じた。涙が零れ落ち、擦れた声が洩れた。

「何であいつらが、あんな酷い目にあった……あんな目にあう必要が、どこにあったって言うんだ……どうして俺は、間に合わなかったんだ……!」

 ウネリは、膝を抱え、肩を震わせ泣き続けた。ヒナガは、黙ってその背をさすってやった。

 二人は暫くそうしていたが、やがて、ウネリの肩の震えが、徐々に収まってきた。落ち着いたのを見計らって、ヒナガは白湯を淹れてやった。

「……済まん」

 小さく呟くウネリに、ヒナガはゆっくりと話しかけた。

「さ、湯を飲んで。飲み終わったら、もう寝てください。布団敷きましょう」

 次の日、朝早くに漁に出たウネリを見届け、ヒナガは自分の家に帰って行った。


 カヤ達が亡くなって一月あまりたった今も、喪失感が消えた訳ではない。哀しさを乗り越えた訳でもない。 だが、自分は日々を生きていこうと思った。自分を包んでくれたもの達が世界を廻らせているというなら、きっと、自分が生きている意味もあるのかもしれない。

 養父に引き取られて暫くしたころ、なぜ自分を引き取ってくれたのか聞いてみたことがあった。養父は考え込み、暫くして口を開いた。

「そういや、理由を考えたことはなかったな。何でなんだろうなぁ。俺にもよくわからん。一人暮らしも気楽でよかったしな。

 だけど、誰も頼る身内が居なくなったお前の小さな背中を見てたら、こいつは何処に帰ればいいんだろうと思ったんだ。だから、お前の帰る家になろうと思ったんだろうな、多分」

 まあこれも縁ってやつだと言って、ガハハと笑いながら、ウネリの頭をぐしゃぐしゃに撫で回した養父の顔を思い出した。

 あの夜見つけた赤ん坊は、あの頃の俺だ。

 帰る家を無くした俺と、この世の何とも繋がっていない赤ん坊は、同じだ。

「この子にも帰る家が必要になる」

 ミズナの言った言葉の意味に、向かいあってみようと思った。

 赤ん坊を預けてから、足が遠のいていたミズナの家を目指し、家を出た。

 赤い月と白い月が、ウネリの歩く道を照らしていた。


 相談所の入り口からは、明かりが漏れていた。様子を伺ってみると、どうやらヒナガも居るらしい。数回叩いて合図してから、引き戸を開けた。

「今晩はミズナさん、ヒナガ」

「今晩は、ウネリさん」 

「静かにしろよ。赤ん坊が驚くだろ」

 むすっとしながら、ミズナは言った。腕には、あの赤ん坊が抱っこされていた。

「ミズナさん、その子のことなんだが」

 ミズナはじろりとウネリを見た。

「俺に、育てさせてくれないか」

 ウネリの様子をじっと見て、ミズナは言った。

「今更、どういう風の吹き回しだ? 何ならこのまま、アタシが育ててやろうかと思い始めていたんだ。ヒナガとも丁度そんな話をしてたところだ」

「いやぁ、先生に子育て、出来ますかねぇ。ましてや女の子ですよ? 乱暴者に育っちゃったら、可哀想じゃないですか」

 ミズナに睨まれてこれだけ落ち着いていられるのは、村ではヒナガだけだろう。

 そんな二人に、ウネリは、ここ数日考えていたことを訥々と語った。

「……俺は、家族に恵まれているとは言えない人生を過ごしてきた。いつも、手に入れた筈の大事なものが、零れ落ちていくんだ。その度に、虚しくなった。大事なものがあるから、哀しくなるんだ。

 だが、知らなければ良かったとは、思わない」

 ミズナもヒナガも、黙って聞いていた。

「哀しさだけじゃないんだ、皆から貰ったものは。どんなに辛くても、あの暖かい日々が、無ければ良かったなんて思わない。俺はこの子に、それを知ってほしいと思った。

 巫女とかなんとか、俺にはよく分からないし、分からないものは考えてもしょうがない。ただ、大事にされることも、大事にすることも、独りぼっちのこの子に知って欲しいと思ったんだ」

 ウネリは、ミズナの目を真っ直ぐ見て言った。

「俺は、この子の帰る家になりたい」

 ミズナは、暫くウネリを見つめ、それから腕の中の赤ん坊を見た。

「実は、お前が来るちょっと前に、神殿から返事が来た。おっさんどもの見解も、巫女で間違いないだろうだとさ。お前に育てさせるようにってお達しだった。

 でも、赤ん坊一人育てるんだ。押し付ける訳にはいかないじゃないか。まして、この子の出自は、普通とは違う。いざ何か起きたら、お前が責任を取らなければいけなくなるかもしれない。いずれ、辛い思いをすることになるかもしれない。

 お前は、それも承知で、この子を育てていけるのか?」

 いつも通りの、乱暴で強い口調だったが、その目は、赤ん坊とウネリを気遣うものだった。

「先の事は、約束出来ない。でも、ミズナさん、ヒナガ、あんた達に誓う。俺は、この子の家族になる」

 ミズナとヒナガは、視線を合わせ、頷いた。

「それはアタシらじゃなく、この子に誓え。

 今を持って、この赤ん坊は、お前の娘になった。名前を決めてやれ。この子への最初の贈り物だ」

 ウネリは、身二つになる前のカヤと、幸せに包まれて交わした会話を思い出していた。

『ねえ、子供の名前、もう考えてくれた?』

『ああ、決めた。男の子ならソル、女の子なら……』

「ファイ、にします」

「いい名前ですね。ファイちゃんか」

 ヒナガが、赤ん坊のほっぺたを軽くつついた。

 ミズナは腕に抱いていた赤ん坊を、ウネリに渡しながら言った。

「この子を、なるべく普通の子として育ててやってくれ。選ばれた特別な子だと線を引かれることがないよう、出自はアタシとヒナガ以外にはもちろん、時機が来るまで本人にも漏らさないでくれ」

 村の子供に親が居なくなれば、誰かが引き取って面倒を見る。実際ウネリも、そういう子供の一人だった。誰も当てがなければ、その子が一人で暮らして行ける様になるまで、神官か魔術使いが面倒を見る。それが無理だったり、親が子供を育てられないと顔役に判断されたりすると、新たな親代わりを見つける為に、別の土地の顔役に相談が行くこともそれ程珍しくはない。だから誰も、養子に対して、特別扱いはしなかった。

「養子であることは、すぐ本人に伝わっちまいませんか?」

「お前と血の繫がりがないことは、伝わってもいい。隠すようなことでも無いし、最初から話しておいて一向に構わない。

 でもな、特別な子だと皆に知れたらどうなる?

 例えば、村にアタシらでも手に負えないような流行り病が発生したら? 不漁が続いたり、作物が育たない年が続いたら? 何とかして欲しいと、何かに縋りついてしまう事もあるだろう。そんな時、巫女なんてものが居たとしたら、真っ先にその対象になりかねない。その時この子は、辛い思いをする事になるだろう。

 だから、誰にも知られない方がいいんだ」

 ウネリは、成程、そうかもしれないと思い、頷いた。

「それと、この子が持っていた卵だが、必ずこの子の近くに置いておけ。例えお前が踏んづけたとしても、この卵が割れることはないから、安心しろ。一応お守り袋を作っておいた。これに入れてある」

 そう言いながら、ミズナはウネリに、可愛らしい柄で作られたお守り袋を渡した。わかりましたと言いながら、ウネリはそれを受けとった。それを見て、ヒナガが口をとがらせて言った。

「いや、袋を作ったのは、僕なんですけどね。先生、自分が作ったみたいに言うのはずるくないですか?

 それはそうと、ウネリさんに預けることにした理由は、どうします? ファイちゃんは、先生の知人から預かったことになってますから、ウネリさんとの縁は唐突な感じがしますけど」

「そうでもないさ。昼間は、村の女衆が皆で面倒を看てくれるが、夜になれば、家族の世話がある。今この村で、夜も赤ん坊がもう一人増えても大丈夫な余裕のある家は、独り身の奴らが多い。その中で、ウネリは、子育ての経験がある。

 アタシもヒナガも、それぞれやらなきゃいけない仕事がある。だからウネリに、アタシが押し付けた事にする。ま、仕事があるのは事実だしな」

 ミズナはそう言うと、ウネリにもう帰って寝るように言った。いつの間にか、夜もかなり更けてきていた。

「まあ、寝かせてもらえるかは、わからないけどな」

 ニヤニヤしながら、二人はウネリを送り出した。その人の悪い笑みの意味を、ウネリはすぐに知ることになる。


 ウネリを送り出した後、ミズナとヒナガはこれからの事を話し合っていた。

「ウネリさんが、自分から養い親になるって言ってくれたのは驚きました。正直、説得出来る自信がなかったです」

「まあな。だが、何時の時代の巫女の親達も、必ず最初に選ばれた者がなってくれて、心を注いで育ててくれた。そのお蔭で、今のアタシ達があるんだ」

 そう言い乍らも、ミズナは顔を曇らせた。

「こんな運命なんて、無いに越したことはないのにな」

 神官と魔術使い達は、伝説では触れられていないことも、神殿で学んでいた。

 巫女は、百年毎に現れる。どこに現れるかは決まっていなかったが、大抵の場合、身内と縁の薄い者や、子供を亡くしたばかりの親の処に現れていた。それが必要だと判っていても、まるで心細さにつけ込んでいるかのような顕れ方が、ミズナには遣り切れなかった。

 だが、巫女に非はない。ただの無力な赤ん坊なのだ。

「神殿の先生達の手紙には、注意事項は何も書かれてませんでしたね」

「嫌って程学んだアタシ達を信頼してるんだろう。そもそも、人生五十年、百年前の出来事なんて先達の記録の中にしかないんだ。今は様子見するしかないだろう。

 さて、前から言ってた様に、アタシ達にはこれから色々やることがある。神殿にも近々行ってこよう。時間は限られてる。お前だってこれ以上、誰かに辛い思いをさせたくないだろ? その意外と優秀な頭脳も、今が使いどころって訳だ。宝の持ち腐れにならないで済むな」

「遠慮なく褒めてくれていいのに。わかってますって。あーあ、何で僕の先生は、こんな人使いの荒い人なんだろ。寿命が縮んだら、どうしてくれるんです」

「その分、アタシが長生きしてやるよ」

 わざとらしくため息をつくヒナガに、ミズナはうそぶいた。


 ファイを家に連れ帰ったウネリは、早速困ることになった。

 ファイは中々寝なかった。夜泣きする訳ではないのだが、じっと窓の方を見るようにして、ぼんやりとしている。

 ファイを寝かせてある籠を軽くゆすってやりながら、カヤは息子がぐずると、よく子守唄を唄ってやっていたのを思い出した。だが、自分は唄がうまくない。唄ってやったところで、泣きだしてしまったら、どうしたらいいかわからない。ため息をつきながら、呟いた。

「カヤは……母さんは、歌が上手だったんだが、俺は、子守唄一つ唄ってやれない。

 だが、縁あって、今日から俺たちは家族になったんだ。まだお互い分からない者同士だが、仲良くやっていこう」

 自分に語り掛ける声に反応したのか、ファイの真っ黒な瞳はウネリを見つめていた。

「今、どれくらい目が見えてるかもわからんが、これから先お前が見るもの全て、幸せに繋がっているよう願うよ」

 黒目がちの大きな瞳に、自分の顔が映し出されている。

(今度こそ、護る)

 その瞳に誓った。


 次の日、夜明けと共に、ヒナガがウネリの家にやって来て、扉越しに声をかけた。

「おはようございます」

「……おはよう。少し静かにしてくれ。あいつ、寝たばかりなんだ」

 引き戸を開け乍ら、目の下に隈を作ったウネリが、弱々しく答えた。

「だから言ったでしょ、寝かせてもらえないかもって」

 一応気を使っているのか、そっと三和土に上がりながら、小声でヒナガは言った。

「先生に言われて、牛の乳を少し持ってきました。本当は、赤ん坊にあんまりあげちゃいけないんですけど、よく沸かしてから少量を重湯に混ぜる程度なら、ファイちゃんなら大丈夫だって。

 僕、作りますから、ウネリさんは少し寝たらどうですか?」

「そうしたいが、作り方を教えてくれ。俺も出来るようにならないと」

「それは構いませんけど、そんなにすぐ、何もかも出来なくてもいいんじゃないですか?無理すると、後々大変ですよ」

「ありがとう。だが、今寝たら、漁に出られなくなりそうだし、いいんだ」

「そのことなんですけど、ウネリさん、暫く漁は休んで、畑の方をやりませんか? 今の時期、次の種まきの為の土を作るんで、男手があると助かるんですけど」

「俺は、畑仕事はよく判らないんだが……」

「勿論、ちゃんと教えます。畑なら、子育て経験豊富な女の人達に色々聞きながら出来ますよ。もう少しファイちゃんが大きくなったら、また漁をしたらいいんじゃないでしょうか……なにより、それまで僕が楽できます」

 ヒナガの言葉に、ウネリは思わず吹き出した。

「笑い事じゃないんですよ。先生の畑も押し付けられて、大変なんですから」

 本当に人使いが荒いんですよ、とブツブツ言うヒナガの申し出を、ウネリはありがたく受けることにした。

「面倒をかけるが、よろしく頼むよ。色々教えてくれ」

「こちらこそ、よろしくお願いします。とりあえず、重湯を作りますか。ファイちゃんも目を覚ましたみたいだし」

 そう言いながら、ヒナガは手早く支度を始めた。ウネリはファイを抱きながら、ヒナガが重湯を作るのを見ていた。

 出来上がった重湯を、ウネリが冷まし乍らファイに与えている間に、ヒナガは余った乳と米で乳粥を作ってくれていた。

「良かったら食べて下さい。僕は一度帰ります。畑始める時に声掛けに来ますから、それまでファイちゃん預かってましょうか?」

「何だ、食べていかないのか?」

「母さんが待ってるんで。今日の食事当番、僕なんです……なんか僕、一日中誰かの食事作ってる気がします」

 ヒナガは、機織りや裁縫を村の娘達に教えている母親と二人で暮らしている。彼女もまた姉御肌な女性で、ミズナと気も合っているらしく、ヒナガはよく自分の立場をぼやいていた。

「ありがとう。ファイはこのままで大丈夫だ。流石に、腹一杯になったらまた寝るだろうから、俺も一緒に仮眠をとるよ。済まないが、畑に出る時は声を掛けてくれ」

「わかりました。じゃあ、失礼します」

 うとうとしだしたファイのおむつを替え籠に寝かせ、ヒナガの作ってくれた粥を食べると、優しい味に眠気がどっと押し寄せて来た。

「あいつ、女衆に人気あるのは知ってるが、もし女に生まれてても、引く手あまただろうな……」

 呟きながら、瞼が重くなってくるのに任せ、そのまま眠り込んだ。


 ヒナガがウネリを呼びに来たのは、日が空の真ん中に差し掛かる少し前だった。寝過ごしてしまったと詫びるウネリに、ヒナガは大丈夫ですよと言った。

「今日は、種の選定やってもらいます。そんなに時間かからないので、今から始めて丁度いい位ですよ。明日からは、体力使うんで、覚悟しておいて下さい」

「力仕事なら、任せてくれ」

「体力使うのは、力仕事だけじゃないんですけどね」

「なんか言ったか?」

「いえ、何も」

 ファイを連れていく為の支度を、ヒナガが手伝った。

「おしめの替えと、汚れたおしめなんかを入れる袋、それとは別に、布を何枚か。持ってると何かと便利ですよ。今日は家の納屋で作業するんで、家に行くまでの間だけ、薄手の布を日除けに掛けてあげましょう。

 明日からは外作業になるんで、作業中はヨナさんの家でファイちゃんを預かってもらいましょう。家に行く前にヨナさんの家に寄って、ファイちゃんにお乳貰いがてら、明日からの事お願いしましょうね。お礼用に、ヨナさんの好きな、牛の乳のお菓子を持って来てあるんで、渡してあげて下さい」

「……ありがとう、助かる……お前、若いのに色々気が利くなぁ……」

「そうですか?母さんや先生からは、まだまだ気が利かないって、よく言われてます」

 これで気が利かないんだったら、俺なんてとんだのろまと罵られるんだろうなと思いながら、ウネリは自分が情けなくなった。

「さて、支度出来たし行きましょうか」

 道々、ヒナガはこれからの予定をウネリに説明した。

 アカネ月が終わると、年が明ける。年明けから十日後、ミズナがその年初の種蒔きを行う。収穫を得る為のものではなく、芽の成長具合をみて、今後何を植えたら豊作になるかを計る為の、試験的な種蒔きである。米や麦は勿論、菜っ葉や根菜、匂い消しや香り付け用の葉など数種類蒔くのだが、詳細な成長記録をつける必要があり、それは種の内から始まる。今日の作業は、種の選別と記録を同時に行うのだ。

「この辺は海が近いから、塩に強い作物を作ってるでしょう? だから、種類はそんなにないんです。いつもは先生と僕で充分間に合うんですけど、先生は手が離せない用があるとかで、丁度人手が欲しかったんです。作業自体は難しくないんですけど、記録をつけ乍らだと、思いの外時間がかかるんですよね。ウネリさんが居てくれて助かりますよ。

 明日からはそれ用の土作りなんで、いよいよ力仕事です。肥料の配合も何種類か作るので、これも記録を取りながらになります」

「意外とやることがあるんだな」

「今回は畑仕事というより、あくまで試験なんで細かい作業がありますから。その結果が皆の畑に反映されるので、本格的な農作業をする前に見ておくと、実践の参考になると思いますよ」

 話しているうちにヨナの家に着いた。ヒナガは、先に帰って準備してますと言って、その場を後にした。

 ヨナの家に声を掛けながら入っていくと、夫のカイジュが既に漁から戻っていて、上の子供二人と共にウネリを出迎えた。ヨナは、丁度赤ん坊を寝かしつけている所だった。ファイのことを頼むと笑顔で引き受けてくれた。

「この子、ウネリが引き取ったのね。ファイって言うの、いい名だわ。乳? 勿論いいわよ。そのつもりだったし。昨日までだって、あたしがあげてたのよ」

「ミズナさん達から聞いたよ。色々迷惑をかけると思うが、これからもよろしく頼むよ」

「困ったときは、お互い様よ……ウネリ、大丈夫?無理はしていない?」

 カヤ達の件以来、カイジュとヨナ夫婦は、沈みがちなウネリを何かと気遣ってくれていた。ヒナガに持たされたお菓子を渡しながら、ウネリは心から礼を述べた。

「心配してくれてありがとう。これ、よかったら食べてくれ」

「あら、嬉しい、ありがとう。遠慮なく頂くわ」

 乳をやる為、ファイをウネリから受け取り、ヨナは奥の部屋に引っ込んだ。上の子供達は、弟を看ている様母親に言われ、二人して寝付いたばかりの弟の顔を覗き込んでいた。ウネリは、後に残されたカイジュに改めて礼を述べた。

「ここのところ、お前達夫婦にも随分と面倒を掛けてしまった。本当にありがとう。感謝しているよ」

「なに、餓鬼の頃からの付き合いだ。気にするな。それより、お前、ちゃんと飯食ってるか?」

「なんとかな。まあ、ヒナガみたいな訳にはいかないがな」

「あいつの飯、美味いもんなぁ。ここだけの話、ヨナよりよっぽど上手だぜ」

 笑いながらが言ったとたん、奥の部屋からヨナの声が聞こえた。

「聞こえてるんだけど。あんたと子供の面倒を看乍ら食事作ってるあたしに、感謝こそすれ、飯が不味いってどういう了見なんだろね。嫌なら食べなくて結構よ」

 思わずカイジュは首を竦めた。

「不味いなんて言ってないだろ。ありがたいと思ってるぜ……本当、おっかねえな」

 最後はヨナに聞こえないよう、呟くように言った。ウネリは、そんな二人のやり取りを眩し気に見ていた。 自分が無くしてしまった何てことない日常が、そこにあった。胸が痛んだが、それは焼けつく様なものではなく、水面に出来る波紋の様に静かに広がり、やがて収束していった。

「大丈夫か?」

 黙ってしまったウネリに、カイジュが心配そうに声を掛けた。

「大丈夫だ。今日は色々やることがあるから、つい考え込んじまった」

 ぎこちない笑顔でカイジュにそう返した時、奥からヨナがファイを連れて現れた。ファイをウネリに渡し、ファイのほっぺたをつついて言った。

「はい、お腹一杯になったね。それにしても、ファイちゃんは本当に大人しいわね。女の子って、皆こうなのかしらね」

 男の子三人の母であるヨナは、それはもう毎日大変な騒ぎだといって、ため息をついた。まだ話し足りなさそうにしていたが、思い出したように自分から話を切り上げた。

「あら、何時までも引き止めてちゃいけないわね。これからヒナガの処に行くんでしょ?お菓子のお礼、言っておいて頂戴。あれ、ヒナガが持たせてくれたんでしょ」

 ウネリがこんなに気が利くはずないものと、笑いながらヨナが言った。

 カイジュとヨナは、去っていくウネリの後ろ姿を二人で見送った。

「あいつ、少しは気持ちが落ち着いたのかな」

「そうだといいわね。ファイちゃんを引き取ったのも、そういう事なのよね、きっと。カヤ達の為にも、何時までも哀しんでるだけじゃいけないわ」

 ウネリ達のこれからが幸せであるよう、二人は祈った。


 ヒナガの家に着くと、ファイをヒナガの母に預け、ウネリは早速作業に入ることになった。

 細々と記録をつけたりしながらの作業が終わる頃には、だいぶ日が傾いていたが、まだ明かりが必要になるほどではなかった。ファイを受け取り帰ろうとするウネリに、ヒナガの母が、夕飯を食べていくよう言った。

「帰りはヒナガに送らせるし、いいじゃない。一人分増えたって、それほど作る手間は変わりゃしないわよ。ファイちゃん可愛いし、もう少し面倒みさせなさいよ。あたし、女の子も欲しかったのよね」

「母さん、無理強いするもんじゃないよ。それに、どうせ今日の食事当番は僕じゃないか。まず、僕に聞くのが筋ってもんじゃないの?」

 どうやら息子の文句は聞こえないことになっているらしく、これなんか似合うと思うのよねなどと言いながら、箪笥から可愛い産着を幾つか取り出してきた。

「……ぜひ、食べていって下さい。母の相手をしてくれると、助かります」

 ため息混じりにいうヒナガに、ウネリは頷かざるをえなかった。

 久しぶりの賑やかな夕食は、ウネリを不思議な感覚に陥らせていた。この場所と心が切り離され、自分の声すら遠くから聞こえるように感じられた。心細いような、何とも言えない気持ちで周りを見回した時、ファイの真っ黒な瞳と目が合った。その瞬間、急激に心と体が重なり合ったような気がして、軽く眩暈がした。

「どうしたの、ウネリ。疲れたの? 何なら、泊まっていく?」

「大丈夫です。でも、今日はもう帰ります。夕飯、ご馳走様でした。久しぶりに美味しいもの食べさせてもらいました」

 ヒナガの母はそれ以上は引き止めず、またいつでも来なさいよと笑顔で言って、産着を何枚か持たせた。

 明かりを持ったヒナガが、二人を家まで送ってくれた。三人でゆっくりと歩きながら、ヒナガはウネリに詫びた。

「今日は引き止めちゃってすいませんでした。慣れない作業の上、母さんの相手もして貰っちゃって、疲れたでしょう?」

「そんなことはない。ただ……」

 自分が先ほど感じたことを、言葉にするのが難しかった。

「一人になってから、何で自分がここにいるのか分からなくなることがあるんだ。毎日腹も減るし、眠りもする。でも、それを遠くから見ているような、自分と関係ない事のように感じるんだ」

 ヒナガは、黙って聞いていた。

「さっきも、本当はそう感じていた。どこか、夢の中の出来事のように。そしたら、ファイと目が合った」

 籠の中で大人しくしているファイを見た。ファイは、空をぼうっと見ているようだった。

「それで、自分がここに居ることに気づいたんだ」

 二人は暫く黙って並んで歩いていた。ウネリの家が見えてきた頃、ヒナガがぽつりと言った。

「辛いことがあると、心が時間を止めちゃうことがあるって、前に先生が言ってました。僕はそういう経験がないからよくわからないけど、きっと、ファイちゃんがウネリさんの時間を動かしたんですね」

 ウネリにもよくわからなかった。だがあの瞬間のファイの真っ黒な瞳は、これから先、ずっと忘れないような気がしていた。

 次の日朝早くヒナガが迎えに行くと、ウネリは既に起きていて、すぐに出られるよう支度も済ませていた。

「おはようございます。昨夜は寝られましたか?」

「相変わらずファイは中々寝ないが、それでも一昨日よりは寝られたよ」

「それはよかったです。この間も言ったけど、今日は体力使うと思うので、寝ておかないと辛いですからね」

 早速歩き出しながら、ヒナガが言った。畑の土作りに体力がいるのは知っているが、ヒナガの話によると、今日作るのは、そんなに面積がある訳ではない筈だ。そんなに大変なのかと思いながらファイをヨナの家に預け、ミズナの畑に向かう。

「そうだ、先生は、暫く留守にするって言ってました。多分、十日位は帰ってこないと思います。その間に終わらせておかないと新年の種まきに間に合わないかもしれないので、責任重大ですよ」

「そうか。でも、そんな時期に留守にして大丈夫なのか?」

 今までも、ミズナは村を何日か空けることがよくあった。村にはヒナガもいるし、ミズナは近隣の村の魔術師や神官との情報交換にも積極的だったからだ。自分から赴くだけではなく、村に彼らを呼ぶこともあった。

「それは大丈夫なんですけど、畑仕事が終わってないと、僕たちが大丈夫じゃないかもしれません」

 もし、成すべき事が済んでないと、ヒナガとウネリには、ミズナからの恐ろしい制裁が待っているらしい。具体例を聞きたくなかったウネリは、精一杯勤めることを心に誓った。

 二人して黙々と作業をしていると、あっという間に昼になった。一休みしましょうとヒナガに声を掛けられ、ウネリは鍬にもたれて腰を伸ばした。

「土を耕すのなんか久しぶりだ。結構腰を使うな」

「そろそろ皆が、お昼を持ってきてくれますよ。それを頂いたら、今度は記録を取りながら畝別に肥料を混ぜます。土は起こしたから、力は今ほど必要ないですよ。肥料の運搬があるくらいで」

「思った程、疲れなかったな。まだ出来るぞ」

「そうだといいですね」

 何故か、やや気の毒そうに言うヒナガに疑問を感じたが、丁度女衆がやって来た為、問い返すことは出来なかった。

 十人程でやって来た女達は、差し入れにと、皆手料理を持って来てくれた。とても二人で食べきれる量ではないだろうとウネリは思ったが彼女達は、当然自分達も食べていくつもりで来ているので、敷物や飲み物もぬかりなく持参していた。そして、賑やかすぎる昼飯になった。

「ウネリ、あの女の子引き取ったんですって?」

「はあ」

「わからないことがあったら、遠慮なくあたし達に聞きなさいよ」

「ありがとう、世話になります」

「女の子、いいわよ。いずれ、あんたのご飯とか作ってくれるようになるし」

「はあ」

「すぐ大きくちゃっうわよ。そんで、あっという間に嫁にいっちゃうんだから」

「……はあ」

「嫁と言えばさ、あの話、聞いた?」

「あー、あれでしょ、隣村のジュリナの駆け落ちでしょ」

「そうそう。それがさ……」

 めまぐるしく話題が変わっていく女達についていけず、食事の間中、ウネリはただ「はあ」「へえ」と、相槌を返すのが精一杯だった。横目でヒナガを見ると、いつも通りニコニコしながら話を聞き、時折自分から話題を提供したりと、如才なく振舞っていた。

 持ち寄った食料も粗方食べ終わり、四方山話も一段落着いたのか、女達は帰り支度を始めた。

「そろそろ旦那も帰って来るし、あたし達も、やることやらなくちゃね」

「またね、ウネリ、ヒナガ」

「うちの畑の手伝いも宜しくね」

「うちもね」

 口々に言いながら、来たとき同様、賑やかに去っていった。後に残されたウネリは、茫然と立ち尽くしていた。

「残りの作業、始められますか?」

「……もう少しだけ、休ませてくれ」 

 ヒナガの言っていたのは、こういうことだったのかと、ウネリは納得した。体力とはまた違う何かをごっそりと減らしてしまったようで、暫く動き出せなかった。

「……疲れた……」

 苦笑いしながら、ヒナガはウネリの呟きに答えた。

「今日は皆、いつもより静かでしたよ。あれで、ウネリさんに気を使ってたんじゃないかな」

 あれで静かな方なのか……声に出さず、ウネリは空を見上げた。

「これから先、こういった近所付き合いも大事ですよ。根が好い人達だし、ウネリさんの事、皆ずっと心配してくれてたんですよ」

「わかってる。本当にありがたいと思ってるんだが……ただ、これから先、あれについていけるか自信がない」

 真顔で、ヒナガは答えた。

「ウネリさん、女性達との近所付き合いに必要な極意を教えておきますね。黙って話を聞く、あげ足を取らない、感謝の気持ちはその場で伝える、です」

 考えてみたら、ウネリはずっと男所帯で育ち、漁師という仕事も圧倒的に男ばかりで、女達の集団というものを、ほぼ知らずに生きてきたのだ。勿論、個々に話すことは今までもあったが、集団になるとまったく別の付き合い方を必要とすることを、初めて知った。

「成程。勉強になった」

「それじゃあ気を取りなおして、残りの作業を終わらせちゃいましょう」

 午後からの作業は、思ったより力は使わなかったが、昼食時の疲れが残ってたのか、終わる頃にはウネリはぐったりとしてしまった。

「お疲れさまでした。残りは明日でいいので、今日はこれで切り上げましょう」

 日も傾いてきたし、ファイを迎えに行かなくてはいけない。ウネリはとぼとぼと、ヨナの家に向かった。


 年が明け、新年の種蒔きが済む頃には、ウネリはファイとの生活にだいぶ慣れてきていた。

 ファイは、とても手のかからない子だった。夜は天井を透かし見るようにして中々寝なかったが、泣き喚くようなことはめったになく、ウネリが傍で体を撫でて声を掛けてやったり抱き上げてやったりすれば、その内安心したように眠ってしまう。一見、すくすくと育っていた。枕元にあのお守り袋を置いてなければ、巫女だということさえ忘れてしまう位、穏やかに時間が過ぎていった。

 ただ、少し気になることもあった。赤ん坊にしては、大人しすぎるのだ。自分の息子を思い出してみても、赤ん坊というのは、もっと騒がしいものだった筈だ。昼間面倒を看てくれている女達も、「大人しい子ねぇ」と、少し羨ましそうに言っていた。ウネリはミズナに相談してみることにした。

 午前中の畑仕事を終わらせ、ファイを連れてミズナの家に行くと、珍しく一人きりで囲炉裏の傍で本を読んでいた。

「こんにちは、ミズナさん」

「どうした。困りごとか?」

 読んでいた本を閉じ、ウネリに向き合った。閉じられた本の表紙をちらと見てみたが、ウネリが見たことない言葉で書かれており、内容は全く想像もつかなかった。

「ファイの事なんですが」

 と切り出し、ここ一月余りのファイの様子を、出来るだけ細かく話した。

 話を聞き終え、ミズナはファイを籠から抱き上げ、暫く体を撫でるようにしてから口を開いた。

「成程な。安心しろ、ファイは健康だ。そもそもこの子は、暫くは病とも無縁な筈だ」

「そうなんですか?」

「前にも言ったが、この子の魂はこの世と繋がりが無い状態で生まれて来た。逆を言えば、大地の理がこの子を害することも出来ないという事だ。もっとも、これから先色々な経験をすることで、この大地からの理を受けるようになっていくと思うが」

「よくわかりません」

「今は病気などしないが、お前やこの世と縁が深まってくると、自然と泣いたり笑ったり、たまには熱を出したりすることだってあるってことだ」

「病もですか」

「それはそうさ。ただ、ファイはそうなるまでに少し時間が掛かる。病は兎に角、大人しすぎるのが心配だっていうなら、沢山構ってやれ。抱き上げ、話し掛け、笑ってやるんだ」

「それだけですか?」

「それ以上、何が必要だっていうんだ。家とは、そういう場所だろう?」

 ウネリはミズナからファイを受け取り、改めてその小さな顔を見た。そこには、まだはっきりとした表情は見て取れなかったが、ウネリと目が合うと、機嫌が良さそうに目を細めた。

「もう暫くすれば、首もしっかりしてくる。そうしたら、色々な物を見せてやると良い。その経験が、この子とこの世を結ぶ縁になる。ただ、あまり無理はするな。お前がこれから感じることが、そのままファイの心を育てるようなものなんだ。無理をすれば、その歪みは何れファイを歪ませる」

 ウネリはファイを見ていて気付かなかったが、ミズナは、話しながら複雑な表情をしていた。が、直に我に返たように、いつもの泰然とした表情でウネリに言った。

「さ、心配事が解決したなら、もう帰れ。アタシは忙しいんだ」

「忙しいって、本を読んでただけじゃないですか……ヒナガが、先生は自分の食事も作らないって言ってましたよ」

「アイツ、そんな事言ってるのか。作らないんじゃない、アタシが作る前に、アイツが勝手に用意するんだ」

「はあ」

「なんだ、信じてないのか。そもそも、アイツに料理を教えたのはアタシなんだぞ」

 ウネリは驚いた。

「初耳です」

「アイツがまだ神殿に行く前、母さんを楽させたいから料理を覚えたいって、相談に来たんだ。アタシは魔術使いとして村に帰って来たばかりで、先代から教わることややる事が沢山あった。とても飯を作ってる暇なんかなかったが、今コイツに教えてやれば後々楽が出来ると思って、自分達の分以外にアタシのも作るならって条件で教えてやったんだ。なのにアイツ、その後すぐ神殿行きになっちまって、結局アタシの飯を作らせるのは帰って来てからになったんだ。ま、当初の約束通りにはなったな」

 やっぱり作らせてはいるんだなと思ったが、口には出さなかった。そして、そんなに前から付き合いがあると知り、二人の間の気の置けなさに納得した。

「まあこれからは、ヒナガにもやってもらう事が増えるんで、アタシも畑やらを面倒みるさ」

 そう言って、ミズナは先程閉じた本に手を伸ばした。これ以上話をする気はないのだろう。ウネリは礼を言い、我が家に帰って行った。


 ウネリがファイを育てるようになって、三年が過ぎた。同じ年頃の子供と比べると、体が小さくぼうっとしたところはあるものの、少しづつ表情も表れるようになってきていた。ウネリも畑仕事や女達との近所付き合いにだいぶ慣れ――相変わらず殆ど口を挿まず、話を聞いているのが精一杯だったが――畑に行く時にはファイを連れて行くことも増えた。

 その日もファイを連れて畑に行き雑草を抜いていると、それを見ていたファイが一緒にやりたがるので教えてやることにした。

「この小さい丸い葉っぱの草を、根っこを残さないように抜いていくんだ。抜いたら、あっちにまとめて置いておく。怪我しないように気を付けるんだぞ」

「これをぬくの?」

「そうだ」

「この葉っぱは?」

「それは抜いたら駄目だ。植えたばっかりの芋の芽だぞ」

「お芋、いつできる? 明日は食べられる?」

「明日は無理だ。芽がもっと大きくなって、葉っぱも沢山出てくる。お前の背丈より長い蔓になってから、土の中に出来るんだ」

「はやく食べたい」

「じゃあ、早く大きくなる様、いっぱい面倒見ないとな」

「ぬいた葉っぱは、どこに植えるの?」

「それは、どこにも植えないぞ」

「? なんで抜くの?」

「雑草を放っておくと、せっかく植えた作物が育つ邪魔になるからだ。後でまとめて燃やすんだ」

「…………」

 ファイは動きを止め、手の中の抜いたばかりの雑草を見つめていた。

「どうした?」

「……」

 ウネリは驚いた。ファイの顔に浮かんでいたのは、とてもうっすらとではあったが、紛れもない哀しみだった。初めて見せたその表情は、ウネリを慌てさせるのに充分だった。

「抜かないと、芋が大きくなれないんだぞ。それに、実をつけたりする草じゃないんだ」

「実をつけないから、抜かれちゃうの?」

 言葉に詰まった。考えたこともなかった問に、答えを見つけられなかった。ファイは、首から下げたお守り袋を握りしめ、黙り込んでしまった。

 しょげてしまったらしい娘の為に、ウネリはいつも以上の速さで作業をこなし、まだ明るい内に二人でミズナの家を訪ねた。

 相談所の囲炉裏の側で本を読んでいたミズナは、ファイのいつもと微妙に違う表情に気付いたらしく、目線に合わせて腰をかがめて何があったのかを訊ねた。

 ファイの話を最後まで黙って聞いてから、ミズナはファイに語り掛けた。

「お前は、大事にされる芋と捨てられてしまう雑草の違いを不思議に思うんだな?」

「……うん」

「確かに、同じ植物だ。雑草だって、悪いことをしてるわけじゃないもんな」

「……うん」

「雑草が抜かれてしまうのは、悪いことをしたからじゃない。アタシ等人間の都合でしかない。芋を育てるのに邪魔者だから、せっかく生えて来た草を抜いてしまうんだ。雑草からして見たら、アタシ等人間は悪者だろうな。結局は大事に育てた芋だって食べてしまう。魚だって動物の肉だって食べる。お前はまだ食事の時にしかちゃんと目にしたことが無いだろうが、魚も肉も、もとは生き物なんだ」

 そう言われて、ファイは驚いたように目を見開いた。

「それを捕まえて殺し、食べられるようにしている。植物も動物も魚も、何か悪いことをした訳じゃない。ただ、アタシ等の腹を満たす為に食べる。

 じゃあ、お前の父さんは、悪い人間か? 理由なく、誰かを痛めつける様な男か?」

 ファイは首を横に振った。

「この世界は、様々な生き物がいる。生き物以外も沢山在る。その全部が絡み合って、この世界を形作っている。どれか一つの都合で出来ているものじゃない。小さな生き物や植物は、大きな生き物に食べられる。大きい生き物は、もっと大きい生き物に食べられる。大きい生き物はいずれ死んで、小さな生き物や植物の栄養になる。そうやって世界は廻っている」

「よくわからない」

「例えば、木と鳥だ。鳥は、木の実を食べる。木は、出来るだけ美味しい実をつけるように生きて来た」

「食べられちゃうのに?」

「そうだ。鳥は、実の中にある種を食べ、遠くに飛んで糞をすることで、種を運んでく。木は自分で動けないから、そうやって遠くに自分の種を蒔くんだ。実を食べてしまう鳥は、悪者じゃないだろ?」

「うん」

「勿論、鳥と木の関係だけじゃない。どちらかだけの都合で動いている様に見える事も沢山ある。そこにはそうなる理由がある。お前の父さんが雑草を抜くのは、出来るだけ栄養のある芋を育てて、お前を食わせていく為だ。勝手に見えるが、大事な子供を育てる為の努力をしているに過ぎない。それは、生きている全てのものの宿命だ。自分が、そして子孫が生きる為に、命を命で繋ぐんだ。

 人間は、他の生き物よりも、食べ物を見つけたり捕まえるのが下手くそなんだ。だから、出来うる限り、効率よく食べ物を得ようと考えた。食べ物を探す苦労より、皆で協力し乍ら育てる苦労を選んだんだ。

 もっとも、それも暮らしている場所によって違いはある。あえて定住せず遊牧で暮らしたり、畑を作ったり家畜を飼えない所で暮らしていれば、狩りだけをして生活するしかなかったりとかな」

「むずかしい」

「そうだな。今は分からなくていい。ただ全ては繋がっていることだけを知っておいてくれ。

 それからお前が心配していた草だが、成長が早過ぎて、放っておくとどんどん増えて、結局自分たちも栄養不足で枯れちまうんだ。それに、焼くことによって、他の植物の肥料……栄養になるんだぞ」

「そうなの?」

「ああ。世界の理を護るのが、アタシら魔術使いや神官の仕事だ。たとえ草一本でも粗末に扱うことは許されない」

「ミズナお姉ちゃん、いろいろ知ってる。すごい」

 ファイは、嬉しそうにミズナを見つめて言った。

「凄いだろ。その為に、沢山勉強したんだ」

「ファイも勉強する」

「もっと大きくなったらな。お前はその前に、父さんの手伝いを学べ。そして、命は命で繋がれていることを忘れるな」

「うん」

 ミズナは、頷くファイの頭を優しく撫でてやった。

 二人の話を黙って聞いていたウネリは、魔術使いという肩書を、初めて意識した。今まで、神官も魔術使いも、頼りになる村の相談役だと思っていた。そのことには変わりないが、彼らの本当の仕事は、もっと違うところにあるような気がした。皆の相談役という顔は、あくまでその副産物に過ぎないのかもしれない。

 カヤ達の事故の時、怒りで山犬を打ち殺そうとしていた自分を止めたミズナに、正直納得いかないものを感じていた。だが、彼らが大地の秩序と自分達の狭間に生きているのだとしたら、己の感情だけでは推し量れない結論を下すこともあるのだろう。きっと、それが彼らの役割なのだ。

「どうした、ウネリ」

 いつもと変わらぬミズナの口調で、ウネリは我に返った。今考えていたことを口に出すのは、何となく躊躇われたので、別の事を口にした。

「いや、こんな事で尋ねて来るなんて、何て思われたかなと……」

「いつ相談所に来ても構わない。お前にとって、大事な事だったんだろ? アタシもヒナガも、その為にいるんだ。出来る限りのことはする。

 まあ、親ばかだとは思ったがな」

 最後はニヤニヤしながらミズナが言うと、ファイが首を傾げた。

「おやばか?」

「お前の父さんは、お前が大事ってことだ」

 それを聞いて、ファイは嬉しそうに首から下げたお守り袋を握りしめた。

「そのお守り、少し見せてくれ」

 ファイはお守りを首から外し、ミズナに手渡した。

 ミズナは袋を開け、中に収まっていた標を掌に乗せ、しばらく観察した。それは、以前見た時よりも、少し赤味を増しているように見えた。

 ミズナは再びお守り袋に標を仕舞い、ファイに返しながら言った。

「必ず身に着けておくんだぞ」

「うん」

 ウネリにはそれが少し気味悪かったが、ミズナは、ファイと繫がりがあるものだ、悪いものではないと言っていた。魔術使いが言うのだ、きっとそうなんだろう。ファイも、あれを身に着けていると安心する様だ。何かあると、よくお守りを握っていた。

「しかし丁度良かった。お前達、明後日の夜、相談所に二人で来てくれ。お前に会いたいという客が来る予定なんだ」

「誰ですか?」

「神殿からの客だ。ヒナガが連れて来る」

 神殿からの客という言葉で、用件は察せられた。数日前からヒナガは村を離れていたが、神殿に行っているらしい。

「ヒナガお兄ちゃん、帰って来るの?」

「ああ。なんだ、ヒナガに会いたかったのか?」

「新しい袋、くれるって言ってた」

 どうやら村を離れる前、お守り袋を新調してくれる約束をしていたらしい。

「そうか。帰ってきたら聞いてみるといい」

「うん」

「アイツ、本当に女子供に甘いな」

「いつも面倒掛けて、申し訳ないな」

 恐縮してウネリが言うと、ミズナは鼻を鳴らして答えた。

「気にするな、嫌々やってるわけじゃないし。元々、誰かの世話するのに向いてるんだろう」

 日頃面倒を掛けているであろうミズナが言うのだから、その通りなんだろうと思ったが、ウネリはそのまま口に出すような愚行をおかすことはなかった。


 神殿の図書室の机で、ヒナガは堆く積まれた本に埋もれ乍ら、ため息をついて目頭を押さえた。

 数日前に神殿に着くなり、書庫に籠りきり、殆どの時間を書を紐解くことに費やしてきた。様々な言語で書かれた本を読むのは、中々骨が折れる作業だった。さすがに集中力が続かない。

「そろそろ一息ついたらどうだい?お腹も空いただろう」

 午前中の講義を終わらせたキキが、いつの間にか隣に立っていた。声を掛けられ、既に昼を過ぎていたことに気が付いた。

「お目当ての物は見つかったかい?」

「駄目ですね。ここの書庫は大分探した筈なんですが、見当たりません」

「そうだろうね。何せ、何代も誰にも見つかっていない物だ。他の神殿には行ってみたのかい?」

「以前、北の神殿には行ってみたんですが、やはり見つかりませんでした。僕が帰った後も、神官長達も探してくれていたらしいんですけど、収穫は無かったと連絡がありました。ミズナ先生も、魔術使い達に色々聞いてみているんですが、噂すら流れていないらしくて」

「実は私も、西の神殿に使いを出したんだ。やはり見当たらないとのことだったよ。恐らく、他の大陸の神殿でも結果は一緒だろう」

「これだけ探しても見つからないなら、故意に隠されているか、存在しないという事ですね。探すのに時間を割くのは、無駄かもしれません」

 ヒナガは気分を切り替える様に頭を軽く振った。

「久しぶりに、根を詰めちゃいましたよ。ここの生徒だった時以来かも。まだ食堂、空いてますかね」

「この時間なら、ぎりぎり空いているよ。料理長のランさんもまだ残ってるよ。というか、ランさんに、そろそろヒナガにご飯食べに来るように言ってくれって言われて呼びに来たんだ」

 まだ子供だった頃のヒナガは、今日の様に食事を忘れて何かに集中することがよくあった。利発で普段から進んで厨房の手伝いをするヒナガは、料理長ランのお気に入りの生徒だった。ランは「子供は、食事も仕事の内」と言うのが口癖の男で、当然、生徒が食事を疎かにするのを許さなかった。その結果、キキはたびたびヒナガを探しに行かされる羽目になった。例え神官長であっても、料理長にとっては子供を育てる大人という以上の肩書きではなかった。

「あの頃の君は、知識欲の権化だったね。それでいて人付き合いもそつなくこなす。ゆくゆくは、私の後継者にと思っていたんだけどねぇ」

「いや、僕には無理ですって。人付き合いの良さと人を纏める能力は、全く違うものじゃないですか」

「だが、世話を焼くのは、嫌いじゃないだろう?」

「時と場合にも依ります。もちろん、相手にも」

 ヒナガは立ち上がり、大きく伸びをして、マヤと連れ立って食堂に向かった。

「で、いつ帰るんだい?」

「明日の朝には帰ります。先生たちのご都合はいかがですか?」

「キキも私も仕事は調整済みだよ。永らく待たせてしまったね」

「いえ、ありがとうございます」

「私達の本来の仕事だ、もっと早く会いに行くべきだったんだけど、中々ね。だが、これで何とか皆を説得出来るんじゃないかな。

 緊張するなぁ。まさか、自分が巫女に会うことになるなんてね」

 いつもの通り、微笑んだような口元で、言葉と裏腹に緊張感なくマヤは言った。

「とても可愛い女の子ですよ。優しく穏やかで、つい、守ってあげたくなる」

「お前がそう言うなら、きっと皆そう思うんだろうね」

「はい。だからこそ、祈りの時までに何とかするんです。これ以上、誰も悲しまない為に。僕達は、その為に居るんだから」

 ヒナガの口調は、常日頃の穏やかな彼しか知らない者が驚くくらいの決意を秘めていた。

 そんな愛弟子の肩を、マヤは優しく叩いた。


 翌々日の夜も更けた頃、ウネリは言われた通りミズナの相談所にファイと連れ立って出掛けた。

 真夜中でも相変わらずファイは寝ていなかったが、こんな時間に外に出るのは珍しいので、ウネリと手を繋ぎながらキョロキョロと辺りを見回していた。

 昼間と同じ景色のはずなのに、夜の空気は、それらを全く違うものの様に感じさせた。

 まだ少しひんやりとしているが柔らかい風、聞こえてくる波の音、手に持った明かりの周囲だけ浮き上がる景色、そういったものを、ファイは一つ一つ確認している様に見えた。

「楽しいか?」

 ウネリが聞くと、コクリと頷いた。二人で夜の散歩を楽しむ様に、ミズナの家までゆっくりと歩いた。

 相談所の前まで来ると、中からヒナガが笑顔で扉を開けて二人を迎え入れた。

「こんばんは、ウネリさん、ファイちゃん」

「こんばんは」

「こんばんは、ヒナガお兄ちゃん」

 招き入れられ土間に入ると、囲炉裏の周りにミズナと見知らぬ二人の男が座ってこちらを見ていた。

 扉を閉めながら、ヒナガが二人にも座るよう声をかけた。

 空いている座にファイを膝に乗せ座りながら、ミズナ達に軽く会釈をした。二人の男も、会釈を返した。

「こんな時間に来てもらって済まないな。この二人は、神官長と魔術導師だ。アタシとヒナガの師にあたる」

 白髪交じりの年嵩の男が名乗った。

「魔術導師のキキだ」

 鋭い眼光と伸びた背筋が、猛禽類を思わせる男だった。

「神官長のマヤです。夜更けに呼び出して、申し訳ないですね」

 もう一人の男はキキよりやや若く見え、魔術導師とは対照的に柔和な微笑みを浮かべていた。ウネリは自分も名乗りながら、成程、如何にもミズナとヒナガの師らしいと思った。

 ヒナガが皆の前に茶を用意しミズナの後ろに腰を下ろすと、マヤが口を開いた。

「お呼びだてした用件はお察しの事かと思いますが、どうですか? 困ったことなどありませんか?」

 日常で細かい困りごとなど沢山あるが、勿論そんなことを聞いているのではなかろう。ウネリは、特に困りごとはないと答えた。他にも、村での生活や普段の暮らしの様子など、幾つか質問をされたが、どの質問も、特に問題を感じたことがなかったので、そう伝えた。ファイは、ウネリの膝の上でウネリとマヤの会話を大人しく聞いている様だった。その間、キキはずっと口を挿まなかった。

 会話が途切れたのを見計らったように、ヒナガがファイに声を掛けた。

「ファイちゃん、新しいお守り袋を作ってあげる約束だったよね? 幾つか布を持ってきたから、選んでくれるかい?」

「そのお守り、私も見せて貰ってもいいかね?」

 キキが唐突にファイに話しかけると、ファイは一瞬躊躇ったようだったが、ミズナに「そのおっさんは、見た目程怖くないぞ」と言われると、首からお守りを外し「はい」と、老魔術導師に差し出した。

 キキは礼を言って受け取り、以前ミズナがしたように、中身を掌に載せ暫く観察して

「大事なものを見せてくれてありがとう」

 丁寧に標を袋に仕舞い、ファイに返した。 

 お守りを再び首から下げたファイは、トコトコとヒナガの方に歩いて行った。

「どれも可愛い」

 ファイは嬉しそうに、ヒナガの膝に座りながら、様々な布を手に取って眺め出した。その様子を見ていたウネリは、キキの自分を見ている視線に気付いた。全てを見透かすような視線に居心地が悪くなり、つい、咎める様な声が出てしまった。

「あの、何でしょうか?」

「済まない、気を悪くされたか。ただ、貴方に総て任せてしまって、申し訳なく思ってな。今までの生活が変わってしまって、負担を強いているのではないかと思っていたが、そうでもない様で安心した」

 その時だった。

『いつまでもいつまでも、この子を見守るんだ』

 心の中で声がしたような気がした。

「どうされた?」

「いえ、何か聞こえたような……気のせいですね。負担なんて、考えたこともなかった。もうずっと、こんな暮らしをしてきた様な気すらしてますよ」

「……そうか」

 急にウネリは不安を感じた。彼らがわざわざ神殿からファイに会いに来たであろうことは、察しがついていたが、今までの会話で、何がわかったというのだろうか。まさか、ファイをこのまま神殿に連れ帰る為にやって来たのではと、疑い始めていた。

「彼女の事を、これからも宜しく頼む。我々も、出来る限り支えることを約束する」

 ウネリの考えを察知したように、キキが頭を下げながら言った。

 いつの間にか、肩に力が入っていたらしい。その言葉に安堵し、ほっと息を吐きながら力を抜くと、二人のやりとりを見たミズナがキキに言った。

「仏頂面は、相変わらずだな。その調子で、新入り達をいびってるのか?」

「お前も、相変わらずの口の悪さだ。年寄りを労わる心が足りん」

「よく言う。自分が年寄りだなんて思ってないだろ?」

「そんなことはない。どこぞの不肖の弟子のお蔭で、日々疲れが取れん。苦労の連続で、すっかり老け込んでしまったが、おちおち休むことも出来ん。何時になったら楽が出来るのか……」

「なら、不肖の弟子とやらのお蔭で、現役で居られるんだな。感謝しないとな」

 二人のやり取りを見ていたマヤが、苦笑しながらウネリに話しかけた。

「昔からこんな感じなんです。全く、仲がいいのか悪いのか……」

「いいわけないだろ」

 同時に言った二人は、互いにそっぽを向いた。

 一段落したらしい二人のやり取りをみて、ヒナガが膝の上のファイをあやしながら話に入って来た。

「子供の様なやり取りは終わりましたか。ファイちゃん、大丈夫だよ、あの二人は喧嘩してるわけじゃないからね。キキおじさんとミズナお姉ちゃんは仲良しだから、安心してね」

 ファイが頷くのを見て、キキとミズナはヒナガを睨んだが、それ以上不毛な言い合いを続けることはなかった。

 頃合いを計ったマヤが、ウネリに言った。

「今日はお会い出来てよかったです。特に問題もなさそうですし。本当は、もう少し早く伺う予定だったんですが、なかなか都合がつかず……何か問題がありましたら、遠慮なくミズナとヒナガに申し付けて下さい」

「ありがとうございます」

 礼を言いながら、思いの外あっけなく用件が済んだことを悟った。本当に、ファイに会いに来ただけだったらしい。

「ところで、ウネリさんは酒はいける口ですか?」

「は? 酒、ですか?」

「来る途中の村の地酒がかなり美味いので、買ってきているのですよ。一緒に如何かと思いましてね。安心してください、馬に積めるだけ積んで来ましたから。あ、神殿で作っているのも持って来たんですよ。一昨年仕込んだのが、中々良い出来で。呑み比べてみますか」

 マヤは、自分の後ろからドンと、酒の入っているらしい大きな手提げの壺を目の前に置いた。よく見たら、部屋の隅に、同じような壺が幾つも置いてある。

「嫌いじゃありませんが、そんなには……」

「ウネリ、逃げろ」

 ミズナが割って入った。

「マヤ先生は、とんでもない酒豪なんだ。お前、二、三日は起きあがれない位呑まされるぞ」

「なんだい、人聞きの悪い……えーと、取り敢えず、一人一壺でいいかな。ヒナガ、何か肴を用意しておくれ」

 ウネリは、そうそうに退散することにした。


 ウネリ達が逃げる様に帰った後、ヒナガは、マヤのとミズナの前に大振りのお碗を、キキと自分には小さなお猪口を用意し、てきぱきと軽食を並べ乍ら聞いた。 

「いつまでこの村に滞在される予定なんですか?」

 マヤは、手酌で酒をグイグイ呑みながら答えた。

「明後日には帰るよ。それまで、何か手伝うことがあれば言っておくれ」

「この村に来るのは初めてだが、中々いい処だな。きちんと空気が流れておる。以前言っていた山犬達はどうなった?気配は感じないが」

 キキは、お猪口をちびちび舐めながら、外の気配を探るようにしてミズナに聞いた。

「山を二つ三つ越えたところに移動した。以前山火事のあった方角とは別の処に、そこそこ獲物にありつける処を見つけたらしい。安心出来る程の距離じゃないが、わざわざ人里を襲う事はないだろう。念の為、要所に番犬達に居てもらってる。はぐれ犬も、念入りに術を掛けたから、二度と人間に近寄らない筈だ……それより、どうなんだ、あの二人? どう見えた?」

 ミズナに問われたキキは、頷きながら口を開いた。

「私も、何でも見える訳じゃないんだぞ。正直、殆ど何も見えなかった。だが、お前たちの仮説は、おそらく正しい。ほんの一瞬だが伝わって来た」

「無理だと思ってたのに、よく感じたな。アタシにはさっぱりだった」

 ミズナは師に、尊敬を込めた口調で言った。

「いや、あれは誰にでもわかるものではないだろう。私だって、必ずあるという前提で探って、やっと感じる様なものだった。普通にしてたら、まず無理だ」

「そうか。ならば以前から伝えていた通りに、ヒナガは勿論、先生達もよろしく頼むよ。一応、アタシなりに術式は作ってみたが、まだ完璧とは言えないんだ。

 しかし、先生でも見えないことがあるんだな。アタシよりも目は確かなのにな」

「目以外も確かだ」

 ムスッとしながら、キキは言い返した。

「その割には、アタシの仕掛けた術にいつもかかってたじゃないか」

「あのな、普通、師匠に向かって術を試したりしないもんなんだ。言っておくが、お前の質の悪い悪戯は、私だからあんなもので済んでたんだぞ」

 ヒナガが、興味深そうに尋ねた。

「何をやらかしたんですか?」

「大したことはしてないぞ。ちょっと幻覚で牛の群れを見せて、その中に本当の暴れ牛を混ぜてみたり、雨に紛れて、目の前の池の大きさや深さを勘違いさせたり」

「そこそこ大したことだと思いますよ」

「幻覚に実物を混ぜるのが肝なんだ。幻覚と言っても、それなりに手間のかかる術なんだぞ。なにせ、脳に直接勘違いを起こさせるんだからな。それと同時に空中に質感を持たせ……」

 得意げに語るミズナの話を聞きながら、色々思い出したのだろうマヤも、笑って言った。

「私なんか全然幻覚と現実の区別がつかないから、キキの目の前の妙齢の美女が急に消えて、料理長のランさんになった時なんか、本当に驚いたよ。いやあ、感心したね」

「感心せんでいい!」

 お猪口の酒をあおり、キキが憤慨して言った。

「だが、その術がいずれ必要となる時が来ようとしている。まったく、世の中はわからんもんだ」


 キキとマヤに会った夜以来、ウネリにあの声が聞こえることはなかった。だが、心の奥底、魂よりも更に奥から聞こえてきたような声は、暫くの間、さざ波のような不安を感じさせた。

『いつまでもいつまでも、この子を見守るんだ』

 心に刷り込まれたように、聞こえてきた声。自分の心と同じ感情でありながら、自分より遥かに執着を感じさせる声……まるで、別の魂が潜り込んでいる様だったが、それでいて、あれは確かに自分の声だった。

 今でも、妻と息子を想わない日はない。だが、あの声は、ファイしか見ていなかった。それが、気味悪かった。

 だが、それも、忙しい日常に紛れていった。

 ファイを守って生きていくと決めた日から、その想いが揺らぐことはない。あれから聞こえてこない声などに、ゆっくりと悩んでいる暇はなかった。

 それから暫く、忙しいながらも穏やかな時間が過ぎていった。

 

 ファイが五歳になる頃、ウネリは畑仕事の合間に、海に出る事を考え始めた。とはいっても、以前の様にまとまった量が獲れるまで海に出る訳ではなく、ファイと二人で食べられる程度の獲物が獲れたら陸に引き上げる。多目に獲れれば、ミズナやヒナガにいつもの礼を兼ねて持っていく。漁と言うよりは、船釣りだ。

 それでも、カイジュ達漁師仲間は、ウネリの復帰を喜んでくれた。

「久しぶりの船で、船酔いするなよ」

「それより、泳ぎは覚えてるか? 船から落ちたら、大事だぜ」

「なんだ、ウネリ、ファイは連れてこなかったのか? 父ちゃんの格好いいとこ、見せてやれよ」

 などと、揶揄い乍らも、皆、笑顔だった。

「ファイなら、家で預かってるよ」

 幼馴染のカイジュが言った。

「いつも面倒を掛けて悪いな」  

 ウネリが詫びると、カイジュはガハハと笑い飛ばした。

「うちの連中、男ばっかりだろ? ヨナも息子たちも、女の子が可愛くて仕方がないらしい。ファイが来るとなると、大喜びだ。一番上の息子なんか、妹が欲しいって言いだした。これ以上は、いろんな意味で体がもたないぜ」

 またガハハと笑いながら、カイジュはウネリの肩をバンバン叩き、船に乗り込んでいった。皆も、それぞれ船を出し始めた。

 海に出ると、心が躍った。畑仕事にもだいぶ慣れたが、やはり自分は海が向いている。

 近いうちに、ファイも船に乗せてやろう。きっと喜ぶだろう。この海のように目を輝かせるに違いない。はしゃいで船から落ちないように、対策を考えなければ。

 あれこれ考えながら、ウネリは目を細めて水平線を見た。

 そして、ウネリが船の上で海原を見つめていたその頃、村の中央部には行商人の一行がやって来ていた。

 数か月に一度やってくる彼らの商品や他の土地の流行や噂話等、皆楽しみにしていたので、この日も村にいる殆どの者が集まっていた。

 あれこれ商品を品定めする女衆の中には、ヨナとその息子達と手を繋いだファイの姿もあった。

 ファイはヨナ達に手を引かれ乍ら、見たことのない柄の布や果物などを珍し気に見ていた。その姿に、客の相手をしている若い商人が声をかけてきた。

「ヨナさん、いつの間にこんな可愛い女の子を産んだんで?」

「何言ってるの、知ってるくせに。ウネリの子よ。漁に出てる間、預かってるの」

「はは、そうでした。ファイちゃんだっけ? 可愛いね、もっと大きくなったら、お兄さんと遊んでくれるかい?」

「大きくなってから? なにして遊ぶ?」

「そうだな、まずはちょっと大きな街まで出掛けて、美味しい食事でも……」

「ファイ、相手にすることないぞ」

 いつの間にかヨナ達の背後にミズナが立っていた。

「ああ、姐さん! 今日も美しい! 勿論、これは冗談ですよ? 俺は姐さん一筋ですから」

「薬草を見せてくれ」

「はいはい、こちらで。今日は、この辺じゃ珍しいキユキソウも持って来てますよ。いかがですか?」

「貰おう」

「ありがとうございます。ついでに、俺もいかがですか?」

「ショレン茶はないのか?」

「ありますとも。今なら、俺と南の大陸の地酒もお付けしますよ」

「……茶だけで結構だ」

 何時もの事なのか、皆は二人の遣り取りを、またやってる、懲りないわねなどと言いながら、笑いながら見ていた。ファイは不思議そうに、ヨナに尋ねた。

「お兄ちゃんは、大きくならないとファイと遊んでくれないの?」

 ヨナは笑いながら答えた。

「あのお兄ちゃんの言ってる遊びは、ファイちゃんの遊びとは違うのよ」

 きょとんとするファイに、他の女衆からも声がかかる。

「口のうまい男には、気を付けないと駄目よ。ファイちゃんみたいに可愛い子は、食べられちゃうんだから」

「そうよぉ。ウネリに怒られるわよー」

 口々に言われ、ファイは商人にすっかり怯えてしまったらしい。ヨナの後ろにさっと隠れると、ヨナの息子達がその前に立ちふさがった。

「大丈夫だぞ、ファイ。俺達が守ってやるからな」

「そうだぞ。お前は俺達の妹みたいなもんだからな」

 その様子を見た商人が大袈裟に嘆いた。

「すっかり悪者にされちゃいましたよ」

「子供を揶揄うからだ」

「ひどいなぁ、姐さん。揶揄ってなんてないですよ。可愛い子に可愛いって言っただけです。それで、お買い上げの品は、いつも通り後程家までお持ちすればいいんで?」

「ああ、頼む」

「いえ、お気になさらず。このスルドゥージ、いつでも貴女の僕ですから」

「お前、そんな名前なのか」

「今まで何度も名乗ってるじゃないですか!」

 その夜、ファイから「大きくなったらする遊び」について尋ねられたウネリは、いつも以上に寡黙だった。


 ファイが七歳になる頃には、ウネリは以前のように漁に出るようになっていた。

 朝の内に誰かにファイを預け、海に出る。ファイは、女衆の手仕事や畑を手伝ったり、ミズナとヒナガに読み書きなどを教わったりしながらウネリの帰りを待つ。それが日常だった。

 その日の朝も、ファイを預ける為、ウネリはヒナガの家を訪れた。

 既に外で鶏の世話をしていたヒナガは、いつものようににこやかに挨拶をした。

「おはようございます、ウネリさん」

「……おはよう」

「? どうしました?」

「……どうもしない。ファイを、よろしく頼む」

 そう言うと、ウネリは足早に海へと向かっていった。

「ウネリさん、なんだか様子がおかしいね。具合でも悪いの?」

 ヒナガに尋ねられ、ファイは首を振った。夜、ファイを布団に入れ眠りにつくまで、その日あった出来事を互いに聞いたり話したりするのが、父娘の夜の過ごし方だった。

 昨夜もいつも通りの父さんだったよと、ファイは言った。

「うーん。じゃ、昨夜はどんな話をしたのか聞いてもいい?」

「あのね、今度、隣村のお姉さんがお嫁に行くらしいって話をした」

 確かに昨日の昼間、女衆がそんな話で盛り上がっていたことを、ヒナガは思い出した。目出度い話だし、ウネリに関係があるとも思えない。そのまま黙ってファイの話を聞き続けた。

「それで、お嫁に行くってよくわからなかったから、父さんに聞いた」

 ウネリはファイに、お嫁に行くとは、大好きな人と一緒に暮らすということだと説明した。嬉しい事を分かち合ったり、大変な事を協力して乗り越えたりすることだよ、と。そして、ファイにはまだ早いだろと微笑んだ。

「だから、ファイ、ヒナガお兄ちゃんとこにお嫁に行くって言った。あと、ミズナお姉ちゃんのとこにもお嫁に行くって言ったんだけど、父さん聞いてないみたいだった」

 それからウネリは黙り込んだらしい。自分の話をちゃんと聞いてくれなかった父に、ファイは疑問と少しの不満を抱いたようだった。首から下げたお守りを、握ったり放したりしながら口を少し尖らせた。

「ああ、成程ね……」

 ヒナガは苦笑した。なぜヒナガが笑ったのか分らないファイは、ヒナガを黙って見上げていた。

「お父さんはね、ファイちゃんが急に大人になったように感じて、寂しかったのかもね。それに、ファイちゃんの一番大好きな人は父さんじゃないのかって、焼きもちを焼いてるんだよ」

「寂しいの? どうして? 父さん、一番好きだよ?」

「そうだね。ファイちゃんの話をちゃんと聞けば、分ったんだろうけどねぇ。僕も子供が居ないから実感は無いけど、世の中の大抵のお父さんは、娘の事をいつまでも自分の許で可愛がりたいって思ってるものなんだって聞くよ」

 それだけファイちゃんの事が好きってことだよとヒナガに言われ、ファイは嬉しそうにお守りを握った。

 すっかりファイの癖になっているその仕草を見て、ヒナガが言った。

「また新しい袋作るね。何色の布にしようか。ファイちゃん、今度は一緒に作る?

 それとね、結婚……お嫁に行くっていうのは、ファイちゃんを、父さん以上に大事にしてくれる相手とするものなんだよ。

 だから、僕みたいなのを選んじゃ駄目なんだよ」

 最後はファイに聞こえない様に、小さく呟いた。


 秋が通り過ぎ、夜になると肌寒さが感じられるあかね月になってすぐ、ウネリはミズナに相談所に来るよう呼び出しを受けた。ファイはもうすぐ十歳になろうとしていた。

 呼び出しの理由は解っていた。いよいよ、巫女の祈りの日が近づいているのだろう。何か準備が必要なのだろうか。色々考えながら、言われた通り一人でミズナの家を訊ねた。

「こんにちは、ミズナさん」

 家に入ると、昼間にしては珍しくヒナガの姿が見えなかった。

 ミズナは二人分の茶を淹れ、座る様にウネリに促した。

「用件は察しがついていると思う。今月行う、巫女の祈りの儀式のことだ」

「はい。何か必要な物があるんですか?」

「いや、特にそれはない。だが、月の山の頂上で儀式を行う前に、お前達をサンガ神殿に連れて行く。儀式の山にも近い。そこで、色々と説明しようと思う」

「分りました。それで、いつ出発するんですか?」

「明後日には。大人なら歩いて四日程の距離だが、ファイが居るし五日みている。旅支度はヒナガが済ませている。お前達は、巫女の標以外は身一つで構わない」

「ちょっとした旅行ですね」

 そうだな、と言いながら、ミズナは何か考え込んでいる様だった。

 その様子は、ウネリに不安を抱かせるのに充分だった。

 心の奥が、ざわりとした。

「済まない。アタシも儀式でやることがある。緊張してるんだ」

 ウネリの不安を察したのか、ミズナはそう言って茶を口に含んだ。

 自らの不安を払拭するように、ウネリは軽口をきいた。

「ミズナさんでも緊張する事があるんですね。そんなに大変な役目なんですか? そんな大事な儀式、本当にファイに務まりますかね」

「ファイじゃないと務まらない。そして、お前にも参加してもらうことになる」

 ミズナは、自分の膝をじっと見ながら言った。

「勿論です。俺は何をすればいいんです?」

 詳しくは神殿で話す、そうミズナは話を締めくくった。

 家への帰り道、ウネリの中では不安が渦を巻いていた。どんなに食い下がったところで、儀式の内容は教えてはもらえないだろう。ヒナガに聞いてもきっと同じだ。のらりくらりとはぐらかされるのは、目に見えていた。

 あの二人は、いや、神官と魔術使いは、おそらく何より優先すべき使命があり、それに従って行動しているに過ぎない。あのミズナの様子は、巫女の祈りの儀式が、その中でも最優先の使命の一つであることを物語っていた。

 何故自分は、巫女の儀式について深く考えた事が無かったのだろう。今の今まで、ファイが巫女だという事すら殆ど忘れていた。危険な儀式なのだろうか。

 だが、自分にも参加してもらうとミズナは言っていた。ファイに危険があるようなら、例え大事な儀式を台無しにしようが、自分は必ず止めるだろう。それに、ミズナもヒナガも、何かと自分達のことを気にかけ、面倒を見てくれていた。その姿は、決して使命からだけではないと思えた。やはり、気にし過ぎなのだろうか。

 歩きながら考えているうちに、家に着いた。

「父さん、お帰り」

 何時もと変わりないファイに出迎えられ、ウネリは肩から力を抜いた。

「ただいま」

 頭を撫で、明後日からミズナ達と遠出することを告げると、ファイにしては珍しくはしゃいでいた。

「旅行、初めて。皆一緒で嬉しい。どこ行くの?」

「ミズナさん達の学んだ神殿だ。お前はまだ小さかったし憶えていないかもしれないが、以前そこの偉い先生に会ったことがあるんだぞ」

 憶えてない、お土産持ってく? などと言い乍ら落ち着かない様子のファイを座らせ、ウネリは言った。

「ファイ、お前は優しい子だ。父さんは、そんなお前が大事だ。だから、嫌な事は嫌って言っていいんだ。父さんがお前を守る」

 ファイは、いつもと様子が違う父の話を黙って聞いていた。

「困ったことがあったら、ちゃんと話してくれると約束してくれ」

 ファイが頷くと、ウネリは息をついた。

「よし。明後日は早くに出るそうだ。明日は夕飯食べたら、早く寝てしまおう」

 喜ぶファイを落ち着かせ、二人で夕飯の支度を始めた。この調子では、いつも以上に宵っ張りになるだろうなと、ウネリはそっとため息をついた。そんなファイの姿は、ウネリの不安をいつの間にかどこかに押しやっていた。


 翌々日の朝、夜の内にやって来ていたミズナ達の代理を務める魔術使いに見送られ、四人は村を出た。

 村を出てからサンガ神殿に到着するまでの道中は、天候もよく、この時期にしては寒さも穏やかだった。

 神殿までの道程はかなり整備されており、所々に給水できる井戸も設けられていた。山道では頑丈な柵もはられ、休憩出来るようにであろうか、少し開けた場所には柔らかそうな丈の短い草が植えられていた。

 お蔭で、野生動物や山賊などに襲われたりすることもなく――山賊自体がまず居ないのだが――のどかなものだった。

 ヒナガは小柄な馬を二頭、小さな荷車に繋いで連れていた。荷車には数日分の食料の他に防寒着、天蓋等が積まれていたが、道中には小さな村が点在していてそこで夜を過ごした為、それらはほぼ使う機会もなく、荷台に乗ったファイの座布団と化していた。

 村を出た事のないファイは、見た事のない花や生き物たちを見つけてはミズナやヒナガに

「あの鳥、何て名前?」

「あの花、摘んでいい?」

 などと問いかけ続け、ウネリに「少し落ち着け」と注意される羽目になった。

 ファイとは対照的に、ウネリはいつも以上に無口だった。神殿に近づくにつれ、儀式についての不安が再び頭をもたげて来ていた。

 気付くと、ファイが心配そうに自分を見上げていた。

「父さん、具合悪い?」

「大丈夫だ。ちょっと疲れたのかな」

 ウネリがそう言うと、ヒナガが、少し休憩しますか、と提案してきた。

 馬を止め、手早く荷台から布を下ろして敷きながら

「この調子なら、予定通りに神殿に到着できるでしょう。どうぞ。疲れが和らぎますよ」

 そう言いながら干した果物を勧めて来るヒナガの様子は、この道行が本当にただの旅行であるようにしか思えなかった。

「ファイちゃんも、はい」

「ありがとう、ヒナガお兄ちゃん。美味しい」

 もぐもぐと口を動かすファイは、何処までも楽しそうだった。

 ミズナは無表情に空を眺めていたが、ファイが

「ミズナお姉ちゃんも食べて」

 と干した果物を差し出すと、軽く微笑んでそれを受け取った。

「美味いな。大地の恵みに感謝しないとな」

 ミズナは優しくファイの頭を撫でた。

 その様子は、何故か声をかけるのをウネリに躊躇わせた。


 その後も何事も起こらず、一行は予定通りの日程で神殿へたどり着いた。

 ヒナガが馬を厩舎に連れる為に席を外すと、入れ違いにキキとマヤが神殿の奥から出迎えにやってきた。

「お待ちしておりました。お疲れではないですか? 部屋を用意してありますから、暫しお休み下さい」

 神殿の長い廊下には大きな窓が均等に並び、午後になったばかりの日差しが五人の影を柔らかく浮かび上がらせていた。

 幾つかの扉の前を通り過ぎ、やがて一つの扉をマヤが開けた。

 大きくはない部屋だったが、扉の向かいにある窓からは外の景色がよく見え、開放感のある造りだった。部屋の中央には二人掛けの椅子の前に小さ目な卓があり、軽食と茶器が用意されていた。窓のそばには一人掛け椅子が二脚並べてあり、外を見ながらくつろぐのに程よさそうだった。壁際にある暖炉の上には薬缶がかけられ、既に湯気をあげていた。キキは席を勧め乍らそれを取り上げると、二人に茶を淹れた。

「大したもてなしは出来ないが、ゆっくりして下さい。我らは少々席をはずすが、部屋の中の物は自由にして下さって結構だ」

 そう言って、神官長と魔術導師はミズナを伴い部屋を出て行った。

 二人きりで部屋に残されたウネリは、窓際の椅子に座りながらきょろきょろと辺りを見回すファイに話し掛けた。

「疲れたか?」

「平気。楽しい」

 また旅行したいと言うファイに、まだ旅の途中なのに気が早いなと笑い

「今度はカイジュ達とでもするか」

「うん」

 暫く二人で他愛もない話をしていると、扉を叩く音がし、ミズナとヒナガが姿を見せた。

「ファイちゃん、お父さんと先生はちょっとお話ししなきゃいけないことがあるんだって。その間、僕と一緒に神殿の中を見てまわらない? 案内するよ」

 ウネリは動揺を悟られないよう、笑いながら「行っておいで」と言って二人を送り出した。

 暫くの沈黙の後、ミズナが口を開いた。

「今迄黙っていて済まなかった。さぞ、やきもきしただろう。巫女の祈りについて見せたいものがある。ついて来てくれ」

 ミズナに促され、ウネリは人気のない廊下に出た。

「随分と静かなんですね。もっと、沢山の人が居るのかと思っていました」

「ああ、この時間、この棟に生徒は殆ど来ない。それに、今日は人払いをしてある」

 途中で何度か曲がり角を曲がると、廊下の突き当りの扉の前でミズナは足を止めた。

 重く頑丈そうなその扉をミズナが開けると、後ろに立っていたウネリの鼻に少しかび臭い乾いた空気が入り込んで来た。

 そこは天井まで届く書架が幾つも並ぶ大きな部屋だった。

 右手の壁は大きめの明り取りの窓が幾つか取り付けられ、その手前に何組か並べられた卓と椅子が光に照らされていた。

 どの棚にもぎっしりと書物や紙の束が詰まっていて、そのためだろうか、大きさと明るさの割に圧迫感を感じる部屋だった。

「俺に見せたいものって、この部屋ですか?」

「いや、ここは単なる図書室だ。見せたいものは、この奥にある」

 書架の間を抜け奥の壁までたどり着くと、書架の間に簡素な扉があり、それを開けると、中は図書室の半分ほどの広さの部屋になっていた。その部屋にも幾つか書架があり、やはりどの棚も書物や紙の束に埋め尽くされていた。

 更に奥に歩きながら、ミズナが説明した。

「この小部屋は、修繕が必要な書物や、閲覧する為に手続きが必要なものなんかが置いてある。そして、お前に見せたいものはこの奥にある」

 部屋の奥の壁にあったのは、鍵のかかった金属の扉だった。

 明らかに今までと雰囲気の違うそれは、こちらとあちらは別世界であると告げているように見えた。

 ミズナは首から下げていた鍵を使い重そうな扉を開け、中に入るようウネリを促した。

 恐る恐る扉を越えると、普段は人の出入りが殆どないのか、踏み込んだ足先から埃が舞うのが判った。

 そこは、先程の小部屋と同じ様な造りの部屋になっていた。だが、窓から差し込む光は充分な明るさがあるのに、何故か薄暗く圧し掛かる気配に満ちていた。

 幾つも置かれた棚からは、丁寧に束ねられた手紙らしきものが溢れ出しそうだった。そして、図書室にしては不思議な物に満ちていた。棚の中だけでは収まりきらないのだろう、手作りと思われる人形やおもちゃがあちこちに置かれ、そのどれもが色あせ年代を感じさせた。

 一見古い子供部屋の様にも見えたが、それにしては整然として、生活の匂いがまるでしなかった。

「ここは、何の為の部屋なんですか?」

 何故か胸騒ぎを覚え、ウネリの声は緊張していた。

「ここは、歴代の巫女の親達から巫女へ宛てた手紙や贈り物が保管してある部屋だ」

「巫女に宛てた手紙? こんなに沢山? どうして、そんなものがここにあるんです?」

 ミズナは一呼吸置くと、ウネリの目を見つめた。

「巫女は、祈りの儀式の後、神殿で暮らことになっているからだ。以降は神殿の住人以外とは誰とも会わず、大地の平和を祈り続ける為に」

「……え?」

「役目を果たし続ける娘に、せめて手紙や贈り物だけでもと、今迄の親達が神殿宛てに送ってくれたものを保管してある」

 ウネリは慌てて口を挿んだ。

「待ってください! 巫女が神殿で暮らす? 何を言ってるんです?」

 ミズナの言葉が頭を廻り、上手く言葉が出てこない。

「例え育て親であっても、二度と会うことは出来ない。だから、この部屋が出来た」

 ウネリは茫然とした。そして、今迄何も話してくれなかったミズナに、激しい怒りを覚えた。

「今更何なんです! 初めから知っていて、ずっと黙ってたんですか! 俺にファイを育てさせる為、騙していたのか? ふざけるな! ファイを、連れて帰る」

 部屋を飛び出そうと踵を返したウネリの背に、ミズナの言葉が静かに覆いかぶさった。

「駄目なんだ。ファイの姿が、もたないんだ」

 ウネリは足を止め、ミズナを振り返った。

「今、何て言った……?」

「ファイは、もうすぐ姿を保てなくなる」

 ウネリの目を真っ直ぐ見つめ、ミズナは言った。

「巫女は神殿で暮らすというのは、今迄の育て親達への方便だ。お前には、これから何が起きるのか、巫女の真実を聞いて欲しい」

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