第九十二話 こちらとあちら
熾火の様に燃える何かがいる。いや、その光はきっと陰火なのだ。
それが証拠に、自分は煌々たる光の中にいるのに、何も感じていない。目を閉じていても、瞼を通じて光が感じられる。そして、その存在の輪郭も。
それは、少女の様でもあり、大人の女性の様でもある。わかるのは、それが”女”だと言う事だ。
何故?それは、私も女だからだ。男には感じられない何かを私は感じる事ができる・・・のだと思う。
ところで、その肝心の私は何をしているのだろうか?あれ?そもそも、ここはどこだろうか?
「良いのじゃ。そのままで良い。考えるな、感じろ。」その言葉は、耳に聞こえて来る何かではない。では?
「お主も面倒な女であるの。何故そこまで考えて、理由を知らねばならぬのかえ?」うう、何故だろう?ずっとそうして来たから?
「お主には眠りが必要なのじゃ。”あちら側”と繋がる為にも・・・。」あちら側?
「そうじゃ。それよりもの。お主は、あ奴に何か伝え忘れてはおらぬか?何か大事な事を?」
何か?何だろう?あ・・・あの割符だ。あの・・・。
****
「はっ!」と目を覚ましたシーナだが、まだ時間は真夜中の2時だ。今日の日付は・・・9月1日。
あの鹿子木と言う男には、レンジョウは10月に帰って来ると告げていた。後一月、あの男は来ないと言う事になる。
”こちらとあちらでは時間経過速度が違うと言ってたわね・・・・。”
”あちら”・・・・。あちら側?誰か私にそんな事を言ってた気がする。
それが誰だったのか・・・。思い出せない。
「とにかく、朝になったら、レンジョウに教えないと。」そう思いながら、暗い部屋の天井を見上げる。
何かの気配が感じられたが、それはシーナには子守歌の様な心地よさを感じさせ・・・そこから先は真っ暗な部屋の中でシーナの寝息だけが聞こえた。
****
「シーナは以前から申しておりました。背の高い両親と背の高い兄の中で、何故自分だけが背が低いのかと。」アリエルの述べるところは重々しく、時に涙が机の上に垂れているのが痛々しい。ザルドロンも瞑目している。
「わたくしにも、あのシーナの有様を見て、納得するところがありました。シーナもまた、幼い頃から狙われていたのです。おそらく、父君への当てつけとしては、愛娘の方が効果的でございましょうから。」
あの気丈で、時には気が強すぎて辟易する程のシーナが、幼い頃から毒素をどこかで盛られていた。そして、それがエルフのご馳走によって、突然に外に噴出する事となった。
本人としては、気も付いていなかったのだろう。血肉と共存する程度に、徐々に毒を注がれる。俗に言う鬼役と言う毒見は、そうやって造られるのだそうだ。
シーナに毒を注いでいた者は、シーナに近しい者だったのだろう。急に殺すのではなく、徐々に病弱にして行く為にそうしていたのかも知れない。
けれど、歳相応か、それ以上に元気な印象すらあるシーナが、幼少から毒を注がれていたのが事実だったとして・・・その担当を行っていた者は、果たしてシーナに死んで欲しいと思っていたのだろうか?
何となくだが、疑わしいと思える。何よりも、アリエルを溺愛寸前まで好いているシーナの姿を見るに、シーナの周囲には実は良い人々が揃っていたのではないかとさえ思えるのだ。
”毒を注いでいた者は、実はシーナを陰ながら守っていたのではないか。”とさえ俺には思えるのだ。つまり、その者は、チャンスがあったのに、最後までやらなかった。
シーナの父が殺され、母と兄が謀殺された時に、本当ならシーナも命を失っていて当然なのだ。父母と兄が健在だった時から毒を注がれていたのなら、身内が全滅した際には普通は殺されていただろう。
そうであっても、シーナの弱視寸前の視力の低さは、あれは生まれ持ってではなく、生後の栄養や照明の環境によって作られた特徴であるのだろうだから、そこに毒素の注入が介在している可能性は高いだろう。
フェンシングの達人にまで達しているシーナの腕前は、逆境の中で生き、それを跳ね返して来た結果の産物なのだが、実はもっと天稟に恵まれていたのに、それを十全に発揮できていないとも言えるのだ。それは本当に惜しい事だと思う・・・。
”何かの力を貸すなり、慰めを与えるなりができたら良いのだが。”とは思うが、さり気なくとなると、それも敏感なシーナ相手には難しいのだ。とにかく、一筋縄では行かない女だから。
シーナの悲惨な境遇に、思わず不遇な者同士の連帯を感じてしまったのは、彼女に知られたならば、腹立たしく思われる事かも知れない。とにかく、安い同情とかを示せば、カンカンに怒る女だと言うのは先刻承知だから、その方面で突くのは下策だとわかっている。
”要は俺がアリエルの役に立てば、それだけで喜ぶ女だからな。”と言う了解は成立しているのだ。そっち方面で更に努力するのが正しいだろう。
アリエルの周囲には、そう言う逆境を跳ね返して生きて来た者が集まって来ているのだろう。
半人前とは言え、アマルやハルトみたいな極貧に近い無産階級の者達、不遇なカイアス隊長の様な人物、マキアスやバラミルの様な反骨の下積み兵士。そして、これから成り上がって来るだろう、陽の目を見なかった者達。登用のし甲斐のある人材はそこそこに居る事だろう。
目を向ければ、ザルドロンがこっちを見ている。何か言いたげだ。
「勇者殿、お主は変わったな。」彼の声は、少し枯れた声ではあるが、強い力を秘めた響きがある。
「馬鹿みたいな激戦を切り抜けたんだ。変りもするだろうさ。」と軽くいなそうとするが、相手は老練な賢者である。
「それもあるんじゃろうが、お主は落ち着いておる。血に狂ったり、取り乱してはおらぬよ。どうした事なのじゃろうな。お主は、まるで聖騎士の様な雰囲気を纏っておるのよな。」
「聖騎士ってのがどんな奴かは知らない。聖なるご立派なお方と俺では、生まれも育ちも違うだろうから、似るとは思えないんだがな。」と俺は更にいなした。
「違うのぉ。聖騎士とは、大魔術師に祝福された戦士の事じゃよ。騎馬を操る者も、馬から降りて戦う者も居るが、全てはその生き方の方向性が問題なのじゃ。お主は、エルフ達と共に戦った。その時に何が目的で戦ったのじゃ?」と問い詰めて来る。
「俺が何の為に?ううむ・・・エルフ達が死んで行くのが哀れだったし、奴等は本当に勇敢で健気だった。フレイアの為に命を捧げるのに疑問を感じていなかった。俺の考える聖騎士と言うのは、まさにエルフの騎士達そのものだった。だから、俺は奴等を見捨てられなかったし、俺にできる事を精いっぱいやったつもりだ。」
「ほほ。勇者殿は自分で答えを口にしましたな。」朗らかにザルドロンは言う。
「答えとは?何を言っているんだ?」俺は心底疑問に思った。
「勇者殿は、自分が最も高貴と信じる存在を見つけて、それを失うまいと奮闘なさった訳じゃろう?あのアローラと言う娘子も、大層感心しておられたよ。」
アローラ・・・要らない事を何も言わないでくれてありがとう・・・。
「レンジョウ様は以前より顔付も変わりましたね。何と言うか、わたくしは今のレンジョウ様が前より好きですねな。何と言えば良いのか・・・美しくなったと感じます。」アリエルはそう言うが、俺にはその物言いがちょっと気になったのだ。
「28歳で男が美しく変わる訳はないだろう?」
「美しいと言う物言いが変なのですか?わたくしには、レンジョウ様は大きく変わられたと感じられます。その表現は美しく変わったと言う事で間違いないのでは?」とアリエルは首を傾げている。
俺は多少戸惑ったし、違和感も感じた。俺はそんなに変わったのだろうか?そもそも、俺は鏡が嫌いなタイプなので、自分がどんな風に見えるのかに著しく疎いのだ。
「そう言えば、シーナも俺を見て驚いていたな。俺はそんなに変わったのだろうか・・・。」
「落ち着きましたね。以前みたいな危なげな表情も見えませんし。」アリエルはそう言う。
「何やら、少し醸し出す雰囲気に変化があるの。姫様が感じている変化は、儂には疎い方面の変化と言う気がするが。そこらはシーナなら上手に言ってくれるやも知れぬな。」ザルドロンも上手く言い表せない様だ。
この違和感が、俺がアリエルに関する不可思議な疑問を抱くに至った最初の契機だったと記憶している。
****
朝食の時間がもうすぐやって来る。昨日のあの酷い出来事について思い起こすと、本当に気が滅入って来る。
あれからの風呂場の掃除は大変だった。普段使っていない予備の風呂にしたのだが、それでも洗い流した湯による悪臭がこびり付く程で、自分の体内に蓄積されていたいろいろな毒素の恐ろしさをまざまざと思い知ったのだ。
ブラシで何度も擦り、ソーダをぶちまけて更に擦り、水と湯で洗い流した。しかし、照明の光程度でも金具を幾つか変える必要がある位に色が変わったと見える個所もある。
その作業の最中に、何度か自分にも湯を掛けたが、その最中にも皮なのか老廃物の塊なのかが剥離して、凄い臭いを放つ。
しかし、その後は肌はピンク色に輝き始め、普段からの色白な肌が更に美しく変化するのを目撃して、感動に震える。
”レンジョウありがとう!”と心の中では、そんな風に大きく叫んでしまうシーナだった。だから、今朝の朝食には力が入った。
仕込んだメイド達ではなく、自らが材料を刻み、鍋を監視して、オーブンの薪をくべる。パン種も完璧だし、発酵も成型も完璧!鉄の型枠の中で、10個ほどの種が焼かれるのを待っていたが、その内の5つだけを焼く。
後はハーブ入りの油に漬け込んだ大量の生鮮キャベツ、酢と油に漬けた野菜、色々な果物、最後の最後にチーズ入りの卵を焼いておこう。これとハーブ茶を添えて朝食の出来上がりだ。
メイド達がパンとおかずを試食して満足している。ワゴンに姫様、レンジョウ、ザルドロン、そして自分の分の朝食とお茶を載せる。
「おはようございます。朝食をお届けに参りました。」とにこやかに食堂に入ると、待っていた三人は一様に居心地悪そうにしていた。
「どうかなさいましたか?」と問い掛けるが、アリエル姫のもの言いたげな雰囲気を察する。「私ならば大丈夫です。過去の負債はレンジョウのくれたご馳走で排出できましたから。」と告げると、一同が黙って頷く。
「ご心配をお掛けしました。けど、大丈夫です。シーナはいつだって大丈夫なのですよ。」と軽口を叩いたら、皆がぎこちなくではあっても笑ってくれた。
「なあ、シーナ。お前は前よりも顔色が良くなったぞ。前は真っ白で、それはそれで綺麗だったが、今は桜色で健康的だと俺は思う。」レンジョウが直球で褒めてくれた事で、私は顔が真っ赤になるのを自覚した。
だから、「あんた、一体エルフの森で何があったのよ?」と問い詰める事にした。
「何があったって?何でそんな事を聞くんだ?」とレンジョウは答えるが、慌てた表情がチラリと浮かんだ。
「だって、明らかにおかしいもの。あんた、エルフの森に行く前と帰った後で顔付も雰囲気も全然違うじゃないの?」と言ったのが地雷だった・・・・。
「どの様に違うのですか?」と本当にわかってない様子の姫様から詳しく説明する様に言われてしまう。
「あ・・・あのね。あんた、本当に変わったよ。えっとね。前より佳い男になった。」とようやく口にすると、更に追い打ちが。
「佳い男・・・ですか?それは男性として魅力的と言う事なのでしょうか?」と、姫様は連打で私を追い込んで来る。しかも、見事に天然な様子で。
「あ、あの。冷めない内に配膳してしまいますね。それと、パンを炙らないと。」と言いながら、籠の中のパンを食堂端のパンをトーストするための小さなオーブンに入れて炙り始める。
レンジョウは下を向いている。明らかに困っているのだ。しかし、何故困っているのか・・・・。
いや、もしかしてだ・・・。そんな事がありえたのだとしてだ。それは立場上聞けば後戻りできなくなる案件ではないのか?
チラリと姫様の方を見るが、姫様は至ってご機嫌で、単純にレンジョウの帰還を喜んでいる様子だ。
あ!また忘れてしまうところだった!
「レンジョウ、貴方に伝言があるの!長い間あいたから、忘れてしまう所だった。」
「どうしたんだ?誰からの伝言だ?」
「鹿子木誠人って男の人からよ。あんたの故郷から来た人だって言ってたわ。」
レンジョウは驚愕の面持ちで、「そんなバカな?何故あいつがここに来て、お前と出会ってるんだ?」と、ようやく身に着けた落ち着きもどこかに消えてしまい、場にそぐわない大きな声を出した。
「”パソコン”と言う道具であんたを見つけたのだそうよ。私には訳がわからないけど、あんた達の世界では、それでいろいろとあんたを探したのだそうよ、私達には魔法にしか見えない道具と方法なんだって。」
「じゃあ、この世界は一体どこにあるどんな世界なんだ?」レンジョウはかなりショックを受けている様だ。
「あんたは、あちらの世界では脱走したと思われているのだそうよ。」私はそう締め括った。
「少し理解ができないのですが、レンジョウ様の居られた世界と、この世界はどこかで繋がっていると言う事ですか?」姫様がチンプンカンプンながら、その様に推理して発言する。
「その報告は受けておったが、儂にも訳がわからないので保留しておったのですよ。」ザルドロンはそう応じた。
「奴はどこにいるんだ?わかるのか?」レンジョウは勢い込んでいる。
「いいえ、けど、彼には割符を与えておいた。10月には来ると言ってたわね。あんたが早く帰って来たので、彼はもうしばらくは来ない事になるわね。」
「あいつがここに・・・。」
「帰りたいのですか?貴方の故郷に?」姫様の声は、かなり抑えてはいるけれど、寂しさと当惑に震えていた。
「わからない。帰ってもどうして良いのかはわからない。ここに来た理由もわからないが、帰る方法も同じくわからないんだ。」パンを炙るのが終わった。
「さあ、どうぞ。」つい思い付きで口にしてしまった言葉が、こんなに皆にショックを与えるなんて。迂闊だった・・・。配膳しながらも、自分の言葉を後悔するばかりだ。
その後は、会話も弾まないまま、皆は黙って食事を終えた。皆が大量に朝食を残したし、昼食も同じ事だった。