第百五十二話 エルフ達も去って行く
「どうしてこんな簡単な事に気が付かなかったんだろう。」シーナは興奮していた。
「そうだよね。別に人間限定の食べ物じゃないんだし。馬に食べさせても良かったんだ。」アローラが感心している。
「わたくしも考え付きませんでした。なるほど、エルフのご馳走なら、腹も膨れますし、栄養と言う事では最高ですからね。」とシュネッサ。
「ゲーム世界限定の解決方法だよな、これ。」と言うのはマキアスだ。
「暗殺者の人は、この方法に気が付いてたんでしょうかね。」鹿子木がそう言うが、これはコロンブスの卵みたいなもんだろう。俺ですら思い付かなかった。
馬は手綱に繋がれたままで、その場にうずくまって眠り始めた。明日の朝には起きて元気に走れるようになるだろう。
「俺にはもう一つ気になる事ができた・・・。」と俺は呟いた。
「気になる事って何すか?」と鹿子木が訊いて来る。
「ほら、暗殺者が言ってたじゃないか。この世界の魔法に類する事は、俺達の現実の世界でも行える事だとな。こんな事をどうやってリアルに実現できるんだろうか?お前には考え付くか?」
「ナノマシンを使えばできるんじゃないか?体内から異物を全て排出して、栄養については大腸内をいじくりまわして作成する。ほら、炭水化物しか摂取しないのに、筋肉ムキムキのパプアニューギニアの原住民が居るらしいけどさ。あれと同じで、特殊な大腸菌の代わりにナノマシンが腸内環境を糖分をエネルギーにして常駐しながら作成し続ければ実現できるだろうぜ。」とマキアスは言う。
「まあ、それができるまでに何年かかるのやらだな。」俺はそう言ったが。
「いや、もうできてるんじゃないか?」とマキアスが言い返した。
「何だと?」
「俺もそう思うっすね。ほら、シーナさんですよ。」
「むむ・・・。」
「ほら、未来のチーフは、薬剤とナノマシンで凄く強化された肉体を手に入れてたんでしょう?今のチーフも完全体じゃなくても、既にナノマシンで強化されてたんじゃないか?それがこの世界にも反映されたって事かもな。」
「あれが完全体でなくても、”私の戦闘力は53万です”とか何とか・・・」
そこで鹿子木の言葉は中断した。ヘルメットを被っていない後頭部が、シーナの長い指で思い切り掴まれたせいだ。
「私の陰口を叩こうだなんて、まったくいい度胸よね。」と丸眼鏡を煌めかせながら凄むシーナに、誰もが口を噤んだ。
「アダダダダ!ギブ!ギブっす!」とだらしなく鹿子木が悲鳴を挙げる。俺やマキアスなどに助けを求めるが、俺だって怖いものは怖いのだ。惜しい男を亡くしたとは思うが、往生せいや鹿子木と、その魂の平安を祈った。
結局、鹿子木は殺されずに済み、散々痛い目にあった後に尻を蹴られて解放された。
「あうあうあう!」頭を押さえながら鹿子木は呻いている。
暗い静寂にパチパチと焚火が弾け、不協和音として鹿子木の呻き声が聞こえる。
シーナは例によって炙って温め直した猪の肉をがっついている。そろそろ臭いがついて来そうな感じになっているため、シュネッサの集めて来た野草を刻んで薬味にしている。
多分、以前のシーナなら、こんな脂っこい代物は少量で済ませていただろう。しかし、現在のシーナは違う。
なるほど、マキアスの言ったとおりに、シーナの体内にはナノマシンが仕込まれている可能性は高い。なにしろ、食べた物を片端から凄い速度で消化してしまうのだから。
これはこれで人間業とは思えない。多分、満腹感を司る脳内に送られる信号も常人とは違っているのだろう。
けど、そんな気付きを口に出したが最後、どんな酷い目に遭わされるか知れたものではない。と、鹿子木の様子を見ながら思った。うん、絶対に黙っていよう。
「明日の朝には馬は使える様になるのか?」と考えとは裏腹に、俺が口にしたのはそんな事だった。
「多分、朝まで眠っているだろうけど、目が覚めたら大丈夫だよ。」と請け負ったのはアローラだ。エルフのご馳走の効果はエルフが一番知っている。
「そう言えば、シュネッサはどうした?」俺は訊いてみた。
「シュネッサは水晶玉を持って、フレイア様との交信を試みているよ。けど、昼も夜もこの一週間近く不通なのよ。」と少し不愉快な表情を浮かべた。
「何かあったと思うべきなのかな。」俺は訝しんだ。
「あたしには何となく想像できるのよ・・・。」とアローラは小声で呟いた。
「言ってみろよ。」と言うと、アローラは言った。
「多分ね。あたしのレンジョウの世界での分身はパトリシアだけど、女王様もレンジョウの世界に本体があるのよ。その人が目覚めて、フレイア様は眠ってしまった。そう言う事なのかも知れないわ。」
星の世界で出会った誰かも言っていた。心が通じない俺の周囲の女がフレイアなのだと。
リアルのフレイアとはどんな女性なのだろうか。そう思う反面、知るのが怖いと言う気持ちもある。
リアルのアローラにせよ、ここに居る天真爛漫なアローラとはちょっと違う、何か重大な事を知っている女なのだと。深刻な何かを抱えている女なのだと思っている。
「じゃあ、明日の朝にはお別れだな。お前はヴァネスティに帰って、フレイアの様子を確かめたいんだろう?これ以上俺達と旅を続けるのは今は無理だ。」俺はそう宣言した。
「うん、わかってる。暗殺者さんもわかってたんだよね。あたし達がこのままでは去り難い事が。そして、あの人はフレイア様の事もちょっとだけ知っているんだろうなって気がする。だから急いで去って行って、あたし達の背中を押してくれたんだろうって。」
焚火の光を照り返す美しいアイスブルーの虹彩。黒い縁に囲まれた美しい青が潤んで煌めいた。
「明日の朝、あたし達もこの一行を抜けるよ。レンジョウ達の手助けをする為にもね。」
「ありがとうな、アローラ・・・。」俺はアローラの頭を撫でてやった。
「それにしても、シュネッサは遅いな。繋がったか繋がってないか、すぐにでもわかりそうなもんだが。」俺がそう言った時だ。
「アローラ様。女王様と連絡が取れました。急いでこちらに!」と言うシュネッサの声が聞こえた。
その瞬間、ヘッドライトよろしく照明を提供してくれていた魔道具が、遂に光を放つ力を失い、木立の闇を斬り裂く光が失せた。それに構わず、アローラは馬車の中に入って行った。
この魔道具は、便利は便利だが、出力の加減ができず、一旦起動すれば壊れるまで点灯するしかない代物だった。それでも重宝な代物だったが、寿命の二日半を過ぎ去ってしまったのだ。
「予定よりは長持ちした位よね。」とシーナは言うが、やはり残念そうだ。
「それにしても、フレイアと連絡が繋がったのは朗報なのかな。」と言うや
「あの女とね。」とシーナは言うと、鼻を鳴らす。
「お前はリアルのフレイアと知り合いなのか?」俺は気が付いて尋ねた。
「もちろんよ。私がこんな身体にされたのも、言ってみればあの女のせいなんだから。」苦り切っている。そして、鹿子木とマキアスの方を向いて一睨みをくれた。
だらしなく、二人は小さく悲鳴をあげて目を逸らす。
「とにかく、ここでは詳しくは言えないわ。現実の世界に帰ってからと言う事になる。」と詳しく訊くのは不可能みたいだ。
「言っておくわよ。私はあの女が嫌いよ。」と短く断言したシーナの横顔は、奇妙に寂しげに見えた。
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「女王様、お久しぶりでございます。」とアローラ様が笑顔満面で水晶玉に話し掛けている。
「そうね、アローラ。それにしても、貴女がこれ程長く森を離れて人間の手助けをするなんて。そんなに酔狂な勇者だったかしら?」女王様がそう言った。冷たい口調だった。
「あれ?今回の共闘の件は、女王様も大賛成だった筈ですけど?」
「今回の使命は果たしたのでしょう。魔道具や神器も手に入れたのですし。財宝についても、既にフルバートの商人ギルドに持ち込んで、少額の為替を何十枚か作らせました。これらを同じく商人ギルドに依頼して、秘匿でノースポートに届けて頂きます。それでお互いの取引は終了の筈です。」
「あ・・・。」
懸念はしっかりと的中していた。この人はフレイア様であって、フレイア様ではない。
造り物なのだと・・・。
あのレンジョウの素晴らしさに気付き、自分をレンジョウの恋人にしてくれた人ではないのだと。
そうか、自分がこんな造り物だったとしたら・・・。
あたしにはパトリシアが居た。彼女はあたしと同じく、あるいはそれ以上にレンジョウにベタ惚れで、一緒に恋愛を楽しみ、喜び、彼を心底尊敬していた。
けれど、この人は単なるエルフでしかない。エルフは異種族を好まない。原理主義的に嫌っている。
森の人達や騎士団や兵隊たちですら、あんなにレンジョウの事を好きになってくれたのに、”この人だけ”がまた元に戻っている。
暗殺者サマエルとの別れの時に感じた寂寥感を数十倍したものを、あたしは”感じた”。
「女王様、それで良いの?それだけで良いの?」とあたしは訊いた。
「取引は終わりました。それが全てではありませんか?」議論は無駄だと悟った。
「はい、わかりました。明日の朝に、シュネッサと共に、森に帰還致します。」
「そうなさい。」美しいが冷たい視線を感じる。愛を感じない。あんなに溢れていた愛を感じない。
「それでは・・・。」そう言うや、布を水晶玉に被せる。光はすぐに失せて、静寂だけが残った。
我知らず肩を落とし、寂しさに打ちひしがれながら馬車の客区の扉を開けた。
少しだけ、少しだけで良いから、あの大きな胸に抱かれたいと思った。愛を感じていたかった。
その時だ。
『アローラ様。多少乱暴ですが、解決方法があるのです。お聞き入れ下さいますか?』と言う声が聞こえた。
「誰?誰なの?」あたしは口に出して問い、周囲を見回した。
『非常に短い間。そうですね、貴女様と、レンジョウ様が、この地で冒険を終えられるまでの間くらいは・・・。時間を作れます。如何ですか?』
「あんたは誰?あんたも、レンジョウやパトリシアと同じ世界の者なの?もしかして、あのアークエンジェルを操っていた”運営”とか言う人達?」
『いいえ、違いますよ。しばらくは会えませんが、私もノースポートに居るのです。ただ、仲の良い友人が居て。その者は、たまたま、何故かたまたま、リアル世界のフレイア様のお近くに居るのです。どうしますか?』
その声は、非常に音階の幅が広い、美しい声の持ち主だとわかった。耳に響く声がたまらなく心地よい。エルフの奏者が数名並んで奏でる歌劇よりもまだ耳に優しく、胸のあたりまでがくすぐられる様な快感さえ、その声に感じた。
今、この空虚な気持ちを癒せるのなら、文字の通りに悪魔に魂を売っても後悔しない気がした。
「もちろんよ。やって頂戴。フレイア様を取り戻せるのなら、どんな事でお願い!」あたしに迷いはなかった。
『この世界では数日の辛抱です。現実の世界では、凄い速度で時間が経過しているのですから。では、その間は森を駆け巡って、本来の貴女を取り戻して下さい。』
「うん・・・。」短く答えたが、それは自分の今の気持ちが言葉では語れないものだったからだ。
決意は十分固まっていた。そして理解した。もう、自分は造り物の何かに戻る事ができないのだと。
本物の愛を知った人形は、それが精巧に作られていれば人間と何等変わる事がない。
パトリシアからの心からの共感、レンジョウからの本物の愛。それを得た自分は全き生命となったのだと。それが完全に心で理解できた瞬間が今だったのだ。
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目覚めてみれば本当に腹立たしい事だった。
「何なのよ、あのゲームは。」VRヘッドセットをかなぐり捨てるや、ついつい毒付いてしまう。
美しいファンタジー世界の冒険、ストレス解消に最適。
アネットの言う事を信じてプレイしてみたが、途中からは破廉恥な展開(エロゲー展開)になり、子供の様な妖精族の勇者と共に、愛欲の世界に没頭するような事になってしまった。
彼女はいたずら好きな女性だが、少々わたくしの事を見誤っているとしか言えない。
今は確かに一度離婚してはいるが、わたくしが元夫のジェラード以外の男と交わる等とは・・・。
仮眠室のベッドにVR装置を置き去りにして、仮眠室を出るや、代表理事の執務室に足を運ぶ。
執務室の在室ボタンを押すと、最初の用件をマネージャーが伝達して来た。
「アポありの面会希望者が既に来所しておられます。」と言うメールが、用件表示用の端末に映し出される。
「トニオさんね、すぐにお通しして。」とマネージャーに返信する。なんとタイムスタンプを見ると、二時間も待たせてしまっている。とても済まない気がした。
「わざわざアメリカから来て下さったのに・・・。」それもこれも、あんな下らないゲームにかまけて、何時間も眠ってしまっていたからだ。
トニオ氏はすぐに執務室まで案内されて来た。
「オヒサシブリデス、オクサマ。」とたどたどしい日本語で彼は話し掛けて来た。
「Let's talk in English.(英語で話しましょうよ)」と言うと、にこやかに老人は笑った。
「それが良いですね。パトリシア様に倣って、日本語を勉強してみましたが。これがとても難しいのです。」
「それにしても、一体何故わたくしを訪問なさったのですか?」とこれは一番聞きたい事だ。
「はい。ジェラード様からのお使いで参りました。まずはこれを。」と言って、数枚の写真と、USBメモリを一つ渡されました。
写真には、幼い女の子が映っていました。短い金髪と、忘れもしない懐かしい虹彩と瞳の痩せた幼女。
「これはパトリシアなのですか?」
「はい、奥様。」と老人は答えた。
「大きくなって・・・。もう九歳なのですね。」
「はい、とても元気に成長なさいました。あの屋敷の柱や梁をスイスイと登って走り回っておられます。私の様な老人ではどうにもできませんよ。」と彼は笑う。
「貴方も、もう九〇歳になってしまったのですね。」
「左様でございます。まだまだ元気と言いたいところですが・・・。けれど、心残りであった奥様と、今も元気な旦那様が近日中にも再びご一緒にパトリシア様と共にお暮しになる事ができそうだとおっしゃっておいでです。」
「ジェラードがそんな事を・・・。」
「はい、確信をもっておいでの様でした。私はその報せを持って、日本に赴けと命じられました。こんな嬉しいお使いならば、何度でも引き受けたい気持ちです。」
「嬉しい報せをありがとう。わたくしの方も、事業は順調で、生活には何等困っていないわ。」
「左様でしょうとも。奥様の活躍は、アメリカの僻地でも耳にする程です。きっと、欲深い親戚衆も、逃した魚の大きさに歯噛みをしておる事でしょうな。」
「そうね・・・。」
「奥様。生木を裂く様な真似を、ジェラード様の親戚衆が仕出かした事についてはお詫びのしようもございません。私の姪が、フォーサイトの家に嫁いだ際にも、ジェラード様の御父上が同様の仕打ちを受けたのですが、奥様にまで同じ事が、より酷い仕打ちが降りかかるとは。それを止め立てできなかった無力な私をお許し下さいませ。」と、スペイン人らしい大きな仕草で腕を振り、トニオは膝を折る。
「おやめ下さい、トニオさん。誰を恨むよりも、世間知らずで無力だったわたくし達が悪かったと思う方が建設的です。少なくとも、わたくしはそう思っておりますので。」
「何とも悲しい事でございます。しかしながら、その様な忍従の日々ももうすぐ終わるのでしょう。トニオの命が尽きるまでに、ご家族が揃って、幸せに暮らせる様にと願っております。」
「ありがとう、トニオさん。」と言った時、呼び出しのコール音が響いた。
しかも、倍音のコールである。これは緊急の用件と言う事になる。
「トニオさん。日本での滞在はどれくらいを予定しておられますか?」
「そうですね。休暇も兼ねて、一週間は日本に滞在して、帰りは航空便でサンフランシスコからは自動車で帰る予定となっております。」
「そうですか。」タッチパネルで保留を選択してコール音を消し、言葉を続ける。
「ならば、二日後が週休となっていますから、わたくしと一緒に観光などはいかがでしょうか?」
「お忙しい中、そんな時間を取っていただいてよろしいのでしょうか?」
「もちろんです。実は、この二日間も、出勤していても決済業務以外は仕事はないんです。新しく雇った人達が凄く有能な女性ばかりで。」
「それはそれは。では、今日これからと明日は神戸を観光して、明後日は姫路まで行ってお城を見る事に致しましょうか。」
「それがよろしいでしょうね。では、慌ただしい事ですが、本日はこれまでと言う事で。二日後には、こちらから連絡いたします。」既にアポを取った時に、電話番号その他の連絡先は把握している。
「はい、お待ちしております。」トニオ老人は、矍鑠とした様子で立ち上がり、見事な礼の後に部屋を出て行った。
「お待たせしました。」と端末に向かって返事をする。
「代表理事、少しお伝えしたい事があります。」端末からは、開発チームのチーフであるアビー・ライラが映し出された。フェイスシールドが、彼女の名前のアビゲイル、修道女の長と言う名前に相応しい雰囲気を醸していたのに微笑してしまう。
「何か進捗に問題でも?」
「多少疑問に思えるモノをサーバー内部で発見しました。」アビーはそう言う。
「こちらからでは見えないわね。」そう、この建物の中のPCやワークステーションは、全てが半分スタンドアローンで、社内のLANから外にはほとんどが隔離されている。
今時テレワークができないと言うのは職場としては少数派なのだろうが、クラックやハッキングを受ける事を考えれば、セキュリティの為に外部から隔離する必要を考えれば仕方のない不便である。
そんな社内のコンピューターを連結するサーバーに何かが入っていた。
これは由々しい事態と言えるだろう。
「今からそっちに行くわ。」と言って通信を切る。
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「これです。」そう言って、アビーは幾つかのファイルを提示する。既にこれらはサーバーの中に設けた隔離ドライブに移動されており、例えばこれらが何かの悪さを仕出かしたとしても、防疫プログラムがドライブ内で全て安全に処理してくれる手筈だ。
「EXEファイルなのね。」
「ある意味わかりやすく、そして、あからさまですね。」
「こんなもの、今時開く人が居るのかしら?」と怪訝に思ってしまう。
「ハニーポットに使っていた通常のPCがあります。そちらで起動すると言う手もありますね。」とアビー。
「そこまでして開く必要があるのかしら?しかも、このファイルはサイズが凄く大きくない?」
「下手なゲームよりも余程大きいですね。ですが、それならば、何故こんなものがここにあったのかが説明されません。ここまで大きなサイズのファイルは、ドキュメントや図表を詰め込んだとしてもなかなか作れるものではないですし、この社屋の中で作ったとすれば、必ず作成者の署名がある筈なのに、それもありません。正体不明なファイルなのです。」アビーは肩を竦めた。
「とにかく、今すぐ触る必要はないのでしょう?アネットが出社して来たら、彼女に対処して貰いましょう。」
「わかりました。ところで、代表理事・・・。」と言うや、彼女は肩に手を触れた。
驚いて振り返ると、アビーはニコリと微笑んで言った。
「少し休んで下さい。一日程ですが。」
クタリと眠り込んだ代表理事を軽々と肩に乗せながら、アビーは受付を呼び出す。
「こちらサーバー室。代表理事が過労で気を失った様だ。今から仮眠室で寝かせておく。なに、こんな事これが初めてじゃないだろう。任せな。」とだけ言って通信を切る。
「20分間か。あっちでは何日位になるんだろうね。」と呟きながらも、アビーは廊下を凄い速度で小走りに進んで行く。お姫様だっこされた代表理事を抱えながら。
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「じゃあね、レンジョウ。シーナも、マキアスも、カナコギも。しばらくすれば、こちらから連絡するよ。アリエル姫には、水晶玉を渡しているから。あたし達の方の準備を終えたら、必ず連絡する。」アローラはそう言った。
その様子が、過去に見た事も無い程にしょげていたのに少し驚いてしまう。
「何があった?」俺は直截に訊いた。
「やっぱり、あたし達は造り物だと実感しただけよ。」アローラは自嘲的に言った。
「けどね、あたしはもう造り物じゃないって思ったりもしたよ。あんなフレイア様は好きじゃない。あれは本物じゃないって、あたしはそう思ったのよ。」強い目が俺に向けられる。
「あのね、ノースポートにはあたし達の手助けをしてくれる人が居るんだって。」
「ノースポートに?例の先代様の事か?」俺には心当たりがなかった。
「ううん、違う人だと思う。話し方が全然違ってた。凄く美しい声の持ち主だなって思ったよ。でも、それが誰かはわからない。話しぶりからも、先代様とはちょっと違ってたと思う。」
「うーん、それは誰なんだ?」
「私には心当たりがあるよ。」とシーナが横から口を挟んだ。
「その声の持ち主か?」
「ええ、多分ね。それはそうとね。アローラ、あんたは”美しい”って言う意味がわかるの?」シーナは力を込めてそう言った。
「美しいの意味って何さ?あたしは森の中で暮らすレンジャーでありガーディアンよ。森を美しいと思わない者が、どうして森を守ろうと思うの?」ちょっとアローラは意表を突かれた様だった。
「なら、何をどう美しいと思うの?」シーナは更に問答を仕掛けた。
アローラは少し気圧された後、束の間考え込むとシーナの問いに答えた。
「ん、何か大事な事なんでしょうね。良いわよ。あたしが美しいと思うのは、森の木々が日の光を浴びて輝く姿。木々が風にそよぎ、枝が緑の葉を頂いてそびえる姿。木々が雨を浴びて、たらふく水を吸い込んだ後に、余った水を吐き出して霧を作り出す様子。水と大地と太陽が、この世の命を作り出して循環する姿。それらを愛しているわ。それらを美しいと思うわ。」
「シーナ、お前は何を・・・。」俺はただならぬ二人の様子に慌てた。
「黙ってて。これはきっと大事な事なの。私の中では疑問が一つ解決したよ。そうだ、そうだったんだ。姫様とあの子の共通点ってそう言う事だったんだ・・・。レンジョウの言うとおりだったね。」とシーナは呟いている。
そんなシーナを尻目に、アローラは帰る気満々だ。けれど、まだ夜は更け始めたところで、青と緑の月は空に輝いているが、他の月はまだ上がり切っていないし、この世界の月明かりは、7つ全部(と言っても黒は見えない)を足しても、地球の月よりそれ程明るいとは言えない程度なのだ。
「レンジョウ、あたしは行く。あたしは森に帰るよ。フレイア様も、少し時間が経てば以前のフレイア様に戻るんだって。ノースポートに居る人はそう言ってたから。それを信じてみる。」決然とした姿だった。
「私も一緒に森に戻ります。皆様、いろいろとありがとうございました。」とシュネッサも一礼をした。
「朝飯くらいは一緒に食べてから帰れば良いのに。」とマキアスが言うが、これも仕方ない事だろう。
「アローラちゃん、今度はもっと穏やかにお話しよう。」と鹿子木が不穏な表情で挨拶している。
「ふふ・・・。あんたとはあんまり話したくないわね。頭痛くなるしさ。でも、いろいろと勉強になった気がする。自分ではわからない事でも、他人との話の中で思い出すものは沢山あるんだって。」
「マキアスもちゃんと生き残ってなさいよ。シーナが悲しむんだからね。」
「ん、レンジョウ、シーナ。また会おうね。」と言って小さく手を振った。
「シュネッサ、行くよ!」と言うと、外套のボタンを留めて、透明になったままでシュネッサと肩を並べて、そのまま飛び上がった。
「さようなら!」「さようなら!」二人の声が夜の木立に響く。
二人のエルフは、そのまま風の様に飛び去ってしまっていた。
前回の半ばで、シュネッサが「”エル”とは”エルフ”に繋がるものなのか?」とサマエルに訊いていました。
さて、各地の”エル”と”エルフ”について、少しだけ書いておきましょうか。
エルとは、セム族の神を表す言葉でした。あるいは、神の持つ力、パワーを意味します。
セム族とは、セム‐ぞく【セム族】
〘名〙 西アジア・アラビア半島・アフリカ北東部に住み、セム語系の言語を用いる民族の総称。黒色波状毛、黄褐色の皮膚、直状狭鼻をもつ。アラビア人、エチオピア人、ユダヤ人や歴史上活躍したアッシリア、バビロニア、フェニキア人などを含む。(日本語大辞典による)
神と人との違いは何か。セム族の認識としては、明らかに人間とは違う力を行使する存在が神であったのでしょう。
現在の人達は、エルと言う名を最後に持つ天使達を現在のイスラエルの人達が考え出した存在と思い込んでいますが違います。(女神転生のシリーズの設定は実は大間違いなのです。)
元来は、聖書に記されているサマリアの人達や、その系列のカナーンの人達(フェニキア人とも呼ばれる)が信仰していた存在なのです。
カナーン人の神であるバアルやタニトの様な存在こそがエルであり、それらは明白に人間の姿をしていました。タニトは大きなスカートを履いた姿で、バアルは長い帽子を被り、右腕を投擲の形に曲げた姿の人間として描かれています。
エルは古来から人間の姿をしていたが、人間とは明らかに違う力を有した存在を表す言葉だったと推定できます。
では、エルフについてはどうでしょうか?
実は、エルフと言うのは結構いろいろと説のある存在です。
決まっているのは、エルフはゲルマン領域では確実に恐れられていたと言う事がわかっています。
曰く、エルフとは水に関係する美しい魔物で、背中に甕が入る程の窪みがある。人を誘惑する、時に殺してしまう。死ぬと水に戻る。
そんな感じですね。エルフを統べる魔王はエルキングやエルケーニヒと言われています。
完全に、ギリシアやローマの水のニンフです。
そう言えば知っていましたか?アテネの王国時代の系譜を。
そこには書かれています、始祖「川の神」と・・・。
まあ、これは十分アレな感じですが、テーベみたいに始祖ポセイドンとか、ミノスやレダみたいに始祖ゼウスとか普通に神の名前が家系図に残ってて笑えます。
で、この川の神ですが、間違いなく水に関係する魔物なのでしょうね。
どこかの都市王国の家系図でも始祖の配偶者が”水のニンフ”とか書かれてたのがありましたが、忘れてしまいました。今度民俗学の文献を読み直してみましょうかね。
ところで、現在の日本を含む世界一般では、エルフと言う魔物は、耳の尖った端正な顔立ちで、細身の姿で描かれます。これはトールキンの指輪物語の影響でしょう。(それらに囚われない例としては、かつて、水木しげるさんの書いたエルフは、大きな口で人を食べてしまう正真正銘の怪物でした。)
では、トールキン以前のエルフとはどんな存在だったのでしょうか?
最初に答えを言っておきましょう。女性を首長とする異教徒、異民族と言う意味です。
もう一つの意味があります。”生命”と言う意味です。
ヘルダイバー本編でも引き合いに出し始めた”ラグナロク”ですが、ラグナロクの後に再生する世界では、新しい女の太陽が出現します。
それを”Glory of elves”、生命の栄光と呼びます。
どう言う訳か知りませんが、一神教と言うのは女性によって統治される国や民族を認めない傾向があります。
じゃあ、イギリスはどうなるんだと思う方も多いでしょうけど、実際の話、国としてのイギリスは凄い格式を持っていますが、王家としての格はそれ程ではありません。
アングロサクソンの正統な男子は、日本の鎌倉幕府の頃に途絶えていますから。”ノルマンコンクエスト”で検索して下さい。
とにかく、マリアテレジアやエリザベス等の、恐ろしい程に有能な女王や女帝が存在しているので、世界は女性に寛容だと思っている日本人は多いと思いますが、現実は違います。
開明的なギリシアですらも、女性の権利は存在せず、ローマでも似たり寄ったりでした。だからこそ、ギリシアやローマにキリスト教が入り込めたのでしょう。
そのキリスト教についても、蓋を開けてみれば信じられない位に夫権の強い宗教だったのですがね。
キリスト教はさておき、同じく聖書を奉じるイスラム教でも、同じく夫権は強く、女性の権利や尊厳については、神権政治復活を目指すイスラム国の所業を見れば、大体の想像は付く事でしょう。
多分、大方の日本人には信じられないでしょうけど、イスラム教の主神であるアラーですが、アラーは元来女神でした。
かの女神とは、バビロニアの時代にメッカのカーバ神殿で祭られていた月の女神アラトゥであり、かの女神はヒッタイトのアラニと習合される女神です。
アラニはバビロニアのエレキシュガルと同一の神とも言われています。
つまりは、月の女神であり、地下世界の神であり、冥界の神でもあります。(北欧神話のヘルも冥府の女神でしたね。)
それ故にトルコをはじめとするイスラム各国では、今も月の女神の時代のアラーを象徴する赤い三日月をシンボルとして愛し続けているのです。
カーバ神殿のアイコンは大きな黒い石です。他の三六〇以上の偶像(一度でも人の崇拝を受けた事のある人型を思わせる石や木、金属等の像その他、お地蔵さんもこれに含まれる)は杖でぶち壊されましたが、黒い石だけは壊されなかったそうです。
ふむ・・・太陽神のアイコンが黒い訳なかろうに、と思うのは我々日本人の発想ですが、これが月のシンボルであったとすればどうでしょうか。
アラビア半島の住民とすれば、太陽燦々たる日中よりも、涼しく月の光明るい旅の方が楽だったでしょうから。ほら、”月の砂漠”と言う歌があるでしょう?
古代では、アラビア半島は緑滴る土地だったようですが、それでも気温の高い場所であった事は間違いなかったのです。
太陽を拝んで酷暑に拍車をかけるよりも、穏やかな月の照らす夜の光に感謝しながら旅をする方が、風情を理解していた世界最先端の文明国家だったアラビアの人達には好みだったのかも知れません。
黒い聖なる石のアイコンは、そんな背景から今も残っているのでしょうか。
総括すると、エルフとは女権の象徴であり、異教徒を表す言葉でした。そして、それは悪魔をも意味していたのです。
例としてですが、スタートレックの惑星連邦を構成する種族の内、もっとも地球人と早くコンタクトを行い、後に主要な種族の筆頭として活躍したバルカン人。
ミスタースポックのコンセプトは、ヘモシアニン(鉄の代わりに銅によって構成された赤血球同様の働きをする血液成分。地球に住む烏賊の場合は青血球、バルカン人の場合は緑血球の事)が体内の酸素を供給する異星人で、尖った耳を持ち、人種的に地球人類と極端に近似しており混血すら可能な種族と言う事でした。
このバルカン人のデザインですが、一九六〇年代のアメリカその他では、尖った耳で青白い肌の人間とは、まさに素朴だった当時のアメリカンに取っての悪魔のイメージだったそうです。
あの程度で、昔なら悪魔の姿だったのです。今となっては信じられないでしょうが。
その後に、一九七〇年代に、あの今なお活躍しているロックバンド「KISS」が新たな悪魔のイメージを人々に植え付けたため、バルカン人が悪魔の姿だったと言う事は忘れ去られてしまいましたが、ロッテンベリー達の構想では、まさにその様に考えてミスタースポックを作り出したのです。
ちなみに、KISSのジーン・シモンズですが、デビュー時には髭を生やして、ジーザスそっくりの肖像を撮影したりもしています。自分が反キリストの悪魔であると、最初から明確に意識していたのでしょう。
そんな彼も、数年前にももクロとコラボした時には、舞台袖にクルクルクルと回転しながら去って行くももクロのメンバーを見て、耐えきれなかったのかえびす顔で演奏を開始していたのは微笑ましかったですね。
いやぁ、結局悪魔ですらも、可愛いを正義と認めざるを得なかったのでしょうねwww
さて、下手すると本編よりも後書きの方が長くなりそうな勢いとなりました。
今回はここまでとしましょう。次回は月の女神か一神教について書こうと思います。