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第百四十二話 トラロックの最期

「テオティワカンはこうして一時の平和を取り戻した。しかし、歴史を顧みれば、この民族には遂に宗教改革は起きなかった。それ程に伝統の力が強かったのか、それとも突き詰めて考える必要を民族の誰もが考えなかったのか。とにかく、トラロックの進言は受け入れられなかった。」

「溝ができた訳だな。トラロックとそれ以外の宗教指導者達には。そして、トラロックは簡単にテオティワカン内部の跳ねっかえり共を鎮圧するだけの能力があるとも証明されてしまった。宗教指導者達から考えればムズムズする様な気持ちだったと思うよ。」

「実はな、跳ねっかえり共の一部には、既にして生贄とされた者達の家族が入っておったのよ。アステカでは、どう言う訳か、泥酔する事が罪とされていた。貴族階級でも泥酔すれば身分を剥奪されて殺されてしまったからな。」

「それは酷い・・・。」シーナが呟いた。

「それなのに、酒は豊富だったからな。呑兵衛のアツテックに取っては罠を仕掛けられている様なものだった様だな。それで最後の名誉を守る方法としての生贄に志願した者がおったのよ。それがなまじ身分が高かったから、郎党や親族も多かったのだな。何ともはやだ・・・。」


「とにかくだ・・・。尤もな事を言っただけなのに、トラロックは多くの人の恨みを買ってしまったと言う事が重大だったのだ。」


****


「君は多くの人からの反感を買った。我の目から見れば、わざとである様だが、いかに?」我はトラロックに詰め寄った。彼の現地人としては麗しい奥方が遠くから恐々と我等のやり取りを見ておったわ。

「わたくしとしては、特段間違った事を言った覚えはないのですが。そうですね、多くの人がわたくしの具申を嫌っている様です。それについては申し訳ない事だとは思います。しかし、意見を曲げるつもりもまた無いのです。私には”神”と言う存在が残酷な生贄を求めるとは思えないのです。そもそも、貴方達がギリシアで見た光景はどうですか?ギリシア人が牛や羊や豚以外に人間を犠牲にしたとして、皆で人間を焼いて食べたと思いますか?」

「思わぬさ。しかし、それとこれとは別なのだよ。アステカもマヤも、この辺りの全ての者達がほんの百年前の出来事としての大規模な冷害を覚えておるのだから。」

「わたくしには、それを何とかする方法を講じる事ができます。」

我は無言になるしかなかったよ。我は死の天使だ。そう願ってそうなった。それなり以上の力を持っておると自惚れても仕方ない位の力は持っておる。しかし、死と破壊の力しか持っておらぬ。

だからこそ、トラロックと言う、人間に産まれながら、これ程の才能と力量を備え、我が今更望んでもどうにもならぬ”正しい力”を得るに至った存在を目にして、歯がゆく、悲しみの混じった想いを抱かざるを得なかった。彼の行く末が見えたからだ。

この者の眩い位の潜在力と、この者の容易に想像できた行く末の破滅の運命、彼が永らえた時の人々に与える事ができる恩恵の数々を想像するに、我は焦らざるを得なかった。だから辛うじて言葉を絞り出した。

「君は破滅を望んでいるのか?」この際、その言葉と口調に奥方が泣き出した事も構ってはおれなかった。

「わたくしならずとも、その様な運命は御免被りたいところでしょうね。」奴はすましてそう言ったものさ。

「君はまだ若い。何故そこまで焦るのだ?君の身体が人の子と同様であったとしても、まだ養生すれば五十年程は永らえる事ができる。奥方の為にも、身を慎むべきであろう?」我はそう忠告したのだよ。

「二人だけで話がしたいのですが。」トラロックはそう言った。外に出て彼はいつもの様に地面に座った。いつも思って居ったのだが、トラロックと話していると、まるで樹齢千年程の大木と話している様な気持ちになった。

古い樹に意思が宿ったならば、あの者の様な意思を持つのではないかともな。

「わたくしを殺そうと言う動きがあります。」そう彼は言った。

「何を今更?そんな事は端からわかっておったろう?」まさにその通りだった。

「それは都合がよろしいので、便乗させて頂こうかと思っています。」我は絶句したよ。

「君が命を失うのが誰の都合によろしいのかね?」憤然として問い質したよ。

「もちろん、わたくしの命を狙う者共にも。わたくし自身にもです。」その表情は相変わらず静謐だった。

「我には許容できぬな。当然の事であろうが?」その言葉にトラロックが向けた視線と表情は、何やら駄々を捏ねる子供を見る様なものであったな。

「そこは我慢して頂きましょうか。わたくしとしては、今後は星の世界に赴き、そこで暮らすのが正しいのですよ。残して行く者達の身は案じられますが。」決意は固い様だった。

人はすぐ死ぬ。薪の様に燃えて、火の粉を散らして灰と変わる。何千年も生きて来た我は、その事を知悉している。だが、この時ばかりは我にも譲るつもりはなかった。

「我は君の身を護るぞ。反対しても無駄だ。わかっておろう?」

「左様でしょうね。」奴は薄く笑ったものだ。


次の日から、我は一切の隠し事をしなくなった。冶金の技術を持たぬ、石と木材の文明の中で、堂々と金属製の剣を腰に吊り、眼帯の革帯も外した。

揺らぎながら光る深紅の左目に誰もが怯えたが、それがどうしたと言うのだ?

トラロックはその異相を取りなすかの様に、我と自分自身に羽根の飾りを付した頭飾りを着ける様にと言い、我にもその飾り物を渡した。

緑色の美しい羽根飾りであり、ハチドリの羽根を使った物らしい。あのように可愛らしい鳥の羽根が我に似合うものかと思ったが、それを設えたカックの家の長も、トラロックも我の姿を褒め称えた。トラロックの嫁御も同じくだった。

我はいささかゲンナリとしつつも、それが必要ならと言う事で受け取り、それを頭に履いた。

我は人間では到底成し得ぬ業で、トラロックの庵を護った。何しろ、眠る事もいざとなれば不要な身であるから。

トラロック夫婦の庵である小さな洞窟の前に居座り、不審な者が現れれば、死の眼光でかの者共の存在した痕跡をこの世界から完璧に消し去る事すら厭わなかった。

我の気が立っておるのを周囲の獣すら感じるのか、野山の獣すら近くに寄ろうとしなかったな。


最初の数か月が過ぎた。我がトラロックの棲み処の前に居座った事で、生活物資を届けてくれる者達が怖れ慄いて荷運びができなくなった。

近付く者に無差別に浴びせられる強烈な殺気と怒りが充満していたのだから当然の事だったろう。

流石に我も反省したのだよ。ただ、警戒は怠らなかった。

僅かであってもあらゆる害意を感じ、それに必ず先に恐るべき報復を加えようとする我の意図は存分に伝わったのだろうさ。しばらくは何も起きなかった。

街の外側、あらゆる街々の野心溢れる者共が加えようとする危害や軍事的行動についても問題はなかった。トラロックが指揮する軍団の強い事、強い事。笑ってしまう程だった。

加えて、その際の軍勢の先頭には必ず我が居たのだ。トラロックの望みのとおりに、我は可能な限り人殺しは避けた。実際、我が殺した者は皆無だった。

手に持った武器を何であろうと全て一睨みで破壊する恐るべき蛇の化身。こんな相手に誰が勝てると言うのか。

そうして、最初の年はいろいろあったが、荒事それ自体は全てが茶番で終わり、平和と言って良い終わりを迎えた。


「なあ、トラロックよ。」我にとって少しだけ良かったと思えるのは、我がトラロックの棲み処を護っている事によって、我等の時間が再び戻って来た事だったのかも知れない。奥方様には実に申し訳なかったが。

「なんですか?蛇殿。」

「君はこうやって勝利を積み重ね、その上であの馬鹿げた風習を止めさせるつもりなのかね?カックの家の者共や我等も含めて、君の身を案じる者共はこれ以上君と司祭達との対立を避けて貰いたいと言う気持ちで一杯なのだ。切ない願いさえ抱いている。君のやり方はいささかマズいと言うかな。普段の利口な君はどこに行ってしまったのかと思える程に意固地なやり口ではないかな。」

「わたくしらしくないと?」

「そうだな。君らしくない。嫌に強権的で、しかも穏やかならざる方法だと思う。何か考えるところがあるのかね?」

「考えと言うよりも、計画があると言う事でしょうか。わたくしは後1年と少しで、この世を去るのですよ。」

その面構えの淡々とした事に、その告げられた内容の意味不明さと剣呑さに・・・。

我は我慢がならなかった。左目が光り輝き、数キロ先の巨大な樹木が軒並み、音も立てずに全て分解されて周囲に膨大な熱を放った。山火事が起きるな・・・そう思ったが、大事の前の小事だとも思った。

「やれやれ、手間を掛けさせないで欲しいですね。」トラロックはカックの家長から貰った宝石付きの錫杖をかざした。

「一時間後とかに奇跡が起きるのではなかったか?」我はそうトラロックに凄んでみた。突然に起きた落雷と豪雨が白熱する大気を吹き飛ばし、局地的に起きた地面まで染み透る大雨が山火事を未然に防止したのだ。心の中では驚いていたが、ここで弱みを見せてどうするのか。

「こんな事が起きるとわかっていましたから。少しだけわたくしの話を聞いて下さい。」

トラロックの決して我の言う事を聞かない姿勢には辟易したが、身勝手に論を進めるだけでは平行線を辿るしかない。我は譲った。

「存念を言ってみるが良い。我が納得すれば聞き届けるに吝か(やぶさか)ではない。」


****


「わたくしがこの地にやって来て早くも8年が経ちました。」

やって来た時には目の大きな少年であったトラロックは、この8年で逞しく育ち、今や偉丈夫と言って良い押し出しを備えていた。

「子供の頃の君は、大層聞き分けの良い者であったよ。今とは大違いだ。」

そう、我にとっては、トラロックは期待のかかった我が子同然、いやそれ以上の存在だった。とにかく、掛け替えがないのだ。それ以外に彼を表す言葉はない。

「ただ、子供の頃のわたくしであっても、貴方に本当の事を全て申しておった訳でもないのです。わたくしがこの地にやって来たのは、ここに貴方が居ると知った上での事でした。」

言われてはいなかったが、何となくそんな気がしては居たよ。

星とやらがいろいろと、この場合は要らない事までトラロックと話しておったのなら、我と言う一風変わった者に目が行かない訳もないのだから。

「別に驚く事でもないだろうな。それよりも、我に取っての大事とは君の身柄そのものなのだ。それ以外は全て些事であるよ。」


「わたくしは人の子として産まれております。育っては老い、最後は土くれに戻る定めです。貴方とは違うと言う事ですね。」

「別れは時間の問題でしかないと言う事を言いたいのか?だがそれは少し違うぞ。」

「どの様に違うのですか?」

「我は死を司る者だ。だが、この地に参ってよりは人をさほども殺しておらぬ。君に遠慮しておるのも確かだが、それよりもこの地には我が殺したい程にひん曲がった者も少ないと言う事だ。君を邪魔に思う者共も、君が居なくなれば後悔するだろうさ。」

「親切なのですね。」そう言ってトラロックは微笑んだ。澄み切った笑顔だった。


「わたくしの能力は1年後に絶頂に達する事でしょう。そして、その後は衰えるか、最悪の場合は失われるでしょう。」我はギクリとした。そんな事は考えもしなかった。

彼の力はずっと増して行き、我を遥かに超えるだろう・・・。そう信じていた。

子供を心底から愛する人の子の親が、子供にそう期待する様に。

「君の能力は星との交感に依って行使されるのだろう?君自身の力量はさほど関わるものではないのでは?」我は食い下がった。

「そうでもありませんよ。その交感の為のチャンネルが少しずつズレて行くだろう。その様に星は申しておるのですよ。つまり、生き永らえても、わたくしは最後にはただの人間になり果てるのかも知れません。ただ、未知の現象です故、星にもわたくしにも結果はまだ見えていないのです。」

その言葉に我はイライラとした気持ちを抱いた。

「だから死ぬと?」

「この命が失われる際に、わたくしは全てを星に送ろうと思うのです。」

「全て?星に送る?何を送るのだ?」

「わたくしと言う存在の記憶とその他の因子を送るのです。」

「送ってどうするのだ?それに何の意味がある?」我には彼の言う事の意味が全く理解できなかった。

「いずれ、時を経て、わたくしはこの地に戻って来ようと思っています。」清々しい表情で彼はそう言った。

「戻って来る?どうやって?死んだ者は二度と蘇ったりはせぬよ。」我は困惑した。

「この話はここまでです。納得しようがするまいが・・・・わたくしの心は変わりません。」

そんな風に、その夜の話は終わった。その後同じ様な話は二度となかった。我も大概だが、あれも実に頑固な男であったよ。


****


「この世界のトラロックはどんな男であったか?いたずら者である以外にはどんな風に見えた?」

「小さなユートピアを実現しようとする理想主義者。そして、戦う事を良しとする男女が彼に多く侍っている。」俺は感じたままにそう言った。

「とにかく教育と軍備を重視する統治者ね。どの街にも軍備と軍勢が良く整備されているわ。」シーナもそう言う。

「あたしとレンジョウは、南の戦場にいつか行くのよ。そして、一緒に戦うの。」と言うのはアローラだ。

「ふむ。実際のトラロックも同じ様であったな。その軍勢の先頭には我が居て、トラロック自身は支援に回っておった。まさに無敵だったよ。」15世紀以上も前の事の出来事を懐かしそうに思い起こしている様子だ。

「彼は結局翻意しなかったんだな。」俺はそう言ってみた。

「我自身が、彼が翻意する等と思ってなかったよ。だが、彼が死んでしまうのに賛成していた筈もない。死は一つの終わりなのだ。後世の誰かに転生する者は多いが、それはやはり本人とは違う誰かなのだから。」そう蛇は言う。

「転生と来たか。ラノベの定番だな。」俺は苦笑するしかなかった。

「何を言うか。人とはそもそもからして転生する生き物だよ。前世を知る者、例えば我などとその転生者が出会えば、前世の出来事を思い出す場合も多かったがな。まあ、その話は寄り道が過ぎるな。さあ、続きだ。」


****


「子供ができました。」唐突にトラロックはそう言った。

「奥方の胎に君の子供が?それはとてもめでたい事だ!」我は大喜びで思わず踊ってしまったよ。

「しかし、公にする事はできません。」

「何故と聞いても良いかな?」そう、その頃と言うのが、トラロックが言っておった一年少し後の事だったのだから。我としては苦り切ってしまった。

「星に全てを送るのも良いが、君の奥方と子供の為に、もう少しいろいろと時間を費やす事は考えられないのかね?」

「実は兆候が出て来ました。数か月後にも、わたくしは星と語らう力を失うでしょう。」

「それがどうかしたのか!君の様な善良で理知的な男にはそれだけで価値があるのだ。それが何故わからないのだ?」我はついつい怒鳴ってしまった。

「遠い昔の事ですが、貴方が目指そうとした場所にある男がおりました。ゼウスと今も呼ばれている男です。彼は永らえましたが、何も残せませんでした。」

「その名前は知っておるぞ。地中海付近に住まう海の民が崇める神の名だ。そうか、彼は君と同じく星と語らう力を持っておったのだな。」

「はい。わたくしが残す何かは、きっと随分後の子孫のためになると思うのです。いずれ、人は天空に飛び立ち、あの夜空の月にも到達するでしょう。それ以後は、やはり長い年月をかけて、わたくしと語らっている星にやって来る事でしょう。その時のために行かねばなりません。」

「・・・・。」ゼウスが生きていた遠い昔とは、その時よりも20世紀程も昔の事なのだろう。長い年月の中でたまさか生じた奇跡の様な存在。次に現れるのが何時かを考えるのも馬鹿馬鹿しい程だ。あるいは明日に生まれる子供がトラロックと同様の者かも知れないが、100世紀経っても出現しないかも知れない。

「君は嘘吐きではない。だが、我は死の天使なのだ。死が人と人との究極の離別であると、我程に知る者はそうそうはおるまい。」

「わたくしは、その人と言う滅ぶべき者の限界を超えてみたいと思います。蛇殿、二つ程お願いがあります。」

「言ってみよ。」

「一つは、妻と子供をわたくしの故郷に帰して欲しいと言う事です。わたくしが居なくなった後に、二人をこの地に置いておく事はできませんから。」そうであろうな。トラロックの異能を持たぬ子供が、あの善良な奥方ともども、どんなあしらいを受けるのか知れたものではない。

「もう一つは、わたくしの亡骸を消して欲しいのです。貴方ならば造作もない事でしょう。」

「我の願いなど聞かぬ君であるのにな。何と言う願いを我にするのだろうか。これは不公平と思わないのかね?」

「いずれ、長い年月の後に、この借りは返すと約束します。」

「引き受けた・・・。」そう答えるしかなかったのだが。


それから数日、トラロックは相変わらずご機嫌な様子で日々を過ごしておった。その日も森の中を歩いて木を見上げておったよ。美しい陽射しが差す、のどかな日だった。

運命の時が来た。キャアキャアと甲高い声で子供が森の中を走っておった。

そして、唐突に何かがトラロックに飛んで来たのが見えたのだ。我がそれを睨もうとする前に、トラロックの大きな手が我の顔の前にかざされた。それは刹那の動きであり、我とて何をする暇もなかった。

見れば吹き矢がトラロックの肩に刺さっていた。鳥撃ちをしていた子供が放った吹き矢だ。

「あっちだ!あっちに飛んだ!」そう言いながら二人の子供が吹き矢を手に、木々の中を走って行く。

狩りに夢中になった子供達は我等がそこに居る事すら気が付いてなかったのだろう。

「トラロック、大事ないか?」我は訊いた。恐ろしい予感しかしなかった。

「まあ、予定どおりと言う事です。」トラロックは吹き矢を抜こうとはしなかった。血管から血が出ている。そして、その吹き矢には・・・。

鳥撃ちの毒(クラーレ)か!?」

それは、胃の腑に入れても平気だが、肉に刺されば、とりわけても血管に刺されば大変な事になる毒素だった。

大人の鳥撃ちならば、必要量の少量の毒素を塗っただけだったろうが、不慣れな子供の事、吹き矢には普通よりも随分多くの毒素が塗られていたのだ。

「これは生物を麻痺させて殺す毒なのです。だからもうすぐ話せなくなります。本当に今までありがとう。貴方には感謝以外の言葉の何を申せば良いのか。」

「手当だ!余計な事より先に手当だ!」我はどうすれば良いのかわからなかった。人の子に死を与えるしか能がない、そんな無能者なのだから。

こんな時、真っ当な天使であれば、多くの手立てで人に何かを為せただろう。戦いや死の力を求めた天使など、単に自分の愚かさを世間に公言している様なものだろうさ。

そう、我は敵を殺す事しかできないのだ。だから、薬袋一つ持って歩いていた訳でもない。愚かだ、我は本当に愚かだ。それ故に、命を失いつつあるトラロックの手を握りしめる以外に何もできなかった。

そんな我をトラロックはじっと見つめておった。

「君は本当に、本当に帰って来るのか?この地に、我の前に?」もう立つ事すら能わず、地面に横たわるトラロックに我はそう訊いた。

「お約束します。必ずや帰って来ます。」

「今も星と語らっておるのか?」トラロックは、我と普段から話しておる時にも、常に星と語らっておった。

「ええ、最後の締めくくりを行っております。」

「君が星に行った後も、君は空の彼方から我を見付けられるのかな?」

「ええ、それはきっと大丈夫です。いろいろな術を星に尋ねてみます。」

「そうか・・・。」

「もう、息が止まります。言葉を発する事ができなくなるのです。」

「ですが、わたくし達の友情は決してここで終わる訳ではない。それを信じて欲しいとだけは言っておきます。蛇殿と過ごした毎日はわたくしの宝です。」

「それは別れの言葉ではないか?」

「そうですね。でも、わたくしとしては、感謝の気持ちを表しただけなのですが。難しいですね。」掠れた声でそう言うや、彼は小さくニコリと笑い・・・。息が遂に止まった。

彼は笑ったまま逝った。穏やかな死に顔だった。冷えて行く彼の手を我はずっと握っておった。

しかし、やる事が我にはあったのだ。

まず一つは・・・。左眼でトラロックの亡骸を睨む事だった。

レンジョウ君、君の母御は、人は好きなものを左眼で見ると言ってたそうだね。

我は大好きなトラロックを左眼で見た。亡骸は塵さえ残さずに消えたよ。

こんな日がやって来るとは。寂寥感と虚脱感で脚がふらつく程に打ちのめされていた。

だが、もう一つのやるべき事に比べれば、何と言う事はなかったな。


奥方にトラロックが去った事を告げ、彼の故郷に送る事を告げた。

奥方は大体のところをトラロックから聞いていたのだろう。黙って我に従ったが、道中はほとんど会話すらしなかった。

出がけに、二人が住んでいた洞窟を睨んだ。人が住んでいた痕跡など何一つ残さなかった。

考古学者達には悪い事をしたが、我等の想い出について詮索されるのは好かないからね。


それから数週間、道なき道であっても、我が望むなら山をくり抜いて真っ直ぐ進む事すらできるのだ。荷物は全部我が背負っておったし、身重と言ってもまだ胎の子は母親の重荷になる程には育っておらんかった。

彼が心から気に留めていた者達、とりわけ家族達の安全は絶対に確保されなければならなかった。

我は彼が生前に言っておった街、天文台が今も残るユカタン半島の街に夫人を連れて行き、天文台の所長にも世話をする様に言い含め、親戚にも莫大な金をありったけ渡して世話を頼んだ。

その次はと言うと、もちろんテオティワカンに残った者達だった。

いちいち全員にとはいかない。カックの家の長、何も言わずに奥方を連れて旅だったのだから、彼は我とトラロックの両方が居なくなった理由をわかっておらんかった。

もちろん、彼はトラロック失踪の理由を知って嘆き悲しんだ。

そして、我もテオティワカンに残るつもりはなかった。そんな事になれば、我は苦しみの中で生きる事になっただろう。

遺留が無理だと悟ると、彼は我に幾らかでも恩を返したいと言った。我が望んだのは一艘の船だった。

今回は大西洋(と後に知った)を超えるつもりだった。先代様の居るアイルランド、当時はエリンと呼ばれていた場所に向かうと決めていたからな。

「ジャガーの神トラロックだけではなく、紅き蛇である軍神ウィツィロポチトリの化身まで去ってしまうとは、心細い限りですが。それでも可能な事はさせていただきます。」

そう言って、彼は約束のとおり、船を用意してくれた。

「我はそんな立派な軍神の化身ではないがな。船はありがたく貰っておく。」そう言って、我は海に出たのよ。

船には帆が付いていたので、以前にフィジーで貰ったカヌーよりは千倍マシな航海が可能な船だった。

その筈だったのだが、まあ・・・なんだ、それは我に航海術があればと言う事だろうね。

うん、予想のとおり、酷い航海になったが、それでも我は旅立ったよ。

ここでの物語は終わった。それはわかっておったからな。


****


「まあ、我とトラロックの物語はこんなものであったのさ。」

「何と言うか。いろいろと尋ねたい事ばかりが増えるな。」レンジョウ君はそう言った。

「途中から気が付いてたんだけど、トラロック様と貴方の話し方って似てるのよね。」シーナがそう言う。

「そうだ。この世界のトラロックは自分の事を”我”と呼んでいたな。俺の事は”君”と呼んでいた。あんたと同じ様な話しぶりで、自分の事を”わたくし”なんて言う風には呼んでなかったな。」

「うむ・・・。それは何故なんだろうね。」我は首をひねった。

「会いに行くんでしょう?直接聞いてみたらどうなの?」シーナの言葉に頷いた。

「そうだな。行く理由が一つ増えた。そう言う事だろう。」

我はレンジョウ達と食事をする事にした。シュネッサ君がよそってくれたアバラの近くの肉も火で炙り直して温めた。

シーナは猪の腿肉を豪快に口にしておる。さっきまでも凄い食いっぷりだったが、それでも我の話を聞いておったのだろう。


「ところで、カナコギとマキアスはまだ来ないの?」アローラがそう言った途端に、カナコギがこちらに走って来た。

「兄貴!オルミックが帰って来ました!」何かあったようだな。


「何があった?」レンジョウ君がそう質している。

「見た事もない怪物が近くに居るみたいっす!」

「どんな奴だ?」

「ライオンみたいだけど、背中に山羊みたいな首が生えている翼のある怪物だそうです。馬を殺されて、走って逃げて来たそうっす。」

多頭魔獣(キメラ)だな、それは。」レンジョウ君はキメラを見た事がある様だ。

「オルミックを呼んで来い。こっちで休ませて、食事を摂らせろ。」


街道までの道は、残りが馬車で一日の距離と言う事だったが、なかなか真っ直ぐには辿り着けそうにないと言う事なのだろう。

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