第百四十話 トラロックと言う神 その2
「で、漂流者のあんたは、フィジーかな?って思う島でどうやって暮らしてたんだ?」レンジョウがそう問いかける。
「まあね。あの島には原住民がいて、既にチャンとした暮らしをしていたのだから。そこにしばらくは溶け込んで居たのさ。」心なしか口を尖らせながら彼はそう言う。
「キャプテン・クックよりも18世紀近くも早く貴方はフィジーを発見してたんですね。」私がそう言うと、「まあ、もしもあそこに住み着いていたとしたら、我がクック船長と話し合いを持っておったろうな。」との返事があった。
「けど、フィジーを離れたんですよね?」
「まあな、原住民相手に、空を飛ぶ鳥を睨んで落としてみたりとか。村の娘達と子供を作ってみたりとかな。しっかりと働いて恩を返し、我は船を作って貰い、旅出ったのじゃよ。」
「人間相手に子作りをしたのですか?」私は驚いた。
「って言うか、天使と人間の間で子供なんかできるんですか?」
「できるさ。沢山我と同じ事を試した者はおるよ。天使同士、悪魔同士や悪魔と天使ではどうやっても子供は為せなかったからな。しかし、人間と天使、あるいは悪魔の子供もできるのだが、それらの子供は全員例外なく人間の子だった。」
「親となった者は、余りに儚く死んで行く息子や娘を見て、皆揃って嘆いておったものよ。その後は人との間に子をなすのを皆が恐れる様になった。自分の子孫たちが下手をすると一族皆滅んでしまう様な様を見てはなおの事だったろう。」
「あんたのフィジーでの子孫たちはどうなったんだ?」レンジョウは恐る恐ると言う感じで尋ねた。
「フィジーの神話では、創生の時に居た蛇神が人の子を産んで、それが人間の先祖になったと記されているそうだ。そして、彼に船大工の一族が戦いを仕掛け、その船大工の一族は後に滅ぼされて、あちこちの島民の奴隷に零落したのだそうだ。」
「それは・・・。」
「我は虹色ではなく、紅の蛇であるがな。しかし、逆に考えてみれば良いのだ。どこからか現れた蛇神がいつの間にか居なくなってしまった。船を作る一族は蛇神に愛想を尽かされてしまったのではないか?その理由は何だろう?そう周辺の者達には思われたのではないか?あるいは、我を恐れておった周辺の部族の者共が、我の居なくなった後に悪い心を持ったとて、何の不思議もないからな。」
「我にできるのは、それでも一族の誰かが生き延びておってくれたらとは願っている事だけなのだ。詰まるところ、我が出発を急いだ理由とは、他の者共と同じ理由なのだよ。つまりは、子孫たちが老いて死ぬのを見たくなかった。それが理由だったのだ。20年程もおった島であったが、去ると決めたら手早いものだったよ。」
「そして、貴方はインドをもう一度目指したのですか?」私はそう水を向けた。
「それでも良かったが、どうせならもっと遠いところへ向かってやれとな。かなりあの頃の我は壊れておった様だ。そして辿り着いたのが多分ペルーの当たりなのだと思う。」
「アメリゴ・ベスプッチもビックリだな。」レンジョウがぼやいた。
「我はかような姿であるので、現地の住民に違和感を生じさせはしなかった。ただ、時折我の事を女性と勘違いする者がおってな。その都度キツイ仕置きをくれてやってはおったが。」
「ちょっとそれは・・・。」私にはそう言うしかなかった。
「別に殺したりはしておらぬよ。当時の医療技術は大した事もなかったのでな。腕や足を折る事もしなかった。ただ、腹を素手で連打しただけの事。死の天使も、平和な世界では開店休業状態じゃったな。」
「・・・・。」相変わらず話題に入って来れない模様のシュネッサとアローラは無視して、レンジョウは忘れずに猪の串をハンドルで時々回している。私は彼の話を促すために、掌を上にして動かした。
「我は密林の中を歩き回り、時々は付近住民のために危険な肉食獣を殺し、時として部族の戦いに加勢した。なに、このあたりの部族はガタイは悪くなかったが、いかんせん狂暴性に乏しい。勇敢だったが残忍さにも欠けておった。殺す相手としてはあまりにも不足しておったな。武器と来た日には、サメの牙を括りつけた木の棍棒だった。平和な世界だったよ。だから、レンジョウよろしく、我もあそこでは拳骨や蹴りで戦っておったな。」
「なんともはや・・・。」レンジョウの顔が少し呆れ顔になっている。
「そして、現地で生じた噂が、”とんでもなく強い女がいる”と言うものでな。我は居たたまれなくなって、北へ北へと向かったのじゃよ。」
「何か見えて来た感じがする・・・・。」私はこめかみに指を当てた。
「まあ、そう言うな。蛇神の信仰など、世界各地にある事じゃよ。」彼はそう言うが・・・。
「そして、我は遂に大西洋の近くまで辿り着いた。旅を始めてから、凡そ50年くらいは経っていただろうか。」
「どこに辿り着いたんだ?」レンジョウが水を向ける。
「まだまだ建設途上の都であったが、そこはテオティワカンと呼ばれていた。アステカ文明の一翼を担う大都市になる場所だった。」
****
「まだ、そこにはまだトラロックは生まれておらぬがな。それでも我はそこに居つくつもりになった。何故だかはわからん。存外と気に入っておったのかも知れぬな。いろいろと面倒な政治的な勢力があっても、悲惨な死に見舞われる者共は多くとも。ここでは我は落ち着いて暮せた。ようやく我を男と認識した者共は、我に夜這いをかけて来る事もなくなった。そうなのじゃ、一緒に水浴びの一つもすれば、その時点で全ての誤解も解けるのじゃ。そうわかった後は、大した面倒にも出くわさなくなったわ。」私は少し大きめの溜息を吐いた。
「しかしな。問題が一つあったのだよ。我はついつい忘れてしまうが、歳を取る事がない。一つ所に居つくのも難儀な事でな。先代様の様に自由に姿を変化できる力は我には備わっておらなんだからな。それなりの苦労があって、方々を放浪しておったよ。一つ良い事があるとすれば、あの付近は車輪が発明されておらず、荷役を家畜にさせてもおらなんだからな。近隣の都市以外には隊商が出向く事も稀であった。だから、我は方々の都市を放浪し続けた。時には密林の奥に庵を構えた事もある。そうこうしておる間に200年が経過したが、遂に問題の小氷河期がやって来たのだよ。」
「ううむ・・・。」レンジョウが唸り声を挙げている。段々と話題に付いて来れなくなっているのかも知れない。情報量が多過ぎるのだ。
「その頃には、我は暦について学びを深め、それなり以上に知識を得ておった。ギリシア程ではなくとも、中央アメリカにも数学はあったし、天文学や石工の技術は素晴らしいの一言だった。料理やルートビアについても気に入っておったしな。だから、突然に気温が低下して、芋や木の実や果物がならなくなった事に驚いた。それ以上に驚き、混乱しておったのが現地の住民たちよ。アステカ文明圏ではさほどの混乱も起きなかったが、今のパナマの近くのマヤ文明圏では大混乱が起きた。この世の終わりを思わせる予言が流布し、為政者達が火消しを必死で行っておったものだ。」
「シャーマンの男女が多数ひっ捕らえられてお仕置きを受けた。別段命は取られなかったが、それでも不安を煽る言説は禁じられて釈放された。アステカ文明圏では、いかなる方法をもってしてか、我ですら知らなかった。当時の関係者である天使達、悪魔達ですら気が付かなかった寒冷化の理由を突き止めた。つまり、太陽の働きが衰えたのが原因であると。そして、太陽に力を与えるために、生贄の心臓を捧げる風習が確定してしまった様だがな。」
彼はチラリとこちらを見た。レンジョウも私も頷いた。
「我は、その頃の災難に何等の力も揮えぬままであった。問題は別世界で起きておったし、荒事で解決する問題でもなかった。当面、我は殺伐とした雰囲気となった中央アメリカの諸都市をあちこちと巡回するようになっておった。ただ、天文学を学んだ都市の中には二度と立ち入らなかった。何十年も後に、昔馴染みの者が歳も取らずに現れたりするのは甚だマズい事態だと言う事だ。それ程多くもない都市を、我は可能な限りひっそりと巡回しておったのだよ。主な棲み処は近くの山々であった。我を殺せる猛獣などおらぬし、人を怖がらせれば恐れ入ってくれるし。楽な相手であったよ。」
「そして、我はまたテオティワカンに帰って来た。山の洞窟に籠り、採取や狩りで交易を行う。昔ながらの生活と言う事だが、思わぬ事が起きていた。我が以前に使っておった山の洞窟に人が住み着いておったのだよ。」
彼はこちらを見た。レンジョウもハンドルを回しながら彼を見た。
「それがトラロックだったのだ。」
****
「トラロックとはどんな人物だったのだ?」レンジョウが問い掛けた。
「元は違う名前で呼ばれていたのだが、その名前の事は良い。出会った当時の彼は人間の少年だった。我は彼と話した。何故こんな所に居るのかからな。」
****
「ごきげんよう。この様な山奥深くに何用でしょうか?」
「ふむ。君こそと言うべきかな。実は、我は過去にこの洞窟の中に庵を結んでおった者であるよ。」
「左様でしたか。それは知らぬ事とは言え、申し訳ない事を致しました。」
「いや、それも随分前の事であるから。別段、我がここで暮らさねばならぬ法も無いのだし。」
「失礼ながら、ここは人里離れた場所にございます。貴殿は何故にこの様な場所でお暮しあったのでしょうか?」
「ふむ・・・。それは我が君に聞きたい事と全く同じ事なのだがね。さて、どちらが先に同じ問いに答えるべきなのだろうか?」
「ははは・・・。なるほどでございますな。では、わたくしの方から先に答える事に致しましょう。わたくしはこの地で、神の力に触れました。星からの声を聞きました。よって、その力を磨き、使い熟すために座しておるのでございますよ。」彼、トラロックはそう答えたのだ。
「星の声か?どの星からの声が聞こえたのかね?」我はその言葉に興味を持った。丁度夜だったので、我等は空を見上げた。
「あの星です。」彼は簡易の天測機械を持っておった。君の国の陰陽師達が覗いておった様な機械であった。あるいは現在のコメットシーカーに近いモノだったかも知れぬ。
「あの空で何番目かに明るい星の事か?」
当時の肉眼で見える星の中で、最も明るい星は今も変わらず白く輝く金星だった。火星が赤く見えるのも今と同じ。土星と木星は輝きの差があるだけで、両方とも黄色く見えていた。
「その星の声は今も聞こえておるのかね?」我は聞いてみた。
「はい。ただ、見えていても聞こえない場合もあります。」
「どんな場合なのかね?」
「おおよそですが、地平からあの星が昇って一時間半程は星の声は聞こえません。」とても大きな目の少年はそう答えた。
「わたくしがこの場所に居を構えた理由は、ここが見晴らし良く。星の声を聞くのに都合が良いからです。家の中に居ると声が上手く聞こえないのです。」
「ふむ。不思議な事であるな。」我は少年に興味を覚えた。そして、
「よろしい。我はこの洞窟の所有者ではない。君の目的のために使うと言うのなら、他に住んでも問題はないのだから。君がここで暮らしたまえ。」
「ありがとうございます。ですが、わたくしも、貴方が何故ここで暮らしていたのかを知りたいのです。教えていただけますか?」と恥ずかしそうに尋ねて来た。
「ああ、包み隠さず教えて差し上げよう。」
これが我等の出会いであった。
****
「星の声が聞こえる?」レンジョウが不思議そうに口にした。
「左様。彼には星の声が聞こえたのだ。そして、星の力で様々な奇跡を起こせた。」彼は言う。
「どんな奇跡だ?」
「平たく言えば、天候を変える事ができた。その他にもいろいろな事ができた。それを知った時の我の気持ちを理解できるかね?」
「いや・・・。」
「我は思ったのだ。遂に人間にも、我等と同じ様な異能を持つ者が産まれて来たのだと。どれ程に我が興奮したか理解しては貰えないだろうね。」彼の顔に去来した表情。それはほろ苦い何かだった。
「彼はあんたの期待に応えられる男だったのか?」
「半々かな。我は夢中になって彼の世話をしたものだよ。獣を狩って捌き。」彼はレンジョウがハンドルを回す姿を見詰めていた。
「果物や木の実を集め、粉にして焼き、芋の灰汁を抜いて。水はすぐ近くに湧水があった。そこに身体を洗う場所まで設けたものさ。」
****
地面に座っている彼。そこには何等の力が通っている風もない。
我等とは違う原理で、彼は力を行使しているのだろうか?いや、そんな風でもない。
「雨を呼びます。」何の力みもなく、彼はそう言った。
「君には今もあの星が見えているのか?」我は尋ねた。
「はい。太陽の光で薄らいではいますが、あそこに出ております。ですから、わたくしは今も語らっております。」
「ふむ・・・。」そう、我の視力であれば、真昼に星を見る事など造作もない。しかし、普通の人間にはそこそこに無理な芸当と言える。特に、今でいう一等星と同等程度の明るさの星であれば。南国のこれ程明るい日差しの下であれば。
我の身体を突き抜ける何かの力がある。そう、これは大気を震わせる何かの力なのだろうか?
微かな地鳴りにも似た、経験した事のない力が・・・。
その力は、我は空を見た。空に浮かぶ雲が、見た事のない動きをしている。
まるで、そこらじゅうの雲がかき消される様に、雲の希薄な実体を誰かが手で叩いているかの様に・・・。
「空が鳴っておる。空を誰かが叩いておる。」我は思わず空中に向けて叫んだ。高揚する気持ちそのままに。
「星が力を送っているのです。どの様な力か、わたくしには想像もできませんが。」トラロックはそう答えた。
「見て下さい、地平線を!」
「あれは、東の海の方だな?」我はついつい大声を発してしまった。
「そうです。後数時間で雨がやって来ます!」そうなのだ。彼は旱魃で苦しむテオティワカンと周辺の街の者達のために、星の力を借りて雨を降らそうとしたのだ。そして成功した。
街の者共は大喜びに沸き返った。獣の皮を売りに行った時には、街中の家の中が水浸しとなる大雨の後なのに歌を歌い続けていた。
我は昔から守り続けていた隠遁者のルールのとおり、その喜びの中には入らなかった。ただ、交換と買い物をして去って行っただけだ。
しかし、目ざとい者はいるのである。これは、我が交易の回数をトラロックの為に増やした事も原因だったろう。
男か女かわからない、ほっそりとした者が、交易を済ませては山の中に消えて行く。
我が後をつけられた覚えはないが、トラロック自身は誰はばかる事もなく、洞窟の外で地面に毎日座っているのだ。誰かに見付かっても不思議はなかっただろう。狩人も時々この近くまではやって来るのだから。
そして、遂には数年後にトラロックに直接声を掛けて来る者が現れた。
身なりの良いその男は、護衛の兵士を数名連れて来ていた。
我は洞窟の入り口近くの陰の中に潜んでいたが、それらの者共に敵意は感じなかった。
「そこのお若いお方、尋ねごとをしてもよろしいですか?」身なりの良い男は声を掛けて来た。
「わたくしに御用ですか?ならばなんなりと。」そう言って彼は立ち上がった。
毎日座っている場面ばかりだったが、彼の脚は見事に筋肉が付き、上半身も立派な長身の男子だった。身なりの良い男は”ほう”と驚きに息を吐き出した。
「まずはお名前から。」
「地面に座る者、トラロックとでもお呼び下さいますよう。」
「左様か。我はカックと言う家の者です。不思議な若者トラロックよ。ここで何をしているのですか?」
「不思議な言葉を発する星と毎日語らっております。」大きな青年トラロックは多少慇懃に見える礼を行った。
「左様か。その星は何を申しておるのですか?」カックと名乗る壮年の男は尋ねた。
「かの星から発せられる言葉は非常に奇妙でございますが、むしろ、わたくしに様々なこの星の事を質問する事が多くございます。かの星の言葉によりますと、かの星から波を送り、この星の大気を震わせ、雨や風を送る事ができるとの言葉を聞きました。」
「トラロック殿。それはどの様な意味でしょうか?もしや、貴殿は雨を降らせる方法を知っておられると言う事でしょうか?」
「わたくしではなく、星が知っておるのでございます。」トラロックはお辞儀を再び行った。
「むむ。試し事とは初対面の方に対して失礼と思いますが、今からでも僅かばかりでも雨を降らせる事は可能なのでしょうか?」
「今はまだ日の出から数時間の早朝です。日没までに雨を降らせる事ができるか試してみましょう。」トラロックはそう請け負った。
「よろしいのですか?そんなに安請け合いをしても?」我の声に、護衛の兵士達もカックもギクリとした顔で洞窟の方を見た。
「良いのですよ。試してみる価値があるなら。度々の旱魃で、神の都の方々も多いに困っておられるでしょうから。今から呼び掛けてみます。」トラロックはそう言って地面に座った。
「始めると言う返事を頂きました。」一時間半程の後に、トラロックはそう言い始めた。
滅多に力を使わないトラロックに対して、普段から平気の平左で力を濫用できる自分達と比べて、やはり人間の持つ能力とは限定的なものでしかないのだと幻滅し始めていた矢先の事だった。
ただ、トラロックがその力を使い、雨や風を吹かせてくれると、その時だけはやはり興奮してしまう。その大きな力と、人々に与えるだろう喜びを思うと、感動は再び蘇って来る。
トラロックの力は、濫用すれば沢山の者を殺し、不幸にする力でもある。それは重々わかっている。けれど、人間の中に産まれた異能者、もしかすると自分達と同等であるかも知れない存在がここにいると言う喜びに変化はない。
”雨よ降れ!盛大に降れ!トラロックの力を我に見せてくれ!”我もカック達と共に祈っていた。
やがて、いつぞやの様に、手加減なしの真っ黒な雲が殷々とした太鼓の様な雷鳴を地平にまで響かせながら馳せて来た。
それは大量の水を含んだ空のレギオンだった。その莫大な質量がイオンの乱流を引き起こし、方々で紫電となって大地に馳せ下る。
眼下に見えるテオティワカンに小さな豆粒の様な者共が壺を抱えて街路に出て来たのが見える。我の視力だからこそ見える。
「さて、これから先は外は危ない。皆で洞窟の中に行って雨宿り致しましょう。」トラロックがノシノシと巨躯を揺らしながら歩いて行く。カックと兵士達は大喜びで眼下の大雨を眺めていたが、トラロックの言うとおりに洞窟の中に入った。
松明に左目で小さな炎を起こし、我は皆を洞窟の奥に迎え入れた。他の松明にも火を着ける。
「あの空を揺らす力。あれが星から送られて来る波と言う事ですか?」カックは風の通る道に焚火を起こし、昼食にと持ってきたトウモロコシのパンをかざした。
トラロックにもパンと蜜水の酒を勧めて来た。トラロックはそれらをありがたく頂いた。
「ここ数年、旱魃が目前となった時に雨が降りました。貴殿と何か関係があるのでしょうか?」カックはそう訊いて来た。
「わたくしの力ではございません。それは先程から申し上げているとおりです。」トラロックはそう答えるだけだ。
「星の力によって雨は降るのでしょうか?」カックはそう訊き直した。
「星が応えてくれたなら。可能だと思います。」トラロックはそう答えた。
「テオティワカンと周辺の街をその力でこれからも救って頂けませんか?」カックは身を乗り出して言う。
「貴人よ。既にトラロックは、誰に頼まれずとも雨を降らせております。これからもその様にする事でしょう。」我はついつい口を挟んでしまった。
「かのお方は、トラロック殿の嫁御様であるのでしょうか?」ほら、また始まった・・・。
「いえ、かのお方は、わたくしの世話を何くれとなく引き受けて下さる親切なお方なのです。」トラロックは苦笑しながらそう答えた。あの男は存外いたずら好きであったな。
****
と言うや、シーナもレンジョウも首をブンブンと縦に振り始めた。シーナに至っては目が吊り上がっている!
過去の二人に一体何があったのだろうか?あるいはトラロックが何をしたのだろうか?
だが、迂闊に聞いたらシーナ等は襲い掛かって来そうな雰囲気を醸し出している。ここは黙っておこう。
****
翌日の朝、カック達一行は去って行った。
人品卑しからぬ偉丈夫の青年が、山の中で行った雨乞いで見事に雨を降らせた。
その知らせはテオティワカンの中を明日にも駆け巡る事だろう。
我はその時、トラロックとの別れを予感した。
人ならぬ者が、この様な異能の青年の近くに侍る事ができるのは、それが人の知らぬ者であってこそだった。
歳を取らぬ明らかにおかしな人物は、良く取って貰えれば神の使いと言われるだろう。
しかし、それ以前に我が出会った悲惨な事々が心をよぎった。
我が死の天使としての力を欲するに至った恐るべき排斥の手。
迷信的な人々の恐怖、我の存在故に巻き込まれてしまった哀れな人々の記憶が。
目の前の青年を見る。落ち着いて穏やかな青年。
人に奉仕する事を当然と思い、我と彼との出会いも、彼が夢見た自分の理想を追い求めるための修行の最中であった。
そうだ、”運命”が我等を出会わせた。
そして、その別離は、人の思惑によって成し遂げられる事であろう。
”この者を守らねばならぬ。人の思惑から。”
その時に我が嗅いだのは、大量の湿った鉄の臭い。錆びた様な、胸の悪くなる様な。
懐かしくも忌まわしい、大流血の臭いの幻だったのだ。