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第百三十九話 トラロックと言う神 その1

舞い踊る様な優雅さと、その優雅さを全否定する様なただただ鋭い必殺の切っ先。

左右の短剣はそれぞれの高さと軌道が絶妙に切り分けられて、その対応には細心の注意を求められる。

斬り裂きと刺突、驚いた事に、この紅の暗殺者の短剣は長さや形が変形するのだ。

最初に警告するかの様に躱しやすい斬撃でその予兆を見せて貰えなかったら、次の刺突では確実に一撃を貰っていただろう。

またしても舐めプと言う事か?いや、違うのか・・・。横に引き延ばされた薄い唇が強い決意と頑固さ、なによりも真剣さを表現していた。

ギラつく右目の光は間違いなく戦意に高揚している。彼は戦いに没頭しているのだ。そう見て取ると、後はこちらの雑念も生じなくなった。

兵法としては、これは悪手なのかも知れないが、彼は求道者であり決闘者なのだろう。自分では否定していたが、彼こそが最もスポーツとしての戦いを追い求めるタイプなのではないだろうか?


紅の暗殺者は、もちろん危険そのものが衣服と短剣を纏っている様な存在だが、人を殺す事を快楽とは思っていないのだろう。単に戦いが好きなのだろう。多分、自分の心の中に生じた空隙を埋めるために。

”俺達は良く似ている・・・。”あるいはこれも雑念なのか。そうであっても、心が軽くなり、それは俺の動きに反映された。

ひとしきりの攻防が繰り広げられる。あまりに間近でウネウネと曲がる短剣を相手にするのは危険だ。人間の視界その他の感覚には近距離では想像以上に死角があるし、間を詰め過ぎると攻撃への対応の時間も存在しくなる。

ホンの少し距離を取り、紙一重で避けず、そこそこの余裕を見る。その余裕分が攻撃あるいは反撃の遅滞に繋がるが、通常の人間相手の格闘技の間合いを取ると、簡単に常識外れの得物の餌食になるだけだ。

防御を忘れた攻撃など無意味なのだ。そう、無意味だ。死んだ者に何の意味があるのか?死んでしまえば、それ以上戦えないのだから、攻撃のために防御を疎かにするなど本末転倒も甚だしい。


とにかく、こんな代物と何とか攻防できるのも、絶対に壊れないと言われている神器である”稲妻の籠手”あっての事だ。素手ならば何をどうやろうと勝ち目はない。

低い姿勢で何度も何度も・・・斬撃と刺突、時にはトリッキーな伸縮と何重にも湾曲を繰り返す刃に頼った、とにかく当てると言う攻撃も取り混ぜられる。

鋭い踏み込みの速度と的確な位置、全身の柔軟で軽捷な動き、肘膝肩が驚く程の速度で動く、こちらが凌ぎ切った瞬間には見事なまでに素早く身を引いて、次の攻撃に移る算段と位置取りを行っている。

そんな奴がふと立ち止まってこちらを見詰めた。

「どうした?まさか技を使い果たしたとかはないだろう?」俺はそう語り掛ける。

「それはない。最後の瞬間まで君には驚いて貰う事と決めているから。」奴はニヤリと笑った。

「そうかい。これ以上まだ驚きがあるってのは・・・。」思わず口元が緩む。

「楽しみかい?」俺は素直に頷いて微笑んだ。

「しかし、僅か二十年少しの修練でここまでに達するとはな。これが偽らざる我の感想だよ。君にはやはり才能がある。その才能は武だけではなく、君の人生や他人の人生に関わる才能があるのだ。我にはそれが理解できる。」

「ほう、どんな才能だ?」俺は興味を持った。

「”空間把握”とその理解全般についてだな。簡単に言えば、君は自分と相手との各部分の距離や位置関係の把握に関する図抜けた能力と言うか、理解力を有している。だから、普通の人間には必殺の軌道を簡単に回避できるのだろう。」奴はそう言う。

「簡単なものかい・・・。この数分で何度やられたと思ったか、わからない位だ。」苦笑してしまう。

「それはそうと手は抜いていないんだな?」俺は重ねて訊いてみた。

「まあね。そうではあっても、確実に君を殺せる方法は封じている。俗に言う卑怯な方法だな。」

「まあ、それは勉強になりそうもないからな。パスで良い。俺は殺し合いをしたいんじゃない。」

「できるだけ強い相手と遺恨なく戦いたいと言う事だろう?わかるさ。」

「違いないな。」籠手が俺の戦意に反応して、脈動する電光を放っている。

「それともう一つの君の才能はだ・・・。やはり、運命的なものだな。君は死に抗う宿命と、その才能を有しておるよ。間違いなくな・・・。」

「そうかい・・・。」

「ああ、間違いないな。たまに居るんだ。そう言う貴重な人間がな。」

「貴重な人間か。俺みたいなロクデナシがね。えらく高い値段を付けてくれたもんだ。」

「適正な値段だと思うよ。特に・・・君を心から愛してくれる人達に取っては、君の値段は天井知らずだろうさ。そこに居る彼女を見てみなさい。」そこには両手を祈りの形に組んで、俺を見詰めているシーナがいた。

「彼女の期待に応えるべきだろうね。それが本当の佳い男ってもんだよ。」

「ふん・・・。じゃあ、続きをやろうか。このまんまじゃ気が削がれて仕方なくなるだろうからな。」

「違いないな。これからは更に際どいやり方で行くから。そのつもりでな。」

「わかった、しっかり凌いで・・・。」

「あんたに一撃をお見舞いしてやる事にする。」

「はは・・・。楽しみだ。じゃあ、行くよ。」と言いながら、暗殺者は少しだけ距離を取った。

”さっきまでの間合いと違う!”俺の脳内に警報が鳴り響く。

そして、俺の目は捉えていた。奴の右手指、人差し指と中指、いや、親指の第二関節のすぐ上にも。

”左手指にも”驚きはしなかった。”これが確実に仕留められる卑怯な手か?いや、違うな。”

相手の狙いは・・・右手の短剣が閃いた。俺には届かない”筈”の位置で。その軌跡と俺の交わる位置は、左の頸動脈。神器の鎖帷子に守られていない場所だ。

籠手を挙げて防ぐ、短剣はギリギリで弾かれた。またしても短剣は変形して、危うく頸動脈を傷つけられる所だった。奴は指を僅かに曲げると、細い指輪に結わえられた銀色の鋼?線に引かれて短剣が再びその手の中に帰って行く。

奴の左の肘が曲がり、摺り足気味で前に踏み込まれた左足と共に肘が伸ばされて刺突が放たれる!

鋭いエッジが短剣の刃から生えて、それが俺の腹を抉ろうとするが、エッジが伸びるスピードはそれ程速くない。何とか避けられた。


奴の武器は一体どうしてあんな奇妙な変形の仕方をするのか?

”単に魔法で変形させていると言う風ではない。この世界の大魔術師が作った武器でもそんな代物は無かった。とすれば、あれは奴の固有の能力でどうにかしているのだろう。”

”いや、考えてもみろ。俺の居た世界には似た様な代物があったじゃないか。熱で変形する可塑性素材。形状記憶合金とかが・・・。”

”古代の人間が発明したアルファベットが天使達や悪魔達を興奮させた様に、剣で戦うこの死の天使は、近代の人間が開発した形状記憶合金に甚く興奮したのではないか?あるいは、映画に出て来た形状記憶合金でできたアンドロイドの戦いに強くインスパイアされたのではないか?”

だが、現在の技術ではあれ程までに変形するケッタイな短剣を作成する事はできないだろう。

籠手で払ってみた感触でも、鋼鉄の剣と比べて特に強度の違いは感じられなかった。

一連の猛攻を何とか退け、構え直す。

奴のレッドアイか?あの能力は間違いなく熱に関係している。だが、奴はその力を封じていると言う。

そして、あの細い糸に繋がれながら、右手の短剣は空中で変形した。ならば、変形のトリガーになっているのは・・・。


次の攻撃は更に素早くトリッキーだった。遠目の間合いだから短剣が再び飛んで来ると思ったが、奴の狙いはなんと俺の肘から上、籠手の付け根付近だった。まずは左で斬撃、意表を突かれたが右腕が何とか動いてそれを防ぐのとほぼ同時に奴の右手が突きをぶち込んで来た。

身体を開いてそれを避けると、刃を横に寝かせた突きから斬撃に変化して、やはり鎖帷子に守られていない喉に切っ先が襲い掛かる。いつぞやの盗賊と同じ技だ。

後々に鹿子木から聞いたが、この技は新選組が多用していた突き技なのだそうだが、実際はどうなのかわからないし、どうでも良い。

この攻撃に対しては本来悪手だとは思ったが、上体を逸らしてスウェイで防ぐしかなかった。奴が斬り返すのと、こちらの上体が跳ね上がって構えを取るのとがほぼ同時になった。

この相手では禁じ手のギリギリでの回避となった訳だ。これは隙が生じたと言う事になる。

俺は一手も二手も詰められたと言う事になる。

奴の頭が素早く左右に振れたかと思うと、突然に俺の前から奴の姿が搔き消えた。瞬間的に俺は右側に回転し、まさに奴が俺の脇腹、またしても鎖帷子の着用時に必要な繋ぎ目部分を目掛けて短剣を繰り出す瞬間に何とか間に合う事ができた。奴の右手が繰り出され、正確無比な攻撃が既に発動した瞬間に間に合ったのだ。

軸足の右をスルリとずらして、俺の身体は半歩だけ右横に動いた。後でシーナが言っていたが、余りにその動きが早くて驚いたのだそうだ。

左手の籠手は眩い電光を放ち、その電光は恐るべき短剣に向けて迸った。その際起こった変化、あるいは現象は劇的なものだった。短剣は異様な形に瞬間的にグニャグニャと変形し、もはや真っ直ぐに突いても曲がらせて斬り付けても相手にさしたる被害を与えられる形状ではなかった。

紅い暗殺者は”アチャー”と言う表情を瞬間浮かべたが、次の瞬間俺の右ストレートが走り、奴の目の前で寸止めされた。


「タネを見破られてしまっては、手品は終わりだろう。君の勝ちだな、レンジョウ。」

「ふう・・・。魔法世界で形状記憶合金とはな。しかも、あれは電気信号で変形する代物なのか?」

「ああ、そうだ。何年か前にフィンランドで発明された素材のマイナーチェンジだ。元々の素材がチタンで出来ていた上に、何百万回褶曲しても特性が変化しない優れものなのさ。それをフラクタル構造に置き換えて、各部分に固有の信号で変形する様に仕込んだ。対人用としては非常に完成度の高い武器だが、問題は使い熟せる者が人間には居ない事、これ一つ作るだけで驚く程に手間が掛かってしかも高価な事だろうかな。」

「だが、それなら俺はそんな高価な代物を壊してしまったんだろうか?」少し悪い気がした。

「いや、大丈夫さ。今は単に電気信号が抜けてないだろうから。」そう言う間にも、徐々に短剣は本来の形を取り戻し始めた。しかし、一部だけは元の形に戻っていない。

俺は短剣を奴から受け取り、ほんの少し、指先でその部分をなぞったところ、その部分も元の形状に戻った。

「危うく鞘に納まらない短剣ができるところであったな。見事だよ、レンジョウ。」奴は莞爾と笑い、いかにも満足気な表情と仕草だった。

「おめでとう、レンジョウ!凄い戦いだったよ。」駆け寄って来たシーナが顔を紅潮させながら褒めてくれた。

しかし、次の瞬間、彼女のお腹が意図せずに”グウゥゥゥ”と言う、空腹の主張を大声で叫び上げたものだから、シーナは茹でられたタコの様な顔になり、今更どうにもできないだろうに、両手で自分の腹を押さえた。

俺と暗殺者は無言で背中を彼女の方に向けた。

”君はやはり紳士だね。”と小声で暗殺者が俺に囁いた。


****


「シュネッサ。仕留めた猪を焼くぞ。香辛料や塩はどれくらい残っている?」レンジョウがそう言っている。

身体が少し重く、頭がボンヤリしているのを感じる。

「猪の血抜きは大体終わってるけど、皮はまだ剥いでないし、内臓も抜いてないよ。」エルフ特製の鋼鉄のナイフを抜いて、レンジョウの言うとおりにしようとする。

「俺も手伝うから、手早くやろう。それと、次の狩りには俺も一緒に行く。俺なら獣を弾いて倒す事もできるからな。」

「香辛料は残り少ないですが、あの大きさの猪なら何とかなるでしょう。塩はまだまだ何とかなります。結構大量に馬車に積まれていましたから。」シュネッサが馬車の中から顔を出して、そう答える。

「よし。じゃあ、丸焼き用の竈は例の暗殺者が用意してくれているから。そこまで皮を剥いで、中抜きした猪を運ぼうじゃないか。」

「あたしは鉄の大串と、串を支える架台を用意するわね。」と言って、あたしは馬車の壁に据えられている鉄の器具を外に運び出した。

レンジョウはさっそく猪を吊るした縄を外している。駆け付けたカナコギとマキアスが縄を外し、レンジョウは両手で猪の両足を持ってくれた。

後は皮に切れ目を入れて、それを剥ぐだけだ。切り落とされた皮は地面に落とされて行く。

エルフの嗜みとして、できる限り綺麗に皮を剥いで、その皮の上に内臓を取り出して盛り上げ、血を絞る。絞った血は受け皿にとって、これも食料にする。

腸の中の排泄物は手で絞り出して、汲んで来た水で内部を洗う。本当はもっと良く洗いたいが、水場の水は限られている上に、それを汚染する訳にはいかない。

あたしの指示でマキアスの掘ってくれた遠くの穴に汚物を落とし、カナコギが掘ったもう一つの穴には一度洗った腸を畳んで捨てた。勿体ないとは思うが、こればかりはどうにもならない。

腎臓や脾臓、胆嚢等も腸と同じ穴に捨てた。そして二人の男がそれらを埋め戻してくれた。

「本当に、アローラちゃんのアウトドア適性は凄いね。」マキアスがそう褒めてくれる。

「俺なんかだと、死んだ猪を捌こうとしても多分オロオロするだけだと思いますよ。猪を殺すところも難問でしょうけど。」カナコギもそう言う。

「まあ、慣れてるからね。」とだけあたしは答えた。

「どうしたんだ?ちょっと様子がおかしいぞ。」レンジョウはあたしの顔を覗き込んでそう言う。

「ん~。良くわかんないけど、ちょっとボンヤリしてるかな。」あたしは正直にそう答えた。

レンジョウはあたしの顔をしばらく見ていたが、心配無用と理解したのだろう。何も口にはしなかった。

あたしはその時感じた。あたしの”本体”が何かをしている事に。しかし、彼女が何をしているのかはわからなかった。


****


「生木があっと言う間に乾燥しちゃいましたね。」シーナが呆れた声でそう言う。

「まあな。君が長い剣と強い腕力の持ち主で助かったよ。我の武器では、火傷をしてしまいそうだからね。」我はそれだけを口にする。

「この現象が何によって齎されたのか。貴方は未来で”あの女”に説明していたそうですね。何でも”位相を変換した結果”なのだと。私もその現象について調べましたけど、とんでもない能力でした。」

「我も自身の能力について理解したのは、二十世紀半ばを超えてからであったがな。我の知り合いである”月の者共”の中の読書家が教えてくれたのだよ。」

「それが誰かは口にすると災いがありそうですね。あの方だけは怖くて自分からは声も掛けられませんでしたから。」

「と言う事は、彼の方から声を掛けて来たのかね?」

「はい。それ以後は普通に話ができましたが、それ以前は無理でしたね。」

「ふふ・・・。話してみれば楽しかったと思うがな。彼は話題豊富で、その実は辛抱強いからな。」

「ええ、そうでしたね。どんな事を尋ねても返事が返って来ました。意外に下世話な話にも通じていて、毎回話すたびに驚いていたものです。もっと学者肌の方かなとも思っていたのですが。」

「そう勘違いされるのは彼の不徳なのかも知れないが、彼は本質的に理知的で、人の心にも強い興味がある男だから。本当は親切で、礼儀正しい男だよ。」

「そんな方があの雰囲気を放っていると言うのも奇妙な話ですね。」

「まあ、いろいろと理由があるのだよ。とりわけ、彼の力を知った者が、彼に対してどれ程礼儀知らずな求めを行ったのかを考えるとな。」我はふと思い付き、シーナの方を向いた。

「君は彼の事をどれ程知っておる?」

「いえ、何という事も知りません。ただ、凄い剣術の達人である事は知っています。射撃の名手である事も。」

「そうか。なら、今の我の言葉は忘れて欲しいのだ。これは我からの願いである。」そう言って頭を下げた。

「いえいえ。貴方に頭を下げて頂く理由はありませんから。」そう彼女は言って、両手を腿の上に置いて、自分も頭を下げて来た。

そして、それからすぐに、両肩に猪を担いだレンジョウが現れたのだ。二人のエルフと共に。


****


「ここで良いかな?」グリル用の架台の設置位置をアローラが聞いて来た。

「良いぞ。その下にこの薪を入れる事にする。」シーナと暗殺者が切り刻んだ薪を掴みながらそう答える。

串刺しにされた猪を俺とシーナが片手で支えている。それに塩をなすり込み、肉の切り口付近から全体に香辛料が擦り込まれ、内部に薬草と香草が貼り込まれる。

「いちにのさん!」グリルの架台に鉄串が据えられて、哀れな猪を時々串に固定したハンドルで回しながら焼いて行く。

「物見のオルミックはまだ帰らないのか?」仕事熱心で決して手を抜かないオルミックは、今日も今日とて付近の偵察を怠らない。

「まだみたいね。まあ、帰って来るなら煙を見て、ここを突き止めるでしょうけど。」アローラはそう言う。

腿の切れ目から脂がとろけて落ちて、薪の上で香ばしい臭いを周囲に放っている。俺の腹もシーナ同様に音を立て始めた。

「これは豪勢な猪料理ですね。これ程の御馳走はエルフと言えども、そうそう頂ける代物ではございません。」シュネッサはそう言って目を細めている。彼女のラベンダー色の瞳は光や熱に対して繊細過ぎて、強い熱を放つ薪を長い間見つめるのには向いていない。

やはりダークエルフは地下世界に適応した生物であり、地上の光溢れる世界は得意ではないのだ。


「ところで話が中断してしまったが、実際のトラロックとはどんな神だったんだ?」俺は薪が燃える様を見ている暗殺者に尋ねた。

「ふむ・・・神と言うか、神の如き能力を持った人間であったよ。先程も言った通り、我等の失策で地球上の各所に気象変動が起きた。太陽の発する熱量が衰えたのが原因であったからな。どうにもならぬ寒冷化がやって来た。我等とても食事はするが、それでも普段から人間と同じだけの食料を食べているかと言うと答えは否だ。我等は基本的に人が近くにおらんなら、食事を摂ろうとは思わんからな。しかし、人はそうではない。食事をしないと死んでしまう生き物だ。」

シーナが奇妙にバツの悪い顔をしたが無視する・・・。

「人々は飢えて戦乱の時代がやって来た。元々温暖だった地中海付近はまだしもマシであったらしいが、現在の中国とかは大戦乱の時代に突入した。漢民族と言われる民族はこの頃に五分の一の人口に激減して、広大な土地を統治する能力と文明を発展させる人的資源を失ってしまうまでに至った。その頃に至る遥か前に、我の役目も終わってしまっていた。」

「我が親しくしておったポリュビオスと言うギリシアの賢者であり弁舌家は、政体の混合、王家と民会と貴族院の混合政体こそが国の安定を保つと信じており、我もそれに賛成した。」

アローラとシュネッサはポカンとした顔で彼の話を聞いていた。

予備知識なしには、流石に頭の良い二人でも彼の話は理解できまい。だから、敢えて無視した。

「であるからこそ、我はかのユリウス・カエサルが終身独裁官になった際にはローマを去る準備を始めておったし、オクタヴィアヌスが台頭した際には暇乞いをする相手すらおらなんだ。なにしろ、カエサルは我を説得した男の家を既に没落させてしまったからな。」

「・・・。」この男のローマへの思い入れは一通りではないのだと思い知ってしまう俺だったが、このままではトラロックの事を聞く事ができない。

「そして、あんたはローマを出奔してどこに行ってたんだ?」話を促す事にした。

「誰もおらん所に行こうと思ってな。我はイエメンからインド洋に出る船に乗った。アレクサンドロスがポールスと戦ったと言う場所を訪れようと思ってな。荒廃していたシリアを訪れ、その後に我の乗った船は思いもよらぬ災難に出会った。」

「普通に考えて海難と言う事だな。」

「その通り・・・。」

「で、インド洋を目指してどこに着いたんだ?」

「現在のフィジーかどこかだと思う・・・。」

「思う?」

「うむ、確証はない。本当に、我は図書館に通うべきであったと、あの時は後悔したものだよ。プトレマイオスがあれ程に星座を詳しく定めておったのに、我は星々がどの様に運行しておるのかわかっておらなんだのよ。まあ、当時の星座はかに座が異常に大きくて、中天に君臨しておった様なものでな。古いエジプトの神話の蟹は、きっと大きかったのだろうと、その後随分経ってからは想ったものだ。だが、大事な事は、当時の我には星読みの知識も、天測の技術も無かったと言う事じゃよ。」

「情けない事に、我は漂流して、文明世界に帰る方法すら皆目わからなかったのじゃよ。」


さっきまであれ程の剣技の冴えを披露していた彼だったし、出会ってからの日々はそれ程ではないが、常に堂々としていた彼だったが・・・。

そこに居るのは、普段の彼とは全くの別人、過去の自分の失態にしょげ帰る。自分の汚点を思い出して落ち込む。そんな素直な態度の男であり、自分の間抜けな過去に歯噛みする、等身大の人物だった。

俺が、そんな彼の事を心から信じる様になったのは、あるいはこの時からだったのかも知れない。

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