第百八話 ピーシーズ
「ほう、シーナが帰って来たね!」
「え?シーナが帰って来たのですか?では、フルバートへの潜入は中止になったのでしょうか?」
「いいや、そう言う事ではないよ。」
「では、どう言う事なのでしょうか?」
「あの娘は、自分のルーツを知ったのだよ。」
「ルーツ?ですか?」
「そうさ、ルーツだよ。彼女は、自分が太古から、どれ程大きな愛に包まれて来たのかを思い出したんだよ。」
「はて・・・。それが何を意味しているのかは、わたくしにはトンと理解できませぬ。けれど、シーナにとって、とても大切な意味を持つ事が起きたのは理解できました。」
「それで良いのだよ。さて、続きを済ませてしまおうかね。」
「はい、先代様。」
”ふむ・・・先代様で呼び名が定着してしまったね。それはそれで二重の意味で合っているんだが、最初に遭遇する当代は、あの三人をどう扱うのかね。そればかりは、終わるまで予断を許さないね。”
ふと、表情のどこかに、そんな懸念が出ていたのか、アリエルは敏感に反応した。
「あの者達の事を案じておられるのですか?」
「まあ、そうだね。」
「ありがとうございます。あの者達は、わたくしに取って、掛け替えのない者達でございます故。」
「それはカナコギも含めてかい?」
「はい・・・・。実は・・・・。」
「なんだい?」
「わたくしは、あの方とも・・・どこかで出会っていた様な気がするのです。」
「ほう?そうなのかい?」
「はい、不思議な事だと思いまするが。」
「そうかい・・・・。それを思い出せたら良いね。いや、きっと思い出せるだろうよ。」
「そうでしょうか?」
「そうとも。その日のために、今日も学ぶとしようじゃないか?」
「はい!本日はスピノザ様の著作についてですね。わたくしの解釈に、いろいろとご意見をいただければと思います。」
「そうとも。レンジョウのお気に入りの賢者じゃからな。あの者の内面に横たわる理念を知る機会でもあるの。」
「まあ・・・・。」アリエルは少し照れた様子を見せた。
”人間らしくなって来おったな。まだまだじゃが、それでも、着実に進んでおる。”
「さて、お茶をお持ちしました。これで喉を潤しながら、論議を楽しみましょうぞ。」
ザルドロンがワゴンを運んで来た。茶だけではなく、スグリを乗せた甘そうなパイと、干した果物も見える。余程に腰を据えて話し込むつもりなのだろう。
「おやおや、我の好みを完全に知られてしまった様ですな。流石でございます。」
「いえいえ。実は、儂とアリエル姫も同様の好みであった。そう言う事なのですよ。」とザルドロンも朗らかに笑う。
それは、とても和やかな歓談の風景だった。
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「スピノザか・・・。」ヴァスが堅い声をこぼした。
「お知り合いなの?」サエが興味深そうにヴァスの目を覗き込んだ。
「いや、直接には知らない。当時の俺は、オランダで水兵をしてたからね。」
「へえ?宣教師をやってたのは知ってるけど、水兵もしてたの?」
「ああ、第一次から第三次の英蘭戦争に従軍していた。トロンプ提督の旗艦にも乗っていたね。」
「トロンプ提督?良く知らないわ。」
「一般的には、スペインの無敵艦隊を撃破したのはイングランドのドレイク提督だと言われているがね。その後に再建されたスペイン艦隊を徹底的に潰したのはトロンプ提督なんだ。」
「それって、世界的に知られている定説とは違うわよね?」
「そうだね。トロンプ提督が後にイングランド艦隊と戦って戦死してしまった事もあって、あまり有名な方ではないんだよ。」
「彼は別段ドレイク提督の後釜達に劣っていたとは思えないが・・・。」
「辛い話かも知れないけど、どうしてトロンプ提督は戦死しちゃったの?」
「当時のオランダは、共和制の最悪のパターンを踏んでしまったんだよ。優柔不断で、弱腰で、しかも軍備をケチったんだ。陸軍も海軍も・・・。」
「軍備をケチったの?どんな風に?」
「オランダは大まかに言って、陸軍国じゃない。イングランドと同じく海軍国なんだ。スペインも本来は海軍国である筈だったんだが、当時とそれ以前は違っていたね。半分以上陸軍国に足を踏み入れていた。日本も太古は海軍国で、それ以後は武士が台頭してからは陸軍国、明治以降は海軍国で、それ以後は陸軍が幅を利かすようになり、主導権争いで迷走した挙句にあの戦争だ。」
「俺は思うんだ。陸軍国は基本的に海軍を充実させちゃいけない。海軍国は陸軍を充実させちゃいけないってね。」久々にヴァスが熱弁を揮っている。
「両方あった方が良くない?」とサエが素朴な疑問を述べるが。
「帝政ドイツを思い出してごらん。陸軍国が世界第二位の海軍を備えた途端にどうなったかを。帝政ロシアもだ。いずれも悲惨な結果に終わっている。」
「うーん、わかんない。ところで、トロンプ提督のお話はどうなったの?」
「ああ、思い出すのも胸糞悪いがね。オランダの議会は、無敵艦隊撃破以降にガリオン船の更新を迫られたんだ。イングランドは勝利の戦訓から、より剛性の強い船体と、より大きな砲撃力が必要だと判断して、専用の軍艦を建造して行く。後のクルーザーだね。ちなみに、このクルーズと言う言葉の語源はオランダ語なんだよ・・・・。」苦虫を嚙み潰したような・・・普段の飄々とした彼とは違う顔だ。
「そして、オランダの議会の愚行だね。オランダ議会は、商船の船体に大砲を積んだ。武装商船を海軍に配備したんだ。何しろ安く作れて、戦争がなければ退役させて商船に戻せるんだから。経済的だって言う考えだったようだ。」
「で、戦争が起きたのよね?」
「ああ、起きたさ。第一次英蘭戦争がね。あの時の苦労は忘れられないね。ドーバーの沖で戦って、相手の弾丸は遠くから俺達の船を簡単にぶち壊せるのに、俺達の弾丸は、接近しないと相手の木材にめり込みもしなかった。子供と大人の戦争だったね。」
「・・・・・。」
「当時の木造船同士の戦いってのはね、弾丸で殺される水兵よりも、弾丸で壊された木片を浴びて死ぬ水兵の方が圧倒的に多かったんだ。後の爆発する榴弾とほぼ同様の効果があった。それも、相手の船の木材をぶち壊して、木材の破片で死の嵐を引き起こせたらって言う話なんだけど、俺達にはなかなかそれができなかった。」
「それでも、なんとか引き分けに持ち込めたんだから、あのお方は偉大な海の男だったと思うよ。だがね、そんな偉大な男を、あいつは提督の職を解任しやがったんだ・・・。」
「お前の言う、あいつとは、ヨハン・デ・ウイットの事か?」革スーツの男が食いついて来た。
「そうだよ。彼と面識があったのかな?」
「いや、デュマの小説で、お前の言うところのあいつが描かれていた。その後に、彼に興味を持って、いろいろと調べたものだった。」ヴァスは頷いた。
「コミックの件と言い、余程デュマの著作が好きなんだね。」男は、薄っすらと笑っただけで、顎をしゃくってヴァスに続きを促した。
「何と言うべきかね。トロンプ提督は最後まで祖国の為に全力で戦った。陸式の馬鹿どもが減らしてしまった艦隊を率いて、何とか制海権を取り戻した。そこからが・・・俺がウィットを憎む理由になる。」
「・・・・・。」
「トロンプ提督は戦い続けたが、イングランドは艦隊を増強した上に、新鋭の優秀な提督を派遣してきた。ジョージ・マンク、敵ながら天晴な名将だった。世界で初めて単縦陣と言う軍艦の陣形を考案して、トロンプ提督の艦隊を打ち破ったんだ。それ以来、単縦陣は世界の海軍の基本的な陣形になったし、トロンプ提督もその陣形を採用した。」
「まあ、リッサ沖海戦で、その後も何故か横陣で戦った”イタリア海軍”と言う特別な例もあるがね。」その言葉を吐き出した際のヴァスの嗤い方は、いささか剣呑な何かを含んでいた。
「最後の戦いの時。海図を睨みながら、トロンプ提督は言ったものさ。”この戦いには勝って見せる。祖国の存続の為に。”とね。今は観光地となっているスヘフェニンゲンの沖合での戦いだった。」
「その頃には、ようやく専用の軍艦が就役し始めていた。オランダ艦隊は再建途上だったけれど、船は質的に向上していたし、トロンプ提督の猛訓練の結果が実って、士官も水兵も立派な者達が育ちつつあった。マンクの艦隊に捕捉されても、提督は戦闘を避けようとなさらなかった。」
ヴァスは十字架を胸に押し当てた。余程に、その時の事が彼には印象的だったに違いない。
「イングランドのポートランド沖で戦った時から、トロンプ提督はずっとイングランドの海上封鎖を何とか打ち破ろうとなさっておられた。最後の戦いも同じだった。作戦は通達され、オランダ艦隊は不退転の決意で決戦に臨んだ。」
「トロンプ提督の最期は、イギリスの狙撃手に鐘楼の上から銃撃されたんだが・・・・まさに、あのネルソン提督と同じ最期だったんだ。」
「ボロボロになった双方の艦隊は痛み分けて、イギリスは封鎖が不可能になって戦争は終わった。」
「我は、その頃はイングランドに居た・・・。クロムウェルがアイルランドを支配するのを目撃した。彼の親衛隊のアイアンサイズと呼ばれる者達の何人かを殺害してもいるが、別段彼に害意を抱いていた訳ではない。火の粉を払っただけの事だが。」
「”航海法”、あれさえ無ければ、イングランドとオランダは戦わないで済んだんだ。」
「その件については、クロムウェルは一切関わっていないだろう。いささか柔らかい方法で、内乱が終結したイングランドは、その後の”世界”のあり方について問題提起しただけではないかな。」
「・・・・・。」
「地中海でも同じ事が起きた。それが北海や大西洋で起きただけの事。力の意思を持つ世界帝国の前身とは、同じ事を行うものなのだよ。お前は、それを両方とも目撃したと言う事だ。」
「ウィットは、提督の死後に第一次ウェストミンスター条約を結んだ。結局、ウィットは航海法を認めてみせた訳だ。提督の死を踏み付けた上で屈服したんだ。その後、オランダの艦隊は正規の軍艦を中心に編成される事になった・・・。」
「これは我も見た光景であるが、その後にウィットは財政再建を成し遂げたが、イングランドの追い込みはますます手酷くなり、遂には同盟国であるフランスからも裏切られた。それを何とかできたのは、ウィットが終生オランダの元首になる事を阻止しようとした、オランダ陸軍を統括していたウィレム三世であり、後に彼はイングランドの国王として即位したのだよ。」
「そうか・・・。けれど、俺はそこまででオランダに愛想が尽きた。マウリッツが居て、仲間と共にスペインの重装歩兵とマスケット銃や戦斧で戦っていた頃とは違う国になっていたからね。だから、いろいろ考えた末に、長く住み付いていたオランダからロシアに移住して、その後に新しい都の造営のために働いたのさ。あの時のロシア皇帝は凄い人だったよ。」ヴァスが目を輝かせている。
「どんな人だったの?」とサエが聞くと。
「いや、掘立小屋に棲んで、板の間に寝て、朝早くに起きて毎日土木工事。俺がチビに見える位の巨体と、驚くべき怪力と、体力の持ち主で、自ら湿った土地に土を積んでは平たく叩き、水準器を自分で使って土地の高低を計り、石を積み、木材と石材を運んで、建築家の意見を聞いて。あれは凄かった。あそこまで自分で働く君主を初めて見た様な気がした。まあ、歯科医に憧れたりしなかったら、もっと評価が高かったろうけど。」
「頭が良いだけのウィットよりは、ずっとお前好みだった訳だな?」と男が言うと
「そうだね、彼は俺好みだった。せがまれた末に、健康な歯を抜かれた時には殴りたくなったけどな。」と笑って言う彼の瞳は、傍目から見ても危険な色を映していた。余程腹に据えかねたのだろう。
「さて・・・最初の話に戻るけど、スピノザは、ウィットの事が好きだった。異端者と呼ばれる自分を理解してくれた数少ない人だったのだからね。当然かも知れないが。」
「それにしても、因縁と言うべきかね。スピノザが死んだ場所と言うのが、トロンプ提督が戦死なさったスヘフェニンゲンだったんだよ。ウィットが知識人なり哲学者として認めたスピノザ、ウィットが野蛮な水兵の親玉として嫌ったトロンプ提督。二人ともがスヘフェニンゲンで死去している。陸と海で隔たってはいるけど。とっても近くで亡くなっている。」
「最初はオランダの野生馬の美しさに惹かれて住み着いた。スペインでもそうだった覚えがある。しかし、まさか共和制の指導者に失望して去る事になるとは思わなかったね。」
そんな彼の昔語りを、サエは嬉しそうに聞き続けるのだった。
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見た目には、シーナの容体は随分落ち着いた様に見えた。身体は焼芋みたいに火照っているし、たった数時間で頬が丸みを失い始めているのは心配だが。
彼女はうなされる事もなく、恐るべき力で寝ぼけて暴れたりもしなかった。
「うーん。」か細い声をあげて、彼女は眼を開いた。俺の顔を見て、何か不思議なものを見た様な顔をしたが、それも少しの間の事。周囲を見回して、それから身体を自分で起こした。
「ふう・・・。予定の通り、この馬車はフルバートに向かっている訳?」
「ああ、そうだ。」奇妙な違和感がある。
「シーナさん、貴女は覚えてないかも知れませんが、凄く容体が悪かったんですよ。精神不安定で気絶を繰り返して。だから、宿場町で手当てしようって事にしたんです。」鹿子木が説明してくれた。
シーナはそれに黙って頷いてから、壁に据え付けた木の棚を開けて、その中から皮袋の財布を取り出した。そして、銀貨を一枚取り出すと・・・人差し指と親指で挟んでへし折った。
「・・・・。」鼻から大きく息を吐き出すと、銀貨を袋に仕舞い、棚に返した。
薄気味悪い一連の動作の後、シーナは食物を求めた。
パンを千切る動作も、チーズをナイフで切る動作も、いつもとは違う。まるで、自分の力に怯える様に、それは不器用で、慎重な動作だった。
何があったとか聞くのも憚られる。そんな感じだった。鹿子木も黙っている。
大きな丸いパンを一つ、チーズはこぶし大の物を二つ、更に調味料の蜂蜜を瓶一つ分ガツガツと平らげ、革袋一つ分のワインを呑み干した後、シーナは再び眠ると言った。
「今後はうなされたりしないと思うよ。」とだけ告げて。
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「理由はわかんないですけど、シーナさん・・・スーパーパワーアップしてませんか?」
「理由がわからないのが、凄く気味悪いがな。」
「銀貨を一発で二つ折りにしてましたよね?」
「余裕でな。あれなら、後二回折り曲げられたんじゃないか?」と兄貴は恐ろし気な顔付きでこぼしました。
「日本の法律だと、硬貨をひん曲げたりしたら、確か貨幣損傷等取締法に違反の筈っすね。」
「そうかも知れないが、ここはラサリアだからな。あれでも完全に銀でできた硬貨なんだから、店の者は受け取るだろうさ。兌換制度はこの世界にはないんだし。」
「兄貴、高校の授業とか、完全に覚えてるんですね。」
「まあな。知らない事を覚えるのは、今でも楽しいな。まあ、この世界の魔法ってのは、ちょっと無理みたいだが。」
「魔法っすか?なんか、MOMオンラインのプレイヤー職業には、魔法職ってなかったんですよね。まだ仕様が整備されてないだけかなって思ったんすが、ここに来てみると、少し違うんだろうなって思いました。」
「違うって何がだ?」
「きっとですが、この世界の魔法ってガチの本物で、普通のゲームとかで誰でも学べるいわゆるスキルってもんじゃないだろうかと。」
「火を噴き出して相手を痛めつけるとか、そんなチンケなもんじゃなくて、世界そのものに影響を与える原理みたいな何かを魔術師が起動するって感じなんです。戦闘用の強力な代物もあるんでしょうけど、それにしてもが個人としての力じゃなくて、世界の理を魔法使いが代行して発動してる感じに思えるんです。」
「どう言う意味なんだ?」
「つまり、俺達よそ者は、この世界の理を理解できないんじゃないかと。炎の魔法一つでも、あれはこの世界の生え抜きの、理を理解している者にしか使えないんじゃないでしょうか?」
「”ファイア”とか”アルティメットなんとか”とか叫んだり、意識したり、呪文やら起動式やらをゲームのシステムによって構築して作り出すものじゃなくて・・・・この世界の理を通してしか発動できないものなんじゃないでしょうか?そう考えると、このゲームのプレイヤー達が魔法を使えない仕様も納得できるんです。」
「本当の異世界で魔法無双とかね。夢物語か仮想現実でしょうよ。魔法って、異世界の人達のためのギフトであるべきなんです。俺達みたいな間借り人が使うなんて、失礼で馬鹿にした話じゃないですか?」
「お前、いろいろ考えるんだな。俺なんか、こっちに来て2年程の間、流されるままに相手をぶん殴ってただけなんだが。」
「いえ、兄貴もいろいろと考えてたと思いますよ。」
「うん?」
「兄貴の顔付ですが、明らかに以前と違いますから。怒った顔は以前のとおりですが、いらいらした顔や、悲しそうな顔はしていません。」
「何て言うんでしょうかね。兄貴は、軽薄な事が以前からできないタイプでしたが、それが今はとてもとても重厚な感じになってます。どこででも根を張れるし、どこででも自分を見失わずに路を拓ける。そんな強靭さを感じるんです。」
「兄貴、シーナさんだって大丈夫ですよ。兄貴はシーナさんの事、好きなんでしょう?アリエルさんとはまた違った意味で。」
兄貴は黙って頷きました。チラッとシーナさんの方を見ましたが、やはりと言うか・・・何て優しそうな顔なんでしょう。
実際、彼女とは肉体関係もあるんでしょうけど、兄貴は本当は父親みたいな目で彼女を見つめてるんじゃないでしょうか?
愛しくて愛しくて仕方ない。そんな感じがしてならないんです。
その想いが、シーナさんに伝わってくれたら・・・・。
****
”海の底から・・・空を見上げているような光景ね・・・・。”
自分の中の冷静で冷淡な部分がそう告げる。
”煌めく光が・・・ある。溢れている。あれは太陽の光?月の光?それとも?”
それを美しいと思う自分が居る。けれど、あれは何の光なのだろう?
”目を凝らすが良い。”深く静かで、有無を言わせない何か。そう、巨大な人格が触れて来た。
”貴方はだあれ?”自分の思考が舌っ足らずな返答を送る。
”それはいずれわかる。今は自分の心象に集中するが良い。ありのままに受け入れるのだ。”
そこには・・・実に様々な記憶の混沌が渦巻いていた。一時たりともそれらは安定しない。
”混沌とは何か?それは大きなエネルギーを内包した秩序なのだ。”
”それらは、その大きなエネルギーを解放した末に秩序となる。あるいは虚無に。”
”秩序か、虚無か。選ぶのは、命ある実体である君自身なのだ。”
ふと、その記憶をよぎったのは、あの優しく穏やかなアリエルの姿。
”姫様・・・・”
”あの女・・・”
交わらない・・・・。
薄暗がりの中で、私の事を心配そうに見つめているレンジョウの瞳。
”レンジョウ!”
”レンジョウ!”
港町の近くの丘で佇む、あの神秘的なアリエルの姿。
”姫様!”
”アリエル・・・。”
少しずつ、少しずつ、
”シーナさん・・・。兄貴は貴女の事が大好きなんですよ。”
”カナコギ?”
”カナコギ?”
”貴方とは、他のどこかで会った事があるのでは?”
どうしても思い出せない。
様々な記憶や想いが交差し、それぞれに意味と理解、確認と承認が追加されて行く。
私達は、揃って眠りに就き・・・それぞれに。
****
「ゲシュタルト内では変わらず2つのソリトンが周回しているね。双方ともにゲシュタルトの充実と変成を着実に行っている。」ヴァスの見るところではそうであるらしい。
「2つのソリトンが完全に一致する事になればどうなるのかしら?」サエが質問する。
「おそらくだが、その場合は双方が接触した時点があるとしても、そのまますれ違うだけだろう。」男がそう評価する。
「あるいは、それらは合一して、大きな振幅を持ったソリトンに変性するするかも知れない。いずれにせよだ・・・・。」
「当初目指していたゲシュタルトの生成と比べて、異常とも言えるスペックアップが方々で生じている。あの六番目など、当初の計画には存在すらしていなかった。それがどうだ・・・。」
「今や成長率ではナンバーワンと言っても良いかな。」ヴァスも両手を挙げている。
「もしも、シーナのゲシュタルト内で大きな振幅のソリトンが生成された場合、現在のゲシュタルト内では規模的に考えて普通には周回できないだろう。」男が続ける。
「つまり、もっと大きな器が必要になると言う事だろうな。しかし、そんな事になったら、シーナは予定のとおりの存在ではなくなるのではないか?そんな懸念が今や生じてしまったのだ。」
「人の魂の核を思うままに操る。それは心や行為を強要するよりも、余程罪深い事だ。」男は声を低めて周囲の者達に語り掛ける。
「必要に迫られて、人類の未来の為に、最大限の努力を払い・・・か。それは単なるおためごかしの美辞麗句でしかない。これ程の大事に無理に関わらせられて、知らぬ間に手駒にされている。そんな者達に謝罪する方法を、我はそもそも思いつかぬ。」
「まさに悪魔の所業・・・何て言う、慣用句はこの場合は不適当ね。」サエが言う。
「この相手は、力づくでは決して勝てない相手なんだから。何とかなる可能性をどれだけ追求しても、今の時点から僅か数十時間後を起点とするしか、挽回の方法は見つからなかった。」
「私は、獣として半分の人生を生きて来た。獣には一つのルールがあるの。必要な事以外はしないっていうルール。人には違うルールがあるけど、私は今回は獣のルールで”必要な事”を成し遂げたいと思っている。」
「余分な時間ができた後に、彼等には謝罪なり賠償なりを為せば良いのよ。」サエが何度目かの繰り言を締めくくった。
「後・・・34時間です。」仲間の一人が告げる。
管制室の全員が黙って頷いた。
「ジョンバールか、ギロンチか。あるいはそのどちらでもないのか。」
「我は本当は怖いのだよ・・・。これ程の事に手を染めている自分自身がな。」
その言葉に、誰も返事をしなかった。皆、同じ怖れを抱いていたから。
ここに居る全員が山脈を背負っている者達であり、その重みから逃げる事はできないのだ。