第百六話 インナーワールド
「五番目のソリトンの流れが不安定です。このままだと、解離したゲシュタルトに成る可能性も生じています。」サエが静かに言う。
しかし、その額には汗がうっすら浮かんでいた。
「シーナ・ケンジントンは、前世の自分を拒否しようと言うのかな。うーん、困ったね。」ヴァスがかすかな渋面を浮かべるが、すぐに後ろの彼を振り向く。
プイと横を向いた彼は、「私は関与しない。全て、人は自分の意志で為すべき事を為さねばならぬ。」と言い捨てると、そのまま椅子を反対に向けて、ヴァスに背を向けてしまった。
「ふむ・・・。シェンナ・・・そんな訳だから、君は自分で頑張るしかないんだよ。」ヴァスは軽くそう口にする。
「なに、大丈夫さ。俺は君の事を良く知っている。」
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脂汗を流しながら、口には革のベルトを噛ませられた。何とも不安な様態のシーナが俺の太腿に頭を横たえている。
フルバートへの潜入任務を前にしての、まさかの急変であり、見事なまでに戦力外に成り果ててしまった訳だ。フルバート地下への潜入など、この状態でできる訳もない。
俺は、シーナの頭を太腿の上からどけると、馬車の扉を開けて、馭者台の上のマキアスに声を掛けた。
「シーナの具合が良くない。ノースポートに引き返そうと思う。」
「わかった。で、彼女の様子はどうなんだい?急いで医者に見せるとなると、ノースポートに戻るよりも、進んでいれば、夜までに宿場町に着けるから、そちらの方が良くはないか?」マキアスはそう言う。
「・・・・・・・。」俺は悩んだ末に宿場町まで進む事に決めた。
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ジッと自分を見つめる目線がある事を感じていた。
自分の中に流れ込んで来る、恐ろしい程の負の感情、狂おしい情動、焼ける様な憤懣、怒りと悲しみ、苦しみと愛憎が自分の心身を滅茶滅茶に殴打しているのを感じる。
”これが私の感じたものなのか?”
”あの燃え盛る破滅の光景。あれを私が見たのだろうか?そこに居て、戦って。”
「そうね・・・。」突然に物理的な音声が響いた。いや、そう感じただけなのか?
”これは夢。私は今は眠っているはず。”
「いいえ。貴女は目覚めているの。」
「けどね、”私”と繋がっているせいで、正気を保つのが困難になっているんでしょうね。そういう事だと思う。」
そこに”居る”何かは、服装こそ違え、背格好、そして、カナコギがハンサムショートと呼んだ髪型まで同じ、顔だちも・・・けど、表情は違う。
深刻で、陰惨で、憤懣に満ちていて・・・おそらく絶望が心の奥に深く根を張っている。
”貴方は・・・レンジョウの世界の私・・・なの? やはり、この世界の私も造り物なの?”
「それは私にもわからない。この世界を何故彼等が作ったのかも。」
”貴方は、この世界を作った方々を知っているの?”
「知っているよ。けれど、貴女には関係ないでしょう。だって、そこから出られないのだから。」
”姫様のおっしゃるとおりなの?この世界は閉じたらそれまでの絵本の様な何かなの?”
「いいえ、この世界を作った者たちは、絵本を眺めて喜ぶような輩ではないわね。そして、今の私は、命じられてここに来ているの。その者たちからね。」
ふと、彼女は考え込んだ。
「おかしいわ。全くもっておかしいわ・・・。何故?」
彼女は、向こうの世界の私は何を言っているのだろうか?
そして、ふいに彼女は姿を消したのだ・・・・。唐突、まさに唐突に私は放り出された・・・。
大きな疑問を残して。あの地獄を心の中に宿す女性が、本当に自分なのかと言う。そんな大きな疑問を残したまま。
けれど、その疑問を心の中で咀嚼する暇もなく・・・・。
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サー・フォルクスは、唐突に自分にかかる負荷が極端に減少した事を知った。感じた。
延々と続くだろうと予想していた、あの苦行、人間が想像している一般的な概念である地獄に思える苦痛が・・・。
腕時計を見て、更に愕然とする。まだ10分しか経過していなかった。額に汗が噴き出て来る。
これは良い事、良い傾向なのか、それとも?
すかさず、シーナの自室に仕掛けてある監視機構をメインのディスプレイに繋ぎ直す。
「部長!どうせ覗いてるんでしょう?返事をしなさいよ!」
凄い剣幕だ。けれど、それがどうかしたと言うのだろうか。あの恐るべき病んだ精神による苦痛は感じられない。彼女は、そう、単に激怒しているだけなのだから。
助かったと思う安堵の気持ちが強かったせいか、いつものように勿体を付けずに即座に返答した。
「ああ、覗いているよ。それがどうかしたのかね?」と。
「騎士がどうたらとか口にする変態野郎!けど、手間が省けたから、とやかくは言わないわ。」
「どうしたんだ?何か聞きたい事でもあるのかね?私で答えられる事ならなんなりと・・・」
「勿体ぶらないで!聞きたい事は一つよ。あれは私のゲシュタルトとは違う何かよ・・・。はっきり感じたの・・・。」
「どうしてあんなものが存在できるの?ヘルダイブで時間遡行できるソリトンは一つだけのはず。私と違うシーナ・ケンジントンのゲシュタルトなんかありえないはず。そうじゃないの?」
「ふむ・・・・。」どうする?韜晦するか?いや・・・。
「シーナ君。それを知りたければ、更に・・・」凄く睨まれた・・・。「もっとゲームを楽しめと?」最後まで言葉を話させてくれないな。
「そうなるかな。真面目で仕事熱心な君のために、ささやかな休息時間を設けてあげたい。これは、上司としての・・・そうだね親心とでも言えるだろうか。」
「・・・・・。」彼女は黙ってヘッドセットを被った。
「それとだがね・・・。君は”前世”での最後の自分がどんな肉体を備えていたか。覚えているかね?」
「・・・・・。」ゴーグルバイザーを降ろさず、シーナはこちらを睨んでいる。
まるで、監視カメラがどこにあるかわかっているかの様に・・・。
「ええ、薬物とマイクロマシンでフルチューンされていた。」
「ご名答だ。その形質を、今からゲーム内のシーナにアップロードする。」
「チートキャラで無双するゲームに変更するんですか?」シーナが嘲笑するが・・・
「レンジョウにも適用する・・・。」
「・・・・・・。彼をこのゲームからサルベージした際に、それで日常生活をどうやって送らせるつもりなんですか?」
「複数の筋からの要請だ。三番目は、君よりも先にヘルダイブしたが、その際にレンジョウと君の形質データを現在に送っていたんだ。我々はそれを回収した。」
「三番目ね・・・。あの女が行った改造はあの時点の肉体だけの事でしょう?現時点の”私達”には関係ない・・・。」
「忘れたのかね?彼女の作ったマイクロマシンは何を原型にして作っていた?」
シーナがギョッとした顔をした。そう、それらは身体の隅々まで行きわたるために・・・そのマイクロマシンはヘモグロビンを含む血液を原型に作られていた。
頭蓋骨の一部や、全てがコラーゲンで出来た組織その他の内部に血管が通っていない部分にすら、それらは周囲の血管から這い出て組成を変更して行った。
そもそも血液とは?それらは人間の肉体を構成する肉の細胞とほぼ同じ組成であり、単に結合するための成分が肉を構成する細胞より少ないだけが違っているだけだ。
ただ、血液は分子量やサイズがかなり大きいので、マイクロマシンの素材としては難易度が高いのが欠点と言えるし、溢れる程には人体に投与できない。まあ、それも製造に成功してしまえば問題なかったが。
「あれを作ったの?あの女が未来から送ったデータを基に?じゃあ、私を日本に送る時に行った検査・・・採血と薬剤の投薬は?」
「悪いね・・・騙し討ちの様な事をして。」
「私自身にもあれを行うつもり?この世界にはあの破滅した世界みたいな敵はいないのよ?」彼女は絶叫するが・・・。
「そのヘッドセットから、君の体内のマイクロマシンにコマンドを送る。しばらくは安静にしておくと良い。」自分の喉から出た言葉は、極めて平板で、平静で、我ながら無慈悲なものだった。
金切り声の怒号が聞こえる。ヘッドセットをむしり取ろうと無益な努力を行うシーナの姿が見えるが、どっこい女の細腕では遠隔で掛けられたロックを外せる訳もなく、顎紐だって千切れない。同じく遠隔操作でバイザーが降りて行くのも見えた。
狂った様な激怒の感情が流れ込んでくる。しかし、それらは彼女の抱えている悲嘆や後悔、悲痛や絶望の感情に比べれば、全くどうと言う影響を私に与えられるものではなかった。
「うん、やはり彼女は怒っているくらいが一番かわいいのかも知れないね。」
次回・・・彼女と面と向かって出会う時の事を想像するのは敢えて考えない事にしよう。
そう、サー・フォルクスは決めた。
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何が起きても受け入れる覚悟はあったが、予想と違う何かがシーナに起きている。その事に俺は気が付いた。
「何が起きている?」
「痛い!身体が痛いの!」目を覚ましたシーナが俺にそう訴えた。
だが、そんな事は俺にはわからない。いや、それはそれで大事な事なのだろうが、本来ならば強く注意を払うべき事なのだろうが・・・。
「兄貴どうしたんすか?」鹿子木も異変に気が付いた様だが。
気のせいじゃない・・・。両腕で抱きかかえたシーナの身体が・・・いや、体重が・・・。
細身で身長も低いシーナの身体が、姿はそのままに成人男子、いや相当大柄な男の体重よりも重く感じる。
俺に抱き着いて来るシーナの細腕に、いまや俺は絞殺されるのではないかと言う恐れを抱くようになった。凄まじい力だ。火事場の馬鹿力か?
いや、そんな俺の心配は大袈裟ではなさそうだ。シーナは泳がせた左手で馬車の座席を握りしめたが、その指は座席の詰め物に突き刺さり、その下の木の板を叩いていた。
メキメキと言う木材のたてる音が俺の耳を打つ。
「鹿子木、シーナに近付くな。何かヤバい事が起きている!」そう警告しながら、俺はシーナの腕を何とか制そうと・・・シーナの両方の二の腕を自分の両腕で抱えた。
多分無意識と言うか、身体に染み付いた技がそうさせたのだろうが、シーナは両腕を前に動かすと、そのまま肘を引いて、両肘を三角の形にした。
俺の両腕が凄い音を立てた。かなりの力を込めて抱きしめていたのだが、一気に両腕のロックが外れた。酷い痛みと共に。
本来ならば手酷く筋を痛めたかも知れないが、そこはありがたい事に、フレイアから付与されていた再生能力のおかげでしばらくすると痛みは引いてくれた。
シーナはそれっきり、再び昏倒した。酷く不安になる痙攣を繰り返しながら。
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「姫様。何故でございますか?」
「シェンナ、貴女には本当に迷惑を掛けてしまいました。」
「この街も、いずれは陥落してしまうでしょう。なのに、何故?」
「申し訳ありません。しかし、今生の別れが迫っているのです・・・。」
「あの者が死すると?」
「いえ、あのお方はまだまだ亡くなりませぬ。ただ、もうこの地には帰る事はないでしょう。」
高台から見下ろす美しい海。上昇気流が運んでくる磯の香り。
まばゆい夏の日光が、穏やかな波頭に映り、様々な光の濃淡を作り上げる。
豊かで、美しい都は、しかし大規模な敵の軍勢がやって来る運命を甘受するしかない。
そして、それから逃れるための大船団に乗ろうとしている軍勢が見える。
長い長い戦いの末に、全ての拠点を失い、母国に帰ろうとする船団。
「この街は一度降伏したのです。報復は免れません。その様な地に逗留する事が如何なる事であるか。もちろんおわかりなのでしょう?」
「はい、もちろんです。」
「姫様のお噂を耳に致しました。サラピアでの事です。」
「どの様な噂でしたか?」
「姫様が・・・。ギリシア人の娼婦であったのだと。彼の者は、それを幸するが故に、一月を過ごしたのだと。」
「そうであれば、わたくしも本望であったかも知れません。ですが、あのお方は奥方様を深く愛しておいでですから。」
「・・・・・。」
「シェンナ。ここまで黙って着いて来てくれて感謝します。ですが、この地での用も終わりとなりました。」姫様が指差す先に、武装した騎兵が3騎見える。
遠目にも、浅黒い肌の逞しい兵士、奇妙に青白い肌の背が高い兵士、そして・・・・。
「お呼び立てして申し訳ありませんでした。」姫様は丁寧に会釈して、黒髪の美しい顔だちの男に語り掛けた。
「今生のお別れでございます。ですので、我が儘とは思いましたが、貴方様をここまでお招きしたのです。」
男は黙して語らない。馬上からヒラリと降り立ち、姫様に向かって歩いて来た。
「そうであるか。」初めて重々しく口を開くと、腰の袋を取り出し、紐を解いて中身を取り出した。
「そなたの様なお方に、果たして相応しい物であるかはわからない。」
それはスミレ色をした宝石のブローチだった。
「遥かな南の土地。我等の先祖が航海して辿り着いた土地の宝石であるそうだ。」
「そなたの瞳と良く似ておる。銀は、我等の土地。もう失われた土地で採れた銀である。」
憂いに満ちた表情と、白く濁った右の眼、優し気な光を湛えた左の眼。
「そなたと我は、同じ名を与えられた者同士。決して忘れぬよ。」
「大事に致します。決して失いませぬ。」
「さあ、ここも安全ではなくなる。早々に去られるが良い。我も、兵達を本国に帰す算段に心の全てを振り向けたい。そなたと別れをしかと行えて、我はもう心残りもなく、この地を去る事ができようもの。」
「さらば。」彼は踵を返し、馬に乗った。二度とこちらを振り向かなかった。
護衛の2騎も馬首を返した。彼等のなんとも言えない悲しげで、同情に満ちた眼差しを意外に思った。
”ここはどこなの?彼は誰なの?貴女達は誰なの?”
姫様と呼ばれた女が振り返る。見覚えがある顔。
そして、そのスミレ色の瞳に映る姿、黒髪の女・・・・私、シーナ、シェンナ。
そして・・・ギリシア風のトーガを纏った・・・アリエル姫。
8か月も間が空いてしまいました。
ぼちぼちと再開しますが、設定で悩んでいた部分を敢えて採用する事にもしました。
蓮條主税は、前世でとある、一部の方々には有名な歴史上の人物であったと言う設定です。
シーナやアリエル、アローラやヴァスとの前世での関係も今後書いていきます。
ある意味、この作品はファンタジー、SFに加えて、歴史小説にもなってしまうでしょう。
加えて、各国の元首である大魔法使い、現在はアリエル、トラロック、フレイア、タウロンが登場していますが、もう一人追加となります。
ファンタジー編は勢い更に長くなる事が現時点で決定って事になりますか。