第百四話 先代様は怪力乱神(と自分の正体)について語る
「えらく物騒な代物を持ち出して来たようだね。」黒いローブの女が言う。
「どの本も一様に”禁呪の書”と表紙には書かれていますが、この書物の中にこそ、レンジョウ様を元の世界に返す方法が書かれている可能性があるのではと、わたくし達主従は推測しております。」
姫様のご様子は、レンジョウ殿との慌ただしいお別れの時よりも、格段に落ち着いておるし、決然ともしておられる。
大人しい姫様にしては、珍しく興奮しておられる様にも見えるが。
「我に聞きたい事があるのじゃろう。言ってみよ。」
「この書物は表紙のとおりの代物なのかどうか。貴方様には判別できますでしょうか?」
「つまり、この書物を開きたいと言う事なのじゃな。それならば、汝の思うとおりにすればよろしい。」
”先代様”の投げる様な物言いに、姫様は少し困っておられる様子。
「そこには邪悪な知識が書かれている可能性がありまする。」
「邪悪とは何だろうね。そして、汝は知識だけで”人”の本質が変化すると思うのかや?」
「そうは思いませぬが・・・。」
「いや、実際にそう言う書物はあるのじゃぞ・・・・。」
「そうなのですか。それはどの様な書物なのでしょうか?」
「何の事はない。”黒魔術”の書物の一部であるな。その本には、黒き魔術の奥義は確かに記されておる。しかし、その他の部分は全てが人に万能感を与える様な訓練を行う様に記述されておるのじゃよ。」
「それのどこが問題なのでしょうか?」
「おやおや・・・。体系的に人を幼稚な精神に導く書物に問題がないとでも?」
姫様は過度に酸っぱいものを口にした子供の様なお顔になっておるの。
それにしても・・・なるほどのう・・・確かに素晴らしい知恵と正しい知識の持ち主じゃわい。
「儂から一言・・・よろしいでしょうかな?」
「どうぞ、賢者殿。」
「儂ら主従の懸念は、この書物に危険な魔術が付与されており、それを開封する事で災いが発生するのではないかと言う事なのですよ。」
「そうであるかな。ならば、この部屋の中でこそ、その書物を開くべきなのではないか?ほれ、そこなるアリエル姫ご自身が、その様にこの部屋を設えたのをお忘れかな?」
儂と姫様は、顔を見合わせてしばし考え込んだものじゃが・・・。
「では、ここで開きましょう。どんな災いが起きるにせよ、この身を犠牲にしてでも食い止めてみせまする。」姫様はそう言ったもんじゃ。
「ほれほれ・・・。賢者殿、やはり召喚者と呼び出された勇者は似る者なのじゃとお分かり頂けるか?」
「儂やレンジョウ殿が、それほど姫様と似通っておりまするか?」
「ええ、賢者殿。アリエル姫と蓮條の相似は、その犠牲的な愛と遺された者達の気持ちを配慮する事ができないところが。アリエル姫と賢者殿との相似は、過度に低い自己評価と言う点でしょうかな。」先代様のお言葉が少し丁寧になったのが・・・気になりますな。
「それはあまり良くない部分が似ていると言う事でしょうかな?」
「親と子では、良い部分よりも悪い部分が似るものなのですよ。しかしながら、その悪い部分にせよ、それが他人から愛される理由でもあると言う事ですよ。」
「一を失い、一を得るですか。そう言えば、レンジョウ殿と姫様の似ておられるところに、もう一つ心当たりがありますな。」
「ほほう、どの様なところでしょうな。伺ってもよろしいかな?」先代様の顔がほころんでおられますな。
「善なる言行に重きを置く。そこですな。レンジョウ殿は、”悪”を離別をもたらす何かであると考えておられました。反対に”善”を誰かとの親和であり、絆であるとも考えておられましたな。そうの考える方向性が似ておるのです。」
「左様、それは彼のやって来た世界の賢者であるスピノザの言葉ですな。そして、先ほど賢者殿が姫様に諭しておられた言葉”我思うが故に我あり”とは、その世界のデカルトと言う賢者の言葉なのですよ。」
「どういう事でしょうか。貴方様は・・・わたくし達の会話を聞いておられたのですか?」姫様は困惑、あるいは興奮しておられる様子ですな。
「聞いておったよ。それはとても大切な場面であったのだから。」先代様は平然としたものじゃ。
「わたくし共にもプライバシーはあって然るべきだとは思いませぬか?」姫様はかなり怒っておられますな。
「作り物のわたくし達には、プライバシーの様なものは不要だとお考えですか!」
「そう興奮するものではない。アリエル姫は作り物である事を何か自分が下等な存在である証左であると思ってるのかな?」
「違うのですか?わたくしもザルドロンも、絵本の中の登場人物の様に、一本道の筋書きに従って結末まで転げて行く。そんな道化以下の存在なのでしょうか・・・。」
「違うね・・・・。まさに、蓮條の語ったスピノザと言う賢者は違うと理解していた人なのさ。そのせいで、彼は無神論者と罵られておったがな。それと、蓮條の友人の鹿子木が、この世界は一本道ではなく、皆で結末を変えようと努力していると言っていただろう?そこらは聞いておらなんだか?」
姫様は黙ってしまわれましたな。
「それと、もう一つの証左があるのじゃよ。ほれ、他ならぬ我じゃがな。作り物なのじゃよ。」
「はい?貴方様が作り物なのですか?」
「まあ、我が直接そうじゃと言われた訳ではないがな。」
「直接言われたと申しますが、どなたにでしょうか?」儂も黙ってはいられなくなったのじゃよ。
「”創り主”じゃな。つまり、お主らの言うところの”神”で多分間違いなかろうな。」
「では、どなたがその”神”の言葉をお聞きになったのでしょうか?」姫様、興奮しておられますな。無理もないじゃろうがな。何しろ、自分では見た事もない”神”に仕える白き大司祭なのじゃから・・・。
「古い友人じゃな。我と同じく天使と呼ばれる存在じゃ。彼女だけは、直接”神”からのメッセージを受けておる。我等の仲間内でも、彼女が最も古くからある存在であろうな。」
「・・・・・・。やはり貴方様は・・・・天使であらせられましたか。」姫様は呟いておられるが、その呟きの中には嘆息、畏敬、畏怖、崇拝・・・そして納得の響きがありましたのじゃ。
「ですが、見るからに貴方様は高位の天使であらせられます。わたくしが以前に召喚した天使や大天使と比べても、比べ物にならない程の。それが作り物なのでございますか。」
「あ奴らは、見てくれも押し出しも立派であったろうが。」笑っておられますな。
「ですが・・・確かにわかるのです。あれらは、わたくしに言われたとおりに動く何かでしかありませんでした。到底貴方様に比肩する存在とは思えませんでした。」
「そりゃそうだろうね。あの天使だ大天使だと言われているのは、鹿子木と同じく”我々の世界”の天使達の単なるアバターなのだからね。」
「”我々の世界”・・・ですか。」
「そうさ、”我々の世界”だね。」
その後に、先代様は無造作に幾つかの書物の封印を引き千切り、内容をパラパラと検めたかと思うと、こちらに投げて寄越したのです。
「この二冊が件のスピノザとデカルトの書物だね。これを読んでヒステリーを起こしたりするんじゃないよ。この書物は確かに禁書だね。異世界の哲学なり倫理学が書かれた本なのだから。そして、これこそが人間の想像する”合理的な神”の姿を記した書物なんだよ。」
「合理的な神とは、それは一体どの様なものなのでしょうか?」儂は疑問に思いましたので、質問してみました。
「”我々の世界”では、誰も神の姿を見た事はないし、明白に神の声を聞いたのは、先に言うた一人の天使しかおらぬのよ。じゃからの、神を概念上の存在としか誰も考えておらぬ。故に、神学とか言う、神や天使や悪魔、様々な地獄や天国その他の世界を考える学問が流行したのじゃ。」
「はい。」儂と姫様は同時に応えたのです。
「我々の世界の魔術師などは、天使も悪魔も人間がイメージする故に発生する量子論的な代物であると言っておるな。暗在系つまり感じるだけの存在でしかないとな。」
「うう・・・儂の知識では及ばぬ考察であると言う事ですな。」
「理解のための系統だった知識がこの世界にはありませぬからな。賢者殿の知識が足りないせいではございませぬよ。それにしても、人間達の誤解も仕方あるまいと言うところでしょうか。我等天使にせよ悪魔にせよ、人間達にコンタクトの方法をわかりにくく教えたに過ぎぬ訳で。それに加えて、人間達が自分達の権威の為に様々な伝承を追加したおかげで、小難しい上に役に立たぬ方法だけが残っておる始末じゃ。今や人間達の内でも、最も迷信深い連中以外は我等天使や彼等悪魔の実在を信じてはおらぬでしょうな。」
「ところが、そんな人間達の思惑や想像とは違って貴方様がたは実在しておられると言う事ですか?」姫様が聞かれました。
「まあね。ひっそりと人間達の中で暮らしていたね。まあ、大体の連中はそうしていたよ。人間のふりをしていた。何しろ、人間そっくりに我等は創られた訳じゃからな。とんでもない奇行さえしなければ、どうって事なかった故にね。」
「この世界で死に属する魔術師が放っておる、あの悪魔や悪魔王どもについては如何な考えなのでしょうか。」儂は聞いてみましたのじゃ。
「あれくらいに分かりやすい悪魔なら、誰も困りはせぬからでしょうな。あれもアバターと言う代物でしょう。現実の悪魔達は、我等同様に人間と見分けのつかない外見を備え、別段の人間達に対する敵意を持ってもおりませぬな。むしろ、善なる人間を愛する傾向すら見受けられますよ。」
「それのどこが悪魔なのでしょうか?」儂は驚きました。
「そこはそれ。あ奴等に対して”復讐”を企てたら・・・何等かの理由で徹底的に怒らせたら。その者もその者の仲間も一巻の終わりとなります。その際には、あ奴等は決して手抜きはしない。その為の殺しならば、あ奴等は熱心かつ徹底的に行いますが、それはそれは凄惨な光景となります。」
「まさに悪魔の所業と言うものでしょうな。」先代様は苦い笑いを浮かべました。
「敵に回すと恐ろしい存在と言う事ですか。」
「左様。想像を絶する恐るべき存在ですな。ありがたい事に、彼等と我等は往々にして協力し合っておるのですが。」
「天使と悪魔は敵ではないと?」姫様も驚いておられます。
「別に敵対する理由もないからの。それは我等と彼等が人間達に敵意を持っておらぬのと同じ理由じゃよ。何しろ、我等も彼等も人間の作り上げた世界の中で間借りしておるのじゃし、双方が善良な人間達と友好的なコミュニティを作っておれば、それは当然の事として、人間達を愛する理由になると思うのじゃよ。」
「先程申しておった”神の声”を聞いた最も古い天使にせよ、人間と結婚して子供を二人設けておる訳での。それは幸せな結婚生活であるようじゃ。」
「それは堕天したと言う事なのでしょうか?」真面目な姫様は驚いておられるな。
「ああ、我の話をもう少し深く聞いておれば、我等が天国から来た存在ではないと納得できていたと思うよ。我等も彼等も天国や地獄から来たのではない。地上に棲む生命なのじゃよ。当たり前の人間としての幸福を求めて何が悪いのかと言うところじゃ。」
「随分伝承と違う事を聞かされて、頭が遠くなる様な気がしますわい。」儂としてもお手上げと言う気持ちになりましたわい。
「気が遠くなるの間違いでしょうな。我としては、今回伝えた事は、今後の基礎知識と言う事でお伝えしたまでの事。必要でしょうからな・・・今後の為に。」
「わたくしには一部が理解できました。」そう姫様が言葉を発せられました。
「何を理解できたのじゃえ?」先代様は笑っておられます。
「レンジョウ様をこの世界に送り込んで来たのは、あの方の世界の天使であるか、悪魔であるか、そう言う超常的な力の持ち主なのですね?」
「ふむ・・・。まあ、あの世界の科学力でも、誰かを情報に還元して転送を行う事などできるレベルには達しておらぬからの。そう考えるのが普通かも知れないね。」
「わたくしの考えは間違っていると言う事ですか?」
「半分は正しいが、もう半分は違うね。今はそうとだけ言っておこうか。」先代様は思案の末にそうとだけ言葉になさいましたな。
「それは明かせない秘密と言う事なのでしょうか?」姫様は諦めきれないご様子ですな。
「そうだね。今はその時ではない。しかし、時が来ればわかるだろうよ。あるいは、その時さえも迎えられずに全てが失敗するかも知れないが。」
「”その時”が来れば・・・ですかな?”その時”には姫様にも事情が理解できると言う事でしょうか?」
「・・・・・。そうじゃな。そして、賢者殿の言いたい事もわかっておるよ。アリエル姫が、その時を知りえる様になっておるかを知りたいのじゃろう。」
「左様ですな。」儂の知りたいところはそこでした。
このまま、もしもレンジョウ殿がこの世界を去るのだとして。
本を閉じられる様に、姫様が思い出の中だけに残るのだとしたら、あまりに不憫でしたのじゃ。
二度と、二人が手を取り合う未来がなくなってしまったらと思うと、儂の胸は張り裂けそうに痛んでしまうのです。
「その未来も・・・あるだろうさ。けれど、約束はできない。全ては蓮條主税と鹿子木誠人、シーナ・ケンジントンの働きにかかっている。後は、あの二人、特に六番目の働きにもね。」
「六番目ですか?それはどなたの事なのでしょう?」儂には暗号や符丁は理解できませんのじゃ。
「賢者殿は、六番目に既に会っておるよ。この塔の中で。それ以上は明かせないね。」
この塔の中で・・・あの娘の事か!あの・・・。
心の中がパッと明るくなる。あの、生命力の結晶の様な可愛い娘が・・・レンジョウ殿と共に働いてくれるのか。
「そうでありましたか。あの娘も、レンジョウ殿と同じ存在でありましたか。」
「ふふん、賢者殿は思い当たられた様子ですな。後は我等にできる事は、蓮條主税とその一行が遠征を終えるまでに、更に知識を増やしておく事と言う事でよろしいでしょう。賢者殿、その二冊についてはしっかり読んでおいて下さいな。残りは後4冊、それらの内容は我が検めておきまする。」
「はい、しっかり読み込みまする。」
「アリエル姫もですよ。アリエル姫は幾何学が好きなのだろう?」
「はい、学問全般が好きです。」
「それなのに、修辞学は0点なんだからね。世の中はままならないね。」
「・・・・。レンジョウ様からは、それでわたくしが作り物なのだと言われておりまする。」
「悪魔の中には、変り者も居てね。”我は人の生き血を啜って生きておる。”と息巻く輩がおるのよ。」
「それは・・・真に悪魔らしい姿に思えるのですが?」姫様はそう言いました。
「いやさ、その男は書物に書かれた言葉は、文字の羅列ではなく、著者の温かい生き血であると言っておった訳なのさ。怠惰で偏屈で、その癖に洒落者での。四六時中本に噛り付いておる様な男であるよ。」先代様の口調には、随分と好意的な響きがありましたな。
「はっはっは!そのお方とはお話が合いそうですな。」儂は嬉しくなりましたわい。
「まあ、あ奴の機嫌が良い時ならば、どんな話題にでも乗って来るでしょうな。ただし、あ奴の気が済むまで開放して貰えないでしょうがね。」
「そして、そんな男が、恐るべき魔力と魔法を備えており、剣術もその方面の達者を凌ぐ腕前を備えておるのじゃからのう。」
「世の中はままならないとしか言えぬわな。」幾分、先代様はそのお方に対して複雑な気持ちを抱いておられるのですな。
「さて、そろそろ我も仕事に取り掛かる事にするよ。今日はこれでお開きとしようではないか。」
「はい、ありがとうございました。この本はザルドロンと二人で読んでみます。」
「そのスピノザの著作は、幾何学の証明の方法論で神を論じておるのじゃ。興味深いものじゃと思うぞ。」
「儂の方は、姫様と修辞の方法論を論じ合おうと思いますのじゃ。そのお方のお眼鏡に適う様な文章を・・・。そうですな、儂は書物を読んで知識にしても、今までに自分なりの書物を書こうと思った事はなかったのです。姫様のために役立つ報告と分析を行うだけで。しかし、今後は儂も人の生き血を啜る悪魔の様な賢者となってみようかと思いまする。」
「ほほほ。それはそれは楽しみな事ですな。」
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不意に肩に手が置かれた・・・。
「どうした、何か我の顔に面白い事が書かれていたか?」
「そんな事はないです!あんたの顔を見ても面白い事なんか一つもないですから!」
「その明け透けな物言いは痛く癇に障るな。それで、我の何がそんなに面白いのか?」
「彼女が君の事を、アリエルとザルドロンに話していたのさ。」
横からヴァスがそう言う。とても真面目な顔で。
「我の事をあ奴はなんと申しておったのかな?」
「”人の生き血を啜って生きている悪魔らしい悪魔”だとさ。いや、単に君の活字中毒を気取って表現しただけの事なんだけどね。」
「毎度余計な事を申す女であるな!」
「と言いながら、君は彼女とは古い付き合いだよね。同じく”月の者ども”でもあるのだし。」
「まあ、それは良い。それよりも、計画のとおりに進んでおるのか?」
「五番目が精神不安定になっているのが心配だね。多分、本体からのフィードバックのせいだろう。この先、あの状態の本体と平準化されてしまうと、それはそれで困った事になりそうだけどね。」
「お前はそれを深刻に受け止めているか?」疑わしい顔で睨まれた。
「いや・・・。蓮條が傍に居るんだ。彼ならやり抜く事だろうさ。」
「次の分岐点は、当然フルバートの地下で起きるのだろうな。」
「いや、そうでもないようだね。ほら、六番目の影響なのだろうけど、新しい分岐ができている。もちろん、”正解”に収束してはいる。」
「五番目本体は今どうしている?」
「鍍金工場で例の死体を処理する様に手先の者に指示からは、他の手先の者どもに細かい指示を繰り返してるね。できる女さ。」
「殺人・・・あの業界では”濡れ仕事”と言うのか?それを指示したのは誰だ?」
「彼女の上司だそうですね。」
「彼も”月の者ども”なのだったな。まあ、残念な奴だ。不要な事はさせなくて良いだろうに。」
「それと、件の余計な事を言う彼女のおかげで進行は捗っているよ。実際、鹿子木君が予定の通りに来たとしても、もしかすると数時間の遅れはありえたんだ。そして、何よりアリエルの方が思ったよりも良い感じで出来上がっている。」
「予定の通りでなくて良いのか?早過ぎても困ると言う事はないのか?」
「そこまでパラノイックにならなくて良いだろうさ。余りや不足は許容するしかないのだし。」
「あの女が混ぜっ返してしまう可能性も考慮すべきだな。」
「と言いながら、君は知っているんだ。彼女の仕事が常に完璧だと言う事をね。」
「・・・・・・。」
「こっちの準備も終わったよ。あの世界は平面世界だからね。あそこまで大きいモノを仕込むのには苦労したけど。それでも終わったから。」サエが管制室に入るなり、皆にそう告げた。
「じゃあ、後は釣り糸を垂れて待つばかりと言う事だね。」
「だから、君はその間の間は、存分に人の熱い血潮を啜ってて欲しいな。でも、さっきから読んでる四冊の本。もしかして、コミックなのかな?」
「何を言うか?」男は真剣に怒った顔をしている。
「うん?体裁と言い、本の厚さや形と言い、そうにしか見えないんだけどね。」
「いや、まあそのとおりだが。」彼が見せたコミックは、題材がデュマのモンテクリスト伯だった。
「へぇ・・・コミックにせよ、君はそう言う文学系しか読まないんだな。」とヴァスは言う。
しかし、横でそのやり取りを見ていたサエは、その巌窟王のコミカライズを行った作者が、”彼自身”を題材として、三冊の恋愛物を執筆しているのを知っていた。
”その事はヴァスにも黙っておこう。また決闘騒ぎになったら大事だし。”
そう考えるサエは賢い、不要な諍い事を嫌う女でもあった。
真に善なる者とは、要らない事を口にしない者でもあるのだ。