出オチ
どうも背中が痛い。瞼も開けず、起きぬけにぼんやりとそう思った。ツンと鼻をつく臭いが辺り一面に漂っている。嗅いだことのある臭いだ。随分と懐かしいような気もする。
ようやく思い当った。この臭いは草の臭いだ。どの植物から出ているのか知らないが、そこらへんの草に寝転がったり鼻を近づけた時に感じる青臭いあの臭いだ。子供の頃きっと誰もが何度も嗅いだことがあるあの臭い。
そう考えると背中の感触も納得がいく。だってここはおそらく地べたなのだ。草を下敷きにして、更にその下にあるゴツゴツとした砂利が背中を攻撃しているのだろう。そりゃあ痛いはずだ。
接着剤でもついているのか、重たい瞼を必死に開けるのに悪戦苦闘すること一分。
ようやく開いた俺の濁った眼に飛び込んできたのは、むかつくほど雲ひとつない澄んだ青空と、憎らしいほどに眩い太陽だった。
「あぁ゛……」
気の抜けた低い声が漏れ出た。二度寝したいところだが、太陽の位置的に多分もう昼だ。小腹が空いた。
重い腰を持ち上げる。ほんの数秒視界が揺らめいた。低血圧特有のいつもの寝起き。何度かよろめいた後、身体を安定させる。
何年ぶりだろうか、こんな外で寝転がるなんてことは。記憶を辿ってみるが答えには辿りつかない。
思考能力が起床し始めた。そもそもここはどこなのか。首を地平へと向けると辺り1面の草原。遠くには入るのも嫌になりそうなうっそうとした森と高く連なった山。
誰もいないが苦笑いを浮かべた。嫌な予感がするというよりも既にこの状況が嫌だ。周りには文明のぶの字もない。生まれた時からインドア派の俺にキャンプでもしろというのか。テントすらないのに。
同時に、既視感はないが、見たことはある気がした。こういう状況を。現実としてはないが、フィクションとしてはある。映像としてはないが、文字としては見たことがある。俺がよく使うサイトで。
だっておかしい。昨日は午前3時に暖かい家の布団で寝たんだ。こんなところで寝た覚えはない。寝ている間に秘密裏に運ばれたという可能性もなくはないが、俺は芸人ではないし素人をこんなところに放置するテレビ番組があるとは思えない。
俺がよく知っているアレだとしたら、こういう説明も何もない始まり方の場合は大体次に何か出るんだ。何か現実にはいなさそうな何かが。それがテンプレートなんだ。
そうそう、こんな風に森の奥に赤い瞳が見えたかと思うと、獰猛な唸り声を上げて、一目散にこちらに向かってくるんだ。オークだかオーガだかサイクロプスだかゴブリンだか、そんな方に初めてであったりするんだ。ああ、こういう黒い狼みたいな未知の獣みたいなパターンもあるな。
律儀に一定の距離で立ち止まって、「グルルルァァ!!」とこんな風に自分の存在を誇示するかのように大きくもう一度吠えるんだ。そこで主人公は戦ったり逃げたりしているうちに、何か不思議な魔法的なものが使えることに気づいて物語が始まったりするんだ。うん。
問題は――これが今、目の前で起きていることだ。
大体こういう場合主人公っていうのは、戦うか逃げるかのどっちかだ。戦えることが分かってたら戦うし、分かってない状態であれば逃げる。
だが俺はどちらも出来ない。だってこれは現実で、足が震えて動かない。声だって相手の迫力に押されて出やしない。履いているダボダボのズボンの中は汗でびっしょりだ。
何の意味があるのか、じりじりと距離を詰めてくる。一気に飛びかかられたらその時点でゲームオーバーだろうに。
動けないならば動けないなりに出来ることは、ないな。強く祈るだけだ。何か不思議な力で何とかなったりしないだろうか、獣臭い相手がいきなり興味を失ったり、絶命したり、どこかに飛んでいったり、燃えたり、凍ったり――した。
目の前の狼もどきは効果音もなく凍った。後ろ足から発生したその氷は、蝕むように瞬く間に身体を侵食していき、秒に届かないほどの速度で氷の彫刻に変えてしまった。
おそるおそる近付いて生物だったものを触ってみるが、まるで時が止まったかのように目を見開いたままピクリとも動かない。手が張り付くほど冷たいその氷は確かに触ったら溶ける。間違いなく氷だ。
ここでの主人公の心中は未知の力にワクワクし、まず自分の力がどういうものなのかそこらへんで試したりするだろう。
だが、実際にこうなってみるとかなり怖い。思っただけで目の前の生物が凍ったのだ。狼どころか犬も殺したことはないのに、いきなり目の前にこの現状を突きつけられると恐ろしくなる。少なくとも試そうなんて気にはならない。
特別ここでは悪いことではないのかもしれないが、少し経つと罪悪感が芽生えてきた。
きょろきょろと周囲を見渡したが他に人の影はない。その事実に安堵した。まるで自分が悪いことをしたような気がしてくる。
一刻も早くこの場を離れたくて、そそくさと森の中へ逃げるように入った。
唯一俺が他の物語の主人公たちと同じく抱いたのは、別の世界に来てしまったんだという虚しい実感だけだった。
森の中に入ってどれくらい経ったかは分からない。10分か20分か多分それくらいだ。もう既に嫌になっている。まず虫が多い。道もない。ハイキングなどしたことがない俺には既にきつい。
こういう場合は大体、森を何時間か歩くと街が見えてきたとか、そういうところから物語は続くのであって、何のイベントもないならば森を一々描写したりしない。略して書くものだ。
俺が書く場合だってそうだ。俺は素人ではあるけども物語は読むし、自分で書いたこともある。自分で書いた時は「夕暮れになるまで道なき道を彷徨い、ようやく街が見えてきた」くらいだった気がする。文章量にすれば1行くらいのあっさりとしたものだ。
だが現実だとそうは行かない。時間の流れは何時だって平等だ。すっ飛ばして次の場面に行ったりはしない。
現代人が夜になるまでこんな森を歩き続けられるわけがない。自分で書いた時の主人公はバリバリのアウトドア派で、ポジティブシンキングの塊みたいなやつだったから出来なくはないかもしれないが、今の自分には無理難題だと言わざるを得ない。
どれだけ歩いたって終わりは見えない。方向が合ってるのかだって分かりはしない。今は太陽がある方へ歩いているだけだ。さきほどまでと違って少し太陽は傾いている。つまりそちらが西だ。暗くなることを考えると、東に進むよりは西に進んだ方が日照時間はまだ長いはずだ。というのを自分で物語に書いたことを思い出したので、そちらに歩いている。ただ、それは物語だからそちらに街があるのであって、実際にこういう状況で正しいのかは分からない。
街に行ったところで言語が通じるのかという問題はあるが、こういうのは大抵不思議な力で何とかなるものだ。俺が書いた時も、言語の問題は主題ではないから最初から通じるように設定していた。仮にそうでなくても人型であれば最悪ジェスチャーでなんとかなるはずだ。
パーカーが一々木の枝に引っかかるのがうっとおしい。何でこの服を着て来たのかと思ったが、何でもクソもない。来たくて来たわけじゃない。
虫も見たことありそうなのもいるし、絶対地球にはいないなという生物もいる。蛇もいるし蜘蛛もいる。最悪の環境だ。
とりあえずパーカーを被った。肌の露出は少ない方が良い。刺されたりかぶれるのが怖い。
腹が減ってきた。かといって食べるものは何もない。そこらへんの木に都合良く果物が成ったりはしていない。成っていても食べないが。何か分からないものを口にする勇気はない。
休みたいが休めない。止まる場所がない。ベンチになるようなありがちな切り株はないし、止まるスペースもない。こんなところで座って休もうものなら、草や地から俺の顔めがけて虫が這い寄ってくるに違いない。想像しただけで鳥肌が立つ。
足が、でかい蜘蛛の巣を突き破った。巣の主はそのまま俺のズボンに張り付いて、わさわさと這い上がってくる。これまたデカイ、タランチュラを思わせるフォルムだ。本当に嫌だやめろ。諦めろ無駄だから諦めろって。本当に止めてくれ。
半分パニックになりながら咄嗟に凍れと念じると、狼と同じように為すすべなく凍って地面へと落下した。
不思議なもので、大型の動物じゃない虫や蜘蛛に対しては罪悪感は芽生えない。助かったという安堵感しか湧いてこない。冷静に考えれば、たかが10cm程度の蜘蛛に、1m70近い人間が怯えるというのはおかしな話なのだが、怖いものは怖い。
相変わらず能力を試したいという気持ちは出てこない。今は自分の能力に対する恐怖よりも、このペースで行くと野宿になってしまう焦燥感の方が強い。一刻も早く文明を見つけないといけない。仮に野外で寝るにしても街なり村なりの中の方が遥かにマシだ。気温は暖かいので外で寝れないことはない。
ブーンとした羽音が無限に聞こえる。蠅がそこら中にいて本当に鬱陶しい。周りで飛んでるだけならまだしも、顔にダイレクトアタックしてくるのは本当に止めてほしい。たまにそのまま潰れてくことだってある。その度に手で残骸を顔から払うが、手を洗う場所もないので液体が付きっぱなしだ。もう見たくもない。
草から虫が飛び移ってくるのも勘弁してほしい。これがひざ丈程度の草ならば足を振るだけで払えるものを、たまに首元の高さに来る草から飛び移ってくると、顔面から胸にかけて入ってきてしまう。5回くらい服の中に入ってきて、脱ぐわけにもいかないので内部で潰したのが何匹かいる。
嫌なことがありすぎて、ももの裏に蕁麻疹が出て痒い。いっそのことガソリンを撒いてこの忌々しい森を焼いてしまいたいくらいだ。
延々と変わり映えしない風景の森を歩いている。本当に進んでいるのか疑わしくなってくる。水辺すらない。
食料はともかく、最悪水は氷を生成して食べていればいいので、そこだけは安心している。ただ、人は水だけで一カ月生きられるというが、この状態だとその前に発狂して死ぬだろう。三国志によく出てくるが、どうやって死ぬのか分からない憤死が今の状態が続くと出来そうだ。そんな死に方はまっぴらごめんだが。
太陽の陽は前回見た時よりも傾いている。これだけが時間が経過していることを確認できる唯一の手段だ。
ここに来るまでに2回ほど何かの糞を踏んだ。感触はべチャだ。踏んだ瞬間に察せる感触だ。ちょっと鼻を下に向けただけで分かる臭いだ。人生で今までこんな経験はない。元からないやる気ゲージがどんどんマイナスに振りきれていく。
しかも踏んだ瞬間から蠅が増えた。二重苦三重苦ふんだりけったりだ。もう靴の裏を見る気力もない。
なんで俺がこんな目に合わなきゃいけないんだ。やり場のない怒りがこみ上げてくる。勢いよく木に拳をうちつけた。
ここで話は変わるが、木の表面というのは案外堅いし、綺麗な肌はほとんどしていない。ざらざらでこぼこの木が多い。
そんなところにもやしっ子の俺が拳をうちつけたところで、ダメージを負うのは拳だけだ。しかも表面のおかげで少し皮膚が裂けた。まあまあ痛い。ここから破傷風にでもなったらどうしようか。ばんそうこうなど持ち合わせていない。ここにまともな医療技術などあるのだろうか。シャーマンが祈祷して終わりじゃないのか。
いや、ここで自暴自棄になってはいけないと自分を戒める。楽しいことを考えよう。考えても見れば俺が今持っている能力は多分珍しいはずだ。それが物語のお決まりのパターンのはずだ。
もしこんな能力を持っている人間がちまたに溢れていたら、この世界はルール無用の荒廃した戦争の絶えない世界になっているはずだ。社会などきっと成り立たないだろう。
つまり街に着けばきっとこれを生かして、楽なバラ色のパラダイスが待っているはずだ。そう考えると少しやる気が湧いてくる。
空を見上げた、木々の隙間から零れ出る顔を覗かせる木漏れ日は美しい。拳を強く握り俄然やる気が出てきた――ところにプーンと羽音がしたかと思うと、腕にかすかな感触。痛くはないが腕が痒い。
「刺された……」
俺はアレルギー体質なので、普段蚊に刺されるとちょっとした石くらい腫れあがる。病院にいって薬でも貰わないと2週間は腫れっぱなしだ。間違いなく現代より不衛生な環境でそんなものがあるわけがない。
風船のように俺のやる気は破裂して霧散した。
「絶対元の世界に帰ってやる……」
怨嗟の念を込めたその言葉は、誰の耳にも届かずに深い森の中へ消えて行った。森はまだ終わりが見えない――。