第五十三話
長らく更新が止まってしまい、申し訳ありませんでした。
体調不良で寝込んでおりましたが、無事復活できました。
残暑が厳しいですので、皆さんも体調管理に気を付けてください。
道の先には門があった。山門と同じような形だが、施されている彫刻はより複雑で繊細だった。門を見上げて目を閉じ、深呼吸する。目を開いて、静かに足を踏み入れた。
そこは故郷の森だった。深緑がまぶしい。目の前には泉があり、清らかな水が絶えることなく湧き出していた。その水を汲み上げている女性の姿に、ファリィラは息をのんで立ち尽くした。
「何をぼうっとしているの。早くあなたもやりなさい」
振り返った青銀の瞳は険しかった。いけない、こんなことでは一人前のヴァーユールになれない。慌てて作法に則り水を汲む。この水は夏至の祝祭に使うもの、おろそかにはできない。
心をこめて水を容器に移して運ぶさなかも、隣の女性が気になった。
「お母様……」
そんなはずはない、彼女はもう死んだと心の内で思うが、幻や霊魂の類ではない生き生きとした母の姿に胸が熱くなった。
夢だったのではないか。途方もない悪夢にうなされていただけで、ずっとユーカナンにいて、母とヴァーユールとして生きているのではないか。自分は何と愚かしい夢に囚われていたのだろう。
そう思いながらもどこかで納得できないでいた。何かが違うと必死に訴えるものがあった。
「どうしたの? 具合でも悪いの?」
浮かない顔で見つめていたのだろう、心配そうにのぞき込まれてしまった。
「いいえ、大丈夫です」
笑顔で取り繕い、家路を急いだ。違和感など、どうでもよくなっていた。
家に帰り、水を置いて、乾燥させた香草を束ねていると、玄関が乱暴に叩かれた。誰かと思えば近所の叔父さんだった。
「どうしたのですか?」
扉をを開けると、息を切らせた叔父さんが大声で伝えた。
「ヴァーユール・マハラ・セーレイ。逃げてください、民衆の暴動が! じきにここまで来ます、早く!」
その言葉にファリィラは凍りついた。心臓が早鐘を打ち、口の中がカラカラになった。
「わたくしはここに残ります。あなた方は巻き込まれないようにお逃げなさい」
そう言いながら階段を下りてくる母の姿はいつも通り美しかった。ヴァーユールの白いドレスが風に揺れている様も変わりない。
「ファリィラ、あなたも叔父さんと一緒に行きなさい」
そう言われてはっとした。そう、この時自分は言われるがままに叔父さんと家を出たものの、母の様子が気になって戻ったところで、男達に痛めつけられている母を見つけたのだ。
「いいえ、行きません」
目を見開いている叔父さんの手を振り払って、母のもとに駆け寄った。
「私もここに残ります。叔父さん、気を付けて」
何か言いたそうに口を開き、しかし何も言わずに一礼して彼は去って行った。
「いいのですね?」
母に確認されて頷いた。ファリィラの目に宿る決意を見て、一瞬、マハラは悲しそうな顔をしたが、それ以上は言わずに娘を促して庭に出た。
石壁に這わせたつるバラの白い花を眺めていると、どやどやと男共がやってきた。棒切れや鎌などの武器らしきものを持っている男もちらほら見えた。
「何事ですか? こんな気持ちの良い午後を騒がせてはいけませんよ」
優雅に微笑む母を口々にののしる暴徒達。
ファリィラは母の後ろで冷静に男達を観察していた。気道士は一人もいない。やれる、そう思った。
門が壊されて、男達がなだれ込んできた。
充分に引き付けてから、呪導を放った。今まさに母に掴みかかろうとしていた男は、吹っ飛んで門柱に叩きつけられた。他の男達も次々に刃を持つ突風に襲われ、なぎ倒されていった。
瞬く間に暴徒を返り討ちにして、ファリィラは心の中で快哉を叫んだ。最初からこうすればよかったのだ。苦い後悔を抱えながら異郷で悶々と暮らしていたのが馬鹿みたいだ。
「お母様! もう安心です。暴徒は皆打ち払いました。これで……」
張り倒されて最後まで言えなかった。茫然と母を見上げる。
「お前は自分のしたことが分かっているのですか! ヴァーユールが力無き人々を呪導によって打ち倒すなど、あってはならないことです。このうつけ者、お前にはヴァーユールを名乗る資格など無い、もう私の娘でもない、出て行きなさい!」
そう言い捨てて、怪我人の手当てを始めた。彼らが起き出せば、また襲われるかもしれないのに。
ファリィラは手当てを続ける母を眺めていた。気付けば一筋、涙が零れていた。
「お母様、私のしたことはそんなに悪いことですか? あなたがあのまま襲われていればどうなったか分かりますか? ボロボロに打ちのめされて、火炙りにされるのですよ。私にそれを我慢して見ていろと、そう言うのですか? 愛する者を凶行から守りたいと思い行動することより、形骸化した掟を守ることの方が尊いのですか?」
マハラが手を止めてこちらを向いた。
「形骸化した掟。あなたはそう思いますか、ファリィラ。ならばあなたは、ヴァーユールではない」
ファリィラは家を飛び出した。
訳も分からず闇雲に走って、泉まで来てしまった。湧き出す柔らかな水の音と、葉ずれの音が夕闇に溶けていく。畔の木に背を預けて泣いた。
分かっていたことだ、母はヴァーユールであることに誇りを持っていた。決して掟を破らないし、破ることも許さない。それが彼女の生き方だった、認めなければならない。けれど、認めるのは辛すぎた。失われるもの、そこから続く喪失の日々を思うと涙が止まらなかった。
泣き疲れて眠り、肌寒さに目が覚めた。泉は静かに清水を湛え、夜明けの気配を漂わせていた。
顔を洗って気分をすっきりさせると、母のことが気になった。胸騒ぎがして、急いで家に戻った。
家は荒れ果てていた。庭は踏み荒らされ、扉や窓も打ち壊されていた。建物に人気が一切ないことを確認すると、一目散に街の中心の広場を目指した。
広場には、早朝にもかかわらず結構な人垣が出来ていた。その中心で得意気に演説している男に見覚えがあった。
「通して下さい! どいて!」
人垣を無理矢理押しのけながら最前列に出た。目の前には変わり果てた姿の母がいた。
「お母様!」
駈け寄って治癒を施す。虚ろだったマハラの目に光が戻った。
「こいつ、娘か!」
掴みかかってきた男の手を払いのけて突き飛ばす。呪源を引き寄せ、男を切り刻んでやりたい衝動に駆られたが、母をこれ以上悲しませるのはやめようと思い、何とか止まった。
振り返って磔台から母を下ろし、抱きしめた。
「何故、戻ってきたのですか。あのまま逃げていればよかったものを」
あなた一人なら逃げられたでしょうと頭を撫でられたが、ファリィラはしがみついて首を横に振った。
「お母様、死なないで。掟とか、そんなことどうでもいい。ヴァーユールになれなくてもいい。生きて、そばにいて。こんなこと、酷過ぎる。許せない」
必死にしがみついてくる我が子を抱きしめたマハラの頬を涙が伝った。
「優しい子ね、可愛いファーリィ。それでもわたくしは、人を呪導で傷つけることは認められないわ。それを禁じているのは、かつてわたくし達の祖先が犯した罪に対する罰よ。
呪導をもって人を滅ぼそうとした罪。その贖罪の為の掟なのよ。守らなければならない、例え命を奪われようとも」
抱きしめる腕に力がこもった。それは分かっている。だが、罪を犯したのは母ではない。清く正しく生きた彼女に、殺されなければならない罪など何一つ存在しない。
「でも、あなたにまで押しつけることはもうしません。自由に生きなさい。あなたなら何があっても、祖先のように人を恨んで滅ぼすようなことはないと信じています。あなたが自由を得られたのなら、それは長い贖罪の日々が終わったということなのでしょう」
だから、もう行きなさい。
ゆっくりと腕が解かれて母の体が離れた。
「お母様、ごめんなさい。私の方こそあなたを誤解していました。頑なで愚かだと蔑み、行き場のない怒りを世に向けていました。どうか、許してください」
マハラは最後に娘の髪を撫でた。
「いいのですよ。本当は全て分かっていたのでしょう? それでも何か他の答えを探さずにはいられないほどに傷ついていたのね。でも、それもこれで終わり、これからはあなたの信じる道を胸を張って進みなさい。
……長い間、辛い思いをさせてしまったわね。不出来な母親でごめんね、ファーリィ」
涙に濡れた母の顔は、それでも美しかった。
「不出来なんて。あなたは私の誇りです。気高いヴァーユール、その全てを体現したようなあなたのように」
なりたいのです、と言おうとしたが急速に意識が薄れていった。
小部屋に倒れているファリィラを魔狼が鼻先でつつく。うぅん、と小さく呻いて起き上ったファリィラは、間近にあった獣の牙に卒倒しそうになった。
何とか悲鳴をこらえて部屋を見渡すと、一か所だけで入口らしき空間が開いていた。
「ええと、あそこに向かえばいいのかしら?」
目をこすって涙の跡を消し、出口に向かった。




