第四十一話
翌日からしばらくは、平穏な日々が続いた。ベルゲと話をしたり、マルガやケマン村の少女と畑の世話をしたり、春の野原に野草を摘みに行ったりといった他愛もない日常に、霊峰のこともしばし忘れた。
同じ年のマルガとは呪導の話もしたが、何よりリュオクのことを聞かれた。
「ねえねえ、ずっと二人きりで旅してきたんでしょ?」
「いいえ、他の方と同伴することも多かったですよ」
なんだぁとがっかりするマルガを不思議な気持ちで眺めた。高原に来てから何か勘違いされている気がしないでもないが、ファリィラとリュオクが恋人同士に見えるのなら、その人は欲求不満がたまりすぎだと思うくらい、二人の間には色気も惚気も存在していないという自覚があった。
「誤解されているようなので言っておきますが、彼とは何でもないですよ」
「えぇー」
すごくつまらなそうな声を出されたので、笑ってしまった。
「面白い話題を提供できなくて申し訳ありません」
マルガは全くだと憤慨した。
「期待してたのに! 素敵な恋話を!」
それは絶対に無理だろうと笑顔が引きつったファリィラの脳裏に、意地悪げにニヤつくリュオクの顔が浮かんだ。
ある日、ベルゲに呼ばれて部屋に行くと、神妙な顔をした老婆がちょこんと座っていた。
「ああ来たかい、おいで」
神妙な顔が消えて、お茶を勧められた。
「マルガと仲良くしてくれてるようで、ありがとうね。あの子も同じ年の子がいないもんだから、友達が出来たと喜んでいたよ」
「そういえばこの村は子供の数が少ないですね」
ファリィラは今更ながら気付いた。
「まあね、血が濃くなりすぎたのさ。あの子は外に出そうかと思ってる。本人も外の世界を見たがっているしね」
「それでいいのですか?」
白耀の村は母系社会である。長女のマルガは婿を取って家を継ぐ必要があるはずだ。
「いいさ。本人の生きたいように生きればいい」
静かに茶をすすった。
「あんたもだよ。自分を殺して生きるのは愚かなことだ」
ファリィラは息が詰まった。ベルゲの目は、全てを見透かすようだった。
「訳があってこんな所まで来たんだろう。霊峰を目指さねばならんような深い理由が。あんた時々悩んでるようだからね、良かったらお話し」
嫌ならいいんだよ、と優しく促された。
ファリィラは話そうとしたが、唇が震え、声が詰まって一言も出てこない。ベルゲは茶をすすりながらファリィラの言葉を待っていた。
どれくらい時間が経ったか、掌に汗を握るほどに緊張したまま話し出した。
「まずベルゲ様に謝らなければなりません。私は確かにユーカナンのヴァーユールの血筋に生まれましたが、放逐された身です。正式にヴァーユールを名乗る前に故郷を出て、一度も帰っていません。北の姉妹ではないのです」
ベルゲはそうかいと言っただけで、また茶をすすった。
「五年前、十三になる手前でした。些細なことからヴァーユールへの非難が高まり、それが暴動にまでなって、ヴァーユール達が私刑を受けました。当時、首長を務めていた母は諸悪の根源として狩り出され、暴行の果てに火炙りにされました」
ベルゲの表情が険しくなった。だが、先を促すだけだった。
「抵抗しようと思えばいくらでもできたのです。でも、多くのヴァーユール達は無抵抗に暴力を受け、大怪我をし、命を落とした者も少なくなかった凄惨な事件でした。
いかなる理由があっても害意を持って呪導を人に向けてはならず、呪導で人を傷つけてはならない、この掟を守って誰も呪導を振るわなかった。……ただ一人を除いては」
ファリィラの頬を涙が伝った。
「そのただ一人が私です。母を虐げる男達が許せなくて、呪導で薙ぎ払いました」
そのせいで男達の憎悪はより一層強くなり、ファリィラも暴行を受け、火炙りにされるところだった。
「その時に母に言われたのです。掟破りの愚か者、お前にヴァーユールになる資格などない。お前はもう私の娘ではない、と」
その後は嗚咽がもれるばかりで言葉にならなかった。
ベルゲは泣きじゃくるファリィラをきつく抱きしめた。
「辛かったねえ。もういいんだよ、自分を責めるのはおよしなさい」
ひとしきり泣いて、気持ちの落ち着いたファリィラはベルゲの入れた茶を飲んでいた。
「そうかい。それでそんな理不尽な掟が出来たのか、掟を変えられないか、答えを求めてこんな所まで来たと。
掟を変えるのはまた難しい問題だけど、その掟がいつ何故作られたかは、あたしが答えられるよ」
ファリィラはお茶を飲むのを止めて、ベルゲを見た。
「先史文明の崩壊の原因の一つが、呪師による力なき者への暴虐だったからだよ。もちろん直接の原因じゃなくて背景の一つにすぎないけれど、それがあったのは間違いない。その後の混乱の時代は、力の有る無しに関わらず皆が協力して乗り切らなければやっていけなかった。そこで、祖先たちは自分たちを受け入れてくれるのであれば、絶対に力なき者に呪導を振るって傷つけるようなことはしないと誓いを立てたのさ。
それを容れて力無き者は呪師を仇とせず、協力して辛い時代を乗り切った。その誓いは時代を追うごとに薄れていって、今でも強固に守っているのは北の姉妹くらいじゃないのかね?」
ファリィラは湯呑みに視線を落したまま呟いた。
「だとしたらそれを破った私は、ヴァーユールを名乗る資格はないですね」
そんな大事な誓いであるとは思っていなかった。呪導が脅威でないことを喧伝するために作ったのだろうと考えていた。うなだれるファリィラに
「いやさすがに暴力を振るわれたら抵抗していいよ。そもそも呪師を仇としないというのが対の条件だからね。……長い間に形骸化しちまったんだねえ、可哀相に」
ファリィラは傷つき、死んでいったヴァーユール達の魂の安寧を祈った。
突然、静かな祈りの声を遮ってアマレの声が響いた。
「族長、大変です! 蒼の一族とその周辺の村が、朱の襲撃を受けたと」




