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それから、滝口さんはしばらく加奈のことをじっと見つめていたが、やがて諦めたように一度目を閉じると、すっと視線を窓の方へ戻した。
「ねぇ」
なんとなく居たたまれない気持ちになっていた私は、気付けば、滝口さんに声を掛けていた。彼女の顔が再びこちらを向く。
「なんですか?」
「あ、えっと……」
真っ直ぐな視線を向けられて、私は少したじろいだ。心の中を覗き込まれているような気がして、上手く言葉が出てこない。
「た、滝口さんは……さ。どうしてこの旅行に、私達と一緒に行こうと思ったの?」
それは、私にとってずっと気になっていたことだった。勢いで口にして、すぐに後悔する。これでは、一緒に着いて来て欲しくなかったと取られても仕方がない。かといって取り繕う言葉も見つからず、どうか気を悪くしませんようにと祈りながら、滝口さんの返答を待つ。
「そうですね……」
すると彼女は思案気な表情になる。私はちらりと加奈ちゃんの方を見た。相変わらず視線はスマホの画面に固定されたままだが、手の動きが止まっている。私達の会話にこっそり耳を傾けているのだろう。
「旅行、行ってみたかったからでしょうか?」
「へ?」
返ってきた言葉は、どこかズレていて。意味を掴みかねた私は、思わず反射的に訊き返していた。
「それってどういう意味?」
「正確には体験してみたかった、ですかね? その、友達との旅行――ってものを」
「え……?」
色々突っ込みたいことが多すぎて、私の頭が混乱する。この人はもしかして、友達と旅行をしたという経験が欲しいだけ……? まあ、確かにあまり他に友達がいるような感じではないけれど。……というよりも、そもそもそれ以前に私達と滝口さんは友人関係に当たるのか? よくて知り合い、それも元同級生といううっすらとした繋がりがあってこそだ。仮に彼女がそれを望んでいるとしても、だとしたら彼女は何故、このような態度を取るのだろうか? これでは、折角の楽しい旅行の雰囲気も、水泡に帰すというものだ。
ぐるぐると頭の中で考えを巡らせる私の耳に、加奈ちゃんのボソリとした呟きが入り込んだ。
「友達……?」
やはり加奈ちゃんもそこに引っ掛かったらしい。心なしか眉が顰められている。
「でも、どうして私達に?」
そこもまた気に掛かるところだ。何故そこで、よりにもよって私達に声を掛けることを選んだのか。
「偶々、旅行の話を耳に挟んだんです。それに、いいって言って貰えたから……」
それを聞いて私の頭の中に一つの考えが浮かぶ。もしかして滝口さんは、これまでも何人もの人達にこうして声を掛けてきたのではないかと。そして、恐らくその全てを……。
「みんなは、私が一緒に来ることに反対しませんでした。だから私は来たんです」
まるでそれがごく自然なことのように、あっけらかんと彼女はそう言った。正直、私には彼女のその考えが理解できない。断られなかったから一緒に来る? それはつまり、滝口さんにとって私達の内心なんて眼中にないということ……?
私が様々に悩んでいると、正面の加奈ちゃんがゆっくりと顔を上げた。加奈ちゃんは不可解なものを見るような目で、じっと睨むように滝口さんを見る。
「……普通それで来る?」
「普通というのは分かりません。でも」
――貴方達は頷いたではないか。滝口さんが言外にそう言っているのが分かって、私はそっと目を伏せた。なんというか、この人には私達の知る常識というものは通用しないようだ。空気を読むとか、そういった考えが一切ない。
「確かに、反対はしなかったけどさ」
「でしょう?」
「でも、大体あの時だって……!」
言いかけて、加奈ちゃんは咄嗟に口を噤む。しかし、次に加奈ちゃんが微かな声で絞り出すように呟いた言葉を、私の耳はしっかりと拾っていた。
「……佐紀、が」
私は驚いて、思わずまじまじと加奈ちゃんの顔を見つめてしまった。――それを滝口さん本人の前で言うのは、私にだけ愚痴っていたあの時とは訳が違う。
思わず口にしてしまったという様子の加奈ちゃんは、今は苦虫を噛み潰したような顔をしている。その表情の裏で彼女の胸に去来しているのは、後悔かあるいは自己嫌悪だろうか。その心情をなんとなく察してしまった私は、そっと目を伏せた。
――佐紀ちゃん一人のせいにしちゃいけない。そんなこと、加奈ちゃんだってとっくに分かっている筈なのに。
そこまで加奈ちゃんだって子どもではない。でも分かっていて、いや分かっているからこそ今彼女は自分の発言に後悔しているのだろう。彼女の表情がそれを物語っている。加奈ちゃんの右手が、スマホをぐっと強く握り直した。
「ごめん、なんでもな――」
「優しい人ですよね」
聞こえていたのだろうか? 私は弾かれるようにして滝口さんに顔を向けた。加奈ちゃんも同じように、驚いた表情で滝口さんを見ている。
「え? 何を――」
「あの人がいてくれて私、良かったと思ってるんです」
しらばっくれようとする加奈ちゃんだったが、やはりしっかり聞かれていたらしい。驚きのあまりぽかんとする私達のことは気にもとめず、滝口さんは一人で続けた。
「私にだって、打算がなかった訳じゃありません。……あの人なら、いいって言ってくれそうな気がしたから」
いきなりぶっちゃけるようにそんなことを言われて、私の内心はいよいよ混乱を極める。そういうところにはこの人も気が付くのかと、変な部分に感心してしまった。
「そりゃ確かに佐紀なら……ねぇ?」
「えっ? ああうん」
いきなり加奈ちゃんから振られて、私は慌ながらも同意する。確かに佐紀ちゃんはそういう子だ。滝口さんが参加したいと言い出し時も、最初からかなり積極的だった。いい意味で無頓着で、優しい子。
「あの人のお陰で、私は今日、旅行に来ることができたんです。だからとても感謝しています。――勿論、同意してくれたみんなにも」
真っ直ぐに、射抜くような視線で私達を見据えながら、滝口さんはそう言った。それは本心か、はたまた――そこまで考えて、私は心の中で首を横に振る。嫌味、だなんて、そんな風に考えるべきじゃない。
「……そう」
加奈ちゃんが素っ気ない返事をする。その表情からは、今はもう何を考えているのかは読み取れない。滝口さんが加奈ちゃんの方に向き直る。
「だから、飯田さんも。ありがとうございます」
「……別に」
「飯田さんは、私のことが嫌いですか?」
「……別に、嫌いだなんて」
「なら、良かったです。……悪口も、私の勘違いだったみたいですから」
「……そうね」
「疑ってごめんなさい」
「……別に」
やはり滝口さんの言い方には、何か含むところがあるように感じる。それとも、それは単なる私の邪推に過ぎないのだろうか。相変わらず無表情の滝口さんは声もずっと平坦なままで、そこから彼女の感情を推測するのはとても難しい。
ゆるりと加奈ちゃんの首が動いて、視線が窓の方へ向いた。眠っている愛ちゃん越しに、外の景色でも眺めているのだろうか。私もつられるように目を向ける。車窓から広がっているのは、のどかな田園風景。それを眺めつつさりげなく片腕で頬杖をついた加奈ちゃんは、ゆっくりと口を開いた。
「ねぇ、滝口さん」
「? はい」
加奈ちゃんから滝口さんに声を掛けたことに、私は驚く。滝口さんも驚いたのか、すこし不思議そうに返事をした。
「本当に、旅行とかって行ったことない訳?」
「まあ、学校行事以外では、そうですね」
「家族旅行は?」
「小さい頃に一度だけ。でも、もうほとんど覚えてないくらい昔のことです」
「……ふーん」
「昔って、どのくらい?」
興味の無さそうな声を出す加奈ちゃんの代わりに、私が訊ねる。
「確か、小学校に上がる前……五、六歳の頃だったかと思います」
「ええ!? じゃあ、それ以降は、全然?」
「そうなりますね」
「それはすごいブランクだね……」
では今回の旅行は彼女にとって、十数年ぶりの個人旅行に当たるのか。単なる旅行も、そう考えると感慨深いものに変わるのだろう。そう思って私は滝口さんを見た。
「だったら、一人でいくらでも行けば良かったんじゃないの? 旅行なんて」
加奈ちゃんが身も蓋もないことを言う。しかも、かなり棘のある言い方だ。しかし滝口さんはそれを気にした様子もなく、
「だって、一人で行っても楽しくないでしょう?」
そう平然と言った。加奈ちゃんが頬杖を解いて、再び滝口さんに向き直る。
「……今、楽しい?」
「ええ」
コクリと頷いた滝口さんからすぐに視線を逸らして、加奈ちゃんは「……あっそ」とだけ呟くように返した。それから急に話題を変える。
「ねぇ真知子、なんか飲み物ない?」
「えっ? あ、ごめん。喉乾いたら自販機で買おうと思ってたから……」
「ないならいいよ」
「ほんとごめんね……」
「私、ありますよ」
私達の会話に割り込むように、また滝口さんから唐突に声が上がった。彼女は、網棚の上にある自分の荷物をすっと指差す。
「予備も含めて、何本かペットボトル買ってあるんです。全部緑茶ですけど。いりますか?」
――良ければ佐野さんも。そう言ってこちらを振り返る滝口さんに、私は一瞬迷ってから断りの返事を口にした。
「えっ……と、私はいいかな。大丈夫だよ」
多分、加奈ちゃんも断るだろう。用意周到なのはいいことだけれど、売れなかった場合のことはきちんと考えているのだろうか?そう思って滝口さんの様子を窺う。
「いる。それ一本頂戴」
加奈からの予想外の返答。予測を間違えてしまったことに驚き、私はその場で固まった。
「良かった。誰も貰ってくれなかったらどうしようかと思っていたんです」
「それ、ちゃんと愛の分もあるの?」
「勿論です。むしろ、いま佐野さんに断られてしまったから、二本も余ってしまいました」
「余ってるなら二本目も貰っていい?」
――いいよね、真知子? そうこちらにも確認を取ってくる加奈に対してコクコクと頷きを返しながらも、私の頭は真っ白なままだ。
「ん、うーん…………」
「あ、愛起きた?」
「……おはよ。加奈ちゃんそれ何持ってるの?」
「緑茶。滝口さんがくれたの。何本もあるらしいから、愛も貰えば?」
「いいの? 滝口さん」
「はい、良ければどうぞ」
「ありがとう」
目をこすりながら滝口さんにお礼を言う愛。私はぐるぐると混乱する頭の中に疑問符を浮かべたまま、目の前の光景をどこか他人事のように眺めていた。いや実際、他人事として捉えていたかったのだ。ただ――
喉が、乾いていなければ。
真知子が内心では、一番失礼なことを考えていたという話。