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イスカリオテのぼくと、マグダラのわたし  作者: 稲葉孝太郎
第3章 犯罪的、あまりに犯罪的な
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「じゃ、お茶を入れて来るよ」

「いえ……お構いなく……」

 悠太の遠慮にもかかわらず、シモンは台所へと消えて行った。接客を禁じる権限が、少年にあるわけでもない。悠太は、座り心地の悪い疑似革ソファーの上で、腰の位置を決めかねていた。

 板張りの壁に、染みのついた絨毯。お世辞にも清潔とは言えない、ありきたりな応接間であった。風変わりな点を挙げるとすれば、四方の壁にぐるりと、選挙用のポスターが貼られていることであった。下野洋助。その名前の下には、救世党なるロゴが添えられていた。

 ポスターを一瞥した悠太は、軽く喫驚した。候補者の顔が、シモンと瓜二つだったからである。人違いなはずもなく、少年はシモンの正体を察した。

 ふたりの間に横たわる情報格差は、これで埋まった。そのことに、悠太は安堵した。同時に悠太は、下野の顔を見たのが、今回初めてではないことにも気付いた。彼の風変わりな選挙演説は、動画サイトでしばしばネタにされていたからである。興味本位で再生した映像の一部が、少年の脳裏に蘇ってきた。

「はい、お茶だよ。熱いから気をつけてね」

 台所の暖簾をかきわけて、シモンこと下野が戻って来た。両手にひとつずつ、湯のみを摘んでいた。その片方を悠太の前に置き、下野は向かいのソファーへ腰を下ろした。そして、親指と人差し指でバランスを取りながら、ズズッと番茶を啜った。

 これが本当に、あのシモンなのだろうか。少年は、心の中で首を捻った。チャットの文体からは、もっとどっしりと構えた、本物の政治家のような男を想像していた。もちろん、下野も政治家候補には違いない。市議会議員に何度か立候補しては、落選し続けているのだ。どこからその資金が出ているのか、供託金だけでも相当な額になるはずであると、ネットでは専らの噂だった。

 とはいえ、少年にはそのギャップも、容易く説明がつくように思われた。あるアンケート結果によれば、ネット上の人格と現実の人格とを一致させている人間は、世の中にほとんどいないらしい。つまり、大半のユーザーが、ネット上の自分と現実の自分とを使い分けているのだ。それは、波風を立てないように意図的にそうしていることもあれば、無意識に別のキャラクターが生まれてしまうこともあると言う。

 シモンは後者だろうと、悠太はそう推測した。いわゆる、ネット弁慶である。

「アチチ!」

 自分で言っておきながら、下野はお茶の熱さに舌を巻き、口元を袖で拭った。使徒同士の初対談は、コミカルに幕を開けた。そのことに、悠太は軽い失望感を覚えた。

 しかし、この方がかえって話し易いと、少年はおもむろに言葉を紡ぎ始めた。

「下野さん」

「ん? 何だい?」

 下野は、濡れた袖口を見つめながら、相変わらずの甲高い声で尋ね返した。

「下野さんは、どうやって僕を見つけたんですか?」

「ああ、それね」

 ささいな落とし物について語るかのように、下野はそっけなく返事をした。

 悠太は固唾を呑んで、その先の台詞を待った。

「それは秘密」

「は?」

 目上の人に対する態度ではないと、慌てて悠太は口元を抑えた。けれども、そんなことは全く気にならなかったらしく、下野は話を続けた。

「そんなことはどうでもいいんだよ。重要なのはね、私たちが話し合わなきゃいけないってことなんだから」

 どうでもいいはずがない。そう言いかけたものの、悠太は口論を避けた。

 一旦歩調を合わせる。

「話し合う? 何をです?」

「私たちの未来についてさ」

「未来……?」

 悠太には、下野の言っていることが理解できなかった。それよりも、個人情報がどこから漏れたのか、気になって仕方がなかった。場合によっては、誰か見知らぬ人間に、自分の私生活を監視されているのかもしれないのだ。

 通信記録を覗かれたのか、それとも寝室にカメラでも仕掛けられていたのか。悠太の不安をよそに、下野は淡々と話を進めていった。

「町の未来さ。君は、昨日のマタイの決定に反対したよね?」

 使徒会議に話が及び、悠太の関心は自然とそちらへ向かった。

「ええ、そうですけど……それが何か?」

「つまり君は、今の私たちのやり方に不満があるわけだろう?」

 だんだんと、話の筋道が見えてきた。

「はい……多少は……」

「だったら……」

「但し、下野さんのやり方にも反対ですよ」

 悠太は先回りして、下野の期待しているであろう答えを潰しにかかった。それが意外だったのか、下野は目を白黒させた。唇を奇妙に動かし、その上でちょび髭がぴょこぴょことダンスを踊った。

 悠太は笑い出しそうになるのを堪えつつ、自説を披露した。

「僕が昨日反対したのは、キセキをもっと有効に使うべきだと思ったからです。あ、ちょっと待ってください。最後まで話させてください。有効に使うというのは、悪い人を殺したりするんじゃなくて、みんなが……何と言うか……そう、より善い社会を目覚すようにするってことです。この前、ルカさんが言ってたみたいに」

 ルカという名前を耳にして、下野は顔をしかめた。どうやら、喜怒哀楽がそのまま表に出てしまうタイプらしい。これでは政治家に向いていないであろうと思いながら、悠太は先を進めた。

「どうすればみんなで善い社会を目指せるようになるか、それは難しい問題です。ただ少なくとも、学校に花を咲かせたり、行方不明のインコを見つけたり、そういうことではないと思います。ですから……」

「ちょっといいかな?」

 まだ話の途中だったが、自分だけ喋るのも失礼だと思い、悠太はそこで言葉を切った。バトンを受け取った下野は、手のひらを合わせ、ごしごしとそれを擦り合わせた。自分の考えをまとめているのだろう。

 そして、おもむろに話を始めた。

「君は、町の人々を、より善い未来へと導きたいわけだよね?」

 導くという言い方に、悠太は若干の違和感を覚えた。

 しかし、それはニュアンスの問題だろうと考え、曖昧に頷き返した。

「ちょっと語弊があるかもしれませんが……まあ、そういうことです……」

「みんながひとり残らず、私たちに従ってくれると思う?」

 下野の質問に、悠太は背を引いた。視線をお茶に落とし、躊躇いがちに唇を動かした。

「全員が全員というわけには……いかないと思います……」

「そうだろう? 決して善人にならない人間が、世の中にはいるんだよ」

「でも、それは割合の問題であって……」

「違うんだなあ」

 下野にあっさりと否定され、悠太は内心面白くなかった。何が違うのかと、少年は目の前の子供っぽい中年男性を睨みつけた。

 下野は自分の演説に没頭しているのか、少年の眼差しに気付かなかったようだ。熱っぽい口調で、持論を捲し立てた。

「割合の問題じゃないんだよ。いいかい、九十九パーセントの人間が改心して、一パーセントの悪人が残るとするだろう。この一パーセントは、カミサマのキセキなんか屁にも思わない連中だ。つまり、極悪人だね。そうなるとだよ、九十九パーセントの人間の善意につけ込んで、この一パーセントの極悪人は、やりたい放題なわけさ。詐欺、横領、不正入札、賄賂と、何だってするだろう。そうなるとね、何の意味もないんだよ。分かる?」

 悠太はいつの間にか、下野のペースに乗せられかけていた。自分はこの男を、外見で判断していたのではないか。そんな自己嫌悪に陥りつつ、少年は頭に血を通わせた。

「……それは極論ですよ。ただの脳内シミュレーションじゃないですか。だいたい、カミサマなんてこれまで、地球上に現れたことはないんです。それが人間社会にどんな影響を与えるかなんて、誰にも分かりませんよ」

「そんなことはないさ」

 下野は、引く気配を見せなかった。すっかり雄弁になった彼は、敢然と悠太に反論した。

「これまでだって人間は、道徳とか倫理とか、色々作って来ただろう。でもそれは、全部失敗してるんだよ。少なくとも、私はそう思うね。だから、人間を善行に導いて、それで社会を善くしようなんて言うのは、夢物語なんだ」

「そのために、キセキの力があるんじゃないですか。道徳に強制力はないですけど、カミサマにはあるんです。その力を借りて、町のみんなと協力し合って、下野さんの言う極悪人と闘うんですよ」

 その極悪人とやらが誰を指しているのかも分からぬまま、悠太は漫然とそう答えた。

 そこへ、下野は颯爽と口を挟んだ。

「ちょっと待ってくれ。カミサマの力を借りて、町の人々を悪に対峙させるのと、カミサマの力を借りて、私たちが悪人を直接懲らしめるのとでは、何が違うんだい?」

 悠太は、だんだんと苛立ってきた。白熱する議論の中で、相手が全く理解を示さないときに特有の、あの苛立ちだった。

 なるべく平静を保っていたつもりだが、悠太はいつの間にか、体を前に乗り出していた。

「全然違いますよ。僕の場合は、みんなが自主的にやってますけど、下野さんの場合は、カミサマがみんなの知らないところで、悪を退治しているだけじゃないですか」

「ほお、ということはだよ、君は、水戸黄門的解決を否定するわけだ?」

「……何でそうなるんですか? 話を逸らさないでください」

「だってそうだろう。水戸黄門は、見知らぬ町にひょっこり現れて、悪人を見つけては、これを自分の手で懲らしめるんだ。そこに、民主主義的なプロセスはないんだよ。まあ、封建社会が背景にあるんだから、当然と言えば当然なんだけどね……いやいや、水戸黄門だけじゃないぞ。正義の味方は、みんなそうなんだ。ひとりあるいはグループで闘って、世界の平和を守る。それは、善良な市民の闘争なんかじゃない。違うかい?」

「僕が言ってるのは……民主主義だとか、そういう難しい話じゃなくて……この町の自主性ですよ……」

 悠太は自分を落ち着かせるため、湯のみに手を伸ばし、軽く口をつけた。

 さすがの下野も、喫茶まで邪魔するつもりはないらしい。飲み終わるのを、黙って待っていた。

 悠太がテーブルの上に湯のみを戻した瞬間、下野は言葉を継いだ。

「君ね、自主性って言うけど、それは矛盾だよ」

 若干冷静さを取戻した悠太は、下野にこのまま喋らせようと決意した。

 相手の墓穴を待つ作戦だ。

「何が矛盾なんですか?」

「君はさっき、道徳には強制力がないけど、カミサマにはあるって言っただろう?」

 自分が何を言ったのか、悠太は余り覚えていなかった。そう指摘されると、確かに言ったような気がしてきた。言い争うよりも素直に認めた方がよいと考え、悠太は話を合わせた。

「ええ……言った気がしますね……」

「でもね、カミサマの力を借りる、つまり、キセキで人を脅すって言うのは、自主性の蹂躙なんじゃないかね?」

「別に脅すわけじゃ……」

「いやいや、これは脅しだよ。世の中には何か不思議な存在がいて、それが不気味だから、善いことをする。これは強制だよ、強制。大事なのはね、自主性じゃないんだ。大衆は暴走することだってある。そんなときは、どうすればいいと思う?」

 また話が、あらぬ方向へと突き進んでいた。そう感じた悠太は、適当な答えを返した。

「説得すればいいと思います」

「説得なんか無理だよ。僕ならね、暴走した集団の先頭を走るんだ。そして、ちょうど分岐点に来たところで、うまく曲がる。そうすれば、みんな勝手について来てくれるんだよ。自分たちがどこへ向かってるのか、そんなことは誰も気にしないさ。キセキだって同じだよ。僕たちが先頭を走るんだ。そうすれば、結果はついて来る」

 悠太は、この抽象的な議論に、だんだんと嫌気が差してきた。それに、さすがに政治家を目指しているだけのことはあるのか、言葉尻の捉え方は下野の方が数段上だった。少年は、そのことを認めざるをえなかった。

「すみません、ちょっと話を戻しましょう……結局、下野さんは僕に、何をして欲しいんですか?」

 そこだと言わんばかりに、下野は悠太の鼻面を指差した。

「世直しだよ」

「世直し……?」

「そう、僕は探偵とか縁故とかを色々使ってね、市議の汚職を突き止めたんだよ」

「それなら下野さんが、警察に告発すればいいじゃないですか? 別に、カミサマの力なんか借りなくても……」

 分かってないなあと言った顔で、下野は大げさに手を振った。

「警察は信用できないんだよ。同じ公権力だからね」

 どれだけ人間不信なんだと、悠太は呆れ返った。

「そんなことはないと思いますけどね……きっちりとした証拠があれば……」

「もちろん、証拠はある。だけどね……」

 そこで、下野は言葉を濁した。

「全て状況証拠なんだ……おっと、そんな顔をしないでくれたまえ。状況証拠とは言え、限りなく黒に近いグレーなんだからね。信用してもらっていい。だが、決定的な物証、例えば現場の写真だとか、そういうものが無いんだよ」

「それじゃダメですよ。状況証拠なんか、いくら集めてみても、それっぽい印象しか得られないんですし」

「うん、だからね」

 下野は残りのお茶を飲み干すと、額の汗を拭った。落ち着きを取戻し始めている悠太とは対照的に、下野の方はボルテージが上がりっ放しのようであった。

 悠太は対等な使徒として、シモンの言葉を待った。

「作戦を二段階に分けようと思うんだ。まずは、贈賄の情報をどこかのマスコミにスクープする。それでも市議がシラを切るようなら、ここは苦渋の選択として、処刑を……」

「お断りします」

 悠太はそう言って、席を立った。

 驚いた下野は、悠太の顔を覗き見た。

「どうしてだい? 異論があるなら、はっきりと……」

「人殺しには絶対に加担しません。絶対に、です」

 少年の気迫に押された下野は、怒られた子供のように、身を縮めた。

 しかし、自分が年上であることを意識しているのか、目付きには威圧的なものがあった。

「そうか……それは残念だよ……君となら、上手くやれると思ったんだがね……」

「僕も残念ですよ……意見がまとまらないで……」

 使徒同士、なぜ意見が食い違ってしまうのか。悠太は、やり切れない気持ちになった。

 そんな悠太に対して、下野は開き直りを見せていた。悠太にはもはや関心を示さず、部屋の片隅に置かれたパソコンを眺めていた。

「ま、いいんだよ。十二人も集まったら、意見の不一致は避けられないからね。とはいえ、使徒は君と私だけじゃない……他を当たることにするよ」

 その瞬間、悠太は最初の疑問に立ち返った。

「下野さん、いったいどうやって、僕の正体を突き止めたんです? まさか、他の使徒たちの情報も……」

 悠太の問いに対して、下野は不敵な笑みを浮かべた。情報の偏りという優越感が、シモンとユダの立場を逆転させた。

「それは教えられないと、さっきも言っただろう。ただね、ここまで来てくれたことだし、二番目の質問にはお答えしよう。ずばり、Yesだよ」

 悠太は、ふらつきかけた足を支え、何とかその場に踏み止まった。

「いったい……誰なんです……? 他の使徒たちは……?」

 チッチッチッと、下野はいやらしく指を振ってみせた。

 悠太は口を歪めるが、こうなってはどうしようもなかった。

「君は私に協力してくれないんだ。私も君には協力しないよ……正直に言うと、全員の素性を突き止めたわけじゃない。それは、このあと分かることだからね」

 下野の言い回しに、悠太は既視感を覚えた。彼の口から、何かしら重要なヒントを得ていた気がした。悠太は、自分の記憶を辿った。

 少年がトレースを終える前に、下野は席を立った。

「それじゃ、送ってあげるよ。家がいいかね? それともY駅?」

「え、駅でお願いします……」

 悠太は駅に到着するまでの間、下野の車から外の風景を眺めていた。電車から見慣れているはずの街並が、妙に新鮮だった。

「じゃ、気が変わったら、うちの事務所に来てよ」

 別れを告げる際、下野は運転席の窓から、機嫌良くそう声をかけた。事務所での論争が、まるで嘘のようであった。切り替えの遅い悠太だけが、一方的にわだかまりを抱えていた。

 カローラは駅前を離れ、国道の果てへと消えた。テールランプを見送った悠太は、重い足取りで家路についた。下野の誘いに乗るよりも、マリアとの約束に固執した方が、ずっと賢明だった。今さらながらに、悠太はそう思った。

 帰宅した少年は、息子を気遣う母の声もそぞろに、食事と風呂を済ませて、自室へと引きこもった。使徒会議が近付いても、マリアに対する少年の罪悪感は消えなかった。ただ少しずつ、シモンとの対談を思い出し始めた程度である。そしてその回想が、少年の心をますます憂鬱なものにした。

 彼が使徒に召されたとき、他の使徒たちと直に会いたいと思っていた。だが、いざ実現してみると、その願いは間違いであったと思い知らされた。使徒は、匿名である限りにおいて使徒であり、生身の肉体を持つべきではなかったのだ。これからシモンのコメントを見る度に、悠太はあの男の顔を思い出すだろう。そして、シモンもまた悠太の顔を……。

 その夜、シモンはログインしなかった。

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