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イスカリオテのぼくと、マグダラのわたし  作者: 稲葉孝太郎
第3章 犯罪的、あまりに犯罪的な
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「以上で、報告を終わります」

 悠太は手元のプリントから顔を上げ、左右に並んだ代表者たちを見回した。なるべく個々人とは目を合わせないようにしつつ、悠太は視線を一巡りさせた。

「何か質問はありますか?」

 誰もが、長机の端に座る三年生の顔色を窺っていた。例のボクシング部員である。男もその視線に気付いているのか、腕を組み、澄まし顔で宙を見つめていた。結局、配布された資料の数字は、前回の会議と全く同じであった。そのことが、生徒会役員だけでなく、他の部の代表者たちにも、一抹の不安を投げ掛けていた。

 これをやり過ごせば、来週の月曜を最後に夏休みなのだ。

「……」

 男は一向に、口を開く様子を見せなかった。悠太は、ホッと胸を撫で下ろした。

 場の空気を読んだ会長が、すぐさま解散の挨拶を始めた。

「みんな、今日はありがとう。これで予算が組めそうだ。もうすぐ夏休みだし、生徒会としても各クラブの活躍を期待してるよ。では、解散」

 椅子と床の擦れ合う音が鳴り響き、生徒たちは会議室を出て行った。その中には、ボクシング部の男の背中もあった。筋肉質だが、それほど日に焼けていない二の腕が、白いシャツから覗いていた。

 男は、敷居をまたぐ拍子にちらりと室内へ目を向け、それからすぐに姿を消した。男が最後に何を見たのか、悠太には分からなかった。少なくとも、彼とは目が合っていない。

「それじゃ、私は先に生徒会室へ戻りますね」

 そう言って立ち上がった副会長は、議事録を抱えて姿を消した。

 あとには、悠太と会長だけが残された。前回と同じシチェーションだ。ひとつだけ違う点を挙げるとすれば、外が雨だということ。じめじめとした湿気が、開け放された窓から漂い込んで来た。クーラーのない会議室の熱気を逃がすためとは言え、あまり快適な処置だとは思えなかった。

 しかし、悠太の気分は軽かった。テストが終わって夏休みが始まる前の、唯一の、そして最大の懸念事項が、こうして無事処理されたのだから。

「予定より早く終わったな。これも仮屋のおかげだ」

 悠太の安堵が伝染したのか、会長の表情も晴れやかだった。

 そんな会長に対して、悠太はすまなさそうに答えた。

「会長が最初に睨みを利かせてくれましたからね。ありがとうございました」

「ハハッ、アレか? 別に本気で言ったわけじゃないさ」

 会長は眼鏡を揺らして笑ってみせたが、悠太には分かっていた。もし予算案について異議がある場合は、自分が窓口になる。その一言で先輩後輩関係は解消され、悠太は安心して議事を進めることができたのである。

「どうだ、コーヒーでも飲みに行くか? おごるぞ?」

「ちょっと今日は……」

 先輩の誘いを、悠太は遠慮気味に断った。

「ん? 何か用事があるのか?」

「は、はい、人と待ち合わせしてて……」

 会長は顎に手をやり、訳知り顔で悠太を見下ろした。

「さてはデートだな?」

「ち、違いますよ!」

 大声を出した悠太に、会長は目を見張った。悠太が声を荒げることなど、滅多にないからである。

「おいおい、ちょっとからかっただけだよ……そんなに怒るな……確かにおまえは、女子から積極的に好かれるタイプじゃないかもしれん。が、彼女のひとりやふたりくらい……」

 ふたりいたら二股だろうと思いつつ、悠太は腕時計に目をやった。約束の時間まで、まだ余裕があった。それにもかかわらず、少年は逸る気持ちを押さえられなかった。

「それじゃ、お先に失礼します」

 悠太は鞄の柄に指をかけ、会議室を飛び出した。

 背中越しに、会長の声が聞こえる。

「おい、終業式の後で一学期の打ち上げするから、顔出せよ?」

「必ず!」

 そう言い残して、少年は廊下を疾走した。待ち合わせに遅れまいという信念が、ひたすらに彼の背中を後押ししていた。

 玄関を出ると、霧のような雨が風に波打っていた。グラウンドの水溜まりに足を踏み入れながら、悠太は傘を取り出し、頭上に掲げた。

 校門を抜け、同じ制服を着た生徒たちの間を縫い進む。目的地は町の中央駅。シャッターの目立つ商店街を通り過ぎ、地方都市特有の小さな駅前に辿り着いた頃、雨はどしゃぶりの様相を呈していた。

 待ち合わせ場所は、駅の線路沿い、小さなラーメン屋のそばにある、電信柱の前だった。

目標を視界に捉えた悠太は、周囲を確認した。通行人がちらつくばかりで、少女の姿はどこにもなかった。彼は、マリアとの約束を果たすため、ここまで来たのだった。

 マリアの姿が見えないことに、少年はひどく落胆した。傘に弾け、滴り落ちる雨の音を聞きながら、悠太は自分を落ち着かせた。まだ待ち合わせ時刻じゃないだろう。時計を見た悠太は、寸でのところで、そう叫びかけた。

 町を少しばかり案内して欲しいと、そう頼まれただけなのだ。自分が焦っていた理由も分からぬまま、少年はぼんやりと通行人の傘を数え続けた。信号機は点滅を繰り返し、列車が音を立てて線路を揺らした。

「時間だな……」

 悠太の唇から声が漏れた。時計の針は、五時半を指していた。約束の時間だ。

 しかし、マリアは現れない。案外にルーズなのだろうか。少年は待ち続けた。

 五分……十分……雨脚が次第に弱まってきた。傘をささない通行人も、ちらほらと見え始めた。普通ならば、携帯にメールを入れるところだろう。だが悠太は、彼女のアドレスも番号も知らなかった。今朝、さりげなく聞き出そうとして、断られたばかりであった。少年は途方に暮れていた。

 五時五十分を過ぎたところで、国道車線から一台の白いカローラが、駅前の小道へと左折した。時間を持て余した悠太は、その車になぜか気を取られた。

 単なる暇つぶしのつもりだったが、カローラはどんどん悠太の方へ近付いて来た。駅前のに停めるつもりだろうか。駐車場の電光掲示板は、あいにく満車を示していた。タイミングの悪い運転手だと哀れみながら、悠太は車のフロントガラスへと視線を伸ばした。運転席には、スーツ姿の中年男性が座っていた。

 突然、男はブレーキを踏み、悠太の前で車を急停止させた。水溜まりに前輪が突っ込み、飛沫がズボンに降り掛かった。少年は渋い顔をして、運転席の男をちらりと盗み見た。

 男と目が合った。

 悠太が視線を逸らした途端、ウィンドウガラスがゆっくりと開いた。ちょび髭を生やした男が、右ハンドルの運転席から体を乗り出し、顔を覗かせた。歳は四十そこそこ。髪を七三に分け、人懐っこそうに口元を綻ばしていた。サラリーマンというよりは、一端の芸人に見えるその風貌に、悠太はコミカルな印象を覚えた。

 道に迷ったのだろうか。悠太が勘ぐっていると、男はにこりと笑った。

「こんにちは」

 見かけとは裏腹な、妙に甲高い声。

「こ、こんにちは……」

 悠太も、上ずった声で挨拶を返した。

「仮屋悠太くんだね?」

 取り落としそうになった傘を持ち直し、悠太は男の顔を凝視した。

 なぜ自分の名前を知っているのだろうか。もしや知人かもしれないと、悠太は記憶を掘り起こした。……該当者なし。それが、悠太の導き出した答えである。

「仮屋悠太くん?」

「は、はい」

 悠太は、思わず返事をしてしまった。あからさまに戸惑う少年を見上げながら、男は後部座席のドアを開ける。乗れということだろうか。悠太は、警戒心を抱いた。

「乗らないのかい?」

「どちら様でしょうか?」

 悠太は、男に自己紹介を求めた。男は唇をすぼめ、二、三度、首を縦に振った。その動作が何を意味しているのか、悠太には見当がつかなかった。

「そうか……手紙をくれたのは、もうひとりの方か……」

 男の謎めいた話し振りに、悠太はだんだんと苛立ってきた。こんなことをしている場合ではないのだ。マリアを捜さなければ。もしかすると、駅の裏口と勘違いしているのかもしれない。この中央駅には、出口が二ヶ所ある。悠太はそれを、マリアに告げ忘れていた。

 悠太は顔を引き締め、男と対峙した。

「すみません、人と待ち合わせしてるんで……」

「おっと、それはまずいな、キャンセルしてくれないかね?」

 悠太は、わざと眉間に皺を寄せた。この男、頭がおかしいのだろうか。

 こういう手合いは無視に限ると、悠太は退散を決め込んだ。歩を改札口に進めた。

「おいおい、そんなに冷たくしないでくれよ、ユダくん」

 悠太の足が止まった。震える両手を握り締め、背中を向けたまま唇を動かす。

「な、なんのことでひょうか……」

 呂律が回らない。悠太は、この場から走り去りたい気持ちに駆られていた。

 だが、肝心の足が動いてくれない。悠太の動揺を見てか、男は声を和らげた。

「そんな顔しないでくれよ、もう長い付き合いだろう?」

 悠太は、辛うじて制御の利く首を、男の方へとねじ曲げた。

 まさか……そんなことが……。悠太の緊張は、最高潮に達した。

「自己紹介が遅れたね、シモンだよ、シ・モ・ン」

 男はおどけたように、音節を区切った。

「シモン……さん……?」

 悠太は慌てて、辺りを見回した。誰もいない。いてはならないのだ。そうでなければ、取り返しのつかないことになる。そのことは、悠太だけでなく、シモンもまた承知しているはずであった。

「乗らないのかね? ちょっと話したいことがあるんだけど」

 悠太は、駅前の時計を見た。短針が、六の数字を過ぎている。

 マリアの姿はない。

「せっかくこうして会えたんだ、ちょっとくらい、時間を取ってくれてもいいだろう? それとも、彼女とデートなのかい? それなら、また明日にでも……」

「乗ります」

 悠太は傘を閉じた。水滴を感じない。雨は、とうに止んでいた。

「そうこなくっちゃね」

 男は腹の底から嬉しそうに笑うと、ウィンドウガラスを閉め始めた。悠太は、おぼつかない足取りで、後部座席のシートに体を沈めた。

 足が震えていた。膝の上に鞄を乗せ、その上に痙攣する指を揃えた。

「そんなに遠くないよ。なあに、うちの事務所へ来てもらうだけさ」

 シモンはそう言ってアクセルを踏むと、ハンドルを切り始めた。

 車は駅前を離れ、再び国道車線に乗り上げた。

 目の前を走る赤い車が、フロントガラスの水に歪んで妙に幻影的だった。

「三十分くらいだよ。それまでは、この町の素敵な景色でも眺めていればいい」

 バックミラー越しに、男の笑顔が見えた。それは無邪気な、それでいて後先を考えない恐ろしさを秘めた、子供のような笑顔だった。

 悠太はバックミラーから目を逸らすように、駅の方角を振り返った。待ち合わせ場所の電柱は、とうに見えなくなっていた。けれども一瞬だけ、曲がり角にくすんだブロンドの少女を見たような、そんな気がした。

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