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 翌朝、悠太は普段より一本遅い電車に乗り、通学路を急ぐ生徒たちの群れに紛れて、学校の門を潜った。普段の悠太は、ほとんど誰もいない時間帯に登校し、人気のない教室で自習か読書に耽っていることが多い。別に優等生を気取っているわけではなく、一旦電車が遅れると取り返しがつかなくなってしまうという、遠距離通学者の知恵であった。

 しかし、そんな日常的な考えも、今日ばかりは役に立たなかった。悠太が意図的に電車を遅らせた理由は、ただひとつ。キセキの第一発見者になるのを嫌ったからである。案の定、二年A組の教室は空っぽであった。

 彼らがどこにいるのかを、悠太は知っていた。それを裏付けるように、中庭に面した窓から、女性教員の大声が聞こえてきた。

「みんな教室に戻って! そこ、花壇に入らない!」

 悠太は、どうしたものかと、しばし悩んだ。何も気付かないフリをして、席につこうか。いや、それは余りにもトボケている。瑠香か真飛に見られでもしたら、かえって怪しまれてしまうのではないだろうか。

 とはいえ、わざわざ一階まで降りて、花壇の様子を見に行く気にもなれなかった。野次馬根性は、悠太の性分ではないのである。かくして、この案も却下となった。

 よって、残る対応はひとつしかない。悠太は鞄を机の上に置いたまま、廊下に出ると、窓から中庭を見下ろした。同じ目論みを抱いた生徒たちの列が、窓枠に沿ってできていた。最初はいいアイデアだと思った悠太だが、実行してみるとその欠陥がすぐに露呈した。中庭の木が邪魔で、花壇がほとんど見えないのである。枝葉から辛うじて垣間見えるのは、大輪の花を咲かせた、紫色の植物の群れだった。

 二階にいる生徒が道理で少ないはずだと、少年は納得した。対照的に、一階は恐ろしい数の人で溢れ返っているようだ。会話がやかましい。

「すげえ、これがカミサマの花か……」

「なんていう花なの?」

「さあ……百合っぽいけど……」

「色が気持ちわるぅい」

「おい、園芸部員いねえのか? 園芸部員?」

「教室に戻れと言っとるだろう! チャイムが鳴るぞ!」

 男性教員の野太い声に合わせて、本当にチャイムが鳴った。

 それでも生徒たちは、花壇際を離れようとしなかった。

「担任が来て着席してなかった奴は、全員遅刻扱いだぞ!」

「先生が来るのって、ホームルームの後じゃん」

 少女のからかうような声。どっと笑い声が上がった。

 男性教員は怒鳴った。

「今日のホームルームは全クラス担任だ!」

 蜘蛛の子を散らすように、生徒たちは中庭を後にした。すし詰め状態の廊下から、ところどころ喧嘩腰の声が聞こえてきた。

 悠太はやれやれとかぶりを振って、窓際から離れた。教室に戻り、自分の席へと近付いた瞬間、少年の顔が強ばった。

「Good morning, Yuta」

「マ、マリアさん……」

 いつの間に登校したのだろうか。着席を済ませたマリアに、悠太は息を呑んだ。

「ユウタは友達に挨拶しないの?」

 苛立ちからか、それとも単なる好奇心からか、マリアはそう尋ねた。

 悠太も我に返った。

「ご、ごめん」

「ゴメンは挨拶じゃないよ?」

「お、おはよう」

 悠太は頬を掻きつつ、自分の席へと戻った。

 マリアは視線を悠太に固定し、彼の動きに合わせて白い首を捻ってきた。見つめられ続けることに耐えかねた悠太は、積極的に少女の瞳を捉え返してみた。もしかすると、恥ずかしがってマリアの方から目を逸らしてくれるかもしれない。悠太は淡い期待を抱いた。

「悠太は、ちゃんと人の目を見て話すね。えらいよ」

 少女は逆を突いてきた。

 澄み切った虹彩の中央にぽつんと、瞳孔の闇が覗いていた。

「ユウタは、花壇を見た?」

 話題がキセキに及び、悠太は二重の意味で気まずくなった。

「ちょ、ちょっとだけね」

「ちょっとだけ? 本当?」

「本当だよ」

 お互いに目を見て話すのは、感情を探り合うためだと言う。けれどもマリアの眼差しは、何も語ってはくれない。マジックミラーのように、悠太の動揺だけが筒抜けになっていた。いつもなら機転が利く少年も、マリアの前では自然と無口になった。

「ユウタ、マリアとお話しするのはつまらない?」

「そ、そんなことはないよ……」

 まごつく悠太に、助け舟が届いた。教室の扉が開いたのである。

「起立!」

 瑠香の号令に合わせて、一斉に椅子が引かれた。

「礼!」

 生徒たちの前を横切って、のほほんとした若い女性がの教壇に登った。ピンクのブラウスにピンクのスカート。ふわふわとカールした髪を揺らす彼女こそ、このクラスの担任、春園舞その人であった。

「着席!」

 椅子を引く音とほぼ同時に、女子生徒のひとりが質問を放った。

「舞先生、さっきの花壇見た?」

「ええ、見ましたよぉ。奇麗でしたねぇ」

 ほんわかとした声で、春園は返事をした。

「やっぱり先生は花が好きなんだね。さすがは園芸部顧問」

「先生は、お花なら何でも好きですよぉ」

「じゃあ、あの花の名前分かる?」

 最後の質問を放ったのは、真飛だった。悠太と瑠香は、意外だと言わんばかりに、真飛の方を振り向いた。他の生徒たちも、似たような印象を抱いたらしい。視線が教室の中央に集中していた。明日は雪か。友人に対する失礼な考えが、悠太の脳裏をよぎった。

 とはいえ、遊び半分で真飛をからかおうとする者などいない。ノリはいいけれども、怒らせると怖いからだ。軽口を叩いても問題ないのは、周囲から凸凹コンビと呼ばれている悠太だけだろう。なぜ真飛とここまで馬が合うのか、それは悠太にも分からなかった。

 春園は、生徒たちの微妙な駆け引きを無視して、にこやかに答えを返した。

「あれはですねえ、カサブランカっていう、高価な百合です」

「凄い! 知ってるんだ!」

 女子生徒の声。

「よ、舞ちゃん! 日本一!」

 意味不明なかけ声にもかかわらず、春園は嬉しそうだった。上機嫌がデフォルトの彼女とは言え、今日の笑顔は一段と輝きを増していた。恋人でもできたのだろうか。そう勘ぐってみたものの、証拠は何もない。悠太はすぐに、その疑惑を思考の片隅へと追いやった。

 一方、花の名前を尋ねた張本人は、椅子にもたれかかる格好で、ぼんやりと天井を見つめていた。珍しいこともあるものだと、悠太は最前列の瑠香と視線を交叉させた。

「では、その花壇について、注意事項を説明します。ちゃんと聞いてくださいね」

 そう言って春園は、早朝の緊急職員会議で決まった事柄を説明し始めた。教室の雰囲気は興奮に満ちていたが、彼女の話がキセキに関わることであったため、自然とそちらに関心が移った。春園は、大人しい生徒たちの態度に満足したのか、笑顔で唇を動かし続けた。

 話の内容は、実に単純であった。ひとつ、これまで通り中庭へは立ち入らないこと。ひとつ、花は放課後、園芸部が撤去すること。ひとつ、テレビなどの取材を受けた場合は、高校の品位を落とさないように振る舞うこと。この三点である。

 生徒たちがとりわけ反応を示したのは、二番目の項目だった。

「嘘、あれ抜いちゃうの?」

 信じられないと言った調子で、ひとりの少女が叫んだ。当の園芸部員である。

「残念ですが、そうなりますねぇ」

 残念な素振りを欠片も見せずに、春園はそう答えた。

「それどうよ? もったいなくね?」

「このままだと中庭に入っちゃう人が出ますから、仕方ないですねぇ」

 春園の理由付けには、説得力があった。あの花が咲いている以上、生徒たちは中庭に興味を持つだろう。部外者も然りである。そうなれば、もはや管理は不可能に違いなかった。朝から晩まで、教員が見張っているわけにもいくまい。

 悠太にとっても、職員会議の決定は好ましかった。自分たち使徒がもたらした騒動を、今すぐにでも学校から取り除いて欲しかったのである。いざキセキの当事者になってみると、酷く俗な、誰の役にも立たないことをしているのではないかという疑念が、少年の中で一層強くなってくるのだった。

「はい、それではホームルームは終わりです。教科書を出してください」

 春園の指図に、生徒たちは悲鳴を上げた。

「一時限目まで、まだ時間あるじゃん」

「予定より授業が遅れてるんですよぉ。ちょっとくらい付き合ってください」

「職権乱用!」

 真飛の放った抗議を無視して、他の生徒たちは英語の教科書を取り出した。

「So let's begin」

 春園は黒板に例文を綴ると、丁寧な発音でその繰り返しを求めた。米軍基地の通訳を兼任する春園は、学校でも評判の英語教師である。

 教室に響き渡る生徒たちの声。悠太は口を噤んだまま、隣の席を盗み見た。そこには、春園の例文を律儀に追唱するマリアがいた。少年は彼女の横顔に、頬を赤らめた。この感情はいったい何だろうか。人一倍鈍感で生真面目な悠太には、それが分からない。

 そうか、英語の授業を受けるマリアの姿に、軽い羞恥心を覚えたのだと、見当違いな自己分析を下しながら、悠太は今朝の出来事を忘れようとした。

 そしてその日の間、少年はそれを忘れることができなかった。

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