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イスカリオテのぼくと、マグダラのわたし  作者: 稲葉孝太郎
第1章 カミサマの誕生
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 合鍵を返却するため、職員室に立ち寄った悠太は、担任と二、三言葉を交わしてから、薄暮れの廊下へと舞い戻った。入り口の前で待っているかと思いきや、マリアの姿はそこになかった。からかわれたのかと思いつつ、まわりを確認してみると、彼女は中庭に面する窓際に佇んでいた。

「マリアさん」

 悠太は鞄を持ったまま、彼女のそばに駆け寄った。マリアは、物思いに沈んでいるようであった。ガラス細工に触れるがごとく、少年は優しく声をかけた。

「どこから案内しようか。先生には、もう遅いって言われたし、僕も今夜は用事があるから、あんまり見て回る時間もないんだけど……」

「ユウタの好きなところでいいです」

 そう言って、マリアは口を噤んだ。風変わりな頼み事を引き受けた挙げ句、行き先まで丸投げされてしまった悠太は、もう好きにさせてもらおうと決心した。

「オッケー、じゃあ、この校舎を簡単に案内するよ。僕たち二年生がいる建物は、特別な教室が多いからね。まず、廊下の奥に見えるのが家庭科室で……」

「そうではありません」

 何を否定されたのか分からず、悠太は目を白黒させた。廊下の先に見えるのは、確かに家庭科室であって、それ以外の何物でもないのだ。

「……何が違うの?」

「ユウタの好きなところにしてください」

 悠太は、少女の質問をもう一度、心の中で反芻した。そして、その微妙なニュアンスに気がついた。

「まさか……僕の気に入ってる場所に案内しろってこと?」

 マリアは、静かに頷き返した。

 平然とした彼女を前にして、悠太は肩をすくめてみせた。

「お気に入りの場所って言われても……そんなの学校にはないよ」

 悠太は、右手の窓越しに、中庭を眺めた。手入れの行き届いた花壇に、様々な樹木が陰を投じていた。昔は開放されていたこの花壇も、煙草の吸い殻が見つかるなどの不祥事が多発して、今では園芸部以外、立ち入り禁止になっていた。

 もし今でも、この楽園に足を踏み入れることが許されたならば、悠太はこの場所を選んだかもしれない。ベコニア、ケイトウ、ゼラニウムに加えて、野性と思しきツユクサが、ところどころ顔を出していた。

「ここが、悠太の好きな場所ですか?」

 マリアは、そう尋ねた。

「そこそこ、ね」

「だったら、ここを案内してください」

「立入り禁止なんだよ。僕が入学する前から」

「誰も見ていません」

 マリアの大胆さは、悠太を驚かせた。同時に、彼女を説得しなければと思った。転校生のマリアは見過ごされても、同伴していた悠太が咎められることは、容易に想像がついた。

「ここは蛇が出るから、危ないよ」

 咄嗟の言い訳に、悠太は自信がなかった。嘘を吐いたつもりはない。噂では、配水管が北の裏山と繋がっていて、蛇はそこを泳いでくるらしい。けれども目撃談は、ここ数年絶えて久しかった。

「そうですか……」

 マリアは、クワの実に注ぐ残照を見つめていた。

「他に好きな場所は、ないのですか?」

 マリアの声が、少年の意識を連れ戻した。

「そりゃ……あるよ……この町を流れている川のほとりには、サクラがたくさん植えられていてね、春になると、とても奇麗なんだ。マリアさんが来年もこの町にいるなら、ぜひ見に行くといいよ。有名な橋もあるし……」

「私は、この学校のことを訊いているのです」

 毒を含んでいないはずの質問に、悠太は若干の苛立ちを覚えた。なぜ遅くまで訳の分からない好奇心に振り回されているのか、悠太は、自分の優柔不断を呪った。

「ユウタは、この学校が嫌いなのですか?」

「そんなことはないよ」

「では、好きなのですね?」

 悠太は、返答に窮した。その質問の意図するところが、彼にはうまく掴めなかったのである。

「好きでも嫌いでもない……かな……」

「好きでも嫌いでもない場所に、毎日通うのですか?」

 当たり障りなく回答したつもりの悠太は、マリアの追及に身を引いた。

「義務だからね、学校に通うのは」

「高校に行くことは、義務ではないはずです」

 悠太は心の中で、言葉の選択ミスに舌打ちをした。しかし、転校生と言い争う気概は、少年の中から、とっくに消え失せていた。

「きみは、何が言いたいの?」

「ユウタの好きなところへ案内してください」

 話がスタート地点へと戻った。悠太は肩を落とし、大きく息を吐くと、このおかしな放課後の喜劇を終わらせにかかった。

「僕がこの学校で、息抜きに使ってる場所へ案内するよ。そこを見たら、すぐに帰ろう。もう六時半だし、さっきも言ったけど、まだ用事があるからね」

 悠太は決然と踵を返し、一番手近な階段をのぼり始めた。最初の踊り場で振り返り、マリアがついて来ていることを確かめた。そのあとは、後ろを顧みることなく、一気に三階まで歩を進めた。

 三階の廊下で足を休めたとき、マリアは、ひとつ下の踊り場にいた。少年は黙って、マリアの到着を待った。焦る必要はなかった。目的地は、すぐそこにあるのだから。

 マリアが最後の一段をのぼり終えたところで、悠太は唇を動かした。

「ここだよ」

 そう言って悠太は、正面の教室を指差した。プレートには、美術室と書かれていた。

 扉のくぼみに指を掛けながら、悠太はマリアに説明を続けた。

「生徒会が終わったあと、たまにここへ寄るんだ。ただ、今日はもう開いて……」

 確認のつもりで力を込めたはずが、ドアは音を立てて、横にスライドした。数センチの隙間から、夕陽が漏れ出た。あっけに取られた悠太は、マリアの存在も忘れて、そのまま扉を開け放った。茜色に染まった世界が、悠太の眼前に広がった。

「瑠香……」

 絵の具の匂いが立ちこめる美術室の中央に、古びたキャンバスがあった。それに向かって筆を走らせる津川瑠香の姿が、濃い陰影を伴って浮かび上がった。

 瑠香はキャンバスから顔を上げ、突然の訪問者たちに視線を移す。

「悠太じゃない……どうしたの、こんな時間に?」

「瑠香こそ、まだ残ってたの?」

「絵を描いてるのよ」

「そんなの見れば分かるさ」

 敷居を跨ぎながら、悠太は気軽に返した。

「そうかしら?」

 謎めいた反応にもかかわらず、悠太は妙な安心感を覚えた。作者の許可も得ずに、キャンバスの後ろへと回り込んだ。画布の上には、油彩で二本の薔薇が描かれていた。一本は赤、もう一本は白だった。お互いに頬を寄せ合う恋人のような角度で、二本の薔薇は厚い花弁を重ね合わせていた。

 悠太がキャンバス越しに視線を伸ばすと、瓜二つの薔薇を挿した無地の花瓶が、小さな机の上に置かれていた。

「今度のコンクールに出すの?」

「いいえ、これは習作。今度の課題は人物画だから、モデルを探してるところよ」

 モデルと聞いて、悠太は今朝の会話を思い出した。

「真飛は、どう? 個性的でいいんじゃないかな? 女子から人気あるし」

「真飛ぅ? ダメダメ、ああいう軽そうなのは」

「そんなことないと思うけどね……」

 悠太は、意味深に呟いた。

「ここにいるってことは、真飛の誘いは断ったんだね」

 悠太の確認に、瑠香は顔をしかめた。

「誘い? 何のこと?」

 声すら掛けていないのかと、悠太は真飛の奥手さに苦笑した。

 少年が頬を緩めていると、瑠香は、ためらいがちに唇を開いた。

「もしよかったら、悠太がモデルになってくれない?」

「僕が? 絵のモデルに?」

「ええ、肖像画って、長時間拘束しちゃうから……なかなか人が見つからなくて……」

 悠太は頬を掻いて、気恥ずかしそうに笑った。

「僕はダメだよ……」

 瑠香は筆を止め、キャンバスから顔を上げた。

「どうして? ……やっぱり忙しい?」

「それもあるけど……僕みたいな空っぽの人間は描、かない方がいいのさ」

 先ほどの真飛評に対する、ちょっとした皮肉のつもりだった。ところが瑠香は、悲しげな顔を浮かべて、薔薇の絵に視線を落とした。

「そんなこと……ないわよ……」

 沈黙が場を覆った。

 気まずい悠太をよそに、瑠香は筆を動かし始めた。

「ところで、あんたこそなんで居残ってるの? 生徒会?」

「それもあるけど、マリアさんを案内してて……」

 瑠香は険しい目付きで、悠太の顔を見つめた。

「須賀さんが、どうかしたの?」

「それがさ、校舎を案内して欲しいらしくて……まあ、理由はマリアさんから直接……」

 悠太が入り口に目をやると、そこにマリアの姿はなかった。廊下の壁が、何も描かれていないキャンバスのように、こちらを窺っていた。

「どこにいるの?」

 瑠香は体を乗り出して、人の気配を探った。

「……帰ったみたいだね」

「帰ったぁ?」

 裏返った声に自分でも驚いたのか、瑠香は姿勢を正し、コホンと咳払いをした。

「ま、いいわ。須賀さん、今日の様子だと距離取ってるみたいだし、あんたに話しかけただけでも、よしとしましょう。ところで、さっき部長から聞いたけど、うちの予算、増額してくれたらしいじゃない」

「僕はただ、予算規約に沿って計算しただけだよ」

「……そう」

 悠太はそう言って、キャンバスを離れた。

 これ以上、予算の話には言及されたくなかった。

「もう帰るの?」

「今日はちょっと用事があるし……瑠香はどうするの?」

 瑠香は視線をキャンバスに留めたまま、しばらく唇を結んだ。

「……私も用事があるけど……あと少し描いていくわ。この薔薇、明日には萎びちゃってるでしょうし……」

「練習なんだろ? 園芸部に分けてもらえばいいじゃない」

 悠太の疑問に、瑠香は軽く笑みを漏らした。その口の端に嘲りを感じた悠太は、ムッとして彼女に向き直った。

「何がおかしいんだい?」

「私が描いているのは、この薔薇であって、他の薔薇じゃないわ」

「薔薇は薔薇だろう? きみの腕なら、形が多少変わったって、同じように描けるさ」

「いいえ、この薔薇はこの薔薇であって、他の薔薇じゃないのよ。私たちには、ひとりひとり個性があるでしょ。それと同じで、薔薇にもそれぞれ個性があるわ。私は、そういうものを描いてみたいの」

 瑠香お得意の藝術論と受け取った悠太は、彼女に勝ちを譲った。理性で美を論じるのは、悠太の好むところではなかった。彼は、机上の鞄に手を伸ばした。

「だったらなおさら、僕みたいな無個性な人間は描かない方がいいよ」

 それが余計な台詞であったことを、悠太は瞬時に理解した。

「……それじゃ、また明日」

「……」

 廊下に出た悠太は、去り際に室内を顧みた。瑠香の孤独な姿が、夕焼けの中に閉じ込められていた。

 自画像でも描けばいいのに。そんなことを思いながら、悠太は扉を、そっと閉めた。

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