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イスカリオテのぼくと、マグダラのわたし  作者: 稲葉孝太郎
第1章 カミサマの誕生
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主よ、わたしは深いふちから、あなたに呼ばわる。

主よ、どうか、わが声を聞き、あなたの耳を、わが願いの声に傾けてください。

主よ、あなたがもし、あらゆる不義に目をとめられるならば、主よ、だれが立つことができましょう。

しかしあなたには、ゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう。

わたしは主を待ち望みます、わが魂は待ち望みます。そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます。

わが魂は夜回りがあかつきを待つにまさり、夜回りが暁を待つにまさって、主を待ち望みます。


──『詩篇』130より

 この町にカミサマが現れたのは、風もまだ涼やかな、皐月初めのことだった。カミサマ。それは、これまで誰も耳にしたことがない、ネットの検索エンジンでも定義不可能な、言葉のみの存在であった。

 カミサマ。この四文字の秘密を明らかにするため、現実と仮想空間の双方で、空しい努力が積み重ねられてきた。あるブロガーによれば、それはラテン語のCAMI SUMMAに由来しており、宇宙の真理と我々との間に結ばれた、最高位の轡を意味するのだと言う。けれども、この語源的な解釈よりも遥かに多くの支持を集めたのは、次のような説であった。すなわちカミサマとは、NASAが開発した人工知能であり、その未来予測機能をテストするため、秘密裏に瀬戸内海沿岸の在日米軍基地が選ばれたのだ、と。

 二ヶ月におよぶ執拗な議論に疲れ果てたネットの住民たちは、結局それを意味のない文字列だと決めつけて、この問題をまとめサイトの隅へと追いやってしまった。実際、彼らにとって重要なのは、このユーザーの(あるいはプログラムの、宇宙人の、イカサマ師の)名前などではなかった。人々の関心を惹き付けていたのは、このカミサマなる存在が、インターネット上で町の未来を予言することなのである。

 Y県東部に位置するI高等学校二年A組においても、その事情は変わらなかった。生徒たちはこの二ヶ月間というもの、休み時間や放課後に暇を見つけては、カミサマの些細な予言に一喜一憂する日々を送っていた。だが、子供の気晴らしと呼ぶにはあまりにも壮大な、このクラスメイトたちの戯れから、そっと距離を取る生徒の姿も見受けられた。教室の窓際、一番後ろの席で校庭を眺めている大人しげな少年も、そのひとりであった。

「よお、悠太ゆうた

 名前を呼ばれた少年は、開け放たれた窓枠から目を離し、ゆっくりと声の主を振り返った。彼の目の前には、前髪に金色のメッシュを入れた、ノリの軽そうな少年が立っていた。悠太はそれまでの鬱々とした表情を和らげ、くったくのない笑みを浮かべた。

「どうしたの、真飛まとぶ?」

 真飛と呼ばれた相方は、白い歯を覗かせて爽やかに笑った。

「昨日のカミサマの予言、知ってるか?」

 悠太は黙って、首を左右に振った。それを語りの催促と誤解したのか、真飛は机に手をついて、悠太との距離を詰めた。

「最近、沖合でサメが目撃されたのは、知ってるよな? 三日三晩、漁業組合が追い回してたやつさ。さすがに悠太でも、知ってるだろ? そいつが釣り上げられるって予言を、カミサマが今朝、ぴしゃりと当てたらしいぜ。船を持ってる親戚の兄ちゃんから聞いたんだ。ニュースにもなってたし、これで安心して泳げるってもんだよな」

 真飛の話に耳を傾けながら、悠太はこっそりと、教室の中央を盗み見た。いつもなら、ちょうど教室の真ん中で、カミサマの予言についてクラスメイトたちと語り合う真飛。その真飛がこうして自分のところまでやって来た理由を、悠太は十分に心得ていた。今日ばかりは、生徒たちの関心が、他に移っていたのである。

 真相は、こうだ。既に七月も半ばを過ぎ、夏休みが始まろうというこの季節に、転校生が来るという噂が流れた。最初に職員室でこの話を聞きつけた生徒の報告によれば、転校生は東洋人と西洋人の血が流れた、美しい少女であったと言う。男子生徒たちは異様な盛り上がりを見せ、女子も少なからぬ好奇心をそそられているようだった。

「ところで、学校終わったら、Flyに寄って行かね?」

 真飛の声が、悠太の回想を遮った。期待に満ちた眼差しの真飛に、悠太はお断りの返事を与えた。

「ごめん、今日は生徒会の仕事があるから……」

「そんなのサボれよ」

「無理だよ。後期の予算会議だから、会計の僕は欠席できないんだ」

「参ったなあ……おまえがいないと困るんだよ……」

 そう呟いた真飛に、悠太は内心、苦笑した。こういうところで思惑を隠せないのが、真飛のよいところでもあり、悪いところでもあった。

「ねえ、今日はひとりで誘ってみたら?」

 悠太の提案に、真飛はぎょっとなった。見る見る顔が赤くなり、視線を横に逸らした。

「そりゃ……そのうちな……」

「あ、来たよ」

 廊下の曇りガラスに、ふたつのシルエットが透けた。噂をすれば影ということか。背筋を伸ばし、規則正しく動く先頭のそれは、彼の幼馴染み、津川(つがわ)瑠香るかのものに違いない。そう見分けがつくほどに、ふたりは長い付き合いだった。ただ、その背後にもうひとつ、得体の知れない人物が歩いていた。そのことが、悠太の視線を引いた。

 ふたつの影はドアの後ろへと消え、扉が音を立てて開いた。

「ホームルームの時間です」

 ドア越しに現れたのは、やはり瑠香だった。ぱっつんと切りそろえた前髪にポニーテールという、少々珍しい組み合わせ。眼鏡の下から覗く鋭い瞳を前にして、騒がしかった教室は、しんと静まり返った。

 瑠香の登場を合図に、散らばっていた生徒たちはめいめい、自分の席へと戻って行った。幾度となく繰り返される朝の光景に、悠太は奇妙な安心感を覚えた。

 瑠香は教壇の前に立つと、白いチョークを手に持ち、黒板に文字を綴り始めた。担任の代理というわけではない。悠太の学校では、重大な案件を除いて、ホームルームが生徒たちの自主的な活動に委ねられていた。どのクラスにおいても、司会を務めるのは委員長と相場が決まっていた。

 瑠香のしなやかな指の動きを、悠太はぼんやりと目で追った。美術部に所属する彼女の指先は、デッサンのような正確さで文字を刻んでいく。もっとも、今そんなことに関心を抱いているのは、悠太と、そしてもうひとり、彼女に淡い恋心を抱いている真飛のふたりきりであった。残りの生徒の関心は全て、彼女の隣に向けられていた。

「こちらが、今日から私たちのクラスメイトになる、須賀マリアさんです」

 瑠香はチョークを置き、左に佇む少女を眼差した。それは、真夏の白雲のような穢れのない肌に、夕暮れ前の空を思わせる濃い碧眼を埋め込んだ、アンティークドールのような美しい少女だった。くすんだ黄金色の髪が腰まで垂れ、その流れに合わせるかのように地面へと伸びた両腕が、革製の鞄の上で交差していた。

 クラスの好奇心を一身に集めた少女は、軽くお辞儀をし、静かな声で自己紹介を始めた。

「はじめまして、須賀すがマリアと言います。今日からこの学校で勉強することになりました。よろしくお願いします」

 比較的流暢な日本語で挨拶を終えた少女は、視線を虚空に留めたまま、俯き加減で動きを止めた。そんな彼女を前にして、教室からざわめきが起こった。

「めっちゃ美人じゃん……」

 男子のひとりがぼそりと、だがはっきりと聞こえる声で、そう呟いた。

「ちょっと、いきなり失礼でしょ」

 それを咎める女子一名。

「美人のどこが失礼なんだよ。クラスの女子はやきもち禁止」

 また別の男子。

「はあ? あんたたちねえ……」

 さきほどの女子が立ち上がろうとした瞬間、ドンと黒板が鳴り、生徒たちは一斉に正面へと向き直った。鋭い目付きをますます尖らせた瑠香が、高校生にあらざる威厳を発して、浮き足立ったクラスを掌握した。

「須賀さんはアメリカから来たばかりですが、お母さんが日本人なので、日本語の心配はありません。生活面や文化の違いなどについては、クラスメイトとして色々助けてあげてください。さて、須賀さんの席ですが……」

 クラスの男子たちが息を呑む中、瑠香は教室の隅を指差した。

仮屋かりやくんの隣です」

 彼女の指先に合わせて、クラスメイトたちも同じように悠太の方へと首を捻った。

「おい、マジかよ。幼馴染み同士、仕組んでんじゃないの?」

 男子のひとりが叫んだ。その声の主に、瑠香は厳しい視線を投げ掛けた。

「仕組むも何も、この教室で空いてる席は、仮屋くんの隣しかありませんが?」

 動かしようのない事実に、反論する者はいなかった。

「では須賀さん、席についてください。別の議題がありますので」

「はい」

 消え入りそうな声でそう答えたマリアは、静寂の中をゆっくりと、悠太の席に向かって歩き始めた。彼女が机の間を通り抜けるたびに、生徒たちは様々な反応を垣間見せた。無遠慮に少女の顔を覗き込む者から、無関心を装う者まで、十人十色であった。

 マリアは悠太の隣に来ると、一瞬だけ視線を交わし、右隣の空席へと腰を下ろした。言葉なく鞄を置き、人形のように前を見据える少女。悠太は頬肘をつき、なるべく角度を変えないように注意しながら、転校生の横顔を盗み見た。本当に奇麗な人だと、少年は単純な感想を抱いた。

 悠太の視線に気付いたのか、マリアはふいに、その細い首を動かした。

「どうしました?」

 悠太は内心、焦った。良からぬ出だしだと思った。

「ご、ごめん、何でもないよ」

 悠太は姿勢を解き、焦点を自分の机に意味もなく固定した。

 しかしマリアの方が、少年を放っておかなかった。

「ガイジンは珍しいですか?」

「……全然」

 嘘ではなかった。この町には米軍基地があり、殊にアメリカ人はいくらでも見かけることができるのだ。他の学年にもベース関係者の子供がおり、地元の生徒たちと日常生活を送っている。物珍しさからマリアに注目が集まっているわけではない。そのことは、悠太自身にも当てはまった。

 とはいえ、彼女の美しさに見蕩れていたというのは、なおさら告白の憚られる理由であった。悠太は、この場を沈黙で誤摩化そうと決意した。ごちゃごちゃと言い訳するよりはいいだろう。そう考えたのだ。

 けれども、マリアはそれを許さなかった。

「カリヤ……くんですか……?」

「ん? ……あ、ああ、そうだよ」

「First name?」

 悠太は最初、マリアの口走った言葉を理解できなかった。それが英語であること、そしてファーストネームのネイティブな発音であることに気付くまで、数秒を要した。

「下の名前は悠太だよ」

「ユウタ……よろしくお願いします」

 マリアは、ひどく丁寧に頭を下げた。あっけに取られた悠太も、慇懃な会釈を返した。彼がおもてを上げたところで、マリアは再び唇を動かした。

「ユウタは、選ばれた存在ですか?」

「選ばれた……何?」

 突然の謎かけに、悠太は眉をひそめた。席決めの話だろうか。さきほどの冗談めいたやり取りが、マリアの眼には奇異に映ったのかもしれない。その可能性は、十分に考えられた。けれども悠太は、何かを仄めかされたような気がした。親しみでも蔑みでもない、朧げな予兆を感じ取った悠太は、知らず知らずのうちに、相手の顔を直視していた。すると、吸い込まれそうなほど深いサファイア色の瞳が、悠太の意識を釘付けにした。悠太は、しばらくの間じっと、虹彩のゆらめきに魅入っていた。

「ユウタ、聞いてますか?」

 マリアの声に揺さぶられた少年は、慌てて質問に立ち返った。

「え、選ばれたって、どういう……」

「仮屋くん!」

 瑠香の叱責が、ふたりの会話を断ち切った。悠太が黒板に向き直ると、瑠香が怒ったような顔で、こちらを睨んでいた。

「仮屋くん、私語は慎んでください」

「ご、ごめん……」

 くすくすという笑い声。ざまあみろと言いたげな、男子生徒の顔もあった。会話のきっかけを作ったのは、明らかにマリアの方だったが、初日の転校生に責任転嫁する度胸を、悠太は持ち合わせていなかった。

 ホームルームの間中、悠太は、マリアと目を合わせないように努めた。夏休みの過ごし方に関する、瑠香の味気ない説明を聞きながら、太陽に輝く哀れなサメの尾ひれを、少年は青空の海に見たような、そんな気がした。

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