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イスカリオテのぼくと、マグダラのわたし  作者: 稲葉孝太郎
第6章 タダイ老人、かく語りき
17/38

16

 翌日の午前九時過ぎ、悠太は学校へ行くと偽って、制服姿で家を出た。休日に登校する気など、さらさらない。真の目的は、ヨハネが教えてくれた、あの老人ホームだった。

 インターネットの地図情報を調べたところ、目標の建物は、少年にとって難儀な場所にあることが判明した。遠くの山裾に位置しており、悠太が普段使っている路線からも、自宅近くのバス停からも、連絡はなかった。おそらくは、自家用車での乗り入れを前提にしているのだろう。車を運転できない悠太にとっては、かなりの重労働であった。

 悠太は、炎天下での自転車レースを覚悟した。ところが、もう少し調べてみると、I市の中央駅からは、その老人ホームを通りがかるローカルバスが出ていることに気付いた。そこで悠太は、まず中央駅に出て、フラワーショップ・ハルゾノを偵察し、それからバスで只居老人を訪問するというプランを練った。

 かくして悠太は、予定通り中央駅の改札口を抜けて、駅前に降り立っていた。

「ハルゾノは確か……」

 念のため印刷した地図を、胸ポケットから取り出す。商店街から離れた裏通りに、赤い×マークがつけてあった。それが、ハルゾノの店の位置である。

 悠太は国道の番号を確かめ、それを真っ直ぐに北上した。目印の銀行が見えたところで左折し、さらに進むと、目当ての花屋らしきものが、視界に入ってきた。店の前に並べられた可憐な花々を通じて、少年は自分が方向音痴でないことを確信した。

 さて、どうスパイしたものかと、少年は電柱に隠れて、様子を窺った。するとうまい具合に、店の中から人が現れた。茶色の髪をポニーテールに結った二十歳そこそこの女性が、穏やかな目で、花の世話をしていた。その横顔を垣間みた瞬間、悠太は心の重荷が取れた。

 ほらみろ、違うじゃないか。少年は、素直な感想を漏らした。安心して踵を返そうとしたとき、彼は、あることを思いついた。只居を訪問する口実作りのため、悠太は駆け足で、ハルゾノの店舗へと接近した。

「いらっしゃいませ」

 制服姿の少年を不審に思ったのか、女の声は僅かに困惑していた。悠太は、思いついたばかりの嘘を並べ立てた。

「すみません、祖父のお見舞いへ行くんですけど、適当に花を選んでいただけませんか?」

「あら、ご病気ですか?」

「いえ、老人ホームに行くだけです」

「そうですか……少々お待ちください」

 子供なのに感心だ。そんな調子で頷くと、女は店の中へと引っ込んだ。財布には痛いが、見ず知らずの老人を手ぶらで訪問しても、取り合ってくれないかもしれない。その予想が、悠太にこの作戦を閃かせたのだった。

 女はピンク色のエプロンをひらめかせ、花を一本一本よりすぐっていた。その動作を眺めていた悠太は、ふとその横顔に、誰かの面影を見たような気がした。

 ……いや、勘違いだろう。少年は首を振り、自分が歩いてきたばかりの通りに、何気なく視線を戻した。その瞬間、悠太の顔が凍り付いた。曲がり角のところに、よく見知った人物が現れたのだ。

 悠太は逃げ場を求めて、狭い路地裏に飛び込んだ。高鳴る心臓に落ち着けと命じながら、相手が通り過ぎるのを待った。ところがその靴音は、ちょうど花屋の前で止まった。束の間の静寂。店の中から、小走りな別の足音が聞こえた。

「マイちゃん!」

 悠太は呼吸を止めた。そして、全感覚を鼓膜に集中させた。

「カナちゃん、元気?」

「うん、この前は本当にありがとう……あれ、マイちゃん、何だか顔色が悪いよ?」

「ちょっと仕事が忙しくて……でも良かったわ。結婚式は挙げられるのね?」

「うん、後は貯金を下ろせばなんとかなるわ。大丈夫。お金はちゃんと返すからね」

「いいのよ……あれは別に……」

 会話は、そこで途切れた。悠太は、意識的に息を止めては吐くという、不自然な呼吸のリズムに苛まされていた。意識が混濁してきた。少年は、固く眼を瞑った。

 だがその一方で、思考だけは妙に冴え渡っていく感じがした。もはや自分を騙すことなどできなかった。ふたりの会話から、すべてを理解してしまったのだ。

「来月は夏休みだし、お姉ちゃんも出席してくれるよね?」

「もちろんよ……何があっても行くわ……」

 女たちの会話は終わらない。悠太は、裏路地を反対側へと歩き始めた。雑草を踏む音にびくつきながら、耳だけを背後にそばだてた。

「ところで、その花束はどうしたの? 売り物?」

「え? ……あれ? お客さん、いなくなっちゃった……」

「いなくなった……? 冷やかしだったんじゃない? 気をつけなさいよ」

「でも、マイちゃんの学校の制服を着てたよ。真面目そうな男の子だったけど……」

「うちの生徒?」

「ええ、おじいちゃんのお見舞いとかなんとか……どこ行ったんだろ?」

「まだその辺りにいるんじゃない?」

 まずい。ここへ逃げ込んだのがバレてしまう。悠太は多少の物音を覚悟し、反対側の通りへとダッシュした。途中で躓きかけたのを何とか踏ん張り、少年は大通りへと駆け出した。出口で人にぶつかりそうになったのも軽くかわし、謝罪の言葉を口にして、そのまま駅前へと向かった。

 バス停だ。そこへ行けば、何もかも忘れられる。悪夢だ。白昼の悪夢だ。悠太は無我夢中で走った。息切れを起こしながら、駅前のバス停に到着した。ちょうど一台のバスが、扉を開いている最中だった。悠太は、車体に掲示された路線番号を確認した。

「これか?」

 番号は、悠太の記憶と一致していた。念のため運転手に話し掛け、行き先を確認した。運転手が頷いたのとほぼ同時に、悠太はバスの中へ飛び乗っていた。

 空気の抜ける音がして、前後の扉が閉まった。車内はガラガラだった。悠太は最も手近な席を選び、そこへ身を投げ出した。ここまで走って来たことよりも、花屋で盗み聞きした会話の方が、少年の心臓に負担をかけていた。

 何かの間違いではないだろうか。目の前に突きつけられた証拠を否定するように、少年は首を振った。それでも先ほどの会話は、彼の耳にこびりついて離れなかった。

《マイちゃん!》

 フラッシュバックした声が、大型車両のタイヤと重なり合った。

「……」

 天井から吹きつける冷風が、悠太の思考をクールダウンさせていった。少年は現実に逆らうのを止め、朽木アカネの言葉を思い出した。彼女は言った。名前が一致しない、と。だがそれは、対象を見誤っていたのだ。問題なのは、花屋の店員ではなく、その店員の知人だったのだから。

 悠太は、ヨハネとの情報戦に勝った。しかし競争相手は、とうに退場してしまっていた。朝刊を調べたところ、文化欄の片隅に、朽木アカネの死亡記事が掲載されていた。彼女の才能を惜しむ追悼文と、新作『黙示録』に対する寸評を読んだ少年は、あらためて本屋での行いを詫びた。死因は重度の熱中症。またしても病死であった。

 この暑さの中、自分も脱水症状で息絶えるのではないか。そんな不運をぼんやりと夢想しながら、少年は郊外へと運ばれて行った。

 

 ✞

 

 アスファルトの熱を靴底に感じながら、悠太はバスを降りた。走り去るバスのエンジン音を背中に聞きながら、少年は眼前の景色に目を奪われた。青々とした木々が風に揺れ、その向こう側に真っ白な建物が息づく、幻想的な世界。周囲には民家も畑もなく、涼やかな小川のせせらぎが聞こえてきた。

 悠太は夏の日差しに包まれて、しばらくその施設を眺めたあと、市道から分岐する石畳へと視線を落とした。入口には、艶やかな大理石に刻み込まれた【緑風園】の文字。それが、少年の目指す老人ホームの名前だった。

 悠太は意を決して頷くと、石畳の上に靴底を乗せた。左右の木々が日陰を作り、七月のうだるような暑さが消えていった。玄関の手前で陽が射したときは、かえって心地よさを感じたほどだ。その玄関も、地面と同じ高さに設置されており、普通なら気取ったように待ち構える段差も傾斜も見当たらなかった。

 自働ドアをくぐると、適度に調整されたクーラーの冷気が、少年の肌を覆った。病院の待合室を思わせる空間に、人影はなかった。辺りを見回すと、受付の標札が目に留まった。悠太は緊張した面持ちで、そちらへ足を伸ばした。

「すみません」

 若い女がひとり、受付の奥で週刊誌を読んでいた。少年の声に驚いたのか、サッとそれを閉じ、ぎこちない愛想笑いを浮かべた。

「はい、どちら様でしょうか?」

 ここからが肝心だ。悠太は、あらかじめ用意しておいた台本をなぞっていく。

「只居武文さんにお会いしたいのですが」

「只居さんですね……お孫さんでしょうか?」

 これは予想していた質問だ。勝手に思い込んでくれれば易いものだが、いざというときの身分証明が不可能であった。悠太は、別の回答を用意していた。

「いえ、高校の敬老会でお世話になった者です」

 完璧だ。確かめようがないうえに、高校の制服を着ている。受付の女もそう思ったのか、少年と只居の関係をそれ以上追及することなく、部屋の奥へと引っ込んで行った。そして、若い男と一緒に戻って来た。

 女は端に寄り、男の職員が話を引き継いだ。

「お名前をよろしいですか?」

「仮屋悠太です」

「学生証はお持ちですか?」

 悠太は、用意しておいた学生証を提示した。

 それを確認した男は、再び顔を上げた。

「ご用件は何でしょうか?」

「今度学校の新聞部で、町の歴史をまとめることになりました。ぜひ只居さんから、お話を伺いたいと思いまして」

 これも確認のしようがない話だ。まさか一々、学校へ電話するわけにもいかないだろう。夏休みなのだから。

 男は納得したのか、それとも目の前の少年を人畜無害だと判断したのか、同僚の女に部屋の番号を告げた。

 悠太は、受付の窓口に顔を近付けた。

「すみません。できれば只居さんと、ふたりで話したいのですが、ダメでしょうか?」

 相部屋はまずい。そう考えた悠太に、男は意外な答えを返した。

「只居さんはシングルルームですから、大丈夫ですよ」

 悠太はその場で小躍りしかけたが、ふと疑問にぶつかった。介護施設が不足するご時世にひとり部屋とは、よほど裕福なのだろうか。

 そのことについて深く考える暇もなく、奥に控えていた女が口を開いた。

「では、只居さんにご訪問を知らせて参ります」

 女が踵を返したところで、悠太は慌てて口を挟んだ。

「只居さんに伝えていただけないでしょうか。五月からみんな待っているのですが、只居さんがいらっしゃらないので、残念に思っています、と」

 悠太の伝言に、ふたりの職員は目を白黒させた。自分で伝えればいいではないか。そう考えたのだろう。

 けれどもこれは、テストなのだ。只居が使徒かどうかを判断するリトマス試験紙。色を読み違えれば、取り返しのつかないことになる。

 自分の命が懸かっていることに、悠太は唐突な悪寒を覚えた。なんという冒険に踏み込んでしまったのだろう。これまで過ごしてきた日常との隔絶に、少年は唖然とした。

 呆然と受付の前で立ち尽くす悠太に、職員の男が話し掛けた。

「お手数ですが、こちらの台帳に記入をお願いします」

 そう言って男は、訪問客リストを差し出した。

 悠太は渋々ボールペンを受け取り、自分の名前を書き込んだ。ここから足がつくこともあるまいと、悠太はタカをくくった。

「座ってお待ちください」

 悠太は指示されるがまま、待合室のソファーに腰を下ろした。視線を正面の壁に固定し、意識を内面に集中させた。先ほどのメッセージを、あの女は正確に伝えてくれただろうか。五月からずっと待っている、と。もし只居が、万年欠席使徒のタダイであるならば、この伝言の意味が分かるはずだった。悠太は、その可能性に期待した。

「仮屋悠太さん」

 呼び声に顔を向けると、先ほどの女がエレベーターの中に立っていた。悠太は無意識に腰を上げた。成功か、失敗か。少年の中で緊張が走った。

「只居さんが、お部屋でお待ちです。こちらへどうぞ」

 成功。だがそれは、失敗よりも遥かにプレッシャーの高い結果だった。もしかすると自分は、只居に追い出されることを願っていたのかもしれなかった。覚束ない足取りで、悠太はエレベーターへと乗り込んだ。

 扉が閉まり、女は四階のボタンを押した。最上階だ。

 高級品なのか、エレベーターは震動もなくスッと上がり、スッと止まった。扉がゆっくりと開くまで、本当に到着したのか分からなかったほどだ。

 扉が開き切ると、女は目で先に降りるよう合図した。ふかふかの絨毯に足を乗せ、悠太はエレベーターを降りた。それに続いて女も、狭い空間を後にした。

「こちらです」

 女は先頭に立ち、廊下を右手へと歩き始めた。悠太もそれを追い、ふたりは一番奥に行き当たった。只居武文という名札が、ドアの左側に掛けてあった。

 女は三度ノックし、返事を待たずにドアノブを下ろした。

「只居さん、仮屋悠太さんがいらっしゃいましたよ」

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