11
午後三時。中途半端な時間帯のローカル線ほど、のどかな気分を誘うものもない。自分ともうひとりの老婆を乗せた車両に揺られながら、悠太は過ぎ行く町並みを目で追っていた。夏の日差しと効き過ぎたクーラーのコントラストが、居心地の良い空間を作り出していた。
窓辺で頬肘をついた悠太の思考は、目の前の素早い景色には向けられていなかった。生徒会室のパソコンにアクセスし、音楽サイトを巡回するフリをして地元のローカル新聞にアクセスしたところ、下野洋助の死亡記事が見つかったのである。あまりにも画面を凝視し続けていたため、会長に不審がられたほどだ。
その場を何とか誤摩化した悠太は、賑やかな会話の流れに溶け込めず、こうして早々と家路についていた。予算作成の労をねぎらってくれたメンバーには悪いと思ったが、今はそれを享受する精神的余裕がなかった。
校門から駅まで、ホームから車内まで、悠太の頭の中には、取り止めのない思考が渦巻いていた。死因が心臓発作であることは、新聞の報道からほぼ間違いないように思われた。
下野の死と、シモンの死。両者の繋がりを知っているのは、自分だけだろう。そう考えたところで、客席の悠太は、ふと体を動かした。少年の微妙な動きを追う者は、誰もいない。唯一の同乗者である老婆は、隅の方でじっと眼を瞑っていた。
悠太は、視線を車窓に戻した。そしてもう一度、同じ疑問に立ち返った。このことを知っているのは、本当に自分だけなのだろうか。下野は、他の使徒たちともコンタクトを取った可能性がある。仮にそうだとすれば、その使徒もまた、市議会議員候補の死とシモンの不在とを関連づけることができるはずだ。悠太は、新たな線を追った。
「……待てよ」
悠太の脳裏に、金曜日のことがはっきりと思い出された。映画のコマ送りのような映像の中から、彼はふたつの台詞を抜き出した。
《そうか……手紙をくれたのはもうひとりの方か……》
《全員の素性を突き止めたわけじゃない。それは、このあと分かることだからね》
「あっ!」
悠太は口元を抑え、車内を見回した。老婆は、相変わらず目を閉じていた。耳をそばだてている様子もなかった。
安全を確認した悠太は、思考の海に再び身を沈めた。そして、下野の台詞が意味するところを考えた。彼がもうひとりの使徒とコンタクトを取っていたことは、最初の台詞から明らかだった。いや、むしろそのひとりとしか連絡が取れていなかったのではないかと、悠太はそう結論付けた。「もうひとり」という言い回しは、悠太とその使徒との二者択一を意味するからだ。
では、二番目の台詞は、何を意味しているのだろうか。そこへ知性を働かせ始めたとき、車内放送が鳴った。駅に着いたのである。
悠太は腰を上げ、次第に速度を落とす電車の慣性に身を委ねた。人気のない田舎駅に到着し、扉が開いた。青空と雲の下で、少年はホッと息を吐いた。どこからともなく蝉の声が、線路を離れる車輪の音と重なり合っていた。
少年は二番線から一番線へと続く歩道橋を駆け上がり、無人の改札を抜けた。駅前の小さな駐車場には、民営バスが一台、市内への表示を出して停まっていた。運転手は席を外し、赤いポストの近くで煙草を吹かしていた。
悠太はそばを通り過ぎ、国道沿いに右手へ曲がろうとした。そのときふと、車線の向こう側に、一枚の看板が映り込んだ。Flyというアルファベット三文字が、排ガスで汚れた白板に、赤いペンキで書かれていた。
Fly。それは、駅前の喫茶店である。駐車場すらない、簡素な店構え。賑わってこそいないものの、その静閑さがかえって、学生たちに安らぎを提供していた。悠太は当然、真飛と別れるときの会話を覚えていたが、そのまま家路を辿ろうとした。あれから三時間も経っているのだ。真飛は、一ヶ所にじっとしているような性格ではない。
ところが悠太の予想は、あっさりと裏切られた。窓際の席に、金髪メッシュの少年を認めたのだ。これも何かの腐れ縁だろうと思い、悠太は横断歩道沿いに遠回りして、Flyのガラス戸を開けた。涼やかな鐘の音が、店内に響き渡った。
その音色に共鳴した少年の心は、真飛が座っている席の前で、石のように固まった。真飛はひとりではなかった。先客がいたのだ。しかも、それは同じ学校の女子であり、悠太も微かに見知っている少女であった。
入穂数江。ツインテールに小ぶりな顔立ちが眩い少女は、店内に入って来た悠太をただの客と認識したらしく、何の関心も示さなかった。
真飛の方は、一瞬驚いたようだが、すぐに例の笑顔で右手を上げた。
「何だ、来たのか」
その挨拶に合わせて、入穂は悠太に視線を向けた。邪魔者を見るような目付き。マリアのそれよりも一層細い顎に、グッと力が込められたのを、悠太は見逃さなかった。
もっとよく確認すべきだったと後悔しながら、悠太は挨拶を返した。
「ちょっと、コーヒーでも飲もうかと思って……」
「そっか、ちょうど良かったぜ」
そう言うと、真飛は入穂に向き直り、両手をひらひらと振ってみせた。
厄介払いである。
「というわけで、俺は悠太に用があるから、続きはまた今度な」
「ええ、そんなの酷いですよお」
入穂は拗ねたような顔をして、プクっと頬を膨らませた。あからさまな媚びの売り方に、さすがの悠太も演技だと気付いた。
「俺は、あいつに用があるんだよ」
「もお、真飛先輩は冷たいなあ」
そう言いながら、入穂は既に腰を上げていた。どうやら、引き際というものを心得ているらしい。飲みかけのアイスティーには手をつけず、喫茶店を出て行った。鈴の音が鳴る中、入穂は悠太にウィンクを送った。後輩の軽薄ないたずらか、それともこの場を邪魔したことに対するあてつけか、悠太は判断しかねた。ただ、彼女の目付きがどこかしら探るようなものだったことに、少年は薄々勘付いていた。
入穂の背中を見送った悠太に、真飛は座れと催促した。彼女が座っていた椅子に腰を下ろすと、妙な温もりが感じられた。それをなるべく意識しないように努めながら、悠太は本題に入った。
「で、用事って何なの?」
悠太の質問を無視して、真飛はポケットからスマートフォンを取り出した。何だ、入穂を追い出す口実に使われただけかと、悠太はそう思い込みかけた。
ところが、真飛は器用にフリックを繰り返したあと、液晶画面を悠太に示した。それを覗き込んだ悠太の顔は、クーラーに冷えきった空気と同じ温度にまで青ざめた。
「これ……まさか……」
「ああ、カミサマの花さ」
そう言って真飛は、画面を悠太の顔に近付けた。
鳥の羽ばたきに似た花弁が、紫色に毒々しく色づいていた。
「いったいどこで……」
そのとき、アルバイトの店員が、注文を取りに来た。真飛はサッとスマホを隠し、悠太は店員に怪しまれないよう、自分に注意を惹き付けた。
「アイスコーヒー、ブラックで」
「かしこまりました」
店員は、入穂の飲み止しを片付け、カウンターの向こうへと引っ込んだ。
悠太は真飛に向き直り、声を落として先を続ける。
「どこで撮ったの?」
「とりあえず、このサイトを見ろ」
真飛はスマホをテーブルの上に置き、身を引いた。悠太は、その最新機器と友人の真面目な顔付きとを見比べたあと、おもむろにスマホへ手を伸ばした。
画面に映っているのは、確かにカミサマの花だった。悠太は最初、真飛が中庭でこっそり盗撮したものではないかと疑ったが、すぐその間違いに気付いた。真飛が開いているのは、インターネットの通信販売サイトなのだ。但し、個人経営の慎ましいホームページである。
ブラウザのタイトル部分には【フラワーショップ ハルゾノ】の文字。
花屋だった。それを見た瞬間、悠太は二度目のショックを受けた。
「ハルゾノって……」
「ああ……舞先生の名字だよ……」
そんなことは言われなくても分かっていると、悠太は口を噤んだ。
だが、それは数秒と続かなかった。
「でも、これは店の名前だし……」
「お待たせしました」
店員の声に、ふたりはどきりとなった。テーブルのそばに音もなく現れた店員は、心なしか目を細め、悠太が手で覆ったスマホを盗み見ていた。アイスコーヒーのグラスを悠太の前に置くと、事務的な態度で、お盆を胸元に添えた。
「ごゆっくりどうぞ」
そう言って、店員は再び奥へと引っ込んだ。去り際に、女の冷たい目線を感じた。アダルトサイトを閲覧中とでも思われたのだろうか。
しかしそんなことは、今の悠太にはどうでも良かった。アイスコーヒーを放置して、真飛に話し掛けた。
「ハルゾノなんて、花屋だと普通にありそうじゃないか」
「本当にそう思うか?」
悠太は、曖昧に頷き返した。真飛が納得していないのは、一目瞭然であった。
「要するに君は、先生があの花を転売したって言うの?」
「そうは言ってねえだろ」
「じゃあ、何が言いたいわけ?」
悠太の問いに、真飛は口をすぼめた。自分でも何がしたいのか、分からないといった表情だ。考えあぐねる相方をよそに、悠太はもう一度花の写真を確認した。確かにそれは、中庭で見たものと似ていた。あのとき一階に降りなかったことを、少年は今さらながらに後悔した。
しかし、花は花だ。世界にひとつしかない珍種でもあるまい。現に、容疑者の春園は、その名前を知っていたではないか。そう考えて、悠太は反論を試みた。
「わざわざ花を横流しする人なんていないさ。珍しいとは言え、そこまで……」
「値段を見てみろよ……下の方に書いてある」
真飛に促され、悠太は液晶に触れた。画面をスクロールさせた指が硬直する。
「一本……九千八百円!」
しかも値段の横には、【大特価】の売り文句。混乱した悠太は、その下の説明書きに目を通した。カサブランカ。貴重色。限定四十本。ページの末尾には【完売】の二文字があり、お礼を示すコメントが添えられていた。
春園はこの花を、「高価」だと表現した。悠太は、そのことを思い出した。あの時点で、彼女は転売を目論んでいたのだろうか。無邪気な担任の笑顔が、少年の中でぐにゃりと歪んでいくような気がした。
「やっぱり……信じられないよ……」
それが、悠太の結論だった。
真飛は、グラスの底に溜まった緑色の液体を、ストローで啜った。クリームソーダだろうと見当をつけた悠太に、真飛は口を開いた。
「ま、証拠はないんだけどな」
あっけらかんとした自白を受けて、悠太は執拗に頷き返した。
「だろう? むやみに疑うのは良くないよ。もしかしたら、あの花を見て仕入れを思いついたのかもしれないし……そもそも店の名前が一緒だから先生を犯人だと決めつけるなんて、乱暴過ぎるじゃないか。先生は英語教師で、花屋じゃないんだよ?」
思いつくままの理由付けを、悠太は朦朧と口走った。真飛は空のグラスを見つめるばかりで、何とも言えない表情をしていた。
この話はもう止めよう。そう心に決めた悠太は、話題を転じることにした。自分を落ち着かせ、アイスコーヒーのグラスに指を回した。
「そう言えば、入穂さんと話してるところ、邪魔して悪かったね」
悠太の謝罪に、真飛は眉をひそめた。なぜ謝るのかと、そう問いたげだ。
どうやらデートではなかったらしい。そのことを察した悠太は、気軽に話を続けた。
「もしかして、偶然会ったの?」
「いや、あいつが誘ってきた」
「誘ってきた?」
「ああ、変だとは思ったが、断る理由もないんでついて来たら……」
真飛は、そこで言葉を切った。
「ついて来たら?」
「付き合ってくれだと」
ストローに口をつけかけていた悠太の動きが止まった。
悠太は黒い液体から視線を上げ、友人のあけすけな顔を見つめた。
「……きみって、ほんとにモテるよね」
「そんなこたねえよ」
「で、オッケーしたの?」
それが愚問であることは、悠太にも分かっていた。形式的に訊いただけである。真飛は、瑠香一筋なのだから。
真飛も、その質問を鼻で笑い飛ばした。
「んなわけねえだろ」
「ま、そうだよね……それにしても、いきなり振るなんてきみも……」
そこまで言いかけて、悠太はあることに気が付いた。店内で見た入穂の表情は、失恋した女性のそれではない。悠太はコーヒーを飲みながら、全く別の可能性に思い当たった。
「誤解だったら悪いけど……その告白、冗談だったんじゃないの?」
その一言に、真飛もしたり顔で目を閉じた。丁寧にカットされた眉毛が、弓なりのカーブを描いた。
「おまえもそう思うか? ただなあ……」
「ただ?」
「冗談にしては、やけにしつこかったんだよな……」
真飛は深刻な顔で、物思いに沈んでいた。テスト期間中にすら見せない友人の悩みに、悠太は笑いが込み上げてくるのを抑えられなかった。コーヒーを飲み干し、席を立った。
「それじゃ、僕はこれで……」
「ん? もう帰るのか?」
「今日はなんか疲れちゃったよ。悪いね」
「いや、いいさ。俺もすることねえし、帰るとするか」
悠太と真飛はそれぞれ鞄を拾い上げ、レジへと向かった。
先ほどの店員に席の番号を告げると、細い指がキーの上を舞った。
「五百六十円になります」
「へ?」
財布から五百円玉を取り出していた真飛は、ぽかんと口を開けた。
「クリームソーダは三百八十円だよな?」
今度は、店員がきょとんとした。それから、申し訳なさそうに唇を動かす。
「あの……お連れ様の会計がまだですので……」
「連れ? いや、こいつは別会計だよ」
真飛はそう言って、悠太を親指で示した。
悠太もそれに合わせて、店員に頷き返した。
ところが店員は、ふたりの勘違いを否定した。
「いえ、女性の方です……」
「女?」
そこまで言って、ふたりはようやく事態を把握した。入穂がレジに向かったところを、彼らは見ていない。
真飛は歯を食いしばりながら、百円玉をもう一枚取り出し、カウンターに打ち付けた。その金属音の向こうに、悠太は入穂の小悪魔的な笑みを垣間みたような、そんな気がした。




