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 月曜日の朝、悠太は窓際で、青い空をバッグに平身低頭していた。こんなときどう謝ればいいのか、今年で十七歳になった悠太は、己の経験不足を痛感した。

「本当にゴメン!」

 両手を合わせ、深々と頭を下げる悠太。マリアは、大げさな喜劇でも見るかのように、ぽかんと口を開けていた。緋色の唇から、白い歯が覗いていた。

「どうしてユウタが謝るの? 悪いのはマリアだよ?」

 マリアの言葉に、悠太は顔を上げた。必死の形相とは、このことを言うのであろう。周囲に蔓延る好奇の目など、少年はもはや気にしていなかった。

「違うよ、僕が駅の構造を説明しなかったのが悪いんだよ」

 結局、金曜日のすれ違いは、マリアが駅の表口と裏口を勘違いし、線路の反対側で待っていたせいだと、彼女自身の説明から明らかになった。

 あのとき、なぜ下野の車に乗ってしまったのか。少年はあらためて、自分を罵った。

「ユウタは優しいね」

 自ら罪を被る少年に、マリアは柔らかな眼差しを送った。

 その視線に耐えかねた悠太は、頬を染め、教室の中に適当な逃げ場を求めた。

「と、とにかく、この埋め合わせはするから……今日にでも案内するよ」

 今日は終業式。学校が終わるのは、午前中である。他に先約のあった気もするが、少年は思い出せなかった。

 マリアが頷きかけたとき、別の影が悠太の視界を覆った。

「マリアさん」

 声の主を、悠太は即座に同定した。

 瑠香である。彼女はいつの間にか、マリアのそばに立っていた。

「ルカさん……」

 マリアは、悠太から視線を逸らして、瑠香へと注意を向けた。

 それに釣られて、悠太も幼馴染みに向き直った。

「マリアさん、ちょっと話があるんだけど……」

「話……ですか?」

 瑠香の割り込みに、悠太は若干の憤りを覚えた。しかし、真剣な彼女を前にしては、何も言うことができなかった。

 瑠香の用件は、ずいぶんと深刻なようだ。悠太は、そう推測した。

「ええ、終業式が終わったら、ちょっと付き合って欲しいの」

 それはダメだ! 悠太は、思わず叫びかけた。少年のオーラを察知したのか、瑠香は一瞬だけ、彼を盗み見た。けれどもすぐに、マリアへと視線を戻した。返事を待っているのだ。

 マリアは特に考えた様子もなく、寂然と唇を動かした。

「OK」

「ありがとう……それじゃまた後で……」

 瑠香はそれだけ言い残すと、自分の席に戻って行った。話があると言いながら、待ち合わせ場所すら決めていない。そんな切り出し方をした瑠香も瑠香であるが、内容を聞きもせずに快諾したマリアもマリアである。悠太は、ふたりの少女のやり取りに首を捻りながら、机を人差し指で小突いた。

 もう一度マリアに話し掛けようとしたところで、教室の扉が開いた。ざわめきが収まり、春園の靴音だけが、生徒たちの耳に届いた。普段なら軽口の飛ぶ場面だが、声を立てる者はいなかった。

 その理由は、春園の表情にあった。うかない顔をした若い女教師が、背中に影を背負って教壇についた。生徒たちは、お互いに顔を見合わせた。

「病気?」

「アノ日なんじゃね?」

「ちょっと、男子」

 ひそひそと話し合う生徒たちにもお構いなく、春園はうっすらと唇を開いた。

「終業式が始まります。全員、体育館へ移動してください」

 春園は、それっきり押し黙ってしまった。その雰囲気に呑まれた生徒たちは、一言も口を利かずに、そろそろと椅子を引いて教室を後にした。マリアと相談し直す機会を窺っていた悠太も、気後れして声を掛けることができなかった。

 こうして少年は、青春の大切なチャンスを失った。

 

 ✞

 

 終業式は、あっけないほど簡単に幕を閉じた。校長が挨拶している間も、悠太は右隅で俯く春園の姿に気を取られ、話に集中できなかった。もっとも、夏休みを迎える生徒たちに掛けられる言葉など、おおよそ見当はつくのだが。

 その後のホームルームも、春園はそそくさと話を打ち切り、宿題を忘れないようにと告げることも忘れて、教室を出て行った。それからしばらくの間、生徒たちは帰り支度もせずに春園の今日一日の様子について語り合い、その喧噪が隣のクラスを苛ませるほどであった。

 そのうち、ひとり、ふたりと席を立ち、教室のドアを開ける音が聞こえると、他のクラスメイトたちも雪崩を打って、廊下へと飛び出して行った。最後に残ったのは、下校後の予定を話し合う友人グループと、悠太だけである。マリアは瑠香に連れられ、とっくにその姿を消していた。

 個人が居残るような雰囲気ではない。そう考えた悠太は、あてもなく席を立った。

 そこへ、見知った少年が声を掛けてくる。

「おい悠太、このあと空いてるか?」

 悠太の道を塞いだのは、真飛だった。夏休みで浮かれているかと思いきや、真飛の顔はどこかしら真剣味を帯びていた。

「空いてるけど、どうかしたの?」

「Flyに寄ってかないか?」

「いいけど……瑠香はどっか行っちゃったよ?」

「いや、瑠香はいいんだ……ちょっと話したいことがあってな」

 話したいこと。それを聞いて、悠太の顔が強ばる。

「またあの話かい? 何度も言うけど、僕と瑠香は……」

 違う違うと、真飛は右手を振った。

「ちげえよ……別の話だ」

 別の話。それが何なのか、悠太は真飛の説明を待った。ところが真飛は、一向に先を続けなかった。両手を腰にあて、じっと悠太を見つめ返してきた。

 おかしなこともあるものだと、悠太は軽く頬を掻いた。

「そうだね……まあ他にすることも……」

 そこまで言って、ふと悠太は、先週の出来事を思い出した。予算会議が終わって部屋を出るとき、会長に何か約束したような気がした。数秒ほど記憶を探り、それが生徒会の打ち上げであることに、少年は気が付いた。

 悠太は申し訳なさそうに、真飛の顔を見やる。

「ごめん……よく考えたら、生徒会の打ち上げに出なきゃいけないんだよね……」

「そっか……」

 落胆するかと思いきや、真飛は逆に、安堵の表情を浮かべた。話したいことがあると言いながら、それを断られて安心する友人に、悠太は目を白黒させた。

 そんな悠太をよそに、真飛はいつもの爽やかな笑顔へと戻った。

「じゃ、また機会があったらな」

 真飛はそう言って、教室をサッと後にした。

 おかしな時間の浪費に、少年はしばらくの間、呆然と立ちすくんでいた。

 女子の一団が無意味な喚声を上げ、悠太を現実へと引き戻した。

「変なの……」

 悠太は溜め息を吐き、廊下に出た。そのまま階段へと足を伸ばした。生徒会室は、三階の北奥、元一年生の教室に据えられていた。少子化で生徒の数が減り、それを先々代の会長が引き当てたという、棚ぼた的な物件であった。

 階段をのぼりきり、右方向へ軸足をずらそうとした瞬間、悠太は動きを止めた。美術室の扉が開いていた。好奇心に胸をくすぐられた少年は、こっそりと中を覗き見た。

「マリアさん!」

 なぜ大声を出してしまったのか、悠太にも分からなかった。ひとつだけ言えるのは、椅子に座るマリアの後ろ姿を、彼が予期していなかったということだけである。

 名前を呼ばれた少女は、か細い首を捻り、入り口を眼差した。

 そして、唇を開いた。

「ユウタも、モデルになりに来たの?」

 美術室の中央に置かれたキャンバス。そしてその前に、アンティークドールのごとく腰を下ろしたマリア。キャンバスの下に覗くすらりとした脚が、瑠香のそれであることを、悠太は確信した。

 彼は、美の創造に立ち会っていた。

「なんだ……先に言ってくれれば良かったのに……」

 そう言いながら、悠太は許可も得ずに、美術室の敷居を跨いだ。彼の声には、多少の不満が見え隠れしていた。

 瑠香はキャンバスの端から顔を出し、怪訝そうな眼差しを向けてきた。

「何を?」

「マリアさんをモデルに選んだことだよ」

 瑠香は無愛想に、肩をすくめた。

「なんで悠太に言わなきゃいけないの?」

「それは……友達だし……」

「何よ、その理由?」

 返答に窮した悠太は、無遠慮にキャンバスを覗き込んだ。大ざっぱな輪郭が描かれているだけで、マリアの面影は、まだどこにもない。

「描き始めたばかり?」

「そうよ。モデルの話を持ちかけたのが、ついさっきだし」

「そっか……」

 悠太はスケッチに興味を失い、マリアへと視線を向けた。そこには、両脚を斜めに揃え、背筋を伸ばし、華奢な指を膝の上に乗せた異国少女の姿があった。

 少年がぼんやり魅入っていると、何かが脇腹を小突いた。瑠香の肘である。

「ん、何?」

「何、じゃないでしょ。創作中は誰とも喋らないって、悠太なら知ってるわよね?」

「……ごめん」

 悠太は、生徒会室に行く予定だったことを思い出した。

 退室しようと、入り口へ足を向けたところで、ふいに瑠香が声を掛けた。

「悠太は、今朝のニュース見た?」

「ニュース? ……ごめん、朝はニュース見ないんだよね」

 夕方のニュースなら見るというわけでもないのだが、悠太はとりあえずそう答えた。生徒会役員であるにもかかわらず、時事問題には頓着しない質であった。

 否定的な答えを受け取った瑠香は、ややためらいがちに先を続けた。

「下野洋助って知ってる? ……今度の市議選の立候補者なんだけど」

 鞄を落としかけた悠太は、慌てて指先に力を込めた。

「名前を聞いたことはある……かな……」

 声が裏返った。目立つほどの震えではない。しかし、今は相手が悪かった。小学生の頃から付き合いのある幼馴染みなのだ。これまでも、隠し通したはずの出来事が、瑠香にはいつも筒抜けになっていた。今回が唯一の例外になってくれる保証など、どこにもない。

 黙る方が、かえって不自然だ。そう判断した悠太は、積極的に話題を振った。

「その下野って人が、どうかしたの?」

「先週の土曜日に死んだらしいわよ」

 滑り落ちた鞄の音に、少年は気付かなかった。

「……死んだ?」

「ええ、心臓発作らしいの……ニュースで言ってたわ」

 悠太の脳裏に、下野のおどけた笑顔が浮かび上がった。人は、これほど簡単に死ぬものなのだろうか。その通りだと、悠太は心の中で自答した。

 だが、下野はただの人間ではない。使徒なのだ。カミサマに選ばれた存在。シモンのあっけない最期に、悠太は衝撃を受けた。

 少年の沈黙を不審に思ったのか、瑠香がキャンバスの端から顔を覗かせた。何とかこの場を取り繕うとする悠太に、マリアが助け舟を出した。

「ルカさん」

 マリアの呼びかけに、瑠香は注意を逸らされた。

「何かしら?」

「どうして私を描こうと思ったのですか?」

 悠太と同じ質問。しかし、今度はモデル自身が問うているのだ。誤摩化しにくいはずである。瑠香はしばらくの間、答えを据え置いたあと、いつもより小さな声で呟いた。

「そうね……何でかしらね……」

「私がガイジンだからですか?」

「いいえ、違うわ」

 瑠香は、先ほどまでとは打って変わり、はっきりとした声で否定した。一方、気を取り直した悠太にとって、瑠香がマリアをモデルに選んだ理由は、明確であるように思われた。

 彼女が美しいから。それ以外に何があると言うのだろう。

 けれども瑠香は、返答をはぐらかした。

「それは、描き終えたときに分かるわよ、きっと」

 最後の部分を、瑠香は自分に言い聞かせているようだった。いったい、モデルを選んだ理由がその作品の完成後に分かるというのは、どういうことだろうか。悠太には、判然としてこなかった。

 すれ違う問答を打ち切るかのように、マリアが再び口を開いた。

「イリホさんはダメなのですか?」

「いりほ……?」

 マリアの問い掛けに、瑠香と悠太は同時に首を捻った。

 先にその指示対象を把握したのは、瑠香であった。

「ああ、一年生の入穂さん?」

「はい、彼女はアイドルだと聞きました」

 アイドル。悠太は、その表現に同意しかねた。確かに、今年入学した入穂数江は、アイドルである。学年の、あるいは学校のアイドルという意味ではなく、テレビ番組などに出演する本物のそれであった。

 しかし、所詮はローカルアイドルに過ぎない。女子の何人かがそう話し合っていたのを、悠太は耳に挟んだことがあった。だから、アイドルというよりは地方芸人のようなものだろうと、少年は勝手に思い込んでいた。それが彼女たちの嫉妬から出た可能性を、悠太は微塵も考慮に入れなかった。

「ありえないわね」

 瑠香が答えを返した。

 キツい一言だった。

「なぜですか? 彼女はカワイイですよ」

 マリアは、平然と尋ね返した。カワイイという言葉は、今や国際語に近いと聞く。けれども、マリアのそれが何を意味しているのか、悠太には分からなかった。いわゆる辞書的な使い方をしているのだろうと、悠太は肯定的に解釈した。入穂は実際、お世辞抜きでも可愛いと言える存在であった。

「可愛いとかは、どうでもいいのよ」

 吐き捨てるようにそう言うと、瑠香は再び鉛筆を動かし始めた。

 そして最後に一言、入口に突っ立っている悠太に指示を飛ばした。

「出るときは、ドアを閉めてちょうだい」

「あ、ああ……」

 悠太は鞄を拾うと、後ろ向きに一歩下がり、廊下へと出た。その途端、美術室の中が厳粛な空気に包まれるのを、少年は肌で感じ取った。

「じゃあ……楽しい夏休みを……」

 予想通り、返事は返ってこなかった。悠太は極力音を立てないようにドアを閉めると、肩を落とした。瑠香は、何に苛立っているのだろうか。その理由を探る暇もなく、彼の思考は下野の死へと向かった。未だに信じることができない。何かの間違いではないかと、少年は自分に言い聞かせようとした。だが、瑠香のもたらした情報は、悠太視点の事実とも合致していた。シモンは、土日にログインしなかったのだ。

 一刻も早く確かめねば。悠太は、階段を下りかけた。最初の段に靴底を押し付けた瞬間、悠太はハッと顔を上げた。

「そうだ、会室のパソコン……」

 悠太はそう呟くと、廊下の奥に視線を向けた。生徒会室には、インターネット付きのパソコンが置かれていた。プロキシ経由のため、アクセスできないサイトも多々あるが、地方のニュースサイトがブロックされているとは思えなかった。

 鞄の把っ手を握り締め、悠太は生徒会室へと駆け出した。

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