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イスカリオテのぼくと、マグダラのわたし  作者: 稲葉孝太郎
第3章 犯罪的、あまりに犯罪的な
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 民家の庭先に一台、パトカーが停まっていた。蝉の声に混じって、野次馬たちのざわめきが聞こえた。人手不足なのか、警官は彼らを放置していた。それをいいことに、初老の男性が玄関から覗き込もうとしたものの、さすがに注意され、渋々と首を引っ込めた。ねずみ取りでお目にかかるはずの警官が、今日ばかりは田舎町の平凡な空気を吹き払っていた。

 青々とした稲の香り。その香りに乗って、もう一台のパトカーが滑り込んだ。場所取りのやり直しに迫られた野次馬をよそに、助手席の扉が開いた。三十代前半と思しき体格のよい男が、中から姿を現した。

 男は大きくあくびをして、屋内へと向かった。土間を見張っていた警官は、敬礼のポーズを取った。

「平戸警部補、お疲れさまです」

「ああ、お疲れさん」

 平戸と呼ばれた男は、軽く右腕を上げた。

「で、ガイシャは?」

「こちらです」

 平戸は土足のまま、廊下へと上がった。夏用に刈り込んだ頭を掻きつつ、奥へと進った。建物は外観以上に狭く、すぐさま応接室に行き当たった。開け放されたドアの向こうに、横臥する人間の下半身が見えた。上半身は黒塗りのソファーに隠れて、平戸の位置からは窺うことができない。

「あれかい?」

「はい」

 中へ踏み込もうとした平戸は、かすかな物音に後ろを振り向いた。野次馬たちが、土間へ上がり込んでいた。平戸は警官に指示を出し、自分は死体のそばへと歩み寄った。

「こいつ……どっかで見たことあるな……」

 それが、平戸の第一声だった。七三に分けた髪型とちょび髭。お笑い番組で見かけたのだろうか。平戸は、記憶を掘り下げた。

 そうではない。平戸は顔を上げ、室内を見回した。選挙ポスターに目をとどめ、深く首を縦に振った。

「そうか……あの変な政治家か……」

 いや、政治家ではないと、平戸は訂正を加えた。何度か市議に立候補しているだけで、一度も当選したことはないのだから。

 いずれにせよ平戸は、死体の素性を知っていた。下野。名前が洋助であることは、さすがにポスターで確認した。その独特な風貌に、平戸は何となく見覚えがあった。救世党なる泡沫政党についても、平戸は小耳に挟んでいた。

「江東は来てるか?」

 鑑識の老人に、平戸は声をかけた。老人は指紋を採取しながら、顎で左の方を指した。

 平戸が顔を向けると、暖簾で仕切られた空間から、男の声がした。

「ここだよ」

 そう言って出て来たのは、眼鏡をかけた、いかにも知的な顔立ちの男だった。歳は、平戸とほぼ同じに見える。それもそのはずで、江東と呼ばれたこの男は、高校まで平戸と席を同じくした仲、いわゆる竹馬の友であった。平戸が警察機構に就職した一方で、江東は隣県の国立大医学部を経て、地元の市立病院に舞い戻って来たのだった。

「すまんな、江東、土曜に呼び出しちまって」

「いや、昨晩は救急センターの当番だったし、別に構わないさ」

 挨拶もそこそこに、平戸は本題へと入った。

「で、おまえの見立ては?」

 平戸の問いに、江東は死体を見下ろした。死と隣り合わせにある、医者特有の職業的な眼差しが、江東の顔を無機質なものにしていた。

「心不全だよ」

「心不全? 事件の可能性は?」

「ないね」

 チッと舌打ちをし、平戸は頭を掻いた。あからさまに不機嫌な顔を作った。

「誰だあ? 心臓発作で一々警察を呼ぶ奴は?」

「第一発見者なら、外で待ってもらっとるよ」

 鑑識の老人が、ソファーにアルミニウムのパウダーを振りかけながら、そう答えた。

 平戸は面倒くさそうに廊下へ出ると、土間の警官に声を掛けた。

「おい、第一発見者は?」

「ハッ、こちらの方です」

 警官は、玄関の外に佇む中年女性を紹介した。女は一瞬、どきりとした表情を浮かべたものの、すぐに愛想よく、平戸に向かって腰を屈めた。

 平戸は、感情を表に出さないよう努めつつ、女を手招きした。女は、平戸の指示に従うことなく、警官の様子を窺った。彼女には、この場の上下関係が分かっていないらしかった。私服の平戸にではなく、制服姿の若い警官に、入室の許可を求めたのである。

「入っていいですよ」

 女は警官の同意を得ると、そそくさと土間に上がり、靴を脱いだ。そして、土足の平戸に顔をしかめた。

 平戸は気まずくなりながらも、彼女を現場へと案内した。

「あなたが第一発見者ですね?」

 平戸の質問に、女は黙々と頷き返した。

「今朝、この部屋で見つけたんですか?」

「ここは、私の持ち家なんですよ」

 女は、早口でそう答えた。

 平戸が真意を尋ねる前に、彼女は自ら先を続けた。

「この事務所はね、私が下野さんに貸してたんです。住まいは別ですし、空き家にしておくよりはいいと思いましてね」

「家賃は取ってましたか?」

「当然ですよ。タダで貸す人が、どこにいますか?」

 口の悪い女だと思いながら、平戸はポケットから手帳を取り出した。そして、頭の中で用意しておいた質問を、順番に投げかけた。

「お住まいは、この近くで?」

「いいえ、市内です」

「今朝、こちらへいらした理由は?」

 平戸はなるべく、簡素な口調を心がけた。下野の死因は、友人の口から既に明かされているのだ。女に嫌疑をかける気は、微塵もなかった。

 その気配に安心したのか、女は先を捲し立てた。

「今月分の家賃を、まだ貰ってないんですよ。昨日までという約束でしたのに」

「つまり、家賃を取立てに来たんですね?」

「そうですよ……ところで、下野さんの家族からは、お金が貰えるんでしょうかね?」

 そんなことは弁護士に訊いてくれと、平戸は肩をすくめた。

 そもそも、下野に家族がいるのかを、彼は知らなかった。

「発見時刻は?」

「さあ……覚えてませんけど……九時くらいでしたかねえ……」

「そのときも、現場はこの状態でしたか?」

「え?」

「部屋の様子は、今朝と変わっていませんか?」

 平戸の質問に、女は室内を見回した。下野の死体が映り込んだところで、女は嫌そうな顔を浮かべた。

「ええ……このままだったと思います」

「下野さんの死体を見つけてから、すぐ警察に連絡したんですね?」

 女は、首を左右に振った。

「違いますよ、病院に電話したんです」

「ということは、下野さんが死んでるかどうかを、確認しなかったんですね?」

「どうしてそんなことするんですか? 気持ち悪い。それに、確かめようとしたところで、そんなの分かりっこないじゃないですか」

「脈を診たり呼吸を確かめたりもしなかったんですか?」

 女は、平戸の質問に目を細めた。

「しませんよ。だいたい、心臓が止まってても、まずは救急車を呼ぶに決まっているじゃありませんか。生き返るかもしれないのに」

 なるほどと、平戸は手帳にペンを走らせた。最後の質問は、下野の死亡時刻をより正確に特定するためのものだったが、これは空振りに終わった。

 詳しいことは後で江東に訊こうと思い、平戸は取調べを打ち切った。

「ありがとうございました。もう結構です」

「死体はいつ片付けてくれるんですか?」

「すぐにやりますので、どうぞ外でお待ちを」

 平戸はさらりと女の不平をかわし、彼女を屋外へ追い出した。

 そして、再び遺体と向き合った。

 外傷はない。争った形跡もない。これは病死だ。平戸も、そう判断せざるをえなかった。

 ところが、長年の刑事人生で培った勘が、どこかにしこりを残していた。平戸はもう一度念入りに、事務所の中を観察してみた。

「そこの湯のみ……」

 平戸の指摘に、江東が振り返った。その横で、老鑑識官もやれやれと首を振った。やっと気付いたかと、そう言いたげな仕草だった。

「これ、最初から現場にあった?」

 平戸は、テーブルの上に置かれた湯のみを指差した。入口寄りの客席にひとつ、下野が倒れているソファーのそばにひとつ。合計ふたつの湯のみが、蛍光灯に安っぽく輝いていた。

「何だ、わしらが持ち込んだとでも言うのか?」

 鑑識の老人が、皮肉っぽく答えた。

 平戸はそれを無視して、湯のみの中身を確かめた。

「お茶が入ってるな……」

 平戸の言う通り、どちらにも茶色い液体が入っていた。但し、その量は異なっていた。客席側の湯のみは、ほぼ一杯に残っていたが、下野のものと思わしき湯のみは、半分ほど飲み干されていた。

 平戸は、客席側の飲み口を調べ始めた。

「……口をつけた形跡はないな」

 そう呟いてから、平戸は鑑識に顔を向けた。

「これ、指紋取っといて」

「あいよ」

 そのやり取りに、江東は怪訝そうな眼差しを送った。

「おいおい、俺の診断結果にご不満かい?」

 やや棘を含んだ友人の問いに、平戸は真剣な面持ちで答えた。

「いや、そうじゃないが……ちょっと引っかかるんだ……」

「何が?」

 平戸は、客席と下野を交互に見比べた。

 それを見て、江東も相方の思考を察したらしい。頬の筋肉を引き締めた。

「まさか、接客中に死んだってことか?」

「ああ、その可能性がある……」

 平戸は曖昧な返事をして、今度は遺体とソファーの位置関係を調査した。

 下野は、彼が座っていたと思しき椅子から、ちょうど滑り落ちるように倒れていた。

「おそらく、下野はそこに座って、誰かと話をしていたんだろう。ところが突然、心不全に襲われた」

 それ自体は、ただの状況描写であった。人前での心臓発作が、法律で禁止されているわけでもない。問題はむしろ、その先にあった。そして、それを口にしたのは、江東であった。

「じゃあ、客はどこへ行ったんだ? 苦しんでる相手を放って、そのまま帰ったとも思えんが?」

 平戸は腰を落とした態勢で、江東の顔を見つめ返した。

「……仮にそうだとしたら?」

 平戸の返事に、江東は両手を上げた。降参というわけではなく、ありえないだろうと言った感じのジェスチャーだった。

「法律には詳しくないが、それは犯罪になるのかい?」

「そういう問題じゃない……下野が苦しんでいるのを放置したとすると、客は一一九番できない理由があったんじゃないだろうか?」

「通報できない理由? ……不倫?」

 平戸は、その可能性を最初から除外していた。失礼な言い方だが、下野はそういうタイプに全く見えないのである。

「なあ、選挙ってのは、金がかかるよな?」

「ん? ……そりゃそうさ。病院内部の選挙ですら、金は動くからな」

「下野は、どこから資金を集めてたんだ? 後援会でもあったのか?」

 平戸の発言に、江東もハッとなる。

「……薬物か?」

「あるいは、米軍物資の横流し……」

 平戸はしばらくの間、自分の推理を後付けした。もし下野の政治活動がただのフリで、本当は汚れた金のクリーニングが目的だったとすれば、話は早い。昨日の客は、その商売相手ということになるし、その商売相手が逃げたことについても、納得がいった。それが、平戸の差し当たりの仮説であった。

 ところが江東は、それに異義を申立てた。

「考え過ぎだろ? この下野って男、噂では本物のアレって話だぞ」

「本物のアレ? ……何が言いたい?」

「政治フリークってことさ。演説を一度見かけたが、凄かったね。汚職議員を殺せだの何だの……あれじゃ、票が入らなくて当然だよ」

 平戸は、少ない手掛かりから、人物像の再構成を試みた。政治にはほとんど関心がなく、選挙に行ったことすらない平戸だが、下野の奇行は耳にしていた。資金洗浄のパイプ役が、そこまで目立つ行動を取るだろうか。下手をすれば、危険人物とみなされて、公安にマークされかねない。

 やはり思い過ごしか。平戸は自分に首を振りつつ、流し場に目を向けた。暖簾の奥に、湯沸かし器のようなものが見えた。

「お茶は、あそこで淹れたんだよな?」

 江東も、流し場に視線を移した。

「そうじゃないのか? 給湯室みたいだったぞ」

 平戸は暖簾をくぐり、向こう側へと足を踏み入れた。江東の言う通り、一畳ほどの狭苦しい空間であった。

「毒殺って可能性はないのか?」

 平戸は、暖簾越しにそう尋ねた。

「ないよ、俺を信用しろ」

 友人の確信に満ちた声を聞きながら、平戸は流しを覗き込んだ。無地の湯のみがふたつ、洗われもせずに置かれていた。応接間のものと同じ、茶色い液体が入っていた。

 平戸は流しに顔を近付けて、飲み口を観察した。どちらにも、口をつけた形跡があった。

 暖簾を撥ね除けるようにまくり上げ、平戸は応接間に戻った。

「おい、台所の指紋も調べてくれ」

 鑑識の老人は、渋い顔をして作業を中断した。

「台所も? 今からかい? 事件性はないんじゃろ?」

「それがダメなら、流しにある湯のみを調べてくれ」

 老人は何やらぶつくさと呟いたが、仕舞いには平戸の頼みを了承した。

「どうした? 何か見つかったのか?」

 江東は怪訝そうに、平戸へと声を掛けた。

 平戸は下野の死体を見つめたまま、答えを返した。

「他にも客がいたんだ……下野を見捨てた奴以外にな……」

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