某幼馴染み兼婚約者の言うことには。
「婚約を白紙に戻したい」
約3か月ぶりにようやく顔を見せにきたかと思えば、私の顔を見てすぐに真面目な顔でそんなことをおっしゃった人は――、一応私の婚約者です。
穏やかな昼間に相応しくない発言に、気まずくなったのか、店内にいたお客様たちがそそくさと消えて行った。昨日新しい布地がはいったから全力ですすめるつもりだったのに……なんということだ、せっかく来てくださったお客さんを追い出すとは!立派な営業妨害ではないか。文句を言ってやろうと思って彼の顔をもう一度見たが、あまりの真剣な顔に、言おうと思っていた言葉も言えなくなった。
「婚約を白紙に戻してもいいか」
……そして、2回も同じこと言うのね。大事なことは2回言うというけれど、できればそんな言葉は聞きたくなかった。
「他に好きな人でもできたの?」
「……、ああ」
一呼吸置いて、神妙な顔でしっかりと頷く様子を確認して私は手を止めてまっすぐにその目を見つめた。はて、案外終わりは早かった。いや、むしろ今日まで続いていたのが奇跡と言えるか。
我が家と彼の家は明らかに格が違う。そして、私と彼も。出会った頃は同じはずだった。でもそれは彼のお父様が海の事故で亡くなってしまい、彼と彼のお母様が、お母様のご実家に帰ってから変わってしまったのだ。まさかの彼のお母様のご実家は貴族様でしたと、わーお、である。
彼はお母様のご実家で暮らすようになってから少しずつ変わっていった。まず、会える時間は格段に減った。それはそうだ、家が離れてしまったのだから。そして、私より小さかったはずの彼はどんどん大きくなっていって、いつの間にか王宮に仕える騎士様になっていたのだった。
だから本当なら彼は貴族のお嬢様と結婚するのが普通だ。そう、だから、こんなことはわかっていたこと。
それに婚約と言っても親公認ではない。私と彼のただの口約束。
いつか結婚しよう。
うん、しようね。
ただ、それだけなのだ。だから、ああ、なんて呆気ない終わりなんだろう。
「そう、仕方ないね」
末長くお幸せに、と付け加えるように言って作業を再開させようとハサミを手に取る。すべて終わった、そう思った。だけれど。
「……白紙にするんだぞ?」
「え?うん、わかったよ」
目の前の婚約者、いや、元婚約者の手が私の手首をしっかりと掴んできた。
「婚約者ではなくなるんだぞ!?結婚できないんだぞ!?」
「……」
自分で言い出したのに、なんだろうこの人は。
「あなたは私を馬鹿にしてるのですか?子供ではないのだからそれくらいわかります」
逃れるようにぐいっと手を引けば、あっさりと手は離れたものの、作業台の上にどん!っと手を置き、彼は迫るように顔を近づけてきた。
「なんでそんな話し方するんだ!お前はそれでいいのか!?」
何を言ってるのだろう、本当に。
「だって関係が終わったなら言葉遣いは改めないと。それに、分かった、と先ほど言いましたよ」
「俺はよくない!」
消えて行ったお客様を捕まえて聞いてみたい。この目の前の男が開口一番何と言ったかを。そして、……なぜそこで胸を張って俺はよくないなんて言うのか私には全く理解できない。どこまでこの人は私を困惑させれば気が済むのだろうか。疲れたなあ、色々と。
「……もう帰ってくれませんか」
「え……」
「あなたが婚約を白紙にしたいと言いましたよね?それで私は了承しましたよね?でしたらもうお話はおわりでしょう?」
「そ、それはそうなのだが……」
さっきまでまっすぐに私を見ていた目がすごく泳いでいる。そういえば、昔から、彼は嘘が苦手だった。探るように見つめてみれば、彼の手が動いた。
--右頬をかき、唇を触り、前髪をかきあげる。
ああ、ピンときた。まあまあ、なんて馬鹿なことを。
「いまなら許してあげますから、正直にきっちりしっかりお話してくださいませ」
作業台にハサミを、おいて作業を中断。話を聞く姿勢をとった瞬間、彼が視界から消えた。そして。
「すみません婚約破棄を白紙したいです!許してください!」
馬鹿で馬鹿で馬鹿で、何年たってもどうしようもないひと。
本気で許しを請う声が下から聞こえてきた。
彼が言うには、彼がここ数カ月顔を見せにこれなかったのは、仕事が忙しかったからだそうだ。王宮騎士の彼は、第二王女の警護を任されたのだ。しかし、王様からさらなるお願いをされたらしい、それも第二王女の恋人のふりをしてくれと。何でも、隣国の王子が第二王女を側室にとうるさいのだそうだ、妃ではなく側室に、と。そんなわけで、この婚約破棄宣言に至ったらしい。
(そもそも彼を恋人にしたとして隣国の王子が諦めるのだろうか、身分的にはあちらが上だろうに)
彼をよく知らない人は、なんでそこで婚約破棄まで思考が飛ぶのかと思うだろう。でも彼は、とてつもなく馬鹿だけどその分真面目なのだ。ふりだとしても、ふたりの女性のことを考えることはできない、騙すこともできない、隠すことも。不器用で、いつもまっすぐな人だから。そんな、人だから。
「事情はよくわかりました。お役目頑張って」
「そ、それだけか…?」
疑うような目で見てくる彼に私は首を傾げる。
「他に何を言えと?」
「いや、それは、そうなのだが……その、婚約の件は、その」
「白紙ということにしておけばいいんじゃない?王様直々の願いともなればしっかり任務を全うすべきだし、貴方は私と別れ、王女さまの恋人ということでいいと思うよ」
「だがそれではお前は」
「私?私はまあその辺の方とお見合いでもして……」
「だめだ!!!」
「……なんて、冗談、冗談。というかそもそも白紙の件を言い出したのは貴方じゃない、それなのにだめだだめだばっかり。どの口が言うのよ」
「……はい、すみません、はい…」
「そろそろ戻ったら?しっかり働いてきてくださいな」
「……はい、頑張ります」
長く沈黙した彼は、頑張れそうにない声でそう言って、とぼとぼと店を出て行った。
その背中が見えなくなってから、私は知らず知らずに握りしめていた拳をといた。
彼には分からないだろう。婚約破棄宣言をされて、どれだけ私がショックを受けたか。お前はそれでいいのかと聞かれてから、素直に分かりました、と言った。いいですよとは言ってない、それがどういうことか。
彼はまだ知らない。明日には第二王女が魔王に攫われることを。
FIN?