赤裸々
通勤の電車の中で「耽美的」な顔の女性を見付けると、胸を揉み倒したい衝動に駆られる。彼女もいるし、その彼女で十分、満足しているのだが、これは人間のサガ以外の何物でもない。私は変態なのだろうか? いや、私のように正直に性を赤裸々に文章で書く人間がなかなかいない。そこまで書くと不気味だし、気持ちの悪いオタクの独白という事になる。文学がなぜ「文学体」で書かれているか、文学がなぜ「タブー」を禁じているか、私は知らない。タブーを抹殺したい。それが出来れば、もう死んでもよい。
変態伝説。こんな話がある。中学の時に小麦肌で可愛らしい女性がいて、男同士のグループでもSEXYだと噂されていて、私以外のみんなが美女と認める存在だった。しかし、私だけ彼女と対立していた。私は彼女の美貌に嫉妬していた。私はその頃、教師から優等生扱いだったが、日に焼けた彼女の小麦肌を批判した。概要は要するにそんな肌をしているような人はふしだらだという論旨だった。ところが、私は毎晩、そのセクシィな女子を想像しては繰り返しオナニーをしていたのだった。私はその女性を嫌えば嫌うほど、オナニーの数は比例して増えて行くのであった。
私は変態なのか、それとも過剰な思い過ごしなのか、それも分からない。異常という岸辺にいるのだろうか。自由すぎた。あまりに自由に振る舞っていいものだと勘違いしていた。自分が太宰治に似て来た事を想像した。自死? 太宰は自死に至るまでの道のりを丹念に小説という日記に付けて行った人だったと思う。太宰の文学は自ら命を絶つことで、完成された。自殺をエンターテインメントとしたのではないか? だとするならば、自殺も一種の模倣で、それすら我々には残されていない。
落ち着こう。私が死ぬわけがない。とりわけ、死ぬ度胸などどこにもない。へっぴり腰のもやし男だ。私は今、付き合っている彼女の為にも、生きなければならない。今の彼女は凄く優しい。お互いに障害を持っていて、その点でも分かち合っている。私は生きよう。太宰の分までこれから彼女と一緒に生きて行ったらいいじゃないか。死ぬのは嫌だ。軽薄過ぎる。
今、付き合っている彼女というのは小麦肌の女性とは全く違います。今の彼女とは職場恋愛で付き合って、今に至ります。20代の10年間は作業所に通っていました。今でも愛おしく、尊い10年間です。今はなんとか一般の会社に事務員として働いています。メロスの様に走る事が出来たら。誰か一緒に走ってくれませんか? 助けてくれぇ。