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なかなおり

彼女の着物を借り、“現地人”に扮した私は、書いてもらった道案内を頼りに江戸の町を興奮しながら歩いていた。



うわあ…日光江戸村だぁ!



じつは江戸時代好きの私。興奮するなってほうが無理な話で。必要以上にキョロキョロしてしまう。



彼女の家とあの男──ツンデレ夫の家は、こちらの尺度で言えば目と鼻の先。彼女の家は日本橋で、男の家は深川だ。私の足でも小一時間もせずに着くだろう。



深川へ行くには隅田川を渡る必要があって。本当なら通りをまっすぐ右へ、永代橋のほうへ行かなければならないのに、左手の「日本橋」が気になって仕方ない。「東海道五十三次」でおなじみのあの太鼓橋、ここまで来て実物を見ずに帰るなんて話がありますか!



ちょっとだけ…ちらっと見てから行ったって問題ないよ。いやいやとりあえず用件を済ませてからゆっくり観光するべきだって。でもそんな時間あるかわかんないし…。



供もつけずに一人で出歩いている上に、きょろきょろしていたかと思えば右へ左へと数歩進んじゃ踵を返す。そんな私の姿は非常に目立っていたらしい。おそらく手下か何かが私を見かけ、そこからご注進が及び──ようやく日本橋を諦めて永代橋を渡ろうという頃、



「どこへ行くつもりだ?」



目指す人が私の前に現れた。よかった、履き慣れない草履に早くも足が限界だったんだ。



「この先にてめェが行くような場所はねえはずだがなあ」



冷たい顔に、冷たい声。これが自分の想い人だったら到底無理だ。嫌われていると思って尻尾を巻いて逃げ帰るだろう。でも、他人のことだからよくわかる。この人はまだ嫁のことが大好きで、それで傷ついてるってこと。ほら、私のことにも気づかない。



「あなたに一緒に来てほしいところがあるの」



一瞬、怪訝な顔をしたあとで、皮肉な笑い方をする。あ、これ私が知ってるいつもの表情だ。



「亭主はどうした?」



「ああ、田舎に帰ったって」



「……!」



うわ。怒りオーラが見える。落ち着きなされよ。そう、この人は嫁の“浮気現場”を目撃し、二人を重ねて斬ったあと、まとめて実家に戻したのだ。表向きは追放として。その実は二人が夫婦になれるように。泣けるじゃないの。そこまでしたのに男が田舎に帰ったとあっちゃあ怒るのも無理はない。



「違うの。傷が良くなるまではうちで養生させたけど、あの人と一緒になるつもりはなかったから、謝って出て行ってもらったの。いい機会だから田舎で親の面倒見るって言ってたわ」



「一緒になるつもりはなかった…? ハッ遊びってわけか。案外器用な女だったんだな」



…たぶん彼女は自分からは言えないから。いいよ、私が言ってあげる。



「違うの…その……確かめたかったの、あなたの気持ちを。他の人と比べてみたらわかるかもって思ってしまったの」



眉根を寄せて理解できないような顔をしながらも、続きを聞く耳を持ってくれる。



「そうしたらすぐに気づいちゃったの。あなたと全然違くって……あなたがどれだけ想ってくれてたか、わかっちゃったの。それと」



ここから先は私の推測。



「それと、私があなたじゃなきゃダメだったんだってことも」



彼の眉根は相変わらず寄ったままだ。しかしほんのわずか、表情がゆるんだ気がする。



「すぐに後悔したから、その…さ、最後まで行く前にあなたが部屋に入ってきてくれて、助かったって思ったんだけど、顔見たらもっと後悔したわ。取り返しのつかないことしたって」



突然の告白に、困惑しているのがわかる。そりゃあそうだろう、あの嫁の発想はそうそう想定できるもんじゃない。しかもこのツンデレ夫婦。すぐには素直になれないか。



「……って言ってたよ、あなたの奥さん」



「てめっ…妹のほうか!」



「うん、会ってきた」



途端にいつもの食えない笑みを張り付ける。



「くだらねえ。あいつの言った通りだ、取り返しなんざつかねえよ。第一なんだ、今さら確かめようと思ったって? 何のために?」



「それは行けばわかるから」



「よしてくれ。今さら会う気はねえよ」



「時間がないの!」



突然大声を出した私に、彼の動きが止まる。往来の人々がちらちらとこちらを見ている。



「今会ってほしいのよ。急がないと間に合わないの!」



彼が表情を固くした。



「ひょっとして、あのときの傷が…?」



へ? 傷? どうやら何か勘違いをしているらしい。いいだろう、その勘違い、いただきだ。



「刀傷…までは見なかったけど、確かに仰向けで寝るのはつらそうだったかも」



嘘はついてませんよ?



それを聞くと、一瞬黙り込んだかと思うや否や、彼が突然走り出した。



そっちの方向は、彼女の家があるほうだ。待って! 再会の場に立ち会いたい! 彼の顔が崩れるところが見たいのだ!



「待って!」



慌てて追いかけるが、うまく走れない。すると彼はチッと舌打ちをして、私を抱き上げた……抱き上げた!? た、確かに手っ取り早いけど、注目の的じゃないの!



「ちょ、ちょ」



「うるせぇ黙ってろ」



…まあ見直してやらんでもない。私は着物にしがみつきながら、騒ぎになるので裏口から入るようにとの彼女の指示を伝えた。二人して息を上げながら屋敷に入ると、バタバタと走り回る足音と、彼女の苦しそうな声が聞こえてきた。



もしやもう陣痛が!?



慌てて部屋に駆けつける途中、すれ違った女中頭さんに目で問うと、黙って頷き返される。



たいへんだ、非常時だ。いきなり部屋に入るのは控えたほうがいいかしら。部屋の前で一旦彼を制し、中に声をかけた。



「開けても大丈夫? ダンナさん連れて来たよ」



すると中から息を飲む音がした。



「入れないで!!」



……何をこの期に及んで!



「なんでよ!」



「だって…」



「だって何!」



「…そこにいるの?」



私はちらりと彼を見て言った。



「いないよ。向こうで待ってもらってる。ねえ、どうして会わないの?」



「だって…化粧が間に合わなかったんだもん」



……私と彼は虚を突かれ、顔を見合わせた。私がニヤリと、いや、ニタ〜っと笑うと、彼は苦虫を噛み潰したような顔になる。



「なにアンタ、ダンナにすっぴん見せたことないの?」



「当たり前じゃない!…っつー…ん!」



苦しそうな声にたまらず彼がスパンと障子戸を開け。



呻きながら横たわる彼女に駆け寄り。



それが産気というものだと気づいた彼は、動きを止めて絶句した。

「こいつぁ……」



つぶやくなり動きが止まっている。いかん、これから命がけで子どもを産もうってときに、間違っても「誰の子か」なんぞという台詞を聞かせてはならない。私は慌てて声をかけた。



「ほら! お父さんが来たからがんばって!」



ギョッとして私のほうを見た彼に、思いっきりブンブンブンと首をタテに振ってやる。



「っん〜〜〜!!!」



今度はハッと彼女のほうを見る。忙しいなオイ。陣痛に苦しむ彼女が伸ばす手を、反射的に彼が握った。そう、混乱してる場合じゃないんだよ!



「大丈夫か、オイどうすりゃいいんだ」



「私だってわかんないよ」



そこへ、先ほどの女中頭さんがお産婆さんらしき人を連れて駆け込んで来た。そのあとに、少し上品な身なりをした老婦人が続く。お産婆さんが、お湯やらサラシやらの準備をテキパキと指示したあとでこちらに声をかけてきた。



「殿方はあちらへ」



「あ、はい…」



その場の空気に気圧されてすっかりオロオロした彼が、言われるがまま立ち上がろうとするが、彼女の手が緩まない。私は横から口を挟んだ。



「枕元でしたら差し支えないでしょう」



そこで初めて私の存在に気づいた老婦人が、私を見て驚愕の表情を見せた……もしかして、この人が、母親?



視線を交わした私たちの一瞬の戸惑いを救ってくれたのもまた、苦しむ彼女の声だった。



私たちは慌てて彼女を見やる。そうだ、まずはこっちだ。とりあえず私たちは皆、それぞれの思いは一旦横に置いておき、彼女のお産を見守ったのだった──5時間ほど。待望の産声が上がったのは、日が傾きはじめた頃だった。



「元気な女の子ですよ」



小さなお姫さまは産湯をつかわされ、おくるみをまとってお母さんの胸元にやって来る。愛しそうに見つめたあとで、ダンナに向かって笑いかけた彼女のその笑顔たるや。



…うわぁ。



女の私でさえ、いや、同じ顔の私でさえもゾクリとするほど、それはもうきれいな笑顔だった。



隣りにいる男の顔は見ないでやった。目も当てられないほどの赤面か、はたまた小憎らしい幸せスマイルか。どっちにしても見ないほうがいい。うっかり羨ましくなっちゃったらシャクだしね。



「ささ、休ませてあげてください」



彼女がうとうとし始めて、お産婆さんが私たちを促す。それをしおに、私は男の袖をそっと引いた。



「ね、私そろそろ帰るからさ、送ってくれない?」



「はァ? 見りゃわかんだろ、取り込み中だ。そんなヒマねえよ」



…くっそ、テメェの情けは嫁限定か!



「小せぇ男だな」



「あぁん? …まぁほっといてもあいつが探しに来るさ」



そうなのだ。きっと今ごろ私のことを探し回っているに違いない。



「でも行きあえるかわかんないしさあ…」



そんな私たちのやりとりを聞き、寝床からひらひらと手が伸びてきた。



「もう、帰っちゃうの…? もっとしゃべりたかったのに…」



彼女の手を取り、前髪を直してあげる。



「うん、私ももっとしゃべりたかった。でも今は体を休めるのが先決だよ。落ち着いたらこの人迎えに寄越してくれたらいいし」



と、ツンデレ夫を指差しながら言う。



「…そんときゃあここじゃねえ。深川のほうへ来るんだな」



…ほぅ。粋なことをお言いでないか。彼女も目を丸くしている。と、そこへ初老の男性が婦人に伴われて部屋へ入ってきた。「ご苦労だったな」



「お父さん……」



……!



「む、お前!」



父親、は、彼女の枕元に座る男を見て眉間にしわを寄せた。すると男は父親のほうへ向き直り、すっと背筋を伸ばして畳に手を突く。そして、ゆっくりと最敬礼をした。



……へえ。ちょっと見直すわこれ。しかし父親にしたら寝耳に水もいいところだ。唖然として娘に尋ねている。



「お前はいいのか?」



「…はい」



「…若いモンの考えることは儂には理解できん。好きにしろ」



わ! 納まったか! 元の鞘にすっぽりと! いやよかったよかった、一件らくちゃ……ん? 婦人に袖を引かれ、目配せを受けた父親が初めて私に気づき、愕然とした表情を見せている。そうか、まだ落着じゃなかったか。……どうしようかなあ。愕然としている「父親」に、辛そうな「母親」。正直に言って、再会の感涙なんて1ミリもないし、もちろん恨みつらみもない。まったくもって反応のしようがないのだ。ただ、



(困らせたくは、ないんだけどなあ…)



いきなり現れた娘、とくれば定石は金目当てか。いやいや、それは心配ご無用。小金なら持ってございますから。



お互いになんと声をかけたものか戸惑っていると、布団の上の彼女がたったひと言で平和的に解決してくれた。



「幸せなんですって。よかったわね」



そうですそうです! 強く頷いて見せる。



「うむ…そうか」



「ねえ」



まったくマイペースにわが道を行く彼女が、夫の袖を引いた。



「ん?」



「無事に、送ってあげてね」



「…まぁな。今日の借りもあるしなあ」



違うだろ。嫁からの初めてのおねだりが嬉しくって仕方がないって顔だろそれ!



「じゃ、気をつけて。元気でね」



「うん、あなたも」



「幸せにね」



「負けないよ」



そして私は着てきた服を風呂敷に包んでもらい、両親と女中頭さんに頭を下げ、「生家」を後にしたのだった。ああ、慌ただしかった…。


「それにしても、ちょっと見直したよ」



私はツンデレ夫に連れられ、日本橋の街を歩いていた。風呂敷包みを小脇に抱えた彼が、私のつぶやきに目だけで答える。



「だってさ、いきなりお産の立ち会いじゃあ戸惑いそうなもんなのに、自分の子だって信じてくれてよかったよ」



「疑う余地がどこにある? 俺とそっくりじゃねえか」



…似ても似つかぬ天使だったけどね。“ツン”を忘れたツンデレほど面倒くさいもんはない。呆れる私に、彼はさらに続けた。



「産まれるまでに何刻くらいかかったかなァ。あれだけありゃあ頭も冷えるさ。それにな」



わざとぶっきらぼうに、気のないふうを装う。



「好きな女がこんだけ命がけで産もうとしてる子の父親の座、そうそう渡せるもんじゃねぇやな」



……ふーん。いいじゃん。私の中でこいつの株が急上昇だ。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけうらやましい。かも。



いやいやいや! 考えを振り切るように、私は賑わう街に目をやった。人々が寒さに身をすくめながら、早足で行き交っている。



「師走か…」



「それはあっちの暦だろ。ここはまだ師走じゃないぜ。日本橋の賑わいは年中こうよ」



私のつぶやきに、男が返す。そうか、12月は旧暦ではまだ師走じゃないのか。さすがの日本橋、って…



「そういや今、どこ向かってんの?」



先ほど歩いた道とはまた違う筋へ曲がられて、もう方角がわからない。



「八丁堀よ」



「八丁堀!?」



目を輝かせた私に、彼が胡乱な目つきになる。



「八丁堀に興奮するやつぁいねえぜ?」



いやいや。八丁堀といえば同心の街。粋でいなせな黄八丈が拝めるとあっちゃあ興奮もするってもんだ。



「あいつのねぐらは知らねえが、アンタを探すとすれば旦那の屋敷を拠点にするはずなんだ」



「旦那……?」



「ああ、俺らの仕事を取り仕切ってるお役人。そのお屋敷が八丁堀にあるんでね」



時空奉行を取り仕切る人。それってつまり。



「時空奉行さまだ」



「じく…何だって?」



「あ、なんでもないです」



ただの妄想です。スミマセン。北町奉行や南町奉行のような時空奉行のお奉行様を妄想していると、彼がふと足を止めた。



「そら、読みがあたったな」

その声に顔を上げると、懐かしい人の顔が見えた。懐かしい? 1日しか経ってないのに? けどそれが正直な気持ちだ。



息を切らせて、汗だくになって、私を見つけて動きを止めている。



心配かけてごめんなさい。探してくれてありがとう。早く汗拭かないと風邪ひいちゃうよ。



どれから言ったらいいのかわからない。



愛しい人は、立ち尽くす私のほうへ息を弾ませたまま歩み寄り、そっと抱きしめたかと思うと、吐く息とともに言葉を漏らした。



「よかった……無事で」



……もう。



順番なんてどうでもいい。ごめんもありがとうも汗拭きなよも全部伝えたい!



しかし私が口を開きかけたそのとき、後ろから、ヌッと風呂敷包みが差し出された。



「手短に済んで助かったぜ。そら、後は任せた。女房と子どもが待ってンだ」



そう言い捨てて走り帰っていく男の背中に、ようやくといった感じで侍が返事を返す。



「……は?」



うん、えーっと、話せばそこそこ長いんだ。説明するからね…。

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