サムライの来た理由
結局、昨日の夜も今朝も、ほとんど会話らしい会話のないまま私は出勤した。
こういうときに仕事があるのはありがたいもので。忙しくしていれば考えずに済む。でも…。
エレベーターを待つ一瞬。コピーが出てくるのを待つ一瞬。ネットがつながるのを待つほんの一瞬の隙を狙って、侵入してくるのだ。昨夜のことが。
侍には言わなかった。言えなかった。私に知られたくないことならば、知らないふりをしてやりたかった。本当は彼の口から聞きたい。あの男の言うことは信じられない。けどそれも怖い──。
昨夜の男の話には続きがあった。
「あいつがね、17年前に娘の消息を揉み消したんですよ」
「それは…どういう…」
「さて何が目的だったんでしょうかね」
どう受け止めればいいものか。でもそんなの昔のことだし。気にしなくていいよね?
考え込む私を面白がるように、男が尋ねてきた。
「それはさておき。どうでしょう、難しいでしょうかねえ? 嫁に来いと言って来てもらえるものか。幸いまだ独り身のようですがね。この時代の女性の婚期が遅いことには感謝しなければなりません」
そりゃあどうも。
「あなたならどうします? 江戸についていきますか」
はあ? そんなもんムリに決まっとろうが。
「それはムリでしょう。仕事もあるし両親もいます。第一初対面でしょ? いきなり嫁に来いなんて言われたって行けるわけない…です」
……言いながら自分の矛盾に気づく。でもそれをこの男に指摘されるのは我慢ならないのであって! あーもう、ニヤリとするな。
「ほぅ。初対面の男に嫁になれと言われても江戸にはついていきませんか」
自宅には住まわせるのに? 言外にそう揶揄している。返す返すも本当に嫌な男だ。もういいや、敬語やめよう。
「…その人の場合はそれ以前の問題でしょうよ」
イライラし始めた私が面白いらしい。男はますますニヤニヤとする。
「そうですねえ。やはりまずは娘を惚れさせないといけないでしょうね」
「違う。もっと前。その人に言ってやって」
「何です?」
男を睨み、叩きつけるように言ってやった。
「そっちが先に愛しなさいよ」
すると──男から笑みがスッと消えた。2、3拍の空白。そして。
男は腰を折って笑い出した。
「ヒャーッハッハ! いやこいつぁ…ハッ」
涙まで拭ってやがる。耳に触る笑い声。
「いや、これは傑作だな! そうか。俺に愛されたかったってのか。そんならそうと素直に言やぁいいのに」
……何の話? 私の眉根がますます寄る。男はまだ笑いを治められない様子でしゃべり続けている。
「気に入ったよアンタ。あいつにそっくりだ。顔だけじゃねえ、矜持の高いところも気の強いところも。あいつはしゃべらねえがアンタはよくしゃべる。違うのはそこだな。でもそれが気に入った」
待て待てまて待て。
「誰の話してんの?」
ようやく笑いを治め、元の、人を食った表情に戻って男は言った。
「俺たちの話だよ」
……言ってる意味がわかりません。「え、何? 言ってる意味がわかんない」
「なんだ。アンタ頭の回転は早いと思ってたけどな。まあ自分のことだ、無理はないか。つまりさ」
指を差すな、腹の立つ。
「つまり俺はアンタを探してたんだよ。アンタが、俺が殺した嫁の妹ってわけ」
……えーと。
これはどうしたらいいのかな。冗談にしてはクオリティーが低いと突っ込めばいいのか。それとも私、これ驚いていいのかな。判断に迷う私をよそに、男はペラペラとよくしゃべる。
「驚いたよ。やっと見つけたと思ったらあの男が隣りにいるんだからさ。すぐに向こうに戻って調べたら、当時こっちの探索を担当したのはあいつだったって言うんだぜ。やられたと思ったね」
えーと。
「やっぱりわかんない」
「どうぞ。ひとつずつお答えしますよ?」
ああその薄ら笑いが頭にくる! いいだろう。お前の話がいかにおかしいか、一個ずつただしてやる!
「えーと。あなたは今の話の中ではつまり」
「商家の娘を嫁にしたやくざ者の息子」
「てことは、依頼を受けて探してたわけじゃなくて」
「そ。職権乱用」
そう。他人からの依頼のためにそんな犯罪まがいのこと──犯罪者を逃がすのは立派な犯罪か──をするっていうのはなんだかしっくり来なかったのだ。自分のためだったってんなら納得できる。って、納得してる場合じゃない!
「でも、あの人はこの仕事を始めるときに家を出たって言ってたけど。あなたは家族がいたってわけ?」
「へえ、そうなんだ。あいつまともな武家の出って感じだもんな。いや、俺たち互いの素性はほとんど知らないんだよ。やっぱり特殊な仕事だからな。家族にも明かさないし、普通は家と縁を切るものかもしれない。けどうちはもともと裏稼業だから、仕事内容なんてなんとなくごまかせるし、第一あの嫁は俺の仕事になんて一切関心払わなかったからな」
「…その嫁ってのは…」
「アンタの姉ちゃん?」
姉ちゃんって言ったってさ…え、じゃあ私が江戸生まれだってこと? そんなの。だって。
「お父さんとお母さんは…?」
「ああ、アンタいい人に拾われたみたいだな。あっちにいるよりよかったかもしれないぜ」
拾われた。そんなの急に言われたって信じられないけど、でも。
ああ、だからあのとき侍のことをすんなり受け入れたのかあ。なんて、うっかり腑に落ちてしまった。
だっていくら嫁き遅れとはいえ、突然現れて江戸時代から来ましたなんていうおかしな男に普通は娘を託すまい。両親はきっと、彼を私の生まれに関わる人なのだと思ったのだろう。
「神社で会ったとき、すぐにわかったよ。けどあいつにそれとなく聞いたらアンタは自分の出自を知らないって言うじゃねえか。あいつ、アンタに何も話してないんだろ?」
──そうだ。「私が覚悟を決めるまでは言えない」ってあの人が言っていたのは、きっとこのことだったんだ。残念なことに次々と平仄が合ってしまう。
「なあアンタ俺んとこ来いよ」
「行かないっつってんでしょうよ」
男はわはは、と嬉しそうに笑う。
「ホントたまんねえな、アンタ。あいつもこれぐらい喋りゃあよかったのに。ああ、あいつってアンタの姉ちゃんな。俺の嫁さんはさ、心底俺を嫌っていて、17年間ほとんど口きかなかったんだぜ。そのくせ、閨じゃ満更でもないような声出してさ、その落差が可愛いんだよな」
…なんだ。要するに大好きなんじゃん。要するに、大好きで無理やり嫁にまでしたってのに、結局片思いのままで、あげくフラれたってことか。それなら尚更私に用は無いはずだ。
「そんなに大好きだったのに、どうして斬ったりなんかしたの。…ほんとに死なせたの?」
「さあね。男と重ねて斬ってそのまま実家に突っ返したからな。生きてんだか死んでんだか」
なんだ。じゃあ殺したわけじゃないんじゃんか。
「そんなら迎えに行きゃいいのに」
「姦通した嫁なんざいらねえよ」
「じゃ、私のことも不要でしょうよ」
男がふてくされたような顔を作る。やった! やっと一矢報いてやれた。しかし口の立つのは相手が上手で。
「いいのか? あの女が生きてても。アンタが好きなあの男の、惚れてた相手だぜ?」
今度は私がムッとする番だった。
「あの人は、私がそのー…その人だって気づいてるのかな」
「そりゃそうさ。顔見りゃわかる。アンタ子どもの頃から顔変わってないだろ。初めっから知ってて近づいたに決まってるさ」
…一言余計だ。
「あなたのことは? 知ってるの?」
「いや、さっきも言ったように俺たちは互いの素性を知らないからね。俺が、惚れた女のダンナだってことは知らないよ。当然、俺がアンタ目当てでこっちに来てるってことも知らんだろうな」
ええぃ、惚れた惚れたと連呼するな。…でも、じゃあ彼はどうして。ああ、これ口に出さなければよかった。
「彼はどうして私に会いに来たんだろう…」
偶然でも何でもなく、はじめから知ってて私の家に来たって…。
「さぁてね。アンタをこっちに置き去りにした罪滅ぼしでもしようってのか──あんな親とはいえ一応肉親。その肉親の捜索願を揉み消したんだもんなあ」
「そんなもん、今さら…」
「そうだよなあ。初恋の相手が死んだと知って人恋しくでもなったか。同じ顔の女で慰めようと考えてんだかねえ」
「それはあんたでしょ」
にやにやしながら男が勝手なことをしゃべり続ける。
「ああ、その逆って手もあるな。好きだった女が実家に返されたのを見て、いよいよ自分のものにしようとした。それでアンタを向こうに連れていって、身替わりにすげ替えて来るつもりだったとか」
「まさか」
「いや、わかんねえよ? どう言いくるめられたか知らねえが、江戸にはついてかねえだの何だの言ってるところ見ると、アンタまだあいつに手出されてねえんだろ。ひとつ屋根にいて手出ししねえってことはねえよなあ」
うるさい。
「余程でなけりゃ礼儀程度に手は出すぜ。ひょっとすると単に寝食を確保したかっただけかもしんねえなあ」
うるさいうるさいうるさい!
言ってる内容はR15だが、やってることは子どものケンカだ。しまいに私は子どものケンカの伝家の宝刀を出した。つまり、言い逃げ、だ。
「うっさい、バーカ!」
その場を逃げ去る私の背中に、男の声がかかる。うひゃひゃと笑いながら。
「手配書取りに帰っからさ、また迎えに来るよ」
「来んな!」
…そして私はマンションまで逃げ帰り、出迎えた侍にしがみついて泣き出してしまったというわけなのだ。会社のデスクでパソコンに向かい、エクセルにカタカタとデータを打ちこみながら、私は前夜のやりとりを何度も反芻していた。
…カタカタ。
私、両親と血がつながってなかったんだなあ。けど今さらグレるでもないし。育ててもらって感謝するのみだ。生みの親にも興味はない。
…カタカタ。
男の人に愛情があるかどうか。体を重ねたからってイコール愛があるわけじゃない、ってことは、大人になってからやっと学んだ。
けど、そばにいるのに体を重ねないのは愛があるからなのか無いからなのか。私は知らない。
…カタカタ、カン!!
いかんいかん、苛立ちをエンターキーにぶつけてはいけない。
あの人の本当の気持ちはどこにあるんだろう。家を間違えてうちに来て、私に会って惚れたなんて言っていたけど。そもそもそこが嘘だったわけで。本当は知ってて私に会いに来た──何のために?
ヘコむよなあ。私の後ろに誰かの影を見ていたかもしれないなんて。私、また先走ってしまった? 前のめりはご法度だとモノの本で読んだのに。
でもさ。惚れたって。嫁になってくれなんて言って。毎日ご飯作ってくれて、帰りは迎えに来てくれて。言葉が無ければ信じない。言葉があっても信じない。そう肝に銘じていたけど、あそこまでされても信じちゃダメだったんだとしたら。
「もう手も足も出ませんよ…」
キーボード上に突っ伏して唸っていると、回りの社員が次々と席を立ち出した。ああ、週末の定例会議だ。
そうかあ…今日は金曜日だったのか…まだ一週間なんだ、彼と出会って。
頬をパパンと叩いて私も席を立つ。会議室に向かって歩いていると、ある男性社員とすれ違った。
「あ、おつかれさん」
「…おつかれさまです」
昔は好きだったけど今は大っ嫌いな、かつての恋愛相手だ。うへえ、嫌なもん見ちゃった。
ああ、でもそうだな。エレベーターを待ちながら、考え直す。
もし、侍との仲がうまくいかなかったとしても、彼はあちらに帰ってもう二度と会わなくなるだけだ。友だちでもいいから嫌われたくない、なんて聞き分けのよいフリをする必要もないし。こんなふうに社内でばったり会って気まずくなることもない。
そうだなあ。後のことなんて考えなくていいんだよなあ。
やってみるか。ぶつかってみよう。全部本音聞いてみよう。だってもう遅いもん。
もう好きになっちゃったもん。
今夜が決戦だ──たぶん、ね。