妬くの妬かないのって
「今度は何だ?」
「もっと早く言うべきだったんですけど、気がつかなくて」
私のしかつめらしい顔にただならぬものを感じたのか、旦那もまた真面目な顔になって向かいに座ってくれる。いさぶはどちら側についたものか迷ったらしい。ちょうど私と旦那のあいだに、行司のようなポジションについた。
すっかり忘れていた。大切なことを。
旦那の目を見、改めて三つ指をつく。
「――叔父様」
旦那の片眉が上がる。
「ご挨拶が遅くなりましたが、伊三郎さんと一緒になります。ふつつかものではございますが、これからどうぞよろしくお願いいたします」
目の前の旦那が虚をつかれたような顔で固まっている。ちらりといさぶに目をやっているのはおそらく、お前は知っていたのかと目で問うているのだろうけれど。たぶん、右横にいるいさぶも同じような顔でぽかんとしているに違いない。
だって。志緒たちと話していて、ああ家族がつながっていくんだなあ…と思ったら急に気づいてしまったのだ。いちばん大事な人に、きちんと挨拶していなかったことに。いさぶの叔父で、実家から勘当された彼を育ててくれた人。それは私にとっても大事な人だもの。
そっと頭を下げると、前か右かわからないけれど、息をつく音がした。「参ったな…」という旦那のつぶやきが聞こえる。わ、なんとあの旦那をやりこめた? …って、やりこめに来たわけじゃない。ゆるみかけた頬を戻してから顔を上げると、一瞬ほんとに困ったような顔の旦那と目があって――すぐにいつもの余裕の笑みを戻した。
「なんのふつつかなことがあるものか。なんなら儂がめとりたいぐらいだわ」
「わ、そうなんですか? じゃあ伊三さんに捨てられたら旦那が拾ってくださいね」
「喜んで、と言いたいとこだが、伊三のお下がりは御免だのう」
「あら、伊三さんから旦那に、だったらお下がりじゃなくて上納じゃないですか?」
カッカッカ、と大きな口で旦那が笑う。
「それもそうだ。おぅ伊三、くれるんなら早めに頼むぞ。儂の足腰が立つうちにしてくれ」
話をふられた置いてきぼりのいさぶが、大きな大きなため息をついた。
「ご心配なく。上げも下げもしません」
立ち上がったいさぶに旦那が声をかける。
「なんだもう帰ンのか」
「薫の挨拶は済みましたから」
「……薫の言葉が嬉しいもんだから、とっとと二人きりになりたいってか」
そ、そうなの!? 旦那の揶揄にいさぶの反応を確かめようとしたら、頭をガシッと押さえられてしまった。ええい、顔を見せろ!
「一杯やってかんか。今晩は酒が旨そうだ」
それはぜひお応えしたいお誘いなのだけど、旦那の表情にはどうもいさぶをからかって遊んでいるような色が見えたもんだから。
「どうだ? 薫」
「今夜はご挨拶だけで、これで失礼します……私も、とっとと二人きりになりたいので」
カッカッカ、という再びの大笑いに見送られ、私たちは東京へと戻ったのだった。
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「伊三さん」
いつものように手をつなぎ、ひずみをくぐってわが家に帰る。私の手を引く背中からは、返事がない。
「勝手に悪かったかな。えーと、言わなくてごめん……伊三さん?」
背中は私の手を握ったままずんずんと家の中に進んでいく。と、不意にふり返り、その胸にすっぽりと私を隠した。頭のてっぺんにいさぶの息づかいを感じる。私も彼の背中に手を回す。彼の腕がギュッとしまった。
「……ありがとう」
ふるふると首を横にふりたかったけれど、後頭部をしっかり抱え込まれていたので、代わりに背中に回した手に力を込める。
私の頭に頬を寄せたり、撫でてみたり。飽きずに私を触るいさぶの愛撫をしばらく味わってみる。どちらからともなく腕がゆるみ、私は顔を上げた。とてもとても優しい目が私を見ている。
「ありがとうな。いつから考えてた?」
「や、ホントついさっき思いついた」
「だろうな。ウナギを食うまではそれどころじゃあなさそうだった」
ウナギ。そっか。目の前の彼がいつかいなくなることへの不安を旦那に吐露したのは今日のことだった。長い一日であった……。再びおでこを彼の胸に、こてんと預ける。
頭を撫でる手が気持ちよくて、なんとはなしに、今日一日を思い返してみる。いろいろ、あったなあ…。大きな手が私の頬に降りてきて、顔を上げると、その目の色に少し違うものが混じっていた。頬に置かれた手の、親指が遊ぶ。彼が伏し目になる。その顔が近づいて――
「あのさ」
「……うん?」
待ったをかけられたいさぶは色気流出中。負けちゃいかん。ぐいっと胸を押して、なんとか体を離す。
「ちょっとそこ座んなさい」
「……おう」
「いま思い出したけど。今日のは何なの?」
「今日の? どれのことを言ってる」
まったく思いつかないという顔。あのね、私が問い質したいのは茶屋でのアータの態度だよ。私が他所の男に押し倒されているというのにあの落ち着きようはないでしょう!
「あそこは怒るか妬くかするとこでしょうよ」
「妬く…ってなあ」
心底呆れた顔で、「いいか?」と教えさとしてくる。な、なによ!
「焼き餅なんてのはお前さんの気持ちが他所を向いたときに焼くもんだ。それがなくて――清五郎がどう思っていたかは知らんが、少なくともお前さんにはその気がないものをどこをどう妬けってんだ」
正論っ! もう8割方負けたようなものだけど、スイッチの入った女子に正論は通用しないのだ。なんとも威力のない食い下がりをしてみせる。
「そそそんなの、私の気持ちがまったくなかったかどうかなんてわかんないじゃないさ!」
「どうもお前は儂を妬かせたがるな。――まさか、妬かれでもしないと自信がないなんて言うなよ?」
さすがに不機嫌気味の顔でため息をつかれる。
そうじゃなくて。いや、昔の私ならそうだったかもしれない。けど今はいさぶに想われている自信はあって。怒んないで。だからそうじゃなくて。でもあれはあまりにも平然としすぎじゃないのって。ううん違うの。信じてくれてるのは嬉しかったの。でもねでもね。
もごもごとそんなようなことをこぼしながら、いさぶの袖をそっとつまんでみる。
「妬かれたい。だって、ね?」
そういうときのいさぶ、かっこいいんだもん。ちろっと見上げてみる。
「……今朝はお前さんが泣いておったから優しくしたんだが」
再びその腕の中に納まる私。耳元で囁かれた言葉に、口をへの字にして返すしかできない。
「物足りなかったか。悪かったな」
返事の代わりに胸元にべしっと一発見舞うと、腕をひかれ、ぽすん、と私はやわらかい布団に身を沈める。
「……日に二度はしないんじゃなかったの?」
覚えておいてください、ダンナ様。これを現代用語で「ツンデレ」と呼ぶのです。彼の手が私を通り越し、ベッドサイドの携帯電話に手を伸ばす。画面をじっと見ていて……口の端を少し上げて私にそれを見せる。そこにゼロが4つ並ぶのを見るや否や、彼の手から携帯を取り上げ元の位置に戻した。その両手を私のために使ってほしくて。
物足りないなんて思うこと、一度もないんだけど。もっと欲しくなっちゃうんだよね。
途中、そんなことをつぶやいてみた。またニヤリとされるかと思ったのに、彼は余裕のない表情になって。敵わんわ、とか、参った、とか、聞こえたような気がした。その頃にはもう、何がなんだかわからなくなっていたけれど。