兄弟
「やめないか清五郎」
「いさ~~!」
手を伸ばすわたしを安心させるかのように笑みをくれるけれど。いさぶは戸口に立ったままで、口調も静かなもの。あれ? もっとこう、ダンッ、ガッ、グワッ!みたいな感じじゃないの?
清五郎さんも同じ感想を抱いたようだ。
「……その程度か」
「え?」
言うやいなやその顔が息のかかる距離に近づいて、反射的に目をつぶる。
「っ! やだ! 」
「――おい、よせ!」
さすがにいさぶが怒号を挙げたのと、同時のことだった。
ダンッ
ガッ
「ぐわぁっ」
ダンッ、と踏み込んだのはいさぶの足。体が軽くなり目を開けると、清五郎さんが消えていて、かわりに一歩踏み込んだ足をそのままにしたいさぶが、なんとも言えないような顔でこちらを見ていた。起き上がろうとして、ズキリと痛む額を押さえる。
「っ…いったあ……。やだもう、ちょっと唇触った~」
唇をゴシゴシとこすっていると、いさぶがやって来てわたしの手を外し、そっと親指で唇をなでてくれた。不思議だ。それだけで浄化された気がする。彼はついでに私の頬をなでると、ため息をついた。
「お前さんには悪いが……この場合どちらに同情すればよいのかわからんな」
な、なんだとぅ! しかしその視線を追うと、清五郎さんが額を押さえて呻いているところで。わたしは自分のしたことを思い出した。
そう、清五郎さんに口付けをされようとして、咄嗟に彼のおでこに頭突きをかましてやったのだ。…えーと、渾身の力をこめて、デス……。
「すすすみません! 思いっきり行きすぎました! あの、大丈夫ですか…?」
慌てて彼のほうへ四つん這いのまま近づく。するとのろのろと起き上がった清五郎さんは、こちらを見てフッと笑った。
「あなたのほうこそ。真っ赤になっていますよ」
そっと額を触ってみると、心なしかぷっくりふくれている気がする。この歳になっておでこにたんこぶって! と、そこへ部屋の外から第三者の声がした。
「お、おれ何か冷やすものもらってきます!」
戸口のほうを見ると、誰もおらず。ただ派手な足音が階下に降りていく。
「? だれかいたの?」
「ああ、あいつにもあとで礼を言っておけよ。壮一郎ンところの若いのだ。お前さんを迎えに行こうとしたら、見知らぬ男と連れ立って歩いてたもんで後をつけて…茶屋に入って行ったと知らせに来てくれたんだ。薫さんに限って不貞なんぞありえない、きっと何かに巻き込まれてるに違いないからすぐに助けに行ってやってください――とな。お前さん、信用があってよかったのう」
なんだその微妙にトゲのある物言いは。でもたしかに、「道ならぬ恋を応援します!」なんて思われていたらいさぶは来てくれなかったわけで。濡らした手拭いをふたつ持ってきてくれたその男の子にお礼を述べる。
「清五郎」
弟に手拭いを手渡してやりながら、いさぶが話しかけた。
「兄弟喧嘩に薫を使うな」
言われて弟は…ああ、冷静そうに見えて、アニキの前ではあんな顔をするのだ。ふてくされたような表情の弟に、反対に表情をゆるめながらいさぶが続ける。
「まあお前の気持ちもわからんではないけどな。話も聞かせてもらったが――」
「聞いてたの!?」
思わず口を挟む。だって、ならなぜもっと早く止めに来ない! しかしいさぶはしれっと言ってのける。
「最後のほうだけだがな。部屋の外に儂がいることを、清五郎はわかっていたんだろう?」
「そ、そうなの?」
「薫が悲鳴を挙げれば儂がすぐに部屋に入れる時機を、待ったのだろうよ」
それを聞き、清五郎さんを見ると、
「そうでなければ人の奥方にあのような無礼は働きませんよ」
一蹴されてしまった。
「確かに儂もお前に対して遠慮があった。どうも儂の中ではいつまでも小さい子どものようでな、突っかかってくるお前が、あんなふうに考えてくれていたとは。気づかずにいてすまなかった」
清五郎さんは、単に拗ねたり反発したりして喧嘩を売ってたわけじゃない。兄弟間のぎこちない空気を一掃するために、いさぶの中から遠慮や罪悪感を取っ払いたかったのだ。
「そんなわけで、望み通り盛大にふっかけてやってもよかったんだが――すまないな。誰かさんのおかげで怒る気が失せてしまったわ」
わ、わたしのせいですか! ですよ、ね。。。小さくなるよりほかない。
「いえ、私も制裁をいただいたし」
こ、こっちを見ないでください! 反省してるんスから。
「……兄上」
「――うん?」
「この方が、姉上になるのですね……」
「……ああ」
「悪くありませんな」
あねうえ、ですか。モロ好み顔のイケメン弟は、姿勢を正すとわたしに向き合い、手をついた。
「先ほどはご無礼をいたしました。これからはどうぞよろしくお願いいたします、姉上」
「ここ、こちらこそ、先ほどはすみませんでした。あのー…よろしくお願いします…弟、さん」
ちょっとだけ切なそうに、けどニヤリと笑みを見せて清五郎さんが立ち上がる。
「私はこれで失礼いたします。部屋はまだあと半刻使えますから、あとは兄上がお好きに使ってください。ああ、布団は未使用です」
「なななな、何を!」
慌てるわたしに、しかし兄上はニヤリと一枚うわてを見せた。
「気持ちはありがたいが、さすがに日に二度はせんな」
「は…?」
その意図を追い、部屋が一瞬静まる。と、廊下に控えていた若者くんが「あっ!」と大声を挙げ、わたしと目が合うと真っ赤になってそらせた。それを見て、清五郎さんもまた「ああ…」とつぶやくと赤くなってわたしから目をそらす。二人とも、いさぶの言わんとすることを察したらしい。つまり…今日はすでに一度済ませて来ていると…。
ちょ、ちょっとちょっと!
「ばかぁーーーー!!!!!」
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「もうほんとにバカじゃないの!?」
怒りにまかせてツカツカと歩く私と、それをものともせず悠々と歩くいさぶ。そんな私たちをおろおろと見ながら、義兄の家から使いに出てくれた若い男の子が先導してくれる。私たちは当初の目的地、義兄の家へ向かっていた。
「あんな、あんなこと言うなんて」
全身から湧き出る恥ずかしさを、いさぶへの小言で紛らすしかできない。
「ちょっと聞いてんの!?」
「なあ聞いたか?」
「はぁっ?」
「兄上、だとさ。あいつ」
「……」
ほら、そんな顔見せるんだから。しみじみと噛みしめるような、抑えきれないような、うれしそうな顔。
「初めて呼ばれた」
「そか…」
こちらまでうれしくなってしまう。まだまだゆっくりと味わっていたいようだったので、いさぶに話しかけるのはやめて、かわりに使いの男の子と話すことにした。
「ね、さっきは本当にありがとうございました」
「とと、とんでもねえっす!」
真っ赤な顔をして、目も合わせずにぶんぶんと首をふる。あれ? この子、もしかして。
「ずっと前にも助けてくれた? ほら、あのーもう一人の渋い人と一緒に」
「助けるだなんてそんな、おれ、わたしは、道案内する兄さんについてってただけで…」
やっぱり! それは夏の始めのこと。迷い子になったとあるお家の若様を助けて江戸へやって来たときに、方向音痴で途方に暮れる私をたまたま見つけ、旦那の屋敷まで送ってくれたのだ。渋いお方とこの若い男の子の組み合わせが「清水の次郎長」の大政・小政のようだったので密かに胸中でそう呼んでいたのだけど。
人の顔を覚えるのが苦手な私がこの子のことを知っていたのには、理由がある。どうやらこの子は志緒の大ファンだそうで、同じ顔の私が話しかけると、目に見えて挙動不審になるのだ。
「でもあのときも、さっきも、あなたが助けを呼びに行ってくれたから助かったよ。さっきの茶屋なんて誤解されても仕方ないのに」
「とんでもねえ! 観音様がそんなこと、なさるはずねえんです」
「か、観音様!?」
しまった、というように口を押さえ、すみませんすみませんと頭を下げる男の子を呆然と見ていると、うしろから声がかかった。
「そいつはな、志緒さんのことを『観音様のようだ』といつも言ってんだそうだよ」
ひぇ、どうしてご存じで、と慌てる男の子の背中をいさぶがポンと叩く。
「まあ、ちょいと小耳にはさんだだけさ。おい、こっちの観音様は、供え物をするなら甘茶より熱燗を喜ぶぞ」
また勝手なこと言って! じろりと睨んでやってから、しかしそこで、ふっと大事なことを思い出す。いさぶの袖をそっと引いた。
「ね、お仕事中だったんでしょ? じゃましちゃってごめんね」
するといさぶは目を見開き、「謝らねばならんのは儂のほうだったんだが」とつぶやくと、次に優しい笑顔になって私の頭をなでてくれた。
「仕事の件は、壮一郎に礼を言おう。ああ、そら」
言われていさぶの視線を追うと、義兄・壮一郎が家から少し離れたところまで迎えに出てくれていた。