ケンカ
迎えの人、と、私が思い込んだ男の人のあとについて、旦那の屋敷を出た。いつもと違う道順のような気もしたけれど、疑問をはさむほどの土地勘もないので黙って着いていく。
2、3分ほど歩いたとき、男性が振り返りこんなことを言った。
「して、どちらへ行かれますか?」
「は? え、いやとくに寄る場所はありませんけど…」
ちぐはぐな会話。何か変だ、とわたしが気づいたことに、目の前の男性も気づいたようで、フッと自嘲的な笑みを漏らされた。なんだろうこの人、よく見たら結構な男前だ。
「やはり…」
「はい?」
「いや。あなた、私をどなたかと間違えているでしょう」
「えっ」
そう言われて、あらためてまじまじと相手を見る。そういや確かに思いっきり侍だ。そんな使い走りのようなことなんて、するわけない。一応ダメ元で聞いてみる。
「義兄の家からわたしを迎えに来てくれた方、では…」
「ありませんな」
で、デスヨネ~…やっちまった! あわてて失礼を詫びると、しかし意外な言葉が返ってきた。
「いえ、私こそ少し悪ふざけが過ぎました」
どういう意味だろう。少し首をかしげてみせると、再び歩を進めながらその人は語り始めた。
「お話ができるよい機会だと思って……あなた、最近たまにあの屋敷にいらしていたでしょう。何度か姿をお見かけしたことがあります」
「まあ、そうだったんですか!」
「驚きました。訪ないにあなたが出ていらしたから。薫さんのことをお尋ねして、それを口実に少しお話でもできればと思ったんですが…まさかご本人とは」
「はあ…?」
「正直に申しましょう。あなたが夫のある身と知って、少々…いやかなり、残念に思っています」
なななな。初対面の相手からコクられちまった。な、なんとお答えしてよいものか。男性の熱っぽい視線から目をそらせ、目線をキョドらせてしまう。…ん、待てよ?
「あの、わたしのことは…そのつまり、薫のことは、どうしてご存じだったんです?」
「先ほど母が失礼を申したようで」
「!」
「非礼を詫びに参ったのです。と、いう口実であなたのことを聞き出そうという魂胆もあったのですが…」
「五男」
「は?」
「末っ子の、五男…?」
「ええそうです――五男、と言いましたか。母は」
小松清五郎と申します、と、その人は名乗った。ああ。そうだ。どこか見たことのある面影は、いさぶのものだ。彼の精悍さに、お母さんの優しい面差しを混ぜた感じ。そりゃあもう、わたしの好みの顔だ。
さっき旦那が言っていた。二人いる弟のうち一人はいさぶを慕っていて、一人は憎んでいると。たしか末っ子のほうだった。確執があったのは。
清五郎さんは、無言で見つめるわたしに少し赤い顔になり、視線を反らせた。ごまかすように早口になるところ、彼と似ている。
「薫さんはどなたの奥方なのですか? あの屋敷に出入りしている方なら知っているかもしれない」
そう問われ。ごくり、と飲み込んでから答える。
「小松の」
少し声がかすれていたかもしれない。その人が目を見開き、こちらを見た。
「伊三郎の、妻です…」
苦々しげに眉根を寄せるその人は、今もいさぶを憎んでいるのだろうか。
「……またあの人か」
「また?」
「あの人は私の大切なものを奪う」
「それはどういう、」
「お話を」
「えっ?」
「お話を、よろしいですか。ああ――ちょうどいい。あちらの茶屋で」
「――ええ。聞かせてください」
茶屋、と言われてついていった建物は、わたしのイメージとは違っていた。赤い毛せんを敷いた床机があるわけでもなく、前掛けをした女の子が団子を運んでいるでもない。何かおかしいとは思ったけれど、疑問を呈する自信はなかった。だって江戸のこと、そんなに知らない。
二階に上がるよう促され、怪訝な顔をするも、「ゆっくり話をしたいので」と言われたら何も言えない。
そうして案内された部屋の前で、清五郎さんが店の人を階下へ戻した。どうぞ、と言われ、部屋に入ると。
「な…!」
なぜ布団が敷いてあるのだ!?
うしろでスタン、戸がしまる音がし、振り向くと、無表情の清五郎さんが口の端だけ上げていた。つまり、ここはそういう店。連れ込み宿のような――言ってみりゃラブホだったのだ。
「どういうことですか」
「今ごろ何を。店に入る時点でわかっていたでしょうに――よほどの物知らずか、箱入りのふりか」
「“よほどの物知らず”です!」
キッと睨んでやるが、清五郎さんの表情は変わらない。
「わかって着いてきたのではないんですか? よいではないですか。私も、あなたに惹かれていた」
「そ、それが本当なら悪い気しないけど、兄弟ゲンカのネタにしたいだけならお断りです!」
「――なんですって?」
布団を背ににらみ合う。
「そうでしょう? 伊三さんにケンカ売りたくてこんなことしてるんでしょう。そんなのにつきあってられないっての」
「本当ですよ。あなたに惹かれていたのは」
「なっ…!」
そんな無表情で、気のない様子で言われても。勢いをそがれたわたしに、やはり当初の勢いをなくした清五郎さんは続ける。
「けれど本当の目的はあなたのおっしゃる通りです。あの人にケンカを売りたいのですよ」
「……」
清五郎さんは床に座り、ぽつりぽつりと話し始めた。
「あの人は――私の物心がつくころにはすでに、わが家の異端児の扱いをされていた。母はあの人の祈祷にかかりきりで……ある日あの人がいなくなると同時に、母が脱け殻になりました」
わたしも腰をおろし、続きを促す。
「母が恋しかった幼子のころは、すべてあの人のせいだと恨んでいました。あの人が今の仕事を始めてからも、思春期特有の潔癖さからやはり反発を。しかし段々と――母の様子も落ち着いて来て、私も大人になると、あの人にはあの人の苦しみがあったのではないかと思うようになったのです」
そこで清五郎さんはいちど顔を上げた。
「小松家の兄弟構成はご存じですね?」
たしか、長兄・次兄は年が離れていて、いさぶのすぐ下に年の近い弟。末っ子のこの人は、おそらくいさぶの5つくらい下だろうか。
ざっとおさらいし、うなずいてみせる。
「長兄・次兄は年も離れていますし、わだかまりのようなものはなく……というよりそもそも興味があるのだかないのだかわかりません。私のすぐ上の兄は、幼いころに遊んでもらった記憶があるようで今でもあの人を慕っています。つまり私だけが、私一人が拗ねているのですよ」
「伊三さんと会うことはあったんですか?」
「叔父のところで時々、すれ違うことはありました。私があからさまな無視を決め込んでも、あの人はすまなそうな顔でほほえむばかり。いっそ怒ってくれていたら、殴りあいのひとつでもしてすっきりできていたかもしれないのに」
「だから、ケンカを?」
「何度か試みてはいるのですよ。私も成人してからは、あの人をまた兄と呼びたいと――そう、思っていましたから。しかしあの人は怒りません。怒らずに、すまないなと言うばかりなのです。そうではない。私は許しを与える側の立場にはいないのですから。だから一向に溝は埋まりません。このぎくしゃくした関係を断ち切るには、まずあの人の感情を引っ張り出さなければならないのです」
「そういうことなら、喜んで協力します」
「! よいのですか?」
「ええ!」
わたしが危険な目に遭えば、彼は怒りを見せてくれると、うぬぼれではなくそう思う。それで二人の間のしこりが融けるのなら。
「どうぞわたしを利用してください」
「そうですか。ではお言葉に甘えて」
「へ? や! ちょっ、何す――」
ぽすん、と背中に布団が当たったのと、スタン!と戸の開く音が聞こえたのは同時で。押し倒されたのだと理解するより早く、どアップの清五郎さんの肩越しにいさぶの姿を見て。
ほら、やっぱり似てる。
なんてぼんやりと思った。
ここのところ更新が遅くなっていてすみません。季節が変わらないうちになんとか終わらせたい…!