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もう決めてある。

二人分のお茶をお盆に乗せて、旦那の私室に向かう。



促され、ぽつりぽつりとこの四日間のことを話した。いさぶが連絡もなく帰ってこなくて、心配で心配でたまらなかったと。いつも最悪の事態を想像してしまう私だから、ずいぶん過剰反応をしてしまったと。


けれど、こんなふうに仕事で帰れないってことはこの先もあると思うから、これからはもっと大きく構えることにしようと思う。いちいち連絡も寄越せないだろうし。



だけど、もし。



もし、私が想像したようなことが本当にあるのなら。



「ひょっとしたら、二度と戻って来られないんじゃないかって思ってしまったんです。あの時間をくぐるひずみは、そもそも存在の不確実なものだって気づいたんです。今ごろになって、初めて」


「そいつは心配をかけたな」


「……もし、」



言い淀むと、旦那はじっと目を見てくれた。



「もし、本当に、伊三さんが時間をくぐる力をなくしてしまうようなことがあったら」


「……」


「ひずみそのものが自由に操れないようなものになったら」


「……なったら?」


「伊三さんをこちらに、江戸に留め置いてください、と、言おうと思ったんです」


「……」


「私のところにいるときにそうなったら、誰かが迎えに来てあげてください。江戸にいるときだったら、東京へはもう戻らないように引き留めてほしいんです」


「…その意図は?」


「今は自由に行き来ができるからいいですけど、故郷に戻れないとなったら、きっと彼が辛いんじゃないかと思ったんです」


「お前といるより家族のいない故郷を選ぶと?」


「……いるじゃないですか」


「お前は? 伊三の家族ではないと?」


「……っ」



言葉につまった私に、旦那は優しい笑みで頭をぽんぽんとしてくれた。



「そこまで思い詰めさせちまったか。いや今度の迷子の件は、お前さんの不安があの娘に伝わればより効果的かと思ってのことだったんだがな。お前さんの性格まで読みきれなかった。すまん」



そんな企みがあったのか。油断も隙もねえ。



「ともかく、そこまで思い詰めさせちまった原因は儂だ。どれ、詫びは何がよい? 欲しいものを言え」



……そういうことじゃ、ないんだけど。



「遠慮するこたねえ。ん?」



ま、そうおっしゃるなら?



「うなぎ」



上目遣いで言うと、旦那の動きが止まった。懐から財布を取り出し、数え始める。ため息をつくとやぶれかぶれな様子で言葉を投げてきた。



「あーわかったわかった。特上を食って来い。その代わり、その痩せこけた面を丸くして来るんだな」



やった!特上! って、いやいや話はまだ途中なんだけど。しかし旦那はさっさと立ち上がると部屋を出ていこうとする。そして、言い忘れたようにぽつりとつぶやいた。



「しかしな、いつ会えなくなるかわからんというのはお前さんたちだけに限ったことではあるまいよ」


「え…?」


「そこにいることのありがたさは、皆同じってことさ」


「それは、」


「そら、とっとと行ってこい。うなぎが売り切れるぞ」


「え? うなぎ?」



振り向いた旦那はいつもの食えない笑顔で。



「そういうことだ」



ニヤリとすると、さっさと行ってしまった。


旦那を追いかけ居間に戻ると、いさぶが帰って来ていた。茶碗を乗せたお盆を片手で持ち直し、ニコリと笑ってピースサインをしてみせる。



「勝ったよ」



そう。私たちはそもそも旦那に一発食らわせるために、今日こっちに来たのだ。いさぶがギョッとした顔で拳を見せ、これでか?と目で問うて来る。いやまさか。



「金は伊三に渡しておくから、薫、お前はさっさと準備してきな」


「あら、旦那はいらっしゃらないんですか?」


「ばかやろう。無一文にさせる気か。いいからとっとと行け」



手で払われ、はーい、と背中を向ける。後ろから、旦那がいさぶを牽制する声が聞こえた。



「てやんでぇ、お前の説教まではいらねえや。薫のやつれた顔で十分だ。儂の読みが甘かったよ」



茶碗を下げるために台所へ向かった私に聞こえたのはそこまで。声をひそめた旦那の、いさぶにささやいた内容は、私には聞こえなかった。



「それよりな、伊三。お前が知っとかなきゃなんねえことがある」



=====

お目当てのうなぎ屋は、現代にも残る老舗だ。……だ、からこの時点ではまだ新進気鋭の店なのだけど。いっぺん行ってみたかったんだ。しかも他人の金だぜ? 足取りの軽い私の隣りで、しかしいさぶの笑顔はどこかぎこちなかった。結局旦那に「一発お見舞い」は叶わなかったようなので、モヤモヤしてんのかしらなんて思っていたのだけど。



その店では注文を受けてからうなぎをさばき、焼き始める。当然、待ち時間は長い。さすがに特上は遠慮して「上」を2つ注文すると、お茶をすすりながら無言の時間が流れる。私は無意識に思考に没頭してしまっていたのだけど、どうやらそれは彼も同じだったようだ。



……いつ会えなくなるかわからないのは、私たちだけに限ったことじゃない。



本当に。旦那の言う通りだ。

行ってらっしゃい、と見送ったひとを、おかえりなさいと迎えられることは、100パーセント絶対のことではない。だから旦那の言うように「そこにいることのありがたさ」はみんな同じなんだ。


その旦那の口ぶりには、なにか経験談のようなものも感じたのだけど。それは私が詮索することではない。


そうだよなあ。考えてみれば、老後の生活拠点だって相手が江戸だから悩むわけじゃない。大阪だって秋田だって鹿児島だって持ち上がる問題だ。なんだか私は考え過ぎてたかもしれない。自分たちの置かれた状況を特別なものに考え過ぎてた……いやもちろん普通じゃないけれども。


私がすべきことはただ、今このときを、彼が隣りにいるこの時間を、ただ大切にすればいいだけなんだ。



一人で勝手にモヤモヤしていた私は一人で勝手にスッキリした。



「ね、肝吸い頼んじゃわない?」



顔を上げると、いさぶがじっとこちらを見ているところで。



「?どした?」


「ああ、うん…好きなものを頼むといい」


「うん……ね、何?」



目をそらした彼の、何か言いたげな様子が気にかかり、促すと。



「……旦那から聞いたよ」


「え、」



そらしていた目線が再び戻される。



「母上に会ったんだな」


「ああ…うん。挨拶をね、旦那がさせてくれたの」


「あの通り、あの方は儂を覚えておられん」


「でも五男って」


「ん?」


「五男って、言ったのよ…」



ありがとうな。と、頭をなでてくれる。私がなぐさめられてどうするの!



「それから、お前さんが旦那に話したことも聞いた」


「あ、それなら、考え過ぎだったかなって今ちょうど思ってたところで…」


「うん…時間をくぐれなくなるなどと、まったく考えもしなかったことだがな。無いとは言えない話だ。旦那に言われて、もしそうなったらどうするだろうかと想像してみたよ」


「どうなった…?」



なんてこと。いさぶの気持ちを思いやっているふりをして、いざ本人の意向を聞くのがこんなに怖いなんて。緊張の面持ちの私に対して、彼は薄く笑いをこぼした。



「正直、わからん」


「わからん?」



うん、と、彼は湯呑み茶碗を大きな手の中でいじる。



「状況によって答えは変わるだろうな。もし今行き来ができなくなったとして、食い扶持も稼げないようではお前さんのそばにはいられん。潔く江戸へ帰るべきだと考えるかもしれない。あるいはどんなになってもお前さんの側に居座るかもしれない」



江戸へ帰る、という言葉がサクリと胸に刺さるのを隠して、続きを聞く。



「もしそれが、隠居するような年齢で起きたとしたら、何も考えずに東京を終の住処とするかもしれない。あるいは里心がついて江戸に帰りたくなるかもしれない……自分がどういう答えを出すか、まったくわからんよ」


「うん…」


「ただな。選ぶ基準は決めてある。そこは揺らがない」


「基準…?」



彼の目が、私を見た。



「ああ。薫が泣かないほうを選ぶ」


「……!」


「まあ、簡単ではないがな。なにしろ泣き虫な奥さんだから」



そう言って私の涙を拭ういさぶに、ああ困ったなあ。ほらまた惚れてしまったじゃないの。



「ごめんなさい…」


「何が?」



頬に置かれたいさぶの手を上から握る。



「ほんとは怖かったの。いつか急に会えなくなることが怖くて、きっと予防線を張るためにあんなこと言ったんだと思う」



頬が温かい。



「ほんとは離れるなんていや。絶対やだ。だけど伊三さんが帰りたがるのを無理に引き止めるのもいやで、けど私が江戸で暮らす覚悟はやっぱりまだなくて、だから、伊三さんが望んで東京にいてくれたらいいのになんて思って、でもそんなの私のわがままだってこともわかってて、だから、だから」



やべえ、号泣だ。



「ごめんなさい~」



いさぶは優しい目で、反対側の頬からも涙を拭ってくれた。



「お前さんが自分で言ったんだろう」


「っく、何を…?」


「私の家族になってくれ、と」


「ゆった……」


「小松の家のことはあまり気にするな。親孝行したくともできる相手がいなかったのを、お前さんのおかげでまた父上、母上と呼べる相手ができた。むしろ感謝しとる」


「いさ……」


「それに、なあ。お互い30年以上も生きてきてやっと一緒になれたんだ。あまり簡単に儂をあきらめてくれるなよ」



うん。うん、うん。ただただ頷くしかできないけれど。ぐしゃぐしゃになりながら鼻をかむ私を、いさぶは頬杖をつきながら見ていてくれたのだった。



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